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《LUNAR EXIT》第三話 東京無赦(上編) ——砕けたガラス、つながる声——

LUNAR EXIT 第三話・上編です。

 

ここしばらく、LUNAR EXITの映像版制作に時間を使っていたため、小説版の整理がなかなか進まず、更新まで少し間が空いてしまいました。申し訳ありません。

 

映像版は、AIを活用した実写映画風の連載ショートドラマとして制作しています。小説版とはまた違った形で、LUNAR EXITの世界を少しずつ広げていけたらと思っています。

 

今回は、ルナが初めて「プロの凄み」に触れる夜の話です。

 

憧れだけでは進めない東京で、彼女が何を見て、何を感じるのか。

 

少し長めですが、楽しんでいただけたら嬉しいです。


――ユラのノート――

 

私のノートには、少し色あせたポラロイドが一枚、挟まっている。

 

写真の中で、渋谷の地下道の白すぎる照明が、刃物みたいに一人の少女の上にまっすぐ落ちていた。

 

彼女は大きなギターケースを背負い、自分よりもずっと長く生きてきたような古いアコースティックギターを抱えている。

 

人の流れと広告の光のあいだに立っているのに、その目だけは、怖いくらいまっすぐだった。

 

それが結月――後のルナ――が、東京へ来たばかりの頃の姿だった。

 

あの頃の彼女は、まだ自分の憧れをしまい込むことを知らなかった。

 

目の中には、この大きすぎる街へ向けた、あまりにも正直な期待がそのまま残っていた。

 

あれは、私が福井から東京へ出てきて二年目のことだった。

 

当時の私は、いつもカメラを首から下げていた。

 

ファインダー越しにこの街を見る癖があった。

 

レンズを一枚挟んでいれば、自分と世界のあいだに、まだ薄い距離が残っているような気がしたからだ。

 

それが、あの頃の私にできる唯一の身の守り方だった。

 

後になって、風鈴カフェで、結月は二〇二三年四月の下北沢のライブのことを、ひどく興奮した様子で話してくれた。

 

あの夜の東京は色がついていた、と彼女は言った。

 

空気まで甘かった、と。

 

そのときの彼女の表情を、私はよく覚えている。

 

東京へ来たばかりで、もう何度かつまずいていたはずなのに、それでもまだ信じられないくらい明るかった。

 

当時の彼女にとって、あのライブはただのライブではなかった。

 

それは、彼女が初めて、プロというものの凄みを思い知らされた夜だった。

 

第一幕 下北沢ライブハウス・ルシファーの烙印

 

二〇二三年四月、夜。

 

下北沢のどこかにある、地下のライブハウス。

 

空気は湿っていて、熱がこもっていた。汗の匂い、安い香水、かすかな煙草の匂い。そこに、スモークマシン特有の甘ったるい匂いが混ざっている。

 

地下に押し込められたその狭い箱は、火にかけたまま蓋をされた鍋みたいだった。

 

ステージには、まだ明かりが入っていない。

 

それなのに、客席は怖いくらい静まり返っていた。

 

誰もが、前方の暗闇を見ている。

 

待っている、というより、その場にいる全員が、同じ息を止めているようだった。

 

嵐が落ちる直前。

 

その最後の一秒だけが、そこに閉じ込められていた。

 

次の瞬間、スネアが一発、叩き落とされた。

 

「ドン。」

 

冷たく、短く、残酷なほど正確な音だった。

 

まるで、暗闇の中に一本の傷口を切り開いたみたいだった。

 

一拍の間。

 

空気が、限界まで張りつめる。

 

その直後、ドラムとベースが同時に爆ぜた。

 

低くうねるリフが、地の底から身を起こした獣のようにフロアへ襲いかかる。音の波は一瞬で、場内すべてを呑み込んだ。

 

紫がかった赤いスポットライトがスモークを貫き、血のにじんだ刃のように、ステージを闇の中から切り出していく。

 

NAjNAが、現れた。

 

黒く密集した人波の中で、ルナは背中の古いアコースティックギターをかばいながら、必死につま先立ちになっていた。

 

揺れる無数の頭の向こう。

 

ステージの奥にいるその姿から、目が離せない。

 

広瀬芽依――メイ。

 

一瞬、それが本当に彼女なのか、わからなかった。

 

黒いタンクトップだけを身につけ、両腕の筋肉をぎりぎりまで張りつめさせ、誰かをその場で殺してしまいそうなほど鋭い目でドラムを叩いている、その女。

 

いつもバイクの後ろに乗せてくれて、どうでもいいことばかり言って、笑うときは何も考えていないみたいに笑う、あのメイなのか。

 

ルナの中にいるメイは、いつだって大ざっぱで、どれだけ転んでも痛みなど感じなさそうな人だった。

 

けれど今、ドラムセットの後ろに座っている彼女は、人間というより、ステージそのものの心臓を動かしている何かに見えた。

 

一打ごとに、恐ろしいほど正確だった。

 

短い髪を振るたび、汗が飛び散る。

 

その汗は照明の中で、砕けたガラスのように光った。

 

バスドラムの一音一音が、ルナの胸へ重く打ち込まれてくる。

 

その衝撃で、呼吸の仕方まで乱されていく。

 

それは、ただ格好いいだけではなかった。

 

プロの圧だった。

 

お前はまだ、この世界の入口にすら立っていない。

 

そう告げる、無言の宣告だった。

 

そして、ステージ中央に立つボーカルのサラは、さらに別の次元にいる存在だった。

 

身長一七四センチ。

 

黒いレースを重ねたバロック調のロングドレスに包まれたその姿は、ほとんど現実のものとは思えなかった。

 

その輪郭には、はっきりと異国の気配があった。

 

鼻筋はあまりにもまっすぐで、目元は一般的な日本人の少女よりも深い。

 

白い肌は、深紅の照明を受けてもなお、ほとんど体温を感じさせなかった。

 

黒い髪が、肩の線に沿って落ちている。

 

まるで、夜そのものを身体にまとっているようだった。

 

それは、人に好かれるための美しさではなかった。

 

見る者を、反射的に黙らせる美しさだった。

 

彼女がそこに立っているだけで、周囲のすべてが勝手に背景へ退いていく。

 

彼女は、まだ一言も歌っていない。

 

それなのに、ステージ下に広がる黒い人波は、もう開演を待っているようには見えなかった。

 

むしろ、彼女の降臨を待っているようだった。

 

サラの右側には、ギタリストの桐谷伸夫が立っていた。

 

その存在は、また別の意味でひどくちぐはぐだった。

 

顔立ちは人のよさそうな、どこにでもいそうな温厚な青年なのに、身にまとっているのは鋭いスタッズだらけの黒いパンクジャケットだった。

 

彼の指が弦をかき鳴らした瞬間、歪みと咆哮が空気を引き裂いた。

 

その音は、獣が牙をむいて飛びかかってくるようだった。

 

その強さは、ほとんど絶望的だった。

 

そしてサラの左側には、ベーシストの阮光司がいた。

 

サングラスをかけ、特徴的な小さな髭をたくわえている。

 

背は高くない。

 

それなのに、その立ち姿は、床に深く打ち込まれた杭のように揺るがなかった。

 

指輪だらけの指が、ネックの上を高速で跳ねる。

 

そこから生まれる低音は、ただ重いだけではなかった。極端なまでに華やかで、旋律的な対位を含んだベースラインだった。

 

そのラインがメイのドラムと噛み合った瞬間、ステージ全体に骨格が生まれた。

 

硬い。

 

近づけないほどに。

 

ルナはギターをかばいながら、人波の中を不器用に前へ押し進んだ。ようやくフロアの最前列までたどり着き、どうにか足を止めたその瞬間だった。

 

耳元で、この冷酷なゴシックの嵐とはあまりにも場違いな泣き声が炸裂した。

 

八王子の焼き鳥屋「八代屋」の店主、八代。

 

そして彼が連れてきた三人の高校生――みんなから「三匹の小悪魔」と呼ばれている少女たちだった。

 

「うわああ……サラ様……尊すぎる……!」

 

ボーカルの赤西莉奈が、両手を高く掲げて泣いていた。

 

その姿は、ライブを見ているというより、巡礼に来た信者のようだった。

 

「大将! あんたのせいやん! ティッシュ全部、“感動の涙記念パック”とか言うて売るから、うちらが拭く分なくなったやん!」

 

ギターの黒沢響が、八代の襟元をつかんで叫ぶ。

 

涙と怒りが、同じ勢いであふれていた。

 

「ほんまそれ! 応援グッズにするとか言うて、こっちが先に涙で溺れてるんですけど!」

 

ドラムの白石結衣が、いちばんひどく泣いていた。

 

顔全体が、今にも溶けてしまいそうだった。

 

三人に囲まれて責められている八代――くしゃくしゃの髪に、太い黒縁眼鏡、無精髭の中年男――もまた、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 

それでも、なぜか胸だけは張っている。

 

「知るか! こんなに泣くなんて聞いてへんわ! 黙れ! この程度の犠牲がなんだ! 心で聴け! 魂で泣け!」

 

三人の少女たちは、しゃくり上げながらも、なぜか声をそろえて叫んだ。

 

「はい、大将!!」

 

ルナは横目で、その泣き崩れた一団を見た。

 

胸の奥に、本能的な戸惑いが浮かぶ。

 

そんなに大げさなこと?

 

ただのライブじゃないの?

 

当時の彼女にとって、音楽はまだ技術だった。

 

音程、リズム、アレンジ。

 

うまいか、うまくないか。

 

すごいか、すごくないか。

 

だから、彼らの反応は、ルナにはあまりにも現実離れして見えた。

 

まるで、自分がまだ知らない言葉で会話している人たちを見ているようだった。

 

そのとき、ステージの音が変わった。

 

暴れていたすべてのリズムが、一瞬で引き抜かれる。

 

残ったのは、砕けたガラスの欠片のように、暗闇に吊るされたギターのアルペジオだけだった。

 

照明が、急に沈む。

 

フロア全体が、誰かに喉をつかまれたように静まり返った。

 

そして、その一秒後。

 

客席から、異様なほどそろった叫びが噴き上がった。

 

「ルシファー! ルシファー! ルシファー!!!」

 

ルナは、思わず固まった。

 

ルシファー?

 

意味を理解するより早く、サラが一歩前へ出た。

 

彼女は左足を、ステージ前方のモニタースピーカーに重く乗せる。

 

黒いレースのロングドレス。

 

その高すぎるスリットが、動きに合わせて滑り落ちた。

 

白すぎるほど白い太ももの内側に、巨大で複雑な紋様が現れる。

 

「堕天するルシファー」のタトゥー。

 

その紋様は、汗と照明のあいだでかすかに光っていた。

 

まるで、生きている烙印のように。

 

あるいは、彼女がとっくに夜と交わしてしまった契約のように。

 

次の瞬間、フロアは再び制御を失った。

 

その声は、もう単なる歓声ではなかった。

 

むしろ、巡礼に近かった。

 

ステージ下にいる人間たちは、普通の観客ではなく、自分の涙も、感情も、魂さえも差し出すことを望んでいる信徒のように見えた。

 

そして、サラはそこに立っていた。

 

笑わない。

 

慰めない。

 

誰かに応えようともしない。

 

ただ、受け取っている。

 

高みにいる暗黒の女王が、冷ややかにすべての崇拝を受け入れるように。

 

そして、彼女は涙を流した。

 

冷たく艶やかで、ほとんど人間離れしたその顔に、一筋の涙が落ちる。

 

それはあまりにも不自然で、だからこそ目を逸らせなかった。

 

彼女は目を閉じたまま、喉を裂くように歌っていた。

 

その声はもう、技巧やコントロールだけではなかった。

 

魂の内側から、何かを直接引き裂いているようだった。

 

一音ごとに、避けようのない重さがある。

 

それがまっすぐ、ルナの胸へ突き刺さった。

 

その瞬間、ルナはすべてを理解した。

 

さっきの人たちが、なぜ泣いていたのか。

 

このレベルのものを前にして、人は冷静でいられないのだ。

 

「……すごい……かっこいい……」

 

震える声で、彼女はそうつぶやいた。

 

けれど、その声はすぐに音の波に呑まれて消えた。

 

気がついたときには、熱いものが頬を伝っていた。

 

ルナは、はっとした。

 

ついさっきまで、あの人たちは大げさだと思っていた。

 

心の中で、少しだけ、馬鹿みたいだとさえ思っていた。

 

それなのに、自分も同じだった。

 

この力の前では、何の防備もできずに涙を流していた。

 

それは悲しみではなかった。

 

極限まで研ぎ澄まされた美しさと、圧倒的な強さに撃ち抜かれたとき、魂が勝手に震える。

 

そういう涙だった。

 

ルナは、ほとんど怯えるように思った。

 

これは、もうただの音楽じゃない。

 

