第116章 静かにずれ始める歯車
第116章 静かにズレ始める歯車
学園は、表向きには落ち着きを取り戻していた。
回復室の前を通る生徒たちは、
声を潜めながらも、どこか安堵した顔をしている。
「もう大丈夫らしいよ」
「記憶が戻らない人もいるけど、命に別状はないって」
噂は、“解決した話”として流れ始めていた。
それが、最初の違和感だった。
⸻
リュシアは、廊下の掲示板の前で足を止めていた。
新しく貼り出された履修変更の紙。
そこに並ぶ名前を、無意識に目で追う。
——数は、合っている。
少なくとも、帳面の上では。
(……でも)
胸の奥が、ざわつく。
「リュシア?」
声をかけてきたのはカイオンだった。
彼もまた、同じ紙を見ている。
「気づいた?」
「……うん」
二人は顔を見合わせる。
「“戻った生徒”の名前が、ここにない」
カイオンが低く言った。
「復学扱いなら、記載が変わるはずなのに」
「なのに、最初から“いなかった”みたいになってる」
リュシアは唇を噛む。
これは、あの時と同じ感覚だ。
消えたことではなく、
“最初から存在しなかったことにされる”感覚。
⸻
その夜。
フェリクスは、自室で一通の紙を広げていた。
アイリスが、こっそり持ってきたものだ。
「……これ」
「配膳係の当番表なんだけど」
そこには、見慣れない空白があった。
「先週まで、ここに名前があったの」
「でも、誰だったか思い出せない」
フェリクスは、紙をじっと見つめる。
(記憶だけじゃない)
(“役割”そのものが、書き換えられてる)
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「回復は進んでる」
「でも、流れは止まってない」
「むしろ——」
言葉を切り、静かに続ける。
「“自然現象”みたいに見せかけ始めてる」
アイリスは、ぞっとした表情で頷いた。
「誰かがやってるって、思われないように……?」
「そう」
フェリクスの目が、細くなる。
「だから次は、派手な事件は起きない」
「“小さくて、説明できてしまう異変”だけが続く」
⸻
同じ頃。
拘束室の奥で、
アデルは天井を見上げていた。
鎖はある。
魔法も封じられている。
だが、彼は楽しそうだった。
「……回復、したんだって?」
独り言のように呟く。
「よかったね」
「でもさ」
くす、と喉を鳴らす。
「“考えなくていい”って、楽なんだよ」
「一度それを知った人間は——」
アデルは、歌うように言った。
「自分から、戻ろうとしなくなる」
目を閉じる。
「だから、もう始まってる」
誰に向けるでもなく、
確信だけを口にした。
「僕がいなくてもね」
⸻
夜の学園。
鐘の音が鳴り、
灯りが一つ、また一つと消えていく。
静寂の中で、
歯車は、わずかに——だが確実に——
噛み合わない方向へ回り始めていた。
それに気づいているのは、
まだ、ほんの一握りだけだった。




