第101章 池の回廊で“見てはいけないもの”
池の水は、夜でも黒くなかった。
月明かりを受けて、
不自然なほど静かに、なめらかに光っている。
「……音が、しない」
アイリスが、小さく言った。
本来なら、
水鳥の羽音や、風で揺れる水面のざわめきがあるはずだった。
だが、ここには何もない。
水は、生きていない。
⸻
回廊は、池に沿って伸びていた。
古い石造り。
壁の苔。
封鎖を示す札はあるが、
なぜか一枚だけ、意図的にずらされている。
「……誘導、だな」
フェリクスが低く呟く。
まるで、
「こちらです」
と、
誰かが示したかのように。
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足を踏み入れた瞬間、
空気が変わった。
冷たい。
湿っているのに、
生き物の気配がない。
「……っ」
カイオンが、無意識に息を止めた。
魔力の流れが、
ここだけ歪んでいる。
防御魔法ではない。
幻覚でもない。
もっと嫌な——
精神に触れる“何か”。
⸻
奥へ進むと、
回廊は半ば崩れた校舎へと繋がっていた。
使われていない、はずの場所。
だが。
床には、
新しい足跡。
壁には、
最近触れられた痕。
「……いる」
リュシアの声が、低く落ちる。
⸻
扉は、開いていた。
音もなく。
中は、教室だった。
机は整えられ、
黒板は消され、
灯りだけが、ぽつりと灯っている。
——だが。
そこにいた。
⸻
数人の生徒が、
机に座ったまま、動かない。
誰も、こちらを見ない。
ただ、
天井を見上げている者。
窓の外の池を、じっと見つめている者。
何もない空間に向かって、
小さく、小さく、笑っている者。
「……あ」
アイリスが、声にならない声を漏らした。
その中に——
いた。
彼女のルームメイト。
⸻
だが。
目が、合わない。
近づいても、
呼びかけても、
反応がない。
「ねえ……」
アイリスが、震える声で名前を呼ぶ。
返事は、ない。
代わりに。
「……だいじょうぶ」
誰かが、言った。
少女の口が、
勝手に動いた。
「わたし、ちゃんと、ここにいるから」
声は、平坦だった。
感情が、削ぎ落とされた音。
「勉強、してるの」
「すごく、静かで」
「考えなくて、いいの」
⸻
リュシアの背筋に、
冷たいものが走る。
(——“考えなくていい”)
それは、
この学園で最も危険な言葉だった。
カイオンが、歯を食いしばる。
「……精神、固定されてる」
「眠ってるわけじゃない」
「起きたまま、閉じ込められてる」
⸻
そのとき。
黒板の端に、
見慣れない文字が浮かび上がった。
白い粉が、
勝手に、文字を描いていく。
「戻る必要はない」
「ここは安全だ」
「選ばれた者だけが、残る」
フェリクスが、一歩前に出た。
「……ふざけるな」
その瞬間。
生徒の一人が、
ぎこちなく立ち上がった。
首が、ありえない角度で傾く。
笑顔のまま。
「……だめ」
「ここから、出ちゃ」
声が、重なっていく。
複数の口が、
同じ言葉を、同じ調子で。
⸻
「時間がない!」
リュシアが叫ぶ。
「このままじゃ——」
言葉の続きを、
誰も口にしなかった。
分かっていたからだ。
“戻れなくなる”。
⸻
そのとき。
池の方から、
低く、鈍い音が響いた。
水面が、
ゆっくりと、歪む。
何かが、
こちらに“気づいた”。
「……来る」
フェリクスが言う。
逃げるか。
助けるか。
選択肢は、ひとつしかなかった。
リュシアは、
少女の手を、強く握った。
「——絶対に、連れて帰る」
その言葉だけが、
この場所で唯一、
生きていた。




