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《LUNAR EXIT 第二話:リセットの夜――神域へのチケット》

彼女はついに、東京で自分の居場所を見つけた。


カフェの屋根裏部屋で過ごす夜は、この大きな街の喧騒から少しだけ切り離された、束の間の静けさだった。


かすかに残るコーヒーの香り。

清潔な寝具の肌触り。

そして、階下に誰かの気配があるという安心感。


それらは、疲れきっていた彼女の心を静かに支え、「もう一人ではない」という小さな確信を与えてくれていた。

第一幕・風鈴珈琲の朝

朝の光が、木枠の小さな窓から斜めに差し込んでいた。簡素な屋根裏部屋の中で、埃だけが光の筋に浮かび、音もなく漂っている。ルナはふと目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。


そこにあるのは、シンプルなシングルベッド、一本の古いギター、そして使い古されたバックパックだけだった。数日前、ネットカフェで丸くなり、機械的な冷房の音と他人のいびきの中で眠っていた時と比べ、ここは静かで、心が落ち着いた。東京でも、目を閉じていい場所があるのだと、彼女は初めて思った。


彼女は起き上がり、枕元にあるギターに触れ、壁の隅に貼られた「風鈴珈琲」の勤務時間表に目をやった。


窓の外からは、電車の轟音、歩道の慌ただしい足音、バイクの長いエンジン音が聞こえてくる。そのどれもが松本の音とはまるで違っていたが、彼女は恐れていない。むしろ、新しい生活の始まりだと感じていた。


彼女が階下の店へ続く扉を開けると、焼き菓子の香りと、木の温もりを含んだ空気が彼女を迎えた。カウンターの奥で、橘さんがカップを拭く手を止め、微笑んで頷いた。


挿絵(By みてみん)


ルナは静かに「おはようございます」と挨拶した。


橘さんは手にしていた布を置き、穏やかに尋ねた。「おはよう。昨夜はよく眠れた?」


ルナは頷き、声は穏やかだったが、そこには確かな安堵があった。「はい。とても静かで、ぐっすり眠れました。」


「なら、よかった」橘さんはカップを棚に戻し、どこか見透かしたような眼差しで言った。「約束の時間より早いね。待ちきれなかった、ってところかな?」


ルナはカウンターに視線を向け、静かに応じた。「ここにいると、すごく落ち着くんです。」


挿絵(By みてみん)


橘さんは多くを語らず、カウンターの下から真新しいエプロンを取り出して彼女に手渡した。その声には、穏やかな導きがあった。「さあ、着て。まずは掃除から。この店の隅々まで、お客様への心遣いだからね。」

開店前の三十分は、歌詞のない序曲のように過ぎていった。


ルナはテーブルを拭き、昨夜乾かした食器を片付ける。グラス同士が触れ合い、小気味よい澄んだ音を立てる。彼女は、濡れ布巾でまず円を描き、それから木目に沿って拭き伸ばすやり方を習い、テーブルに水滴一つ残さないようにした。黒板メニューのチョークの文字を、白く書き足していく。書くとき、腕に少し力が入るが、最後の払いまで注意を払った。



橘さんは急かさず、ただ彼女の動きが速すぎるときに、そっと一言言うだけだった。「ゆっくりね。手の動きが呼吸についていくように。」


豆を挽く音は、猫が喉を鳴らすように低く、やわらかかった。挽き具合を少しずつ調整するだけで、粉の質感が変わる。

橘さんは秤の使い方を実演した。「18グラム。湯温は92度。時間は28秒から35秒を目標に。口当たりが変わるから、自分で覚えておいて。」


ルナは数字を小さなメモ帳に書き込み、その横にエチオピア・イルガチェフェとマンデリンの二つの小さな豆の絵を描き、異なる線で囲んだ――フルーティー、フローラル、ブライト。/ウッディ、スモーキー、ヘビー。彼女は缶の蓋を開け、本当に一粒ずつ香りを嗅ぎ、鼻腔の中でその「澄んだ香り」と「重厚な香り」を区別できるようになるまで続けた。


入口の風鈴が初めて鳴った。まるで誰かが一日の始まりを告げる合図のようだった。

最初に入ってきたのは年配の常連客。グレーのソフト帽に、ダークブルーのツイードのコートを着た、足取りのしっかりした男性だった。彼はまず鼻で空気中の香りを一通り探し、それからルナを見て笑った。

