第129章 燃やされた手紙
フローラは、自室の机に置かれた一通の手紙を見つめていた。
古い紙に刻まれているのは、幼い頃から何度も見てきた筆跡だった。
王宮で長年フローラの教育係を務め、彼女がどれほど失敗しても、決して見放さなかった老爺からの手紙だった。
封を切る前から、胸の奥にわずかな痛みが広がっていく。
手紙が秘密の経路を使って届けられたことは、封蝋を見れば分かった。
そこに王家の紋章はなく、差出人の名さえ記されていない。
フローラは扉の鍵を確かめてから、静かに紙を広げた。
書かれていたのは、王宮のその後だった。
華やかな噂でも、民衆へ向けた公式発表でもない。
歴史書には残らないかもしれないが、王宮の奥で確かに起きている現実だった。
王宮は今、嵐の中にあるという。
軍組織の再編。
過激派に属していた者たちの摘発。
研究資金の流れや、学園へ接触した者たちの調査。
誰が計画へ関与していたのか。
誰が異変へ気づきながら、見て見ぬふりをしたのか。
一つの疑惑を調べ終えるたび、その陰から新たな問題が浮かび上がっている。
すべてを処罰すれば軍の機能そのものが失われる。
だからといって、秩序を理由に責任を曖昧にはできない。
父である皇帝は、毎日のように側近たちと議論を重ねているらしい。
手紙には、老爺らしい抑えた言葉で、短くこう記されていた。
――王宮は、いささか荒れておりますな。
その一文を読んだだけで、フローラには状況の深刻さが伝わった。
大げさな言葉を好まない老人が、荒れていると書くほどなのだ。
きっと実際の王宮では、彼の文章から想像できる以上の混乱が続いている。
そして手紙は、皇帝の近況へ移っていた。
父は現在、ガルディアへの外交に力を注いでいるという。
以前のように軍事的な圧力を強めるのではない。
使節を送り、互いの情報を共有し、国境で何が起きているのかを確かめようとしている。
対話。
交渉。
そして、相手が抱える恐れを理解すること。
父がこれまで最も苦手としてきた方法を、あえて選ぼうとしているらしい。
老爺は、皇帝が側近へ漏らした言葉も記していた。
――不安を生んだのは、軍だけではない。
――恐れを煽る空気を許した、わし自身にも責任がある。
フローラは、同じ箇所を何度も読み返した。
普段の父なら、決して口にしない言葉だった。
皇帝は自らの判断を容易には疑わない。
たとえ失敗したとしても、民や家臣の前では迷いを見せず、次の命令を下す。
それが国を背負う者の務めなのだと、父は信じていた。
その父が、自分の責任を認めた。
たとえ限られた側近へ向けた言葉であったとしても、それはフローラにとって信じがたい変化だった。
手紙の最後には、短い一文が添えられていた。
――陛下は、殿下のことをひどく案じておられます。
フローラの指が止まった。
心配していた。
あの父が。
娘へ何も言わず、態度にも見せず、それでも遠く離れた場所で案じていた。
胸の奥が強く締めつけられる。
自分は学園で多くを見た。
正しいと思われていた思想が、人を追い詰めていく瞬間も見た。
権力を使って誰かを黙らせるのではなく、言葉を交わし続けることの難しさも知った。
けれど父は、王として一つの学園ではなく、国そのものを背負っている。
一つの判断が、何千人もの暮らしを変える。
決断を遅らせれば、多くの者が危険へさらされる。
急いで決めれば、罪のない者まで傷つけてしまうかもしれない。
その重さを、フローラは今になって初めて想像できるようになっていた。
「……お父様」
口から漏れた声は、あまりにも小さく、すぐに静かな部屋へ溶けていった。
その時、窓の外で淡い光が揺れた。
フローラは手紙を持ったまま、窓辺へ近づく。
以前なら学園の夜空には、小さな精霊たちの光がいくつも浮かんでいた。
風の精霊が塔の周囲を巡り、光の精霊が回廊の窓辺で戯れ、水の精霊が噴水の上へ小さな虹を作っていた。
けれど今夜、空に浮かぶ光はほとんど見えなかった。
遠くの山際に、一つだけ淡い輝きが現れたが、それもすぐに雲の向こうへ消えてしまう。
フローラは、精霊たちが人間界から距離を置き始めているという話を思い出した。
召喚に応じる数が減った。
契約を結んでいる精霊でさえ、人間の呼びかけをためらうようになった。
それは魔法が少し使いにくくなるというだけの問題ではない。
人間の歴史を振り返れば、精霊の力なくして作れなかったものが、あまりにも多く存在していた。
フローラは幼い頃、老爺から何度も古代の物語を聞かされている。
海の上へそびえ、夜になると塔の頂から太陽のような光を放った大灯台。
人間の力では持ち上げられない巨石を空へ運び、山脈の頂へ築かれた白亜の神殿。
数百年もの間、一滴の水も枯れることなく、砂漠の都を潤し続けた空中庭園。
谷をまたいで建てられ、雲より高い場所へ人々を導いた巨大な階段。
天井に星々の動きを映し、神々を人間界へ招くために造られた円形の大聖堂。
海底へ沈んだ都を覆い、波の力から人々を守った透明な防壁。
そして、精霊と神々が最初に言葉を交わした場所だと伝えられる、名もない石造りの門。
いずれも、現在の技術では再現できない建造物だった。
