↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界に立つ者たち  作者: 麻婆豆腐


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
131/138

第128章 正解のない余波


精霊王は、精霊界へ戻るための境界に立っていた。


背後には、人間界の空が広がっている。


学園の屋根も、離れの療養室も、ここからでは小さくしか見えない。


境界が閉じる直前、精霊王は名残惜しそうに振り返った。


「……ああ、もう恋しい」


黄金色に熟した果実。


蜜を染み込ませた焼き菓子。


香草と肉を長時間煮込んだ料理。


つい先ほどまで山のように並んでいた食事が、もう遠い過去のように思える。


「人間界の食事は、どうしてあれほど美味なのだ」


精霊王は頬を膨らませながら、不満そうに呟いた。


「精霊界の果実も悪くはないが、焼いたり煮たり、妙な香りを混ぜたりする発想が足りぬ」


隣に控えていた風の精霊が、呆れたように淡く揺れる。


だが、精霊王の意識は食事から離れ、自然と一人の人間へ向かっていた。


両目の光を失い、片手の自由まで奪われながら、それでも自分の選択を悔いていないと言った男。


「我がいなければ、あの頑固者はどうなっていたことか」


精霊王は小さく鼻を鳴らす。


「馬鹿で、融通が利かず、必要のない責任まで背負い込む」


少しだけ間を置き、声を落とした。


「……まあ、嫌いではない」


アルケオンは、精霊を道具として扱わなかった。


助けを求めることはあっても、力を貸すのが当然だとは考えなかった。


契約を命令ではなく、選択として受け止めていた。


だから精霊王も、長く彼のそばにいた。


だが、人間すべてが同じではない。


今回使われた禁忌魔法は、人間の精神だけを傷つけたものではなかった。


本来、世界の流れへ溶けている精霊の力を無理に集め、一人の記憶へ押し込み、過去を暴くために捻じ曲げた。


アルケオンはその代償を自ら引き受けた。


それでも、力を使われた側に何も残らなかったわけではない。


境界の向こうで、いくつもの小さな気配が揺れている。


人間界へ降りていた精霊たちだった。


以前なら好奇心のまま飛び回り、人間の呼びかけへ気軽に応じていた者たちが、今は境界の近くで立ち止まっている。


「戻りたくないのか」


精霊王の問いへ、精霊たちは言葉を返さなかった。


ただ、淡い光をわずかに弱めた。


恐れている。


人間そのものをではない。


人間が、自分たちの力を理解したつもりになることを。


願いと命令の境目を忘れ、精霊の力を便利な仕組みとして扱い始めることを。


精霊王は、しばらく人間界を眺めていた。


今回の事件には、単純な悪意だけがあったわけではない。


国を守りたかった者。


学園を強くしたかった者。


優秀な人間を育てようとした者。


真実を明らかにしようとした者。


それぞれが、自分なりの正しさを持っていた。


正しさが重なり合った結果、人が傷つき、精霊の力まで禁忌へ使われた。


「人間とは、面白い生き物だ」


かつてなら、精霊王は笑ってそう言っただろう。


けれど、その日の声には、いつもの楽しげな響きがなかった。


「面白いからといって、近づき続けてよいとは限らぬか」


誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。


風の精霊が、彼の周囲を一度だけ巡った。


精霊王は人間界へ背を向ける。


「しばらく、こちらからは呼びかけぬ」


境界のそばにいた精霊たちが、かすかに揺れた。


「行きたい者を止めはしない」


「人間を好む者も、契約を結んだ者もいるからな」


「だが、応えることを当然とは思わせるな」


その声は穏やかだった。


怒りではない。


罰を与えようとしているわけでもない。


それでも、人間界と精霊界の間に、目には見えない距離が生まれた。


精霊王が境界を越える。


最後にもう一度だけ振り返り、学園の離れへ目を向けた。


「アルケオン」


「次に会う時まで、人間が我らを必要としているのか」


「それとも、必要なのは力だけなのか」


「少し見させてもらおう」


境界が閉じる。


人間界から、精霊王の気配が完全に消えた。


それから数か月後。


王族と各国の限られた関係者へ、学園で起きた一連の事件が正式に報告された。


教授アウルスと軍部過激派の接触。