人を丸ごと、どこかへ連れていってしまうものだ。

 

最前列に立ったまま、彼女は涙を拭うこともできなかった。

 

心臓が速すぎて、うまく息ができない。

 

そのとき初めて、ルナは本当の意味で理解した。

 

自分は、本当に東京へ来たのだ。

 

ここは長野ではない。

 

遊びの延長のような、学校の軽音部でもない。

 

ここは本物の戦場であり、怪物たちが棲む神殿だった。

 

そして彼女は初めて、怪物を見た。

 

第二幕 楽屋・女王と守護者

 

楽屋の空気は、ステージ前の熱狂とはまるで違っていた。

 

機材の低い駆動音、乾ききらない汗の匂い。そして分厚い防音壁に音を断ち切られたあとの、妙に重たい静けさがそこにあった。

 

ルナは、楽屋の隅に置かれた古い革張りのソファで、小さく丸まっていた。

 

泣き腫らした目は、さっきよりもさらにぼんやりしている。

 

ついさっきのステージに魂だけ持っていかれて、身体だけがここに残っているみたいだった。

 

人を疑うことをまだうまく知らない、まっすぐすぎる頭の中では、さっきのドラムの音がまだ鳴っている。

 

彼女は電池の切れたぬいぐるみみたいに、ただ自分の靴先についた小さな埃を見つめていた。

 

重い鉄の扉が、ガン、と音を立てて開いた。

 

ざわついた足音と一緒に、メイが大股で入ってくる。

 

叩き終えたばかりの身体からは、まだ湯気でも立ちそうな熱が残っていた。

 

彼女はすぐに、ソファの上で縮こまっているルナを見つけた。

 

一瞬だけ、メイの足が止まる。

 

けれどすぐに、いつもの少し悪そうな笑みが浮かんだ。

 

彼女は遠慮なく歩いてくると、ルナの隣にどかっと腰を下ろした。

 

「おーい、月村。顔、真っ白やん。サラに魂でも持っていかれたんか?」

 

軽口みたいな言い方だった。

 

けれどその声には、妹分を放っておけないような気遣いが混じっていた。

 

ルナは、びくっと肩を揺らした。

 

反射的に立ち上がって頭を下げようとしたけれど、さっきの音の余韻に浸りすぎていたせいか、足にうまく力が入らなかった。

 

途中まで腰を上げたところで、すとん、とまたソファに落ちる。

 

それでも彼女は慌てて背筋を正し、ぎこちなく頭を下げた。

 

「……だ、大丈夫です。すみません……失礼しました」

 

声は蚊の鳴くように小さく、少し鼻にかかっていた。

 

メイは小さく息を吐いた。

 

ポケットから煙草の箱を取り出し、慣れた手つきでフィルターを指先で軽く叩く。

 

けれど、火はつけなかった。

 

横目で、隣のこの、顔も上げられない子を見る。

 

その声が、少しだけやわらかくなった。

 

「ほんま、客席で泣きすぎやで。迷子のうさぎみたいになっとったわ。ステージから見たら、目ぇ真っ赤なん丸わかりやったで」

 

「……見えてたんですね……」

 

ルナはゆっくり顔を上げた。

 

目元にはまだ赤みが残っていて、その視線には、見ているこちらが少し苦しくなるほどの真剣さがあった。

 

「サラさん……本当に、すごかったです。全然違う世界の人みたいで……あんな声を聴けて幸せだと思ったのに、同時に、少し怖くなりました」

 

メイはすぐには答えなかった。

 

ただ、ルナの肩を強めに叩いた。

 

その手つきは雑だったけれど、ちゃんと人の体温があった。

 

その重さで、ルナはようやく、さっきまでの夢みたいな衝撃から少しだけ現実へ戻ってきた。

 

そのときだった。

 

楽屋の扉が、もう一度重く開いた。

 

少しゆるみかけていた空気が、蝶番の音と同時にぴんと張りつめる。

 

サラが入ってきた。

 

ステージの照明から離れても、一七四センチの長い身体と冷たい気配は消えなかった。

 

狭い楽屋の通路が、彼女が入ってきただけで、まるでステージの延長みたいに見えた。

 

その隣には、ベーシストの阮光司が影のように寄り添っている。

 

光司はまだステージでかけていた冷たいサングラスを外していない。

 

鋭い視線が、室内を一瞬でなぞった。

 

ほんの半歩、彼が動く。

 

それだけで、背の高い女王の横に、ごく自然な壁ができた。

 

メイの目がぱっと明るくなった。

 

彼女はすぐに立ち上がり、まだ力の入らないルナを半ば引っ張るようにして立たせると、前へ押し出した。

 

「あ、サラ! ちょうどええとこ来たわ。この子、ルナ。長野から出てきたばっかりの新人シンガーやねん。こないだ知り合って、ライブ来てみぃやって声かけたら、ほんまに来てくれてん」

 

ルナは全身が固まった。

 

錆びついた機械みたいにぎこちなく動き、深く、深く頭を下げる。

 

気持ちだけが先に行きすぎて、ほとんど膝に額がつきそうな勢いだった。

 

その拍子に、背中のアコースティックギターのケースへ額をぶつけかけ、わずかに布がこすれる音がした。

 

彼女はほとんど歯の間から絞り出すように言った。

 

「は、初めまして……! ルナと申します。あの……今日のステージ、本当に、本当に感動しました……すみません、急に……!」

 

光司が、半歩だけ前に出た。

 

それはあまりにも小さく、けれどあまりにも訓練された防御の動きだった。

 

その瞬間、ルナは見えない壁を感じた。

 

自分と、あの暗黒の女王とのあいだに、はっきりと線が引かれたのだ。

 

サラの視線は、光司の肩越しに静かにルナへ落ちた。

 

混血を思わせる整った顔に、ほんの淡い、礼儀正しい微笑が浮かぶ。

 

「ああ、メイのお友達ね。初めまして。今日は遠くから来てくれてありがとう。ライブも観てくれて、うれしいわ」

 

ルナの頭の中は真っ白になった。

 

目の前のサラに何を返せばいいのかもわからず、ただ慌てているうちに、扉がまた開いた。

 

細身で、黒縁眼鏡をかけ、少し生え際の怪しい男が、香ばしい匂いを立てる大きな袋をいくつも抱えて入ってきた。

 

その後ろには、元気だけでできているような三人の少女が続く。

 

八王子の焼き鳥屋「八代屋」の店主、八代玲司。

 

そして彼が連れてきた三人の高校生――赤西莉奈、黒澤響、白石結衣。

 

皆から「三匹の小悪魔」と呼ばれている少女たちだった。

 

八代は、温厚でまっすぐな笑みを浮かべたまま、サラを見た。

 

「今日、よかったよ。本当に。この前、八王子で聴いたときより、ずっとよかった」

 

その言い方は、とても自然だった。

 

ファンみたいに震えてもいない。

 

プロの歌手を前にした、過剰な遠慮もない。

 

彼が見ているのは、ステージの上のサラだけではなかった。

 

もっとずっと前から知っている、ひとりの人間だった。

 

八代は、手にしていた袋を差し出した。

 

焼き鳥の匂いが、楽屋の空気にふわりと混ざる。

 

「うちの客がさ、路地の入口まで歌が聞こえたって騒いでてな。来たい来たいって言うのを、俺が止めてきた。これ、みんなからの差し入れ。大したもんじゃないけど、食べてくれ」

 

その瞬間、ルナは信じられないものを見た。

 

サラの顔にあった冷たい鎧が、八代と焼き鳥を見た途端、ふっとほどけたのだ。

 

彼女は、あまりにも本物の笑顔を見せた。

 

少し子どもっぽささえ混じった、まぶしい笑顔だった。

 

「八代さん。本当に来てくれたんですね。ありがとうございます」

 

「はは、この小鬼どもがどうしても差し入れ持っていくって聞かなくてな。これ、こいつらも焼くの手伝ったんだ。まずかったら文句はこいつらに言ってくれ」

 

八代は後ろを指さした。

 

三人の小悪魔たちは、全力で手を振っていた。顔には、隠す気のない崇拝が貼りついている。

 

「サラ様ー! 今日も最高でしたー!!」

 

三人の声が、きれいにそろった。

 

そのとき、ギタリストの伸夫が扉の外から顔を出した。

 

表情はもう、冷静な仕事の顔に戻っている。

 

「みんな、お疲れ。取材の時間だ。そろそろ移動するぞ。……あ、ルナちゃんもいたんだ。今日は来てくれてありがとう。俺、先に向こう片づけてくるから、またあとで」

 

言い終えると、伸夫の目が、両手に焼き鳥の袋を下げた八代に向いた。

 

その声は、ほとんど呆れに近いほど気安かった。

 

外の人間に向ける声ではない。

 

八王子の商店街で小さい頃から顔を合わせてきて、何度も面倒を見たり見られたりしてきた相手にだけ出る、雑で遠慮のない声だった。

 

「玲司、お前も来いよ。ほら、お前ら小鬼どもも。今日の取材、けっこう大きいやつなんだぞ。見たいって騒いでただろ」

 

「ほんとに行っていいんですか? やった!」

 

莉奈が跳ね上がるように喜び、胸の前で両手を握った。

 

「あの有名な音楽誌ですよね? サラ様、表紙ですか?」

 

「早く早く! サラ様が取材されるところ、ちゃんと見届けたい!」

 

響と結衣も、はしゃぎながら後に続く。

 

ルナはその様子を見ていた。

 

三人の頬には、さっき泣いた跡がまだ残っている。

 

それなのに今は、信じられないくらい明るく、誇らしげな顔をしていた。

 

憧れている人の成功を、自分のことみたいに喜べる表情だった。

 

なんてまっすぐなんだろう、とルナは思った。

 

三人に押されるようにして、八代は残りの焼き鳥を抱えたまま、伸夫、サラ、光司と一緒に取材室のほうへ歩いていった。

 

その背中は、にぎやかで、どこかプロの現場らしくて、それでいて外からは簡単に入り込めない空気をまとっていた。

 

昨日今日でできた関係ではない。

 

ずっと前から、生活の中に書き込まれてきたものだった。

 

ルナはソファの隅に戻り、薄暗い廊下の先を、しばらく見つめたまま動けなかった。

 

莉奈の揺れる髪。

 

響と結衣の澄んだ笑い声。

 

それを聞いているうちに、胸の中に深くてあたたかい羨ましさが広がっていった。

 

あの子たちは、本当にすごい。

 

余計なことを考えず、好きな人をまっすぐ支えている。

 

誰かの成功を、あんなふうに喜べること。

 

その純粋さは、迷いの中にいる今のルナには、きらきら光るものみたいに見えた。

 

いいな。

 

みんな、あったかいな。

 

ルナは胸の奥で、そっとつぶやいた。

 

メイはルナの肩をぽんと叩き、廊下のほうへ声を投げた。

 

「先行っといて。ウチ、あとで行くわ」

 

足音が完全に遠ざかると、楽屋はまた静かになった。

 

ルナはゆっくり、重たく、もう一度ソファに腰を下ろす。

 

そして膝に顔を埋めた。

 

真面目すぎる彼女には、さっき見せつけられた差を、見なかったことにはできなかった。

 

「この数日で、やっとわかりました……」

 

声には、悔しさと、自分への情けなさがにじんでいた。

 

「私、まだ全然足りないんです。ほんとに、全然……」

 

メイは隣に座った。

 

今度は煙草に火をつける。

 

薄暗い楽屋の中で、火が小さく揺れた。

 

煙がゆっくり上がる。

 

その向こうで、メイの目が少し深くなる。

 

しばらく黙ってから、彼女はずっと聞きそびれていたことを口にした。

 

「……で、あの夜、何があったん。あの“神の手”のマヤと」

 

その言葉が落ちた瞬間、ルナの脳裏に Blue Note Tokyo の夜がよみがえった。

 

色が、一気に冷たくなる。

 

周りの音が消えて、自分の心臓の音だけが耳の奥で鳴った。

 

ステージの上にいたマヤの、平坦で静かな顔。

 

それは、登ることなど最初から許されていない雪山みたいだった。

 

彼はルナを見もしなかった。

 

ただ、温度のない声で言った。

 

「……僕と一緒に演奏できるのは、僕が認めた人間だけだ」

 

その一言は、冷たい針のように、ルナの自尊心をまっすぐ刺し抜いた。

 

そのあと、マヤの専属秘書である香坂理沙が静かに前へ出た。

 

礼儀正しく、けれど一切の余地を残さない動きで、その先を断ち切った。

 

マヤはわずかにうなずいただけだった。

 

ルナへ視線を向けることさえなく、そのまま背を向けた。

 

あのとき、ルナは Blue Note の青く冷たい光の中にひとり残された。

 

両手が震えていた。

 

あの世界の背中に、まったく追いつけなかった。

 