「新入りだね?見かけない顔だ。」


彼は顔を橘さんの方に向け、尋ねた。「いつもいる小柄な娘さんは?」


橘さんはカップを置いた。

「美優ね。大学を卒業して、名古屋に帰ったよ」


老紳士は小さくため息をつき、また笑った。「人生なんて、こんなものさ。でも、この新しい娘さんも、元気そうだ。」


ルナは慌ててお辞儀をし、その笑顔は少しぎこちなかった。老紳士はマンデリンのハンドドリップを、砂糖もミルクもなしで注文した。


ルナは教わった通り、湯の流し方と時間を守り、初めてカップをトレイに乗せて出した時、手が少し震えた。老紳士はそれを持ち上げ、まず香りを嗅ぎ、それから一口啜る。眉間の皺がゆっくりと緩んでいった。

「うん。」


彼は余計な言葉を言わなかったが、その「うん」という一言は、彼女に小さな合格印を与えたようだった。


正午近くになると、市場帰りらしき二人の奥さんが、野菜カゴを提げて入ってきた。洗いたての葉物野菜の湿気と、ビニール袋の擦れる音がする。


「今日の豚ロース、良かったわね。角煮にしてもいいし、炒め物でもいけそう」


もう一人の女性が、笑って言葉を継いだ。「うちの旦那は角煮が好きでね。年を取ると、歯が弱くなるから、柔らかいものがいいんだって。」


彼女たちはブラックコーヒーを二杯、ホットで、砂糖もミルクもなしで注文した。


ルナは素早く頷き、テーブルに運ぶ際、皿が音を立てないように注意した。二人の奥さんは、どのスーパーで豚ロースが特売だったか、近所の猫がまた掲示板に飛び乗った、といった他愛ない話をしている――ルナは思わず笑みがこぼれた。こうした些細な出来事が、この店を温かいリビングルームのように感じさせた。


入口の風鈴が再び鳴り、ベビーカーを押した若い母親が入ってきた。若い母親は少し申し訳なさそうだ。

「デカフェのラテをお願いできますか?授乳中で。」


橘さんがルナに視線を送りつつ、「もちろんです。あなたがやって」と応じた。


ルナはデカフェの豆をサブのミルに注いだ。挽く音は少し控えめだ。ミルクの温度は、熱すぎず、口に優しい程度に調整した。彼女はしっかりと蓋をし、別に子供用に小さなカップの温かいミルクを用意した――砂糖は入れず、カップの縁にだけスマイルマークのシールを貼った。


挿絵(By みてみん)


若い母親は感謝した。「すごく気が利くわね。」


ルナの胸が小さく跳ねたが、ただ微笑んで言った。「ゆっくり飲んでくださいね。熱いうちに。」

若いカップルが手をつないで入ってきた。「今日の苺のロールケーキはありますか?」

橘さんが答えた。「はい、ありますよ。近所のケーキ屋さんのもので、今朝届いたばかりです。」

二人はラテを二杯と、ロールケーキを一つ注文した。


ルナは、彼らがケーキを分け合うためのナイフの跡をこっそり見ていた――彼がうっかり切り損ねると、彼女は笑いながら、大きい方のピースを彼の皿へ押しやっていた。


彼女はふと、ずっと前にギターを習っていた時、ユイ(YUI)がコードを間違えた時に見せた、あの笑みを思い出した。責めることなく、ただそっとリズムを元に戻してくれた。その思いは、胸の中で氷が一粒溶けるように、痕跡を残さず、しかし、心のどこかを静かに洗い清めた。


他にも、ノートPCのバッグを背負い、テーブルいっぱいに付箋を広げたフリーランスらしい客がいた。

「今日のシングルオリジン、どれがおすすめですか?」


ルナは息を吸い込み、午前中に頭の中で覚えた香りを自分の言葉に変えてみた。「もし、すっきりしたものがお好みでしたら、イルガチェフェが良いかと思います。柑橘系のフルーティーさとフローラルな香りがあります。重めがお好きでしたら、マンデリンを。ウッディで、少しスモーキーな感じになります。」