アデルによって行われた精神魔法の実験。


その背後にあった思想。


禁忌魔法による事実の確認。


そして、前校長アルケオンが支払った代償。


報告を受けた者たちの反応は、大きく三つに分かれた。


最初に上がったのは、怒りだった。


「関係者をすべて処刑するべきだ」


「なぜ、危険な思想を持つ者まで学園へ残したのか」


「見せしめを作らなければ、同じことが繰り返される」


血と恐怖によって秩序を取り戻そうとする声は、決して少なくなかった。


かつてのアストリア帝国やエイドリア王朝が選んできた方法を、最も確実な解決だと考える者たちだった。


次にあったのは、安堵だった。


「隠蔽されなかっただけでも救いがある」


「責任者が裁かれ、記録が残ったのなら、同じ過ちを防ぐことはできる」


すべてを許したわけではない。


学園への不信も、恐怖も残っている。


それでも、沈黙の下へ事件を埋めるより、傷を残したまま真実を共有する方がよいと考える者たちだった。


そして三つ目は、学園の選択を評価する声だった。


「処罰だけで終わらせなかったことには意味がある」


「前校長は真実を明らかにし、現校長は残された者たちへ向き合った」


「正しい結果だったかは、今後を見なければ分からない」


称賛とは少し違っていた。


簡単に正しいと言い切るのではなく、その選択が何を生むのか見届けようとする言葉だった。


被害を受けた生徒と家族の反応は、さらに複雑だった。


「絶対に許せない」と、処罰の軽さを訴える者がいた。


「いつか理解したい」と言いながら、今は学園へ近づけない者もいた。


何も語らず、報告書を閉じた者もいる。


許すことを求められれば、さらに傷つく人間もいる。


答えを出さないことしか、自分を守る方法がない者もいた。


ミレーヌは、届いた意見を一つずつ読んだ。


どの言葉も、学園側の都合で正しいか間違いかを決めることはできなかった。


理解されなかったことを責めるつもりもない。


感謝されたからといって、自分たちの選択が正しかったと安心するつもりもなかった。


学園にできるのは、続けることだけだった。


授業を行い、生徒の声を聞き、教師の言葉を問い直し、起きたことを記録から消さない。


完全ではないまま、同じ失敗を繰り返さないために考え続ける。


ただ、事件のあとから、小さな変化が起きていた。


一年生の召喚実習で、呼びかけへ応じる精霊の数が減った。


以前なら数呼吸ほどで現れていた下級精霊が、長い時間をかけても姿を見せないことがある。


契約済みの精霊でさえ、人間界へ留まる時間が短くなっていた。


「術式に問題はありません」


教官たちは、何度も魔法陣を確認した。


魔力の不足でもない。


生徒の適性が急に変化したわけでもない。


ただ、精霊たちが来なくなり始めていた。


窓辺に立ったミレーヌは、誰もいない召喚陣を見つめる。


以前なら、光の粒が楽しそうに飛び回っていた場所だった。


今は、風だけが静かに通り抜けている。


「精霊王は、何もおっしゃらなかったのですか」


ミレーヌが尋ねると、隣にいたアルケオンはゆっくり首を横へ振った。


白い布に覆われた両目は、もう精霊の姿を見ることができない。


それでも彼には、以前なら感じられた気配が遠ざかっていることが分かっていた。


「何も言わないことが、答えなのかもしれない」


アルケオンの声は静かだった。


「私たちは、精霊が力を貸すことを当然だと思いすぎた」


「ですが、精霊がいなければ、この世界の魔法は成り立ちません」


「だからこそだ」


アルケオンは、風の音へ耳を澄ませた。


「必要としているのが彼らなのか、それとも彼らの力だけなのか」


「その違いを、精霊たちは見ているのだろう」


ミレーヌは答えられなかった。


夕暮れの学園では、いつもと同じように授業終了の鐘が鳴った。


生徒たちが教室から出て、笑いながら寮へ戻っていく。


日常は続いている。


けれど、その頭上には、以前なら見えたはずの小さな光が一つもなかった。


人間たちは、学園を立て直し始めた。


自分たちの過ちへ向き合い、傷ついた者を置き去りにしない道を選んだ。


それでも、その選択を精霊たちがどう受け止めたのかは分からない。


正解のない余波は、人間の心だけに残ったのではなかった。


世界を支えていた存在たちもまた、人間との距離を静かに測り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。