記憶から戻ったルナの顔は、さっきよりさらに白くなっていた。

 

「……私、実力が足りないだけじゃなかったんですね」

 

ほとんど聞こえない声だった。

 

「実力が足りないだけじゃなくて……同じ世界に立つ資格さえ、なかったんだと思います」

 

今にも壊れそうなルナを見て、メイは短く舌打ちしそうな顔をした。

 

吸いかけの煙草を、灰皿に強く押しつける。

 

じゅっ、と小さな音がして、火が消えた。

 

メイは大きく息を吐いた。

 

ステージで見せていたパンクの鋭さが、その瞬間だけ消えた。

 

彼女は少しだけ距離を詰める。

 

ぎこちない手つきだった。

 

けれど、驚くほどやさしく、ルナの頭に手を置いた。

 

「マヤってやつはな……ほんまに神さんに選ばれた側の人間や。ああいう光は、ウチらみたいな普通の人間が真似できるもんちゃうし、追い越せるもんでもない」

 

メイの手が、そっと髪を撫でる。

 

「せやから、月うさちゃん。そんなに自分を追い詰めんでええ」

 

その呼び方に、ルナの肩が小さく震えた。

 

メイはルナの耳元に少しだけ顔を寄せた。

 

声は、めったに聞けないくらい静かだった。

 

「好きな音楽、ちゃんとやったらええねん。自分のままでおったら、それでええ。取材終わったら、みんなで打ち上げ行こ。なんか食べよ」

 

「……私、邪魔になりませんか?」

 

ルナはおずおずと聞いた。

 

こんなに落ち込んでいるときでさえ、誰かの迷惑になることを先に考えてしまう。

 

メイは、ふっと笑った。

 

「邪魔なわけあるかい。人多いほうが楽しいやろ」

 

その言葉は、あまりにも自然だった。

 

母親だけが呼ぶ小さな名前。

 

月うさちゃん。

 

その響きを聞いた瞬間、こらえていたものが一気に押し寄せた。

 

大きな委屈と、どうしようもなくあたたかいものが、同時に胸の中へあふれてくる。

 

ルナはもう耐えられなかった。

 

もう一度、膝に顔を埋める。

 

肩が大きく、けれど声もなく震え始めた。

 

メイはそれ以上、何も言わなかった。

 

さっきまでステージで荒々しくドラムを叩いていた、薄いまめだらけの手。

 

その手を、震えるルナの肩にしっかり置いたまま、ただ黙ってそばにいた。

 

痛くて、それでも少しだけやさしい現実を、彼女が少しずつ飲み込めるように。

 

――ユラのノート・二〇二四年某日――

 

私のノートには、少しぼやけたポラロイドが一枚、挟まっている。

 

写っているのは、ルナのスマートフォンケースだった。

 

ピンク色の長い耳がついた、少し間の抜けたうさぎのケース。

 

端のほうはもう少し擦れていて、それは持ち主が東京で過ごしてきた時間の跡のようにも見えた。

 

この話は、後になってルナが雑談の中で、少し照れながら教えてくれたものだ。

 

その頃の私は、まだ彼女たちを知らなかった。

 

聞いたところによると、その日、二人はファストフード店にいたらしい。

 

ルナはいつものように、真剣な顔で歌詞をいじっていた。

 

メイはその横で、気のない様子でスマホを見ていた。

 

ルナが慌ててトイレへ行き、うっかりスマホをテーブルに置き忘れた。

 

ちょうどそのとき、実家の母親からメッセージが届いた。

 

内容は、なんでもないものだったという。

 

ゴールデンウィークは帰ってこられるのか。

 

かぼちゃの煮物を作って待っていようか。

 

そんな、家の匂いがする言葉。

 

けれど、その冒頭にあった呼び名だけが、メイの目の前にふわりと浮かんだ。

 

「月うさちゃん」

 

ルナがこの話をしてくれたとき、彼女はまた、少し耳まで赤くしていた。

 

席に戻って、自分の小さな呼び名が見られたと気づいたとき、本当に穴があったら入りたかったのだという。

 

そのときの二人は、きっと思いもしなかったはずだ。

 

かぼちゃの煮物みたいな甘い匂いのするその呼び名が、あんなに冷たく、挫折の匂いがする楽屋で、ルナの魂を最後につなぎ止める力になるなんて。

 

私は、そのスマホケースの写真を見下ろす。

 

当時の彼女たちにとって、それはただの気まずい偶然だったのだろう。

 

でも、ずっと後になってから、私はようやくわかった。

 

あれは、二人のあいだに生まれた「つながり」の始まりだった。

 

他人から見れば、少しばかばかしくて、不器用な日常。

 

けれど、そういうものこそが、東京という硬い街の中で、彼女たちの魂を濁らせずに支えていたのだと思う。

 

第三幕 下北沢の路地・余韻と喧騒

 

下北沢の夜には、冷えた空気の中にも、どこか落ち着かない生命力があった。

 

ライブハウスの楽屋を出ると、外の空気はきりっと冷えていた。

 

けれど、八代が抱えてきた焼き鳥の袋から湯気が立ちのぼると、そこだけ少し、街の夜らしい匂いがした。

 

居酒屋へ向かう細い路地で、NAjNAのメンバーたちは、さっきまでよりずっと肩の力が抜けていた。

 

八代玲司の持ってきた焼き鳥の匂いが、袋の中から容赦なく漏れている。

 

三匹の小悪魔――莉奈、響、結衣は、どう見てもすでに空腹の限界だった。

 

三人はさっきのステージの興奮を引きずったまま、袋から鶏串を抜き取り、遠慮なく路地でかぶりついた。

 

「んんっ! 八代さん、今日の串、めっちゃ味しみてる!」

 

口いっぱいに肉を詰めた莉奈が、なぜか空へ向かって手を振る。

 

「当たり前だろ。今日はサラの打ち上げ用に、うちの秘伝ダレをちょっと濃いめにしてあるんだよ」

 

八代は目を細めて笑い、それから隣にいるサラを見た。

 

「サラちゃんも、冷めないうちに一本食べな」

 

サラは断らなかった。

 

自然な手つきで一本受け取り、黄色い街灯の下で、小さく一口かじる。

 

その姿には、ステージの上で見せていた近寄りがたい気配がほとんどなかった。

 

ほんの淡く、けれど確かにやわらかい笑みが、口元に浮かんでいた。

 

ルナは、大きなアコースティックギターを背負ったまま、列のいちばん後ろをおそるおそる歩いていた。

 

みんなが路地を歩きながら、平然と焼き鳥を食べている。

 

その自由さに、ルナは目を丸くしたまま、手のひらにうっすら汗をかいていた。

 

別に、悪いことだと思っているわけではない。

 

ただ、ルナにとってこの瞬間は、あまりにも特別だった。

 

あんなにまぶしい人たちと、同じ路地を歩いている。

 

それだけで、別の世界の端っこに、少しだけ入れてもらえたような気がしていた。

 

だから、真面目すぎる頭が追いつかない。

 

え。

 

もう食べるんですか。

 

先にお店に入らなくていいんですか。

 

私も今食べたら、失礼じゃないんでしょうか。

 

そんなことを、ひとりで必死に考えていた。

 

「ルナ、何ぼーっとしとんねん。はよ食べな、あの小鬼どもに全部持っていかれるで」

 

メイが振り返った。

 

手にはねぎまが二本。

 

そのうちの一本を、ルナの手にそのまま押しつける。

 

「あ……ありがとうございます。あの、歩きながら食べても……本当に大丈夫なんですか?」

 

ルナは両手で串を握りしめた。

 

あまりに真剣な顔だったので、少しおかしかった。

 

メイは豪快に肉をかじり、眉を軽く上げる。

 

「何言うてんねん。うちらNAjNAやで? お行儀よう座って待つようなバンドちゃうやろ。路地で焼き鳥食うくらいが、ちょうどええねん」

 

ルナは一瞬、言葉を失った。

 

けれど、妙に納得してしまった。

 

メイの気楽で格好いい姿を見る。

 

その少し先で、サラも焼き鳥を食べている。

 

それだけで、胸の奥にあった緊張が、少しだけほどけた。

 

「そ、そうなんですね……」

 

ルナは小さく首をすくめた。

 

ようやく許可をもらえたような顔で、手元の鶏肉を見つめる。

 

それから、ほとんど聞こえない声で「いただきます」と言って、覚悟を決めたように小さくかじった。

 

炭火の香りと、甘辛いタレが舌の上でほどける。

 

張りつめていた肩が、ほんの少し落ちた。

 

先頭を歩いているのは光司だった。

 

相変わらずサングラスをかけたまま、片手をポケットに入れ、無口に道を選んでいく。

 

伸夫は隣で八代と、どうでもいい焼き鳥談義を延々としていた。

 

二人の笑い声が、静かな路地にゆるく跳ね返る。

 

ルナは少し小走りで後をついていった。

 

食べ終えた竹串を手に持ったまま、胸の中に、言葉にしにくいざわめきが残っていた。

 

ステージの上では、魂が震えるほどの怪物に見えた人たち。

 

その人たちが、私服のまま焼き鳥をかじり、くだらない話をしながら歩いている。

 

それは、ルナにとって驚きだった。

 

そして、少しだけ救いでもあった。

 

ずっと肩に力を入れて生きてきた彼女は、その気取らなさに、少しずつ力を抜かされていくような気がした。

 

路地の先で、居酒屋の赤提灯が小さく揺れていた。

 

立派な店ではなかった。

 

下北沢の路地の奥にある、古い暖簾のかかった小さな店。

 

ガラス戸には、前の客の熱気がまだうっすら残っている。

 

八代が慣れた手つきで戸を開けた瞬間、焼き物の脂、醤油、ビールの泡、古い木のテーブルの匂いが、どっと外へ流れ出した。

 

ルナは一瞬、東京の冷たい風の中から、湯気の立つ場所へ引き入れられたような気がした。

 

「いつものとこ、いつものとこ!」

 

八代が大きな声で言う。

 

まるで店の半分くらいは自分のものだと思っているような声だった。

 

三匹の小悪魔は、歓声を上げて中へ飛び込んだ。

 

響が入口の段差につまずきかける。

 

結衣が笑いながらそれを引っ張る。

 

莉奈はもう席を探して、きょろきょろしていた。

 

三羽の雀が、かごから放たれたみたいだった。

 

伸夫は後ろで額に手を当てる。

 

こうなることは最初からわかっていた、という顔をしている。

 

光司は一足先に店内を見渡し、動線と席を確認してから、何も言わずにサラをいちばん奥の、比較的静かな席へ座らせた。

 

ルナはみんなに続いて長いテーブルへ入った。

 

動きは、ほとんどおそるおそるだった。

 

大きすぎるアコースティックギターを壁際へそっと置く。

 

何かにぶつけてはいけない、とでも思っているようだった。

 

ようやく席についたとき、自分の心臓がまだ落ち着いていないことに、少し遅れて気づいた。

 

テーブルの上で、グラスが次々と満たされていく。

 

ビールの泡がふくらみ、ぱちぱちと小さな音を立てる。

 

その音は、今夜の余韻に小さな拍手を添えているようだった。

 

「乾杯や!」

 

メイが最初にグラスを掲げた。

 

「乾杯――!!」

 

一斉にグラスがぶつかり、短く澄んだ音が鳴る。

 

大きな音ではなかった。

 

それなのに、ルナの胸は小さく震えた。

 

手の中には烏龍茶のグラスがある。

 

自分は、メイに連れてこられただけの外の人間のはずだった。

 

それなのに、その乾杯の音の中で、今だけはこのテーブルに座ることを許されたような気がした。

 

料理が次々に運ばれてきた。

 

焼き鳥、唐揚げ、ポテトサラダ、焼き椎茸。

 

それから、いつの間にか追加されていた明太子入りのだし巻き卵。

 

八代はとくに飲むのが早かった。

 

ほどなく顔が赤くなり、声もどんどん大きくなる。

 

「今日はちゃんと祝わなきゃだめだろ」

 

そう言いながら何度もテーブルを叩くその顔は、胸の中まで祭りになっているみたいだった。

 

ルナは最初、静かに聞いているだけだった。

 

たまに料理を少し取るくらいで、会話にはなかなか入れない。

 

けれど見れば見るほど、不思議だった。

 

ステージの上では、黒い女王のようだったサラが、今はテーブルの端で静かに串を食べている。

 

莉奈たちが騒ぎすぎるたび、少しだけ困ったように笑う。

 

光司は相変わらず言葉が少ない。

 

けれどサラが手を伸ばす前に、ほしいものをそっと彼女のほうへ寄せていた。

 

伸夫は三匹の小悪魔に絡まれて、顔を赤くしている。

 

「お前ら、ちょっと落ち着け」と言う声にも、本気の怒りはまるでなかった。

 

メイはもう肩の力が抜けきっていて、笑い声を何度も木の壁へぶつけている。

 

