第102章 息をしているうちに
最初に動いたのは、カイオンだった。
「……魔法、切る」
声は低く、短い。
詠唱はない。
だが、空気がわずかに震えた。
彼が使ったのは、
攻撃でも、防御でもない。
“流れを断つ”精霊術。
精神魔法が成立するために必要な、
微細な魔力の循環だけを、静かに乱す。
「全体じゃない……一点集中型だ」
「この部屋が“核”になってる」
⸻
フェリクスは、すでに動いていた。
机の配置。
黒板の文字。
床に刻まれた、ほとんど見えない線。
「……最悪だな」
笑いも皮肉も、なかった。
「ここ、即席の儀式場だ」
「正式な設備がない分、
“人”を媒介にしてる」
視線が、
天井を見つめて笑っている生徒たちへ向く。
「……生きた触媒、か」
⸻
アイリスは、震えながらも立っていた。
膝は笑っている。
指先は冷たい。
それでも。
「……呼びかけ、やる」
「え?」
フェリクスが振り向く。
「名前」
アイリスは、少女の前に膝をついた。
「あなたの名前」
「それ、まだ覚えてるでしょ」
返事は、なかった。
だが。
少女のまつ毛が、
わずかに震えた。
⸻
リュシアは、少女の手を離さなかった。
力を込める。
逃げようとするでもなく、
すがるでもなく。
“ここにいる”と伝えるように。
「……大丈夫」
声は、静かだった。
だが、確かに届く声。
「考えなくていい場所なんて、ない」
「苦しいなら、苦しいって言っていい」
「……戻ってきなさい」
⸻
その瞬間。
黒板の文字が、歪んだ。
白い粉が、
削られるように、崩れ落ちる。
「——っ」
部屋全体が、軋んだ。
精神魔法が、
“対象を失い始めた”。
⸻
「今だ!」
カイオンが叫ぶ。
彼は床に手をつき、
精霊の流れを、逆向きに引いた。
本来なら、
訓練を積んだ魔術師でも躊躇する荒業。
だが。
「……行ける」
カイオンの声は、震えていなかった。
「“閉じ込める”なら、逆もある」
「——“外へ流す”」
⸻
生徒の一人が、倒れた。
次に、もう一人。
笑っていた口が、止まる。
天井を見ていた目が、焦点を取り戻す。
「……え?」
「ここ、どこ……?」
混乱。
恐怖。
だが、それは正常な反応だった。
⸻
だが、まだ——
少女だけが、動かない。
呼吸が、浅い。
「……まずい」
フェリクスが歯を噛む。
「深く固定されてる」
「このままじゃ——」
⸻
リュシアは、一歩踏み込んだ。
少女の額に、額を寄せる。
魔法ではない。
詠唱もない。
ただ。
意志。
「——帰るよ」
「あなたの場所は、ここじゃない」
「まだ、終わってない」
⸻
一瞬。
何も、起きなかった。
次の瞬間。
少女の指が、
きゅっと、リュシアの袖を掴んだ。
⸻
「……さむい」
かすれた声。
「こわい」
アイリスが、
声を押し殺して泣いた。
「うん……うん!」
「もう大丈夫!」
⸻
床に刻まれていた線が、
音もなく消えた。
池の方から聞こえていた、
あの鈍い音も、止まる。
部屋は、ただの古い教室に戻った。
⸻
リュシアは、少女を抱き上げる。
重い。
生きている重さ。
「……間に合った」
フェリクスが、息を吐く。
カイオンは、その場に座り込んだ。
「……本当に、ぎりぎりだった」
⸻
誰も、しばらく動けなかった。
静かで、
冷たくて、
二度と戻りたくない場所。
だが。
誰も、失われなかった。
それだけが、確かだった。