巨大な石材には継ぎ目がなく、彫刻には人の手では届かない高さまで細密な模様が刻まれている。
千年以上の風雨を受けても崩れず、今なお魔力を帯び続けている建物もある。
人々はそれらを世界の奇跡と呼び、人間の祖先が成し遂げた偉業として誇ってきた。
けれど、本当は人間だけが作ったものではない。
地の精霊が山から巨石を切り出した。
風の精霊が石材を空へ浮かべた。
水の精霊が砂漠の地下から水脈を導いた。
光の精霊が神殿へ道を示し、神々が人間界へ降り立つための扉を開いた。
人間は設計し、祈り、形を与えた。
そして精霊たちが、人間の願いを面白がり、ともに作り上げたのだ。
フローラは、それらを当然の歴史として学んできた。
人間が願えば、精霊は応えてくれる。
神殿を作りたいと望めば、力を貸してくれる。
国を守りたいと願えば、風も水も大地も人間の味方をしてくれる。
そんな関係が、これからも永遠に続くのだと疑わなかった。
「私たちは、してもらったことばかりなのね」
フローラは誰もいない窓辺で呟いた。
壮大な神殿を建ててもらった。
水のない土地へ川を引いてもらった。
嵐を鎮めてもらい、疫病を遠ざけてもらい、夜の道を照らしてもらった。
人間はそれらを自分たちの文明と呼び、自分たちの功績として記録してきた。
精霊たちが、なぜ力を貸してくれたのか。
彼らは何を感じ、何を望んでいたのか。
そのことを本気で考えた人間が、どれほどいただろう。
便利な力として使い続け、応えることが当然だと思い込み、ついには禁忌魔法へまで利用した。
それでも精霊たちは、これまで人間界を見捨てなかった。
だが、それが今後も続く保証など、どこにもない。
フローラは夜空を見上げる。
かつて神々を迎えるために、人間と精霊がともに巨大な神殿を築いた。
もし今、同じ願いを伝えたなら、精霊たちは応えてくれるのだろうか。
それとも、何も言わず人間界へ背を向けるのだろうか。
父がガルディアとの対話を始めたように、人間は精霊とも向き合わなければならないのかもしれない。
力を借りるためではなく、相手が何を感じているのかを知るために。
命令でも、契約でもない言葉を交わすために。
その考えは、まだぼんやりとした形しか持っていなかった。
けれどフローラの胸には、消えない問いとして残った。
人間は、精霊から何を与えられてきたのか。
そして人間は、精霊へ何を返してきたのか。
机の上に残した手紙へ、フローラは視線を戻した。
そこには父の後悔と、国を変えようとする意志が記されている。
人間は間違える。
王でさえ、校長でさえ、自分の正しさを疑わなければならない時がある。
ならば、精霊との関係も同じなのだろう。
これまで続いてきたからという理由だけで、正しい関係だとは限らない。
フローラは手紙を丁寧に畳み、部屋の奥にある小さな炉へ近づいた。
誰にも見せてはならない。
軍の粛清も、父の後悔も、ガルディアとの交渉も、今はまだ王宮の外へ漏らせない情報だった。
そして何より、これは王女として受け取った報告ではない。
離れた娘を案じる父の気持ちを、老爺が密かに届けてくれた手紙だった。
フローラは炉の中へ紙を置き、指先に小さな炎を灯す。
以前なら炎の精霊が興味深そうに現れ、火の揺らぎを大きくしていたかもしれない。
だが、今夜は何の気配もない。
生まれた炎は、フローラ自身の魔力だけを頼りに、弱々しく紙の端へ移っていった。
黒い焦げ跡が広がり、古い紙がゆっくりと丸まっていく。
老爺の文字が歪む。
軍の混乱を記した行が燃える。
父の後悔が炎へ飲み込まれる。
最後に残ったのは、娘を案じているという一文だった。
フローラは最後まで目を逸らさなかった。
やがて紙は崩れ、小さな灰となって炉の底へ落ちた。
部屋には、もう何も残っていない。
それでも胸の中には、確かに残っていた。
父の後悔。
老爺の気遣い。
王宮を襲っている嵐の気配。
自分が知らない場所で、それらすべてを背負いながら前へ進もうとする大人たちの姿。
そして、人間の歴史を支えてきた精霊たちが、何も告げずに遠ざかり始めているという事実。
フローラは炉の蓋を閉じ、静かに背筋を伸ばした。
父は、対話を選び始めた。
ミレーヌは、学園に問い続ける道を選んだ。
アルケオンは、自らの身体を失っても、考える場所を残した。
ならば自分は、何を選ぶのか。
まだ答えは出ていない。
だが、進むべき方向は少しずつ見え始めている。
誰かが力を貸してくれることを、当然だと思わないこと。
与えられたものを、自分だけの功績にしないこと。
そして、相手が背を向ける前に、その声へ耳を澄ませること。
フローラは窓辺へ戻り、静かな夜空を見上げた。
王都のはるか彼方には、精霊たちが築いたと伝えられる古代神殿の尖塔が、月明かりを受けて淡く輝いている。
かつて神々を人間界へ招いた場所。
人と精霊が、同じ未来を見ていた時代の遺物。
その上空には、以前なら群れをなしていた光の精霊が、一つも見えなかった。
奇跡は、永遠に与えられるものではない。
その事実を知った夜、フローラは初めて、人間が失おうとしているものの大きさを理解した。