彼はイルガチェフェを選んだ。


彼女がコーヒーを淹れている間、彼はキーボードを叩きながら、時折目を上げて湯の流れを見ていた。彼女がカップを置くと、フリーランスは「サンキュー」と言った。店員に対してではなく、まるで仲間にかけるような言葉だった。その一言が、ルナの心の中で小さく光った。


正午を過ぎると、テイクアウトの注文が立て続けに入った。制服を着た配達員がドアを押して入ってきたが、まだ息が整っていない。


「テイクアウトのラテ二杯、番号は八番です。」彼はスマホを掲げ、伝票を確認してもらった。

ルナの動作が速くなる。エスプレッソ抽出、ミルクのスチーム、蓋の取り付け、カップスリーブを被せ、ラベルを貼る。温度がテイクアウトに適していることを確認し、遅延やこぼれを防ぐためにラテアートはしない。彼女はドリンクをテイクアウト用ラックに置き、番号をはっきりと告げた。


配達員はそれを受け取る際、「急いでいるが、これで安心」という表情を見せ、足早に去っていった。風鈴が彼の後ろで二度揺れ、その音は澄んで短かった。


午後、太陽の光が側面の窓から斜めに差し込み、橘さんはいくつかの豆のキャニスターを並べた。

「もう一度、匂いを嗅いでみて。目を閉じて。」


ルナは言われた通りに目を閉じた。フルーティーな香りは、明るい黄色の円、ウッディな香りは、濃い色の板のように。彼女は、そういった少し不器用なやり方で、頭の中に印を付けていった。


「覚えるのは、お客様に説明するためじゃない。あなた自身が、軸を持つためだよ。」


彼女は頷いた。「軸を持つ」というその言葉が、歌う時の息遣いと同じくらい重要だと感じた。


彼女はまた、スチームノズルの音を真似てみた。穴が浅すぎると甲高くなり、深すぎるとこもる。正しい音は、静かな口笛のように聞こえる。彼女は何度も、ミルクをぬるめに熱し、手のひらで金属の温度を感じ取りながら、「もう少し」と「これで十分」の間で止めることを学んだ。橘さんは時折、彼女の手首をそっと支える。力は強くないが、その瞬間、彼女の動作は安定した。


店内のコルクボードには、店員や常連客との集合写真が何枚か貼られていた。一番上には、少し黄ばんだ写真が貼られており、「美優—卒業おめでとう、いってらっしゃい」と書かれていた。とても綺麗な字だ。ルナは二秒間それを見て、視線を自分の小さなメモ帳に戻した。彼女は余白に、とても小さな文字で一行書き込んだ。「今日の最初の一つは、自分へのいいね。」


挿絵(By みてみん)


夕暮れが近づいた頃、いつものおばさんがホットカプチーノを注文した――テイクアウトではない。ルナは一度試してみようと思った。


彼女はミルクを絹のように滑らかにし、ゆっくりと中心に注ぎ入れる。手首はわずかに震えるが、心の中で拍子を取り、自分を落ち着かせた。


カップの表面に、小さなハートが浮かび上がった。両側が少し不揃いだが、輪郭は整っている。彼女はそれを運び出すとき、大きな笑みではなく、口元にごく小さな微笑みを浮かべるだけだった。


女性は一口飲むと、目を上げ、親指を立ててみせた。ルナはその仕草を心に刻み込んだ。それは、どんな言葉よりも長く心に残るものだった。


夕焼けが店内を温かく染め、テーブルの反射が薄い砂糖衣のようだった。都市の音は外で鳴り続けているが、店内はまるで小さな避難所のように、人々の呼吸を少しゆっくりにさせた。


六時半、最後の客が店を出た。橘さんは札を裏返し、「CLOSED」にした。彼女は布巾を絞り、尋ねた。


「今日はここまで。まだ元気がありそうだけど、この後は何か予定がある?」


その一言は、軽くノックするようで、敷居の向こうの世界を一歩前に進ませた。


ルナはギターストラップを背負い、話す時の目はまるで磨かれたように輝いていた。「代々木公園で少し練習して、夜は友達のライブを見に行くつもりです。」


「情熱があるのは良いことだ。夜道には気をつけなさい。」


「はい、ありがとうございます。」


挿絵(By みてみん)


ルナは深々とお辞儀をし、店の光と香りを背後に残して、ドアを押して出た。角の風は少し冷たかったが、彼女の体は温かい。空は夕焼けに染まり、まるで誰かが手のひらで雲をそっと撫でたかのようだ。彼女は前へ歩いた。その一歩一歩が、次の一歩を少しずつ支えているようだった。