ステージの上で爆ぜていたものを、別の形で外へ逃がしているみたいだった。

 

ルナは、ふと思った。

 

この人たちの素顔は、ステージの上よりも、もっと胸を熱くする。

 

遠すぎる光ではなかった。

 

汗をかく。

 

肉を食べる。

 

笑う。

 

騒ぐ。

 

ちゃんと生きている人たちだった。

 

そのとき、八代が急に、何か重大なことを思い出したように、自分の太ももを叩いた。

 

「待て待て! 今日みたいな日に、あれがないのはおかしいだろ!」

 

「また始まった……」

 

伸夫がほとんど反射で、頭痛でもこらえるような顔をした。

 

八代は、ぐちゃぐちゃに詰め込まれた鞄の中から古いファイルを引っ張り出した。

 

そこから、やけに白い紙を一枚取り出す。

 

かなり酔っているはずなのに、その動きだけは妙に大げさで、どこか滑稽なくらい厳かだった。

 

さらに鞄から筆ペンを取り出すと、全員の前で、紙の中央に力強く四文字を書いた。

 

メジャーデビュー

 

黒々とした字が、白い紙の上に立ち上がる。

 

冗談みたいなのに、不思議と本気に見えた。

 

さっきまで騒がしかった店の空気が、一瞬だけ静まった。

 

ルナはその紙を見つめたまま、箸を止めていた。

 

「デビュー」という言葉を聞くのは、初めてではない。

 

東京に来てから、夢だの、チャンスだの、未来だの、そういう言葉を何度も聞いた。

 

どれも口に出すのは簡単だった。

 

コンビニの棚に並ぶ商品みたいに、誰でも手に取れそうで、その分どこか安っぽくも聞こえた。

 

けれど今、その四文字が、八代の手で、こんなに不器用で、こんなに笑ってしまうような形で書かれた瞬間、急に重さを持った。

 

重かった。

 

本当に人生の中へ沈んでいくような重さだった。

 

ルナはその文字を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

小さな灯りを、心臓の奥にそっと置かれたみたいだった。

 

八代はその紙を高く掲げた。

 

酔った子どもみたいに笑っている。

 

けれど同時に、どこか熱を持ちすぎた大人の顔でもあった。

 

「お前ら、よく見とけよ!」

 

彼は大声で言った。

 

「いつか、NAjNAは絶対ここまで行くんだよ!」

 

「おおおおお――!!」

 

三匹の小悪魔が、すぐさま全力で乗った。

 

メイは一番派手に笑った。

 

肩を震わせ、危うく酒を吹きそうになっている。

 

サラはその紙を一瞬だけ見下ろし、口元をほんのわずかに動かした。

 

何も言わない。

 

けれど、その小さな表情は、何かを静かに受け取ったようにも見えた。

 

光司は相変わらず黙っていた。

 

ただ、グラスの縁をテーブルに軽く当てる。

 

それは、八代の宣言に、小さく重い句点を添えるような音だった。

 

ルナの視線は、その四文字から離れなかった。

 

メジャーデビュー。

 

それは、彼女の夢ではない。

 

少なくとも、今の彼女はまだ、自分の夢だと言い切れない。

 

それでもその言葉は、妙な熱を持って胸の奥に沈んだ。

 

あの場所は、テレビや雑誌や、誰か別の人生の中だけにあるものではない。

 

こうして紙に書かれて、油と酒の匂いがするテーブルの真ん中に置かれて、めちゃくちゃに笑っている人たちに、本気で叫ばれることもある。

 

そのことを、ルナは初めて、身体で知った。

 

少し熱くなりすぎた空気の中で、誰かがふと思い出したように言った。

 

「そういえば、八代さんって前に警察のお世話になってましたよね?」

 

その一言は、乾いた草に火の粉が落ちたみたいだった。

 

テーブルが、一気に爆ぜる。

 

「ははははは! あれ、ほんま最悪やったな!」

 

メイが真っ先にテーブルを叩いて笑った。

 

「やめろ! それは黒歴史だろ!」

 

八代が真っ赤な顔で抗議する。

 

けれど、威厳はまったくなかった。

 

ルナはぽかんとして、瞬きをした。

 

何の話か聞く前に、莉奈がもう身を乗り出していた。

 

都市伝説でも語るみたいに、目を輝かせている。

 

「大将、あのとき飲みすぎて完全に飛んでたんだよ! 夜中に公園まで行って、服ぜんぶ脱いで、ベンチで爆睡してたって!」

 

「しかも全裸! 全裸だよ!」

 

結衣が、涙が出るほど笑っている。

 

「警察が来て、毛布でぐるぐる巻きにして連れていったんだって。あれ、ほぼ変な祭りの撤収作業だったよね」

 

響が冷静に補足し、そのまま自分で笑い崩れた。

 

テーブルは、一瞬で笑いに包まれた。

 

表情の薄い光司でさえ、ほんの少し顔を横へ向けた。

 

笑いをこらえているようにも見えた。

 

伸夫は額を押さえ、「結局その話になるのか」という顔をしている。

 

それでも目元には、隠しきれない笑いがあった。

 

ルナはその話を聞いているうちに、頭の中に本当にその場面を思い浮かべてしまった。

 

灰色がかった夜の公園。

 

ベンチ。

 

冷たい風。

 

そこに、場所を間違えた酔っぱらいの石像みたいに、八代が無防備に眠っている。

 

困りきった警察官が毛布をかける。

 

まるで、どうしようもなく脱線した人生の茶番を、そっと片づけているみたいだった。

 

滑稽すぎて、ルナも思わず笑いそうになった。

 

けれど同時に、胸の奥を別の感情が軽く叩いた。

 

さっき「メジャーデビュー」と書いた人も、こんなふうに情けなくなる。

 

公園で警察に拾われるくらい、どうしようもなくなる。

 

大人だって、いつもちゃんと立っていられるわけではないのだ。

 

一方で、伸夫の災難も終わらなかった。

 

三匹の小悪魔は、ジンジャーエールだけで十分すぎるほどテンションが上がっていた。

 

最初に店へ入ったときより、遠慮が一段階なくなっている。

 

莉奈は伸夫の腕をつかんで離さない。

 

響はわざと彼の隣へ詰める。

 

結衣まで、にこにこしながら言った。

 

「伸夫さん、今日もかっこよかったですよ」

 

伸夫の耳が、みるみる赤くなった。

 

「お前ら、ちょっと離れろって。ほんと狭いから……」

 

彼は困ったように横へ逃げようとする。

 

けれど三人が笑いながら、すぐに逃げ道をふさぐ。

 

ステージで空気を切り裂いていたギタリストとは、まるで別人だった。

 

女子高生に囲まれて逃げ場をなくした、気の毒な近所のお兄ちゃんにしか見えない。

 

メイはそれを見て、ほとんど笑い崩れていた。

 

身体を後ろへ反らし、テーブルを叩く。

 

「あかん、伸夫これ、一生忘れられへんやつや!」

 

ルナは、めちゃくちゃに騒がしいテーブルを見ていた。

 

湯気。

 

笑い声。

 

くだらない言い合い。

 

焼き鳥の匂い。

 

全部がぐちゃぐちゃに混ざっている。

 

その光景を見ているうちに、胸をずっと締めつけていた何かが、知らないうちにゆるんでいった。

 

この人たちは、本当に変だ。

 

舞台の上では、怪物みたいに強かった。

 

刃物みたいに鋭かった。

 

まぶしすぎて、まともに見られないほどだった。

 

けれど舞台を下りれば、こんなにも庶民的な夜の中で笑い、失敗し、安い串焼きを食べる。

 

夢も、タレも、汗も、笑い声も。

 

全部を同じ小さな居酒屋のテーブルに乗せてしまう。

 

だからこそ、その光は本物に見えた。

 

天から落ちてきたものではない。

 

生まれたときから誰かに与えられていたものでもない。

 

こうやって転びながら、騒ぎながら、情けないところも見せながら生きてきて、少しずつ少しずつ、あの光をつくってきたのだ。

 

ルナは、テーブルの上に置かれた「メジャーデビュー」の紙を見た。

 

胸が、何かに触れられたみたいに熱くなる。

 

痛い。

 

けれど、悪い痛みではなかった。

 

何かが、ようやく土の下で芽を出し始めたような痛みだった。

 

そのとき、テーブルの空気がまた少し変わった。

 

サラは、本当に酔っていたのだと思う。

 

それまで静かに座っていた彼女の頬には、普段なら見えない薄い赤みが差していた。

 

目元も、少しだけゆるんでいる。

 

彼女はゆっくり手を上げ、自分のグラスに触れた。

 

何かを確かめるみたいに。

 

それから、ふと視線を上げる。

 

その目が、少し離れた席にいるルナへ止まった。

 

長かった。

 

ルナが反応するより早く、サラは淡い酒気をまとったまま、彼女の腕にそっと絡んだ。

 

動きは乱暴ではなかった。

 

むしろ、酔った人特有のやわらかさと、少しだけわがままな距離の近さがあった。

 

次の瞬間。

 

サラは、何の前触れもなく、ルナの頬にキスをした。

 

軽かった。

 

けれど、軽すぎるほど正確だった。

 

ルナは、その場で完全に固まった。

 

呼吸が一拍止まる。

 

身体が動かない。

 

目だけが丸く開く。

 

頭の中で、何かが完全に止まった。

 

それは、ただ触れられた、というだけではなかった。

 

ステージの上にあったはずの幻が、ふいに現実へこぼれ落ちて、自分の肌に触れたようだった。

 

「うわ、出た」

 

横でメイが笑った。

 

その声は、もう何度も見てきた人間のそれだった。

 

案の定、サラはルナにキスをしただけでは終わらなかった。

 

何かのスイッチが入ったみたいに、今度はメイのほうを向く。

 

酒の匂いをまとったまま近づき、両手でメイの顔を包むと、またキスをしようとした。

 

メイは避けなかった。

 

それどころか、当然みたいな顔で笑い、自分から顔を近づける。

 

「はいはい、今日は好きなだけどうぞ」

 

完全に面白がっている顔だった。

 

「ちょ、ちょっと……サラ……」

 

伸夫が横で頭を抱える。

 

けれど、その反応からして、これが初めてではないことは明らかだった。

 

光司はというと、何も言わない。

 

ただ、ごく自然に手を伸ばして、サラの前にあった酒のグラスを少し遠ざけた。

 

慣れた日常の事故処理みたいな手つきだった。

 

三匹の小悪魔は、もう笑いの渦の中にいた。

 

テーブルを叩く者。

 

両手で顔を覆う者。

 

声にならない声で転がりそうになる者。

 

座敷全体が、一気にぐちゃぐちゃな騒ぎに包まれた。

 

八代はさっきまで「メジャーデビュー」の紙を掲げていたくせに、今は一瞬ぽかんとして、それから腹の底から笑い出した。

 

ただ一人、ルナだけが、まだ固まっていた。

 

彼女はそっと、自分の頬に手を当てた。

 

皮膚が、まだ状況を理解していないみたいだった。

 

そこだけが異様に熱い。

 

熱は頬から耳へ、耳から首へと広がっていく。

 

頭の中は真っ白だった。

 

ただ、ひどく単純で、ひどく馬鹿みたいな言葉だけが、ぐるぐる回っている。

 

サラさんが、私にキスした。

 

本当に、キスした。

 

何も言えなかった。

 

ルナはただ下を向き、まるでとても大事なものを見るみたいに、テーブルのだし巻き卵を見つめた。

 

けれど顔はもう、隠しようがないくらい熱くなっていた。

 

その、どうしようもなく狼狽した一瞬の中で、ルナはまた少しだけ深く理解した。

 

この人たちは、神様ではない。

 

夢でもない。

 

酔う。

 

ふざける。

 

失敗する。

 

距離感も、舞台の光も、油と酒の匂いの中で簡単にぐしゃぐしゃにしてしまう。

 

だからこそ、生きている人間に見えた。

 

ルナは何も言わなかった。

 

ただ、さっき頬に落ちたキスと、テーブルの上の「メジャーデビュー」の紙を、そっと一緒に胸の中へしまった。

 

まだ熱を持った二つの出来事を、どう受け止めればいいのかわからないまま、胸の奥にしまい込むように。

 

――ユラのノート・二〇二四年某日――

 

ずっと後になってから、私はこの夜のことをノートに書き直した。

 

そのときようやくわかった。

 

当時の結月の心臓を震わせたものは、ステージの上の強さだけではなかったのだと思う。

 

彼女は初めて見たのだ。

 

「プロ」と呼ばれるもの。

 

「頂点」と呼ばれるもの。

 

自分には届かないと思っていた世界。

 

その世界にいる人たちも、案外、こちら側と同じように笑ったり、失敗したりするのだということを。

 

彼らも酔う。

 

