第99章 戻らない灯り
アイリスは、最初は気にしていなかった。
机の上には、開きかけの本。
椅子は、少し引かれたまま。
「……まだかな」
時計を見る。
それほど遅い時間ではない。
(お菓子を買いに行ったのかも)
(それか、お手洗い)
自分に言い聞かせるように、そう思った。
彼女は、よくそういうことをする。
考え込んで、ふらりと外へ出ることもある。
——だから、大丈夫。
……の、はずだった。
⸻
けれど。
十分。
二十分。
時間が過ぎるほど、
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
(……あれだけ言ったのに)
アイリスは、立ち上がった。
寮の廊下。
談話室。
自販機の前。
どこにも、いない。
「……名前、呼びすぎかな」
そう思いながらも、
声が、自然と大きくなる。
返事は、ない。
⸻
階段を下り、
中庭を横切り、
図書館の前まで行ってみる。
夜の学園は、静かすぎた。
まるで、
人の気配だけが、削ぎ落とされたみたいに。
(おかしい)
頭では、まだ否定していた。
(本当に、散歩だけだったら?)
(私が騒いで、大事にしたら……)
——それは、それで最悪だ。
胸が、きゅっと縮む。
(でも)
(でも、もし)
そこまで考えた瞬間。
足が、止まった。
——同じだ。
あのときと、同じ感覚。
「気づいてしまった人間だけが、感じる空白」
⸻
「……っ」
息が、震えた。
探しても、探しても、
“見つからない”というより、
「最初から、ここにいなかった」
そんな錯覚だけが、残る。
(やだ)
(やだやだやだ)
頭の中で、言葉が渦を巻く。
⸻
そのとき。
「アイリス?」
聞き慣れた声がした。
振り向いた瞬間、
張りつめていたものが、一気に切れた。
「……っ、フェリクス……!」
彼女は、歩み寄る彼の前で、立ち尽くした。
言葉が、出てこない。
喉が、詰まる。
「どうした?」
その問いかけが、
最後の堤防だった。
「……っ」
次の瞬間。
涙が、溢れた。
声も、制御できない。
「戻らないの……!」
「ルームメイトが……!」
「ちょっと出るって言って、それっきり……!」
言葉が、途切れ途切れになる。
「私、言ったのに……!」
「一人で行かないでって……!」
フェリクスは、何も言わずに、彼女を支えた。
その腕の中で、
アイリスは、初めてはっきり口にする。
「……あの子」
「“勉強会”に行くって……」
その一言で。
フェリクスの表情から、
すべての余白が消えた。
彼は、静かに言う。
「……どこで?」
アイリスは、震える声で答えた。
「分からない……」
「でも……」
涙に濡れた瞳で、
必死に見上げる。
「もう、嫌なの」
「“戻らない”の、また……」
フェリクスは、短く息を吐いた。
そして、はっきりと告げる。
「大丈夫」
「今度は——」
「探すのは、俺たちだ」
夜の学園は、変わらず静かだった。
だがその静けさは、
もう「平穏」ではなかった。
確実に、
何かが、取り返しのつかない領域へ踏み込んでいる。