(ユラのノート・あとがき)

彼女はその小さなメモ帳を、後で私に見せてくれたことがある。隅に書かれたあの小さな文字――「今日の最初の一つは、自分へのいいね」――それは、彼女が東京で書き残した、最初のお祝いの言葉だった。

彼女は、初日に最も重要だったのは、いくら稼いだかではなく、手をしっかりと置ける場所を見つけることだった、と言っていたのを覚えている。今でも彼女は、あの頃の話をする時、店主を「橘さん」と呼ぶ。一方、近所の人たちは彼女を「風鈴さん」と呼んでいた。どちらの呼び方も正しいと思う。一方には敬意があり、もう一方には帰属の感覚があった。


私はというと、あの空の部屋のポラロイド写真を本の間に挟んでいる。うっかり落ちるたびに、彼女が初めて安らかに眠ったあの朝のことを思い出す。それは物語のクライマックスではなかったけれど、私たちのすべての始まりの中で、最も静かで、最も必要な瞬間だった。


________________________________________


第二幕・黄昏の不協和音


夕暮れ時、代々木公園の芝生は、夕陽に染められ、温かいオレンジ色に輝いていた。


ルナはギターを背負い、慣れた足取りでいつもの練習場所へと向かい、アコースティックギターと、小銭入れ代わりの帽子を置いた。彼女は深呼吸をし、座って、弾き語りを始めた。


挿絵(By みてみん)


彼女の歌声とアコースティックギターの弦を弾く音は、アンプを使わず、生音だけで夕暮れの中に響き渡った。歌声にはまだ未熟さが残り、息遣いも不安定だが、メロディの中にある不安と頑なさが、まるで雑草のように夜の闇に強くぶつかっていった。何人かの通りすがりの人々が足を止め、遠巻きに彼女を見ていた。


ちょうどその時、公園の外側の道路に、磨き上げられた黒のベントレーが音もなく滑り込み、停車した。流線型の車体は、夕暮れの中で身を潜める黒豹のようで、公園ののんびりとした雰囲気とは明らかに異質だった。


後部座席のドアが静かに開き、まず、一足の洗練された黒のハイヒールが地面に降り立った。降りてきたのは、シャープなダークカラーのスーツに身を包んだ女性だ。背が高く、黒いスーツの線が夕暮れの光の中で刃物のように細く見えた。艶のある黒髪には、乱れひとつない。端正な顔立ちだったが、その眼差しには温度がなく、凍った湖面のように静かだった。


彼女は軽く会釈をし、続いて窓がゆっくりと下がり、後部座席に座る男の深い輪郭が現れた。彼は黒のスーツに黒のタートルネックを合わせていた。すらりとした体つきと、やや長めの黒髪。その輪郭だけで、周囲の空気が少し冷えるようだった。


挿絵(By みてみん)


彼は公園から聞こえてくる歌声の方向に一瞥をくれ、淡々としているが反論を許さない声で、前席の運転手に告げた。


「ここで降りる。公園を突っ切って少し気分転換する。十五分後、区役所の出口で待機だ。車が目立ちすぎる、長く停めるな。」


男性が言い終えると、秘書はすぐにその意図を理解した。彼女は無駄のない動きでドアを完全に開けるのを手伝う。長身の影が車から降り立ち、その一挙手一投足には、生まれ持った優雅さと、人を寄せ付けない孤高の雰囲気が漂っていた。街灯が灯り始め、かすかな光が彼の左耳にある小さな銀のイヤリングを捉え、細かく冷たい輝きを放った。


挿絵(By みてみん)


秘書は静かにドアを閉め、すぐに歩みを進め、常に数歩の距離を保ちながら、まるで沈黙の影のように彼の後ろに付き従った。二人は振り返ることなく、公園の奥へと歩き始めた。


二人は、黄昏の残光が差し込む公園の遊歩道を歩いた。その足取りは無駄がなく、迷いがなかった。彼らは、粗末なアンプを立てて演奏する二、三人のストリートパフォーマー――フォークソングを弾く学生や、ヒップホップダンスを練習する若者たち――のそばを通り過ぎた。男性は横目で見ることさえしなかった。まるで目標を定めた黒豹のように、彼の視線は出口へ一直線に進む道筋にのみ集中し、周囲の喧騒には耳を貸さない。その歩き方には、余計なものへ目を向ける気配がなかった。