恥をかく。

 

小鬼たちに絡まれて顔を赤くする。

 

油煙の立つテーブルで笑いながら、少し大げさで、ほとんど馬鹿みたいな夢を紙に書く。

 

そして酔いが回れば、無防備な女の子を、突然キスひとつで完全に固まらせたりもする。

 

けれど、そういう人たちが、本当に一歩ずつ、あの四文字へ向かっていった。

 

メジャーデビュー。

 

あの夜、結月の中でも、何かが静かに灯ったのだと思う。

 

後になって、結月がその話を私にしてくれたとき、途中でまた耳まで赤くなった。

 

包み隠さず話してくれたわけではない。

 

むしろ、話しながら何度も言葉を探していた。

 

そのあと店がどれくらい騒がしかったのか。

 

メイが横で何か叫んでいたのか。

 

八代がまだ笑っていたのか。

 

そういう細かいことは、もうあまり覚えていないと言っていた。

 

ただ、サラが近づいた瞬間だけは覚えている。

 

頭の中の電源を、誰かにまるごと抜かれたみたいだった。

 

耳の奥で、自分の心臓の音だけが、やたら大きく鳴っていた。

 

無理もない。

 

あのサラなのだ。

 

ステージの上では黒い炎みたいで、きれいすぎて現実味のないサラ。

 

それに、結月はもともと女の子が好きだった。

 

だから、あのキスは、ただ「頬に触れられた」だけではなかった。

 

まぶしすぎる光に、不意に肌をかすめられたようなものだった。

 

彼女はそのとき、顔から首まで真っ赤になって、呼吸までおかしくなったという。

 

頭の中に残っていたのは、たったひとつ。

 

終わった。

 

ほんとうに、終わった。

 

もし私があの夜に一行だけメモを残すなら、たぶんこう書く。

 

当時の月村結月にとって、それはただのキスではなかった。

 

完全なフリーズだった。

 

第四幕 銀座の余白

 

銀座 蔦屋書店の自動ドアが、彼女の背後で静かに閉まった。

 

ルナは手にした紙袋を見下ろした。

 

袋の口から、買ったばかりの本の表紙が少しだけのぞいている。

 

建築や空間デザインの図録だった。

 

ネットで何度も見て、いつか実際に手に取ってみたいと思っていた一冊だ。

 

店の前に立ったまま、ルナはまだ少し、自分が本当にここまで来たことを信じられずにいた。

 

今の彼女にとって、銀座という地名には、まだどこか現実味のない距離があった。

 

ルナが以前暮らしていたのは、長野・上山田だった。

 

生活の範囲は、決して広くなかった。

 

そのあと二年間、建築の専門学校に通った。

 

成績はどうにか単位を落とさずに済むくらいで、勉強が得意だったわけではない。専門用語をすらすら並べて話せるようなタイプでもなかった。

 

それでも、空間にまつわるものを見るのは昔から好きだった。

 

古い建物の写真。

 

階段の踊り場に落ちる光。

 

ガラスと木が、どうやってひとつの部屋を静かに見せるのか。

 

そういうものを眺めている時間は、ルナにとって、少しだけ息がしやすい時間だった。

 

東京へ来てから、スマホの画面で銀座 蔦屋書店の写真を見かけることが何度かあった。

 

整いすぎているくらいきれいな本棚。

 

建築、デザイン、アートや雑貨が、ひとつの空間の中に丁寧に置かれている場所。

 

どうしても行かなければならないわけではない。

 

それでも、ずっと頭のどこかに残っていた。

 

今日は風鈴カフェが休みだった。

 

朝、目が覚めてから、ルナはしばらくベッドの上でぼんやりしていた。

 

そのまま何度かスマホを手に取り、結局、我慢できずにメイへメッセージを送った。

 

本当は、メイを誘いたかった。

 

銀座のような場所は、東京で暮らし始めたばかりのルナにとって、まだ「誰かの街」に近かった。

 

誰かが隣にいてくれたら、それだけで少し安心できる気がした。

 

けれど、メイからの返事はすぐに来た。

 

送られてきた音声の中で、メイの声はひどくくぐもっていた。

 

明らかに二日酔いの、半分死んだようなかすれ声だった。

 

「無理や……昨日飲みすぎて、今 HP も MP も底ついとる……」

 

そのあとも、彼女はもごもごと何かを言った。

 

八王子から銀座まで今から行くには遠すぎること。

 

午後には練習もあること。

 

そもそも今、身体がまったく動かないこと。

 

話している途中で、メイは布団の中で寝返りを打ったらしかった。

 

声が少し遠くなり、寝起きの鼻声が混じる。

 

それから、ほとんど独り言みたいに、彼女はつぶやいた。

 

「……しかもサラ、まだウチの横で寝とるし。全然起きへん。昨日、ほんまやばかったわ……」

 

その言い方は、あまりにも自然だった。

 

何か特別なことを言っているというより、二人のあいだではもう当たり前になっている日常を、ただそのまま口にしただけのように聞こえた。

 

ルナはスマホを握ったまま、その音声を見つめて、しばらく固まった。

 

やっぱり今日はやめようか、と少し思った。

 

けれど、今日はめったにない休みだった。

 

それに、この書店には本当にずっと来てみたかった。

 

結局、ルナはゆっくり起き上がり、ギターも背負って、一人で部屋を出た。

 

そして今、銀座の昼の中に立っている。

 

ただ電車に乗って銀座まで来ただけだ。

 

ただ一冊、本を買っただけだ。

 

途中で何度も地図を見た。

 

出口を間違えないように、こっそり何度も確認した。

 

それでも、長野を離れて、初めて東京で一人暮らしをしているルナにとっては、それだけでも小さな遠征みたいだった。

 

紙袋を胸のほうへ抱き寄せ、彼女は街を見上げた。

 

昼の銀座は、きれいすぎて少し冷たかった。

 

ガラスと石材に反射した光が、通りを歩く人の輪郭をくっきり切り出している。

 

この街では、曖昧なものも、迷いも、簡単には許されない気がした。

 

地面の上には高そうな靴音が行き交い、ショーウィンドウの光はまぶしく整っている。

 

風まで、きちんとした服を着ているようだった。

 

ルナはただ道端に立っているだけなのに、自分がここにあまりなじんでいないように感じた。

 

怖い、というのとは少し違う。

 

自分の中に、まだ飼い慣らされていない小さな部分が残っていて、それがこの整いすぎた街の空気と、黙って向かい合っているようだった。

 

けれど、だからといって、すぐに帰りたいとは思わなかった。

 

彼女は買ったばかりの本を抱えたまま、ゆっくり歩き出した。

 

地下通路の入口を通りかかったとき、足が自然に止まった。

 

下のほうから、やわらかくこもった反響が聞こえてくる。

 

人の靴音。

 

買い物袋が擦れる小さな音。

 

さらに遠くで響く地下鉄の低い音。

 

それらが壁に集められて、ひとつの不思議な空気になっていた。

 

ルナは肩にかけたギターを見下ろした。

 

今日はただ、なんとなく背負ってきただけだった。

 

習慣のようでもあり、どこかで役に立つかもしれないお守りのようでもあった。

 

入口の端に立ち、彼女はしばらく黙って耳を澄ませた。

 

そして、ふと歌いたくなった。

 

その気持ちは、思ったよりもまっすぐに湧いてきた。

 

今の自分らしくないくらい、ためらいがなかった。

 

昔の、あまり先のことを考えず、勢いだけで動けていた頃の自分が、まだ身体のどこかに静かに残っていたのかもしれない。

 

ルナはそれ以上考えなかった。

 

その気持ちに従うように、ゆっくり階段を数段下りた。

 

そこは、完全に閉じた地下道ではなかった。

 

通路の片側は地上の出口につながっていて、昼の自然光が階段口から斜めに落ちている。

 

灰白色の壁は、光と影でやわらかく二つに分かれていた。

 

買い物袋を持った人が通り過ぎる。

 

スマホを見ながら歩く人がいる。

 

ただ急いで前へ進んでいく人もいる。

 

誰もがそれぞれの行き先を持っていた。

 

誰も特別に彼女を見ていない。

 

けれど、彼女がそこにいても、邪魔にはならないように思えた。

 

そのことが、ルナを少し安心させた。

 

柱に近い壁際まで歩き、彼女はしばらく立ち止まった。

 

背後の壁は平らで、通行の邪魔にもなりにくい。

 

一曲か二曲だけなら、そこまで目立たずに歌えるかもしれない。

 

ルナは紙袋をそっと足元に置き、肩からギターを下ろした。

 

今日は、ただ本を買いに来ただけだった。

 

それなのに、ギターを背負っていると、時々こういうことになる。

 

東京のどこにいても、これを抱えていれば、本当に迷子になってしまうことだけは避けられるような気がした。

 

しゃがんでケースを開ける。

 

指先がギターの胴に触れた瞬間、胸の中でふわふわしていたものが、ようやく降りる場所を見つけたように感じた。

 

最近書いたばかりの曲――〈余温〉が、ふいに頭の中へ浮かんできた。

 

何度も、頭の中では歌っていた。

 

けれど、人前で声に出すのは、これが初めてだった。

 

ルナはギターを抱え直し、低く二度、弦を鳴らした。

 

音はすぐに、半地下の通路に受け止められた。

 

彼女の睫毛が、ほんの少し揺れる。

 

それから、ゆっくり息を吸った。

 

最初のフレーズから、歌い始める。

 

最初の声は、まだ少し小さかった。

 

何かを驚かせないように、そっと差し出すような声だった。

 

けれど、地下道の空気はその声を呑み込まなかった。

 

むしろ細い声をやわらかく押し返してくる。

 

その瞬間、ルナの肩に入っていた力が、少しずつ抜けていった。

 

彼女はそこに立ち、ギターを抱えて歌った。

 

ようやく、何も考えずにいてもいい場所を見つけたようだった。

 

けれど、いったん歌が口から出てしまうと、記憶も一緒にほどけていった。

 

思い出したのは、劇的な場面ではなかった。

 

かつては変わらないと思っていた、小さな生活のかけらだった。

 

松本の、小さな部屋。

 

窓辺に干してあった服。

 

テーブルに置かれた、飲みかけのコンビニコーヒー。

 

ユイが隣に座り、ルナの指をそっと直してくれる。

 

ここはもう少し力を抜いて、と言いながら、コードを押さえる位置を教えてくれる。

 

あの頃、ルナは本当に信じていた。

 

いつか二人で東京へ行くのだと。

 

一緒に暮らし、一緒に練習し、一緒に話した未来は、そんなに簡単にはなくならないのだと。

 

でも最後に東京へ来たのは、ルナ一人だった。

 

歌えば歌うほど、彼女はそのかけらの中へ自分を押し込んでいくようだった。

 

地下道を通り過ぎる人の中には、一秒だけ足を止める人もいた。

 

振り返って見る人もいた。

 

けれど、ルナはもうあまり気にしていなかった。

 

彼女の視線は、人混みを越えて、存在しないのに消えない場所へ向かっていた。

 

サビに入る頃には、声はもう、最初ほど軽くはなかった。

 

「触れずに触れる君の残響――」

 

それは、ただの歌詞ではなかった。

 

あの人はもういない。

 

それでも別の形で、まだ自分の手のひらに、呼吸に、覚えたコードの中に残っている。

 

離れてしまったからこそ、いちばん逃れられない距離になってしまった。

 

そんなことを、認めてしまうための言葉だった。

 

ルナは「残響」の最後の音を少し長く残した。

 

指先にも、知らないうちに力が入っていた。

 

サビに入った瞬間、感情が一歩前へ押し出されたような気がした。

 

そのストロークは、前よりも強かった。

 

胸の中の何かを無理やり開くように。

 

あなたは、一緒に東京へ行くと言ったのに。

 

その言葉を、ここにいない誰かへ向けて、そのまま歌ってしまいたかった。

 

次の瞬間、鋭い破裂音が地下道に響いた。

 

弦が切れた。

 

音が急に抜ける。

 

心臓が一拍、落ちたようだった。

 

ルナの手は宙に止まったままだった。

 

視線は、だらりとゆるんだ切れた弦に落ちている。

 

まるで、よく知っている誰かが目の前から急に消えたみたいだった。

 

二秒ほどして、ようやく我に返る。

 

顔が一気に熱くなった。

 

誰かに弱いところを見られたような気がした。

 

「……あ、どうしよう……切れちゃった……」

 

低くこぼれた声には、どうすればいいのかわからない戸惑いがにじんでいた。

 

胸の奥に、鈍い焦りが浮かんだ。

 

歌が途中で止まってしまったからではない。

 

失敗したことが恥ずかしかったからでもない。

 

ただ、思い出してしまったのだ。

 

昔なら、こういうことで自分が慌てる必要はなかった。

 

ユイなら、何でもないことのようにギターを受け取ってくれた。

 

