第112章 戻ったはずの場所で
最初に異変に気づいたのは、
アイリスのルームメイトだった。
——正確には、
「異変に気づいたと思った直後に、
それを“自分のせいだ”と片付けようとした」。
⸻
朝。
寮の廊下は、
いつもと変わらない。
足音。
扉の開閉。
誰かの欠伸。
彼女は、
自分の部屋の前で立ち止まった。
「……あれ?」
扉は、開いている。
昨夜、確かに閉めたはずなのに。
中へ入る。
ベッド。
机。
椅子。
——すべて、元通り。
だが。
「……?」
机の上に置いたはずの本が、
微妙にずれている。
ほんの数センチ。
気づかなければ、
気づかない程度。
(私、昨日……どこまで片付けたっけ)
思い出そうとして、
頭が一瞬、空白になる。
⸻
同じ頃。
別の棟。
以前“救出された”生徒の一人が、
講義室でぼんやりと座っていた。
教授が名を呼ぶ。
「——君、どう思う?」
一拍。
「……え?」
「今の説明だ」
「あ……」
生徒は、
慌ててノートを見る。
そこには、
整った文字が並んでいる。
自分の筆跡だ。
だが。
(……書いた記憶が、ない)
それでも、
答えは口から出た。
正しい答え。
教授は満足げに頷く。
「よろしい」
周囲も、
何も疑わない。
⸻
昼休み。
アイリスは、
ルームメイトを見つけて駆け寄った。
「ねえ、大丈夫?」
「え?」
「最近……ちょっと、変だから」
彼女は笑った。
少しだけ、
作り物みたいな笑顔で。
「平気よ」
「ほら、ちゃんと戻ってるでしょ?」
「授業も、成績も」
その言葉に、
アイリスは違和感を覚えた。
——“戻ってる”。
誰も、
そんな言い方はしていない。
⸻
その夜。
リュシア、カイオン、フェリクスは
それぞれ別の場所で、
同じ報告を受けていた。
・物の位置が、合わない
・会話の途中で、数秒記憶が抜ける
・「考えたはず」のことを、思い出せない
だが——
誰も、
不調を訴えない。
「問題ない」
「もう大丈夫」
「気のせい」
そう言って、
自分から話を終わらせる。
⸻
カイオンは、
低く呟いた。
「……これ、回復じゃない…
“整え直された”だけだ」
フェリクスは、
拳を握る。
「しかも本人が、
“疑わないように”なってる」
リュシアは、
静かに目を伏せた。
(助けた)
(確かに、助けた)
(でも——)
⸻
その瞬間。
アイリスのルームメイトが、
ふと立ち止まった。
「ねえ……」
「私、さ」
「なんで、あの廊下が怖いのかしら」
アイリスの背中に、
冷たいものが走る。
「……どの廊下?」
「え?」
彼女は、
一瞬だけ困った顔をして——
次の瞬間、
笑った。
「……やだ、何言ってるんだろ」
「忘れて」
⸻
忘れていいはずが、ない。
それを、
“忘れてしまえる”こと自体が
異常なのだと。
この章の終わりで、
誰もまだ、
口には出せなかった。