ルナはちょうどサビを歌い上げている最中で、感情を集中させていた。その時、長身の影が、少し離れた街灯の下で立ち止まり、両手をポケットに差し込み、厳しい表情で彼女を見つめた。その眼差しに、賞賛はなく、ただ値踏みするような冷たさだけがあった。


彼女が一曲歌い終え、目を開けると、そのスーツ姿の長身の影が、すぐ近くに立っているのに気づき、思わず息を飲んだ。彼女は考える間もなく、反射的に、深くお辞儀をした。息遣いはまだ整っていなかった。


挿絵(By みてみん)


男は動かず、ただ軽く顎を上げ、その視線は高いところから降りてくるようだった。その声は、冬の夜の氷のように、空気を鋭く切り裂き、わずかに見下すような冷淡さを帯びていた。


「呼吸が浅い。ビブラートもきれいじゃない。リズムは……まだ不安定だ。テクニックは未熟で、歌い方は上辺だけ。人を感動させる力は…運頼み、というところか。」


彼は一拍置き、最後に一言付け加えた。


「……まあ、ゼロではないな。」


言い終えると、彼は踵を返し、その足取りは重々しく、冷たい。秘書はいつの間にか彼の傍に戻っており、二人は並んで木立の奥へと進み、すぐに夜の闇の中に消えていった。まるで最初から存在しなかったかのように。


ルナは呆然と立ち尽くしたまま、胸が激しく上下し、ギターを握る手は微かに震えていた。屈辱と困惑が胸の中で激しくぶつかり合い、彼女は二人が去った方向をただ見つめるばかりで、一言も言葉が出なかった。


(ユラのノート・あとがき)

ルナが後で私にあの男性について話した時、彼女が何度も口にしたのは「あのスーツの男」「あのイヤリングの奴」だった。彼女はその時の感情を上手く言葉にできなかった。それは単なる批判ではなく、まるで別世界から来た、全く異なる基準によって完全に否定された感覚だったのだと。

彼女は、あの高価な黒い高級車を覚えていたし、身長172センチ近く、モデルのような容姿を持ちながら、人形のように精巧で温度のない女性秘書――香坂理沙のことも覚えていた。

彼女にとって、あれはストリートライブのありふれた一幕ではなかった。彼女が初めて、ある人々の目には、自分が誇りに思っていた「情熱」や「夢」が、これほど容易に数値化され、分析され、「未熟」というレッテルを貼られるものなのだと気づいた瞬間だった。

彼女は相手の名前さえ知らなかった。しかし、あの男性の姿は、彼女の心に最初に刺さった、抜き取れない棘となった。


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第三幕・倉庫のミラー


その夜、ルナは代々木公園から慌ただしく立ち去った。心臓は冷たい刃物で切り裂かれたようで、情熱だけでなんとか保っていた自信は、音を立てて崩れていった。彼女は風鈴珈琲の静かな屋根裏部屋には戻らず、ギターを背負ったまま、メイ(広瀬芽依)と待ち合わせしていた古い倉庫へと足を踏み入れた。

「4番倉庫」の照明はぼんやりとした黄色で、空気にはビールと金属の匂い、そして微かな錆の匂いが混ざり合っていた。ルナがその重い鉄の扉を開けた時、彼女はまるで雨に濡れた小動物のように、黙ってバーカウンターのそばに体を預け、一言も発しなかった。


メイ(広瀬芽依)はバーテンダーのユニフォームを着て、手際よくカクテルを数杯作っていた。彼女はホールスタッフがトレイを受け取るのを待ってから振り返り、ルナの心境を見透かしたような笑みを口元に浮かべた。


挿絵(By みてみん)


「おっ、やっと来たな」


ルナは俯いたまま、腕の中に顔を埋めて、くぐもった声を出した。「……気にしないフリをしようと思ったんだけど……でも、本当に腹が立って。」


ルナはあの冷淡な口調を真似て、まるで氷の欠片を吐き出すかのように、その言葉をぶちまけた。「『呼吸が浅い、ビブラートは甘い、リズムは不安定、テクニックも深みも足りない…』って、私を完全にゴミみたいに貶したあげく、最後に『まあ、全く価値がないわけではない』ですって!あの、世界で自分だけが音楽をわかっているみたいな、上から目線の態度が!」彼女は怒りで胸を上下させ、目元は微かに赤くなっていた。