弦を替え、チューニングをして、最後に少しだけ顔を上げる。

 

「はい、弾いてみて」

 

そう言って、全部を元の場所へ戻してくれた。

 

その一言は、昔はただの日常だった。

 

けれど今思い出すと、それはひとつの特権のようにも思えた。

 

今は、誰もギターを受け取ってくれない。

 

誰も、もう「はい」とは言ってくれない。

 

そのときになって、ルナはようやく気づいた。

 

この弦を張り替えたのは、一年以上前だった。

 

大事にしていなかったわけではない。

 

むしろ逆だった。

 

そういう細かくて面倒なことを、以前は誰かがちゃんと覚えていてくれたのだ。

 

自分は弾ける。

 

歌える。

 

曲を書くこともできる。

 

けれど、楽器にまつわる小さなことを、どれだけユイに任せていたのか。

 

そのことに、今さらみっともなく気づかされた。

 

いつも使っていた弦の種類さえ、一瞬すぐには思い出せなかった。

 

鈍い痛みが、胸の奥で少し深くなった。

 

それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 

ルナはその痛みを飲み込み、急いでギターを背負い直した。

 

しゃがんで紙袋を拾い、ケースを閉じる。

 

指先が少し乱れていて、ファスナーが一度、引っかかった。

 

最後に、彼女はほとんど縋るようにスマホを取り出した。

 

画面の上で、指を二度、三度と滑らせる。

 

地図の上に、ひとつの名前が浮かび上がった。

 

第五幕 白い鍵盤の向こう

 

ヤマハ銀座店のドアを押し開けた瞬間、空気の質が変わった。

 

静かで、清潔で、木と金属が混ざったような冷たい匂いがする。

 

まるで、高級な楽器そのものが呼吸しているみたいだった。

 

ルナはさっきまで、切れた弦のことで少し慌てていた。

 

けれど店内へ足を踏み入れた途端、その慌てた気持ちは、目の前の空間に先に押さえ込まれてしまった。

 

彼女は思わず足を遅くした。

 

靴底が床に触れる音まで、大きく立ててはいけないような気がした。

 

ここは、彼女が千曲や松本で見てきた楽器店とはまるで違っていた。

 

壁にギターが何本か掛かっていて、隅に楽譜が置かれているような小さな店ではない。

 

音楽というものを種類ごとに分けて、ひとつひとつ丁寧に収めた建物のようだった。

 

照明は明るいのに、まぶしくはない。

 

どの区画もきれいに整えられていて、展示されている楽器まで、それぞれに静かな性格を持っているように見えた。

 

ルナはその場で、思わず小さく息を吸った。

 

本当は、急いで弦を買って帰るだけのつもりだった。

 

けれど足を踏み入れた途端、整然と並ぶものたちに、歩く速さを少しずつ奪われていった。

 

最初に足が向いたのは、楽譜の棚だった。

 

長い棚が、静かに並んでいる。

 

厚いもの、薄いもの、新しいもの、古いもの。

 

ピアノ譜、ギター譜、声楽譜、編曲の本。

 

すべてがきちんと揃えられていた。

 

ルナはそっと手を伸ばし、表紙に触れた。

 

紙には乾いた手触りがあって、ここでは本をめくるという動作まで、どこかきちんとしたものに変わる気がした。

 

こんなにたくさんの楽譜を、一度に見たことはなかった。

 

学校で何度もめくられて角の丸くなった教材でもない。

 

鞄の中に雑に挟まれたコピー譜でもない。

 

本当に、ひとつの大きな世界が目の前に広がっているようだった。

 

ルナは棚の前に立ったまま、しばらく見入っていた。

 

中身の多くは、自分にはまだきっと読みきれない。

 

それでも、胸の奥に小さなうれしさが広がっていった。

 

少し進むと、ギターの区画があった。

 

アコースティックギターも、エレキギターも、一台一台が照明の下で静かに掛けられている。

 

木目は肌のように細かく、塗装された面は水のように澄んでいた。

 

ルナはゆっくり近づき、思わず何本も目で追ってしまった。

 

中には、練習のための道具というより、ガラスケースに飾られる作品みたいに美しいギターもあった。

 

ふと、自分が田舎から来た観光客みたいだと思った。

 

けれど、その感じは嫌ではなかった。

 

むしろ少し、自分で自分がおかしくなる。

 

ただ弦を買いに来ただけなのに、初めて都会の博物館に入ったみたいに、何もかもを見ていたくなる。

 

展示をゆっくり回りながら、ルナの足取りは軽く、目だけはずっと明るかった。

 

値札を見るたびに、こっそり息を止める。

 

ギターって、こんな値段にもなるんだ。

 

そんなことを思いながら、ようやく本来の目的を思い出した。

 

弦を買わなければならない。

 

アクセサリーの区画へ行くと、彼女の動きは少しだけ早くなった。

 

壁のラックには、整ったパッケージが一列ずつ掛けられている。

 

その眺めには、どこか安心感があった。

 

ようやく、自分の知っている場所へ戻ってきたような気がした。

 

ルナは前に立ち、ブランド名と型番を順番に見ていった。

 

指先で一つ一つ追いながら、しばらくして、いつも使っていたものを見つける。

 

その瞬間、はっきりと息が抜けた。

 

このきれいすぎる、別世界みたいな店の中で、やっと自分に属するものを見つけたような気がした。

 

彼女は弦のパッケージを手に取り、もう一度確認した。

 

それから、少しだけ安心したように笑った。

 

けれど、すぐには会計へ向かわなかった。

 

さっきから見てきたものへの新鮮な驚きが、まだ胸の中に残っていた。

 

せっかくここまで来たのに、このまま帰ってしまうのが、少し惜しい気もした。

 

ルナは弦を手にしたまま、もう少し奥へ歩いていった。

 

店内は、思っていたよりもずっと深かった。

 

さっきよりも静かな区画を抜け、やわらかい照明の展示空間を通り過ぎる。

 

また少し違う層へ入り込んでいくようだった。

 

ピアノの区画に近づいた、そのときだった。

 

遠くから、音が流れてきた。

 

ルナの足が、そこで止まった。

 

聴き慣れた旋律ではなかった。

 

ポップスでもない。

 

ロックでもない。

 

いつも自分がアコースティックギターを抱えて歌っているものとも違う。

 

その音は、端正で、清潔だった。

 

澄んだ水のようにまっすぐ流れていくのに、ところどころに言葉にならない憂いが沈んでいる。

 

歌詞はない。

 

それなのに、十本の指だけで何かをそっと空気の中へ置いていくような音だった。

 

ルナはその場から動けなかった。

 

手の中の弦のパッケージを、少し強く握っている。

 

プラスチックの端が、掌に軽く当たった。

 

けれど、もうそれどころではなかった。

 

そのピアノの音は、細く静かな糸みたいに、ゆっくりとルナを引き寄せていった。

 

音楽がこんなふうに存在するのだと、彼女は考えたこともなかった。

 

歌詞はいらない。

 

叫ぶ必要もない。

 

誰かと合わせる必要すらない。

 

ただ静かに流れてくるだけで、人をその場に立ち止まらせる。

 

胸の真ん中を、軽く押さえられるような感じがした。

 

ルナは顔を上げ、音のするほうを見た。

 

そして、ゆっくり歩き出した。

 

展示棚を曲がった先で、光の質が変わった。

 

ピアノの区画は、さっきまで歩いていた場所よりもさらに静かで、まるで別の世界だった。

 

天井から落ちる照明は、舞台の光みたいに澄んでいる。

 

その中央に、巨大な黒いグランドピアノが置かれていた。

 

艶やかな表面がやわらかな光を映し、底の見えない深い水のように見えた。

 

YAMAHA CFX。

 

ルナの視線は、ほとんどすぐにそのピアノへ吸い寄せられた。

 

こんなに大きなピアノを、彼女は見たことがなかった。

 

学校の音楽室にあった古いアップライトでもない。

 

旅館のロビーに、誰も触らない飾りみたいに置かれていたピアノでもない。

 

ただそこにあるだけで、人の呼吸を自然に静かにさせるような、重みと気配を持った楽器だった。

 

そして、そのピアノの前に座っている人物を見た瞬間、ルナの身体は固まった。

 

あの背中を、見間違えるはずがなかった。

 

黒い髪。

 

高い背。

 

まっすぐな姿勢。

 

座っていても、輪郭には近寄りがたい冷たさがあった。

 

心臓がぎゅっと縮む。

 

けれど、頭のほうは心臓より少し遅れて、目の前の光景を理解しようとしていた。

 

最後の和音が落ちたあとも、空気にはまだ、消えきらない震えが残っていた。

 

それは、ルナの知っているポップスの旋律ではなかった。

 

思いつきで弾かれた、ただきれいなフレーズでもない。

 

歌詞がないのに、過剰なほど整っていて、どこか高貴だった。

 

見えない線が何本も同時に進み、絡み合いながら、それでも一度もぶつからない。

 

そんな音だった。

 

少し離れたところに立っていた女性が、先に口を開いた。

 

黒いスーツのスカートは、身体の線に沿って無駄なく整っている。

 

背筋はまっすぐで、どの角度から見ても隙がなかった。

 

その美しさは、やわらかいものではない。

 

冷たく、清潔で、むやみに近づくことを許さない美しさだった。

 

言葉の端まで、きれいに整えられている。

 

「……若様、先ほどの演奏は、フーガのように聞こえました。バッハでいらっしゃいますか」

 

ルナには、その言葉の意味がすべてわかったわけではなかった。

 

けれど、外から来た人間の気軽な感想ではないことだけはわかった。

 

ピアノの前に座っている人物は、すぐには振り返らなかった。

 

ただ、鍵盤の上に残していた指先を見つめたまま、静かに目を伏せている。

 

「いや、バッハじゃない。今、インプロで思いついたものだ。フーガ風にはしたが、正式なフーガではない」

 

天気の話でもしているような、平らな声だった。

 

けれど、その一言が落ちた瞬間、対位法など何も知らないルナでさえ、本能的にわかった。

 

何かがおかしい。

 

うまい、というだけではない。

 

別の層にあるものだった。

 

香坂理沙は、すぐには言葉を返さなかった。

 

ただ、ごく浅く頭を下げる。

 

それはお世辞ではなかった。

 

むしろ、確認に近かった。

 

この人が常識の外側にいることを、彼女はもう知っている。

 

それでも目の前で見るたびに、また静かに思い知らされる。

 

そんな仕草だった。

 

そばにいた外国営業担当の男が、そこでようやく半歩前へ出た。

 

笑顔は職業的で、ほとんど隙がなかった。

 

けれどその整った笑みの奥に、隠しきれない震えが少し混じっている。

 

「九条様……音楽にまでそのような深い造詣をお持ちとは、存じ上げませんでした」

 

男は一度言葉を切った。

 

驚きをすばやく礼儀の中へ押し戻し、それから慎重に本題へ戻る。

 

「……もし差し支えなければ、この CFX の響きやタッチにつきまして、ご感触をお聞かせいただけますでしょうか」

 

「九条」という響きが耳に入った瞬間、ルナの心臓が強く跳ねた。

 

それが何を意味するのか、彼女にはわからない。

 

ただ、その呼び方は古風で、現実味が薄かった。

 

自分のような普通の人間の耳に入ってくるには、少し場違いな名前のように感じた。

 

ピアノの前にいたマヤは、もう立ち上がっていた。

 

その動きはきれいだった。

 

無駄な間も、余計なためらいもない。

 

彼は営業担当の男を見返すこともなく、ただそのグランドピアノを淡く一瞥した。

 

すでに結論の出たものを確認するような目だった。

 

そして、歩きながら言った。

 

「理沙、手配しておけ。これを青山の事務所に送らせろ」

 

声は平静だった。

 

迷う必要のない小さな用件を告げているだけのようだった。

 

けれどルナにもわかった。

 

それは、普通の人間が何気なく買うようなものではない。

 

香坂理沙は表情を変えず、すぐに頭を下げた。

 

「かしこまりました」

 

外国営業担当の笑みが、いっそう深くなる。

 

身体全体がさらに恭しくなり、失敗の許されない指示を受け止めているようだった。

 

ルナはその場に立ったまま、手の中の弦のパッケージを握りしめていた。

 

呼吸すら、少し重くしてはいけない気がした。

 

彼女は、ただ弦を買いに来ただけだった。

 

それなのに今、目の前には、即興でフーガ風のピアノを弾いてしまう人がいる。

 

この大きなグランドピアノを、歩きながら買うことを決める人がいる。

 

そして、その隣には、あれほど高貴で冷たいガラスみたいな女性が、何も言わずにすべてを処理するためについている。

 

その瞬間、ルナははっきりと感じた。

 

マヤのいる世界は、自分が普段触れている世界とは違う。

 

ただ、すごいのではない。

 

遠いのだ。

 

最初から、まったく違う高さに立っているみたいに遠い。

 

けれど、だからこそ、ルナの中で「また一歩遅れたら、今度も見失ってしまう」という感覚が急に重くなった。

 

Blue Note の夜、彼女は一歩遅れた。

 

今回も、ただ立ったまま見ているだけなら、また目の前で扉が閉じていくのを見送ることになる。

 

指先に力が入った。

 

弦のパッケージの角が、掌に軽く食い込む。

 

その小さな痛みが、ぼんやりしていた彼女を現実へ引き戻した。

 

第六幕 名刺の重さ

 

マヤたちが、ピアノの区画を離れようとしていた。

 

ルナはその場に立ったまま、手の中の弦のパッケージを握りしめていた。

 

呼吸すら、少し重くしてはいけない気がした。

 

彼女は、ただ弦を買いに来ただけだった。

 

それなのに今、目の前には、即興でフーガ風のピアノを弾いてしまう人がいる。

 

この大きなグランドピアノを、歩きながら買うことを決める人がいる。

 

そして、その隣には、あれほど高貴で、冷たいガラスみたいな女性が、何も言わずにすべてを処理するためについている。

 

その瞬間、ルナははっきりと感じた。

 

マヤのいる世界は、自分が普段触れている世界とは違う。

 

ただ、すごいのではない。

 

遠いのだ。

 

最初から、まったく違う高さに立っているみたいに遠い。

 

けれど、だからこそ、ルナの中で「また一歩遅れたら、今度も見失ってしまう」という感覚が、急に重くなった。

 

Blue Note の夜、彼女は一歩遅れた。

 

あのときは、ただ圧倒されていた。

 

あの舞台に。

 

あの技術に。

 

あの、冷たくて、どこか残酷なほど静かな顔に。

 

身体ごとその場に縫い止められて、ようやく勇気を出して近づいた頃には、自分の口から出た言葉の幼さに、自分でもあとから顔を覆いたくなった。

 

あの夜の失敗を、考えなかったわけではない。

 

ただ、ずっと思い出せないふりをしていただけだった。

 

けれど今、その感覚がまた戻ってきていた。

 

このまま何もせずに立っているだけなら。

 

ただ、あの背中が自分の前を通り過ぎていくのを見送るだけなら。

 

きっとまた、目の前で扉が閉じていく。

 

ルナの指に、無意識に力が入った。

 

弦のパッケージの角が、掌に軽く食い込む。

 

その小さな痛みが、ぼんやりしていた彼女を現実へ引き戻した。

 

彼女は、バンドを組みたいわけではなかった。

 

一足飛びに何かを手に入れたいわけでもない。

 

まして、相手がすごい人だからといって、そこへ近づいて光を分けてもらおうとしているわけでもなかった。

 

ただ、そのとき、はっきりわかってしまったのだ。

 

自分は、あまりにも弱い。

 

弦が切れただけで慌てる。

 

ずっと誰かに任せていたことを、その誰かがいなくなってから、やっと思い知る。

 

曲は書ける。

 

歌うこともできる。

 

ギターを抱えて、街の中でどうにか立っていることもできる。

 

けれど、楽器にまつわることの多くを、ルナはまだほとんど何も知らなかった。

 

何もかも、中途半端だった。

 

そして目の前の人は、あまりにも遠かった。

 

まるで、自分の知らない物差しで生きている人みたいだった。

 

だからこそ、初めて本気で知りたくなった。

 

自分は、いったい何が足りないのか。

 

喉が乾いていた。

 

心臓は、落ち着きなく跳ねている。

 

頭の中で、声がする。

 

やめたほうがいい。

 

恥をかくだけだ。

 

自分が何者だと思っているの。

 

けれど、その奥でもうひとつ、もっと小さく、しつこい声が残っていた。

 

ここまで来たんだから。

 

ルナは、強く息を吸った。

 

「あの……すみません、待ってください……!」

 

前を行く足音が止まった。

 

マヤが、わずかに顔を横へ向ける。

 

その視線が、ようやくルナに落ちた。

 

長い一瞬だった。

 

その目は、鋭いわけではない。

 

けれど静かで、何かを測っているようだった。

 

ルナは背筋まで固くなった。

 

肩にかけたギターが、急に重く感じられる。

 

声が震えすぎないように、必死で喉に力を入れた。

 

「私……バンドを組みたいわけじゃなくて……ただ……ギターを、教えてもらえませんか」

 

空気が、二秒ほど止まった。

 

マヤはすぐには答えなかった。

 

ただその場に立ち、静かにルナを見ている。

 

その目には、敵意はない。

 

責めるような色もない。

 

けれど、あまりに平らだった。

 

だからこそ、何を考えているのかわからない。

 

ルナの言葉は「いい」か「だめ」かのどちらかに落ちる前に、もっと高く、もっと冷静な場所へいったん置かれて、重さを測られているようだった。

 

ルナは、ほとんど息ができなかった。

 

言ってしまった。

 

しかも、こんな言い方で。

 

バンドを組みたいわけじゃない。

 

ただ、ギターを教えてほしい。

 

それは、あまりに幼稚に聞こえただろうか。

 

あまりに甘くて、何もわかっていない人間の言葉に聞こえただろうか。

 

けれど、もう引き返せなかった。

 

口にしてしまった以上、彼女はその場に立ったまま、数秒の沈黙が自分の心拍を少しずつ引き延ばしていくのを、ただ耐えるしかなかった。

 

やがて、マヤの視線がごく淡く横へ動いた。

 

香坂理沙へ。

 

ほんの短い一瞥だった。

 

もし少し離れた場所にいたなら、偶然目線が流れただけに見えたかもしれない。

 

けれど理沙は、その一瞬で、彼の意図をすべて受け取ったようだった。

 

彼女が、半歩前へ出る。

 

動きには、余計なものがひとつもなかった。

 

その場で考えて動いたというより、そうすることが最初から決まっていたかのような滑らかさだった。

 

理沙は黒いジャケットの内側から、一枚の名刺を取り出した。

 

二本の指でそれを持ち、正面をルナへ向ける。

 

差し出す角度。

 

止める位置。

 

手首の、ごくわずかな抑制。

 

そのすべてが、冷たく見えるほど正確だった。

 

それから、理沙はルナを見た。

 

その目は相変わらず静かだった。

 

慰めるわけでもない。

 

上から憐れむわけでもない。

 

ただ、一本の道を、清潔な手つきで彼女の前に置くようだった。

 

「月村様。こちらへご連絡くださいませ」

 

その瞬間、ルナはすぐには手を伸ばせなかった。

 

固まってしまった。

 

名刺そのものに驚いたのではない。

 

「月村様」という響きに、反応が遅れたのだ。

 

Blue Note の夜、彼女は一度だけ、ひどく緊張したまま自分の名前を名乗った。

 

あの場では、声だってちゃんと出ていたかどうか怪しかった。

 

それなのに、この人は覚えている。

 

しかも、正確に。

 

あの夜の出来事が、ひとつ残らず、彼女の中のどこか失敗しない場所に収められていたみたいだった。

 

理沙の手は、半空で止まったままだった。

 

催促もしない。

 

引っ込めもしない。

 

その静かな待ち方に促されるように、ルナはようやく我に返り、慌てて手を伸ばした。

 

名刺を受け取る。

 

紙の縁に指先が触れた瞬間、呼吸が少し乱れた。

 

それは、普通の印刷店で作るような、やわらかい名刺ではなかった。

 

硬い。

 

端がきれいに立っている。

 

触れた指先に、ほんの少し冷たささえ感じる。

 

この小さな紙片まで、自分には届かない世界のもののようだった。

 

ルナは、ゆっくりと視線を落とした。

 

最初に目に入ったのは、名前ではなかった。

 

そこに印刷されていた一行を見た瞬間、頭の中が半秒ほど空白になる。

 

九条M&A事務管理室

 

ルナは、息を止めた。

 

M&A が何なのか、彼女にはうまく説明できない。

 

ニュースの字幕で見たことがある気もする。

 

電車広告やビジネス誌の見出しで、何度か目にしたことがある気もする。

 

そのアルファベットが本当は何を意味しているのかはわからない。

 

けれど、「事務管理室」という言葉と並んだだけで、それはもう明らかに、彼女の知らない大人の世界の匂いをまとっていた。

 

音楽教室ではない。

 

バンドの事務所でもない。

 

どこかのライブハウスの連絡先でもない。

 

もっと硬くて、高くて、ガラスの向こう側にある会議室みたいな場所。

 

ルナが普段触れているものとは、まるで関係のない世界だった。

 

そして、ようやく名前が目に入った。

 

KUJO MAYA

 

その瞬間、彼女がずっと「マヤ」と呼んでいた人物が、急に現実の中へ押し込まれたような気がした。

 

Blue Note で外国人のミュージシャンたちが呼んでいた、軽い響きの Maya ではない。

 

ステージの上にいて、遠すぎて、幻みたいで、振り返ることなどないように見えた人でもない。

 

名刺に印刷される名前を持ち、誰かに「九条様」と恭しく呼ばれる人間。

 

それが、今、自分の手の中にあった。

 

ルナはその姓を見つめたまま、胸の奥が重く沈むのを感じた。

 

九条。

 

時代劇に出てきてもおかしくないような、古い響きの姓だった。

 

歴史の教科書の中にあるような、血筋や距離を思わせる名前だった。

 

自分とは、何の関係もないはずの言葉。

 

けれどその姓は、冷たい現代の記号である「M&A」と、同じ小さな紙の上に並んでいた。

 

古いものと、冷たいほど新しいものが、一枚の名刺の上で不自然に並んでいるようだった。

 

ルナは、ほとんど本能的に、小さくその名を口にした。

 

「……くじょう……」

 

声に出した瞬間、自分でも少しおかしいと思った。

 

自分はただ、半地下の通路で歌っていた人間だ。

 

弦が切れただけで慌てて、生活だって、いつもどこかで少しずつ乱れている。

 

政治も、経済も、権力も知らない。

 

この姓の背後に何があるのかも、本当は何もわかっていない。

 

ただ、その二文字に重さがあることだけはわかった。

 

自分の掌に落ちてくるには、重すぎる名前だった。

 

ルナは名刺を、そっと財布のいちばん内側へしまった。

 

薄いけれど、どこか危うい未来を、そこへ折り込むように。

 

第七幕 遠い名と近い声

 

ヤマハ銀座店を出たとき、外の光は、もうさっきほど白くなかった。

 

銀座の街並みは、夕方の光にゆっくりと冷たい金色を帯びていた。

 

ショーウィンドウはまだ明るく、通りを行く人たちには、昼間より少しだけ仕事帰りのせわしなさが混じっている。

 

ルナはその場に立ったまま、初めて、自分がこの街にほんの少し触れられたような気がした。

 

押し返されたのではない。

 

ほんの短いあいだ、入口をひとつ見せられたような気がした。

 

しばらくその場に立っていたあと、ルナははっとしたように鞄へ手を入れ、スマホを取り出した。

 

こういうとき、最初に思い浮かんだのは、なぜかメイだった。

 

メイがいちばん冷静だからではない。

 

むしろ、その逆だった。

 

きっと冷静ではいてくれない。

 

だからこそ、今すぐ声を聞きたかった。

 

この出来事を口に出したら、少しは本当に起きたことのように思えるかもしれない。

 

電話は、何度か鳴ってからつながった。

 

最初に聞こえてきたのは、人の声ではなかった。

 

ゲームの戦闘音。

 

剣が何かに当たる軽い音。

 

その奥に、少しだけ流れているBGM。

 

練習を終えて、シャワーも浴びて、身体中の力を抜いてからでないと出てこないような、だらけた時間の音だった。

 

それからようやく、メイの声がした。

 

片手間に電話へ出ているのが、声だけでわかる。

 

「もしもしー? なんやねん、今。こっちはゼルダのラスダン手前なんやけど」

 

ルナは口を開いた。

 

けれど、一瞬、どこから話せばいいのかわからなかった。

 

銀座の街角に立ったまま、手には買ったばかりの本と弦がある。

 

胸の中には、説明しきれないものがまるごと詰まっていた。

 

結局、最初に出てきたのは、ひどく頼りない呼びかけだけだった。

 

「……メイ」

 

その声だけで、電話の向こうが一拍止まった。

 

次の瞬間、メイの声が少しだけ真面目になる。

 

「……なんや。どないしたん。声、変やで」

 

ルナは息を吸った。

 

「今日……銀座のヤマハで、マヤさんに会ったの」

 

電話の向こうが、二秒ほど静かになった。

 

次の瞬間、ゲームの中で何かが攻撃を受けた音がした。

 

そして、メイの声が爆発した。

 

「はぁぁ!? ほんまに!? なんでそんなイベント、勝手に発生してんねん!?」

 