メイは静かに聞き終えると、それが今日一番の面白い話だったかのように、思わず軽く笑い出した。


「はっ、ははは。そいつ、口悪すぎやろ。でもな、その人……たぶん、あんたのこと、めちゃくちゃ評価してるで。」メイはルナに氷水を差し出し、見抜くような口調で言った。「運任せで人を感動させる、って言うたんやろ? それ、つまりあんたの声には何かあるってことや。ただ、あんた自身がまだ使いこなせてへんだけや。」


ルナがその言葉にハッとさせられた時、店のドアが「ガラッ」という音を立て、活気に満ちた力で押し開けられた。


扉の向こうから、強い存在感をまとった男が入ってきた。彼は背が高く、体つきは引き締まっている。鋲が光る黒のレザージャケットをまとい、髪は黒い炎のように立ち上がり、首にかけた金属のチェーンが光を反射して微かに輝いている。彼は桐谷伸夫。下北沢のインディーズバンド界隈で活動する「NAjNA」というバンドのギタリストだ。ダークロックのスタイルを身に纏っているが、その顔立ちは明るく親しみやすい、太陽のような明るさを持った青年で、この情熱と硬派な外見が妙なギャップを生み出していた。


メイは驚いて叫んだ。「伸夫! もう向かったと思ってたわ。何してんの、戻ってきて」


伸夫は早足で入ってきて、その声は明るく、まるでギタリストが最初に弾くコードのようだ。「忘れ物だ。ギターのワイヤレストランスミッターをここに忘れたみたいで、取りに戻ってきた。」


メイは呆れたように目を細めたが、その目には笑みが宿っていた。彼女はバーカウンターの奥にある、コードや工具がごちゃ混ぜになった雑然とした場所を指差した。「あんたなあ、毎回酔っぱらうと物なくすんやから。この前、店の整理を手伝った時に適当に置いてたから、盗まれてなきゃ、その辺にあるはずだよ。自分で探し。」


伸夫は頭を掻き、さらに困ったような笑みを浮かべ、素早く雑然とした物の中から探し始めた。それを見つけると、彼の顔にはすぐに、屈託のない笑顔がぱっと広がった。「ふう……危ねぇ。今日はメインのライブもあるんだ。それに、ベースの代役も頼まれてて。」


ルナはNAjNAのギタリストを驚いて見つめ、尋ねた。「え?あなたはギターを弾いているんじゃないんですか?」


伸夫は笑い、困惑と誇らしさが入り混じった表情を浮かべた。「ああ、NAjNAではギタリストだよ。でも、友達のバンドがちょっと問題があってね。元々のベーシストが今日出られなくなって、代役が見つからなかったから、俺みたいな古い友人が出なきゃならなくなったんだ。」


挿絵(By みてみん)


伸夫は続けてルナに視線を向けた。その好奇心の強いミュージシャンらしい眼差しに、ルナの頬は微かに熱くなった。「君がルナちゃんだね?やっと本人に会えた。」


ルナは慌てて頷いた。「あ…初めまして…」


「メイが、君の歌声は魂がこもってるって言ってたよ。次回、ぜひライブで聴かせてくれ。」

メイが口を挟む。いつもの口喧嘩のような口調だ。「やめとき。調子乗るから。」


ルナは慌てて反論した。「そ、そんなことないです!まだまだですよ!……でも、そう言ってもらえると……ちょっと嬉しいです。」


「じゃあ、俺はもう行くわ。君のライブ、楽しみにしてるよ。頑張って。」伸夫はそう言って、颯爽と振り返り、黒い楽器ケースを提げて、あの焦燥と熱気を残したまま、倉庫のドアの向こうへ急いで消えていった。


伸夫が去った後、メイはバーカウンターのエプロンを脱ぎ、壁に掛けてあったレザージャケットを手に取り、ルナに顔を向けた。


「いいものを見せてやる。じゃーん」


メイは青いチケットを二枚取り出し、ルナの前に押し出した。


ルナはきょとんとした顔だ。「ブルーノートって、何ですか?」


メイは信