ルナはその声に驚いて、思わずスマホを耳から少し離しかけた。

 

慌てて、小さく付け足す。

 

「ち、違うの。もともとは弦が切れて、買いに行っただけで……」

 

メイは、ルナの説明などまったく聞いていなかった。

 

声だけが、もう一段上がる。

 

「待って待って。銀座のヤマハで!? で、マヤに会ったん!?」

 

ルナは小さく返事をした。

 

「……うん」

 

メイの声が、さらに高くなった。

 

「は!? なんなん今日。運、ぜんぶそっち行っとるやん!」

 

ルナは少し迷った。

 

それでも、いちばん大事なところを言わないわけにはいかなかった。

 

「それで……私、呼び止めちゃった」

 

電話の向こうが、今度は一瞬で静かになった。

 

半秒ほどして、メイが一語ずつ区切るように聞いた。

 

「……あんた。呼び止めて。何言うたん」

 

ルナの話す速度が、すぐに乱れた。

 

「ギターを……教えてもらえませんか、って……」

 

今度は、ゲームの音まで止まった。

 

次の瞬間、メイは喉の奥から、ほとんど裏返ったような声を出した。

 

「はぁぁぁぁ!? 何それ、ほぼ弟子入りやん!!」

 

ルナは固まった。

 

「……え?」

 

メイの声は、さっきよりも確信に満ちていた。

 

「いや、聞きぃや。マヤみたいな人が『あとで連絡して』ってなるんは、普通の『レッスンしましょか』ちゃうねん。そんなん、ほぼ『弟子にしたる』って空気やで」

 

ルナの耳が、一気に熱くなった。

 

「そんな大げさじゃないよ……名刺をくれただけだし……」

 

メイは即座に遮った。

 

「何が『だけ』やねん! ああいう人って、そもそも普通は人のことなんか見いひんねんで? それをあんたが呼び止めて、ちゃんと反応して、しかも名刺まで渡したって……それ、全然普通ちゃうやろ!」

 

ルナはさらに慌てた。

 

スマホを握る手に、少し力が入る。

 

「でも……その名刺が、ちょっと変で……」

 

メイの声が止まった。

 

「変って、どこがやねん」

 

ルナは財布から名刺をもう一度取り出し、低く目を落とした。

 

「バンドの事務所とかじゃなくて……『九条M&A事務管理室』って書いてあるの」

 

電話の向こうが、一秒止まった。

 

それから、メイの声が妙に低くなる。

 

「……は?」

 

ルナは小さく付け足した。

 

「名前は……KUJO MAYA」

 

今度の沈黙は、さっきより長かった。

 

やがてメイが、ゆっくり口を開いた。

 

その声には、驚きを押さえきれていない響きがあった。

 

「九条……?」

 

彼女は、口の中でもう一度その名前を転がしたようだった。

 

それから、いかにもメイらしい一言が飛び出す。

 

「なんやその名字。歴史の教科書からそのまま出てきたみたいやん……」

 

ルナは、まだ緊張していたはずなのに、その言い方に少しだけ笑いそうになった。

 

けれど、本当に笑う前に、電話の向こうで大きな物音がした。

 

コントローラーが投げ出される音。

 

椅子に何かがぶつかる音。

 

メイの声は遠くなったり近くなったりして、どうやら彼女がゲームの前から跳ね起きたことがわかった。

 

「ちょっ、待って。あんた今どこおるん!?」

 

ルナは驚いた。

 

「え?」

 

メイがそのまま叫ぶ。

 

「え? ちゃうわ! 今どこやって聞いとんねん! そこ動いたらあかんで! じっとしとき! ウチ今から行く!!」

 

ルナが「大丈夫」と言うより先に、電話の向こうで騒ぎが始まった。

 

コントローラーが雑に置かれ、プラスチックが机の角に当たる。

 

少し可哀想なくらい乾いた音だった。

 

椅子の脚が床をこする音。

 

引き出しが開く音。

 

鍵と小銭がぶつかり合う細かな音。

 

全部が、電話の向こうで一気に混ざった。

 

メイは息を乱しながら何かを探している。

 

その背景では、ゲーム画面が止まっていないらしく、やけに悲壮な戦闘音だけが流れ続けていた。

 

リンクだけが置き去りにされて、敵に囲まれているみたいだった。

 

ルナには、その光景がほとんど見えるようだった。

 

さっきまでメイは、画面の前であぐらをかいて、今日は誰にも邪魔させへん、という顔をしていたに違いない。

 

それが今は、雷に打たれたみたいに立ち上がり、部屋中をばたばた走り回っている。

 

ルナはスマホを耳に近づけ、小さく言った。

 

「え、ちょっと、ほんとに来るの……?」

 

メイは一秒も迷わなかった。

 

「当たり前やろ! こんなん聞いて、家でじっとゲームしてられるかいな!」

 

次の瞬間、何かを見つけたらしく、声に少しだけ勝利の色が混じった。

 

「……あった! ヘルメット!」

 

続いて、また別の物音がした。

 

ファスナーの音。

 

布がこすれる音。

 

たぶん、片手で無理やり上着を引っ張り出して着ている。

 

その動きの速さは、朝になると布団の中から「あと五分」と言ういつものメイとは、とても同じ人間とは思えなかった。

 

電話の声が、少し遠ざかった。

 

それからルナは、急いだ足音を聞いた。

 

木の床から階段へ、どんどん下りていく音。

 

その音があまりに現実的で、ルナの心は、さっきまで浮いていた場所から少しずつ戻ってきた。

 

そのとき、別の声が割り込んできた。

 

伸夫だった。

 

背景には、湯が沸く音がしている。

 

金属の鍋ぶたが、軽く当たる音も聞こえた。

 

今日は、彼の家のラーメン店が休みの日だった。

 

店は開いておらず、彼も珍しく早めに部屋へ戻っていたのだろう。

 

練習が終わって腹が減り、台所に立って夜食を作っていたらしい。

 

ついでにメイの分も茹でていたのだと思う。

 

「おい、メイ? どこ行くんだよ急に!」

 

メイは、明らかに止まっていない。

 

返事も走りながらだった。

 

「ルナんとこ行ってくる! ラーメン、先に食べといて!」

 

電話の向こうが、一秒だけ静かになる。

 

次に聞こえた伸夫の声は、完全に呆れていた。

 

「はぁ!? こっち二人分茹でたんだけど!?」

 

メイの返事は、ほとんど考えていなかった。

 

「ほな、もう一杯茹でといて! すぐ戻るし!」

 

銀座の街角に立ったまま、ルナは電話の向こうのめちゃくちゃな騒ぎを聞いて、とうとう笑ってしまった。

 

さっきまでヤマハの中にあった、静かで、高級で、現実離れした空気。

 

その圧迫感が、メイの電話ひとつでいきなり砕けた気がした。

 

バッハ。

 

即興のフーガ。

 

CFX。

 

九条M&A事務管理室。

 

香坂理沙の、冷たいガラスみたいな目。

 

それらはまだ、胸の中で熱を持っている。

 

それなのに電話の向こうでは、ゲームを放り出し、ラーメンを放り出し、夜の流れを全部めちゃくちゃにして、スリッパのままヘルメットを探している人がいる。

 

八王子から、今すぐこちらへ向かおうとしている人がいる。

 

この世界は、本当に変だ。

 

けれど、だからこそ、自分はまだ置いていかれていないのだと思えた。

 

ルナはスマホを耳に当てたまま、笑いの残った声で言った。

 

「……でも、ほんとに大丈夫だよ。もう名刺ももらったし、今日は帰ろうかなって……」

 

メイはすぐに遮った。

 

「アホか! そういう日は一人で帰ったらあかんねん!」

 

あまりにも早く、あまりにも当然のように言う。

 

まるで、自分が特別なことを言っているとは少しも思っていない声だった。

 

ルナは、そこでふっと黙った。

 

銀座の街角から風が吹いて、前髪を少しだけ揺らす。

 

彼女は手元の紙袋を見下ろした。

 

もう片方の手には、買ったばかりの弦がある。

 

不意に、鼻の奥が少しだけ痛くなった。

 

泣きたい痛みではなかった。

 

胸の中でずっと固くなっていた場所が、ようやく少しだけほどけるような感覚だった。

 

メイは電話の向こうで、まだ息を切らしながら歩いている。

 

たぶん、もうヘルメットと鍵を持って、階段を下りているのだろう。

 

声は相変わらず、少し乱暴だった。

 

「とにかく、そこから動かんといて。コンビニでも何でもええから、明るいとこで待っとき。着いたらまた電話する」

 

ルナは、今度は「大丈夫」と言わなかった。

 

ただ、小さく返事をした。

 

「……うん」

 

電話が切れると、銀座の風がまた戻ってきた。

 

けれど今度は、その風がさっきほど冷たく感じられなかった。

 

ルナはその場に立ち、暗くなったスマホの画面を見下ろしていた。

 

数秒してから、ゆっくりと鞄へ戻す。

 

ヤマハの中で、彼女は初めて、マヤとの距離をはっきり知った。

 

努力すればすぐに届くとか、もう少し勇気を出せば越えられるとか、そういう距離ではなかった。

 

秘書ひとりでさえ、近づきがたいほど美しく、冷たく、整っている。

 

グランドピアノを買うことすら、呼吸のように自然に決めてしまう。

 

そんな世界だった。

 

ルナはその入口に立って、あまりに強い光に、目を開けていられなくなりそうだった。

 

けれど、そのいちばん現実味のない、夢みたいな瞬間に、別の誰かがいた。

 

たった一本の電話で、ゲームを放り出す人。

 

ラーメンを放り出す人。

 

自分の夜の予定をぐちゃぐちゃにして、八王子からバイクで駆けつけようとしてくれる人。

 

その感じは、少し変だった。

 

でも、温かかった。

 

世界が高くて冷たい手で彼女を驚かせた次の瞬間、別の誰かが、うるさくて、不器用で、やけに熱い手で、彼女を受け止めてくれたようだった。

 

ルナは財布の中の名刺を、指でそっと押さえた。

 

そして、初めてはっきりと思った。

 

今日は、悪い日ではなかったのかもしれない。

 

ただ、大きすぎただけだ。

 

一人では、まだ受け止めきれなかっただけだ。

 

だから、誰かが来てくれることが、こんなにもありがたかった。

 

――ユラのノート・後記――

 

ルナは後になって、私にこう話してくれた。

 

あの夜、本当に忘れられなかったのは、銀座の光でも、マヤから受け取った名刺でもなかったのだと。

 

あれほど遠い人を見たあとで、あれほど遠い世界に触れたあとで、それでも自分には、帰っていける場所があった。

 

そのことだったのだと。

 

銀座の夕方は、きれいすぎたらしい。

 

きれいすぎて、ほとんど冷たかった。

 

あのピアノ。

 

あの即興。

 

この時代のものとは思えないほど古い響きの姓。

 

そして、香坂理沙という人の、呼吸まで訓練されているような美しさ。

 

それら全部が、ルナに初めて教えたのだと思う。

 

世界には、本当に手の届かないほど高い場所があるのだと。

 

けれど、その場所があまりにも高く、冷たく、夢のようだったからこそ、あとで食べた一杯のラーメンは、ひどく現実の味がした。

 

ルナは、昔の自分は「東京に受け入れられる」ということを、もっと大げさなものだと思っていたと言った。

 

誰かに見つけてもらうこと。

 

いつか、どこかのステージに立つこと。

 

まぶしすぎる場所へ入っても、もう場違いだと思わなくなること。

 

そんなことだと思っていた。

 

けれど、あの夜に少しわかったのだという。

 

人を東京に留めるものは、いつも高い場所にある瞬間だけではない。

 

そういう瞬間に圧倒されて、自分の足で立っていることさえわからなくなりそうなとき。

 

遠くから誰かが来てくれること。

 

一杯のラーメンを残してくれること。

 

座る場所を空けてくれること。

 

息を整える時間を、何も言わずにくれること。

 

そういうものなのかもしれない、と。

 

私は、その話をしていたときのルナの表情をよく覚えている。

 

笑っているわけではなかった。

 

泣きそうだったわけでもない。

 

ただ、静かにこう言った。

 

「その日、初めて思ったの。東京にも、帰れる場所があるんだって」

 

私は思う。

 

あの夜、本当に大事だったのは、マヤが名刺を渡したことではなかった。

 

運命が、ようやく彼女に小さな隙間を開けたことでもなかった。

 

その日、東京は初めて、ルナをその場に置き去りにしなかった。

 

ちゃんと、彼女を受け止めてくれる人たちのところへ渡したのだ。

 

第三話「東京無赦(上編)」つづく


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

 

第三話は少し長くなったため、上編・下編に分けています。

 

上編では、ルナがプロの世界に圧倒されながらも、その裏側にある人間らしさに触れるところまでを描きました。

 

次回、第三話・下編へ続きます。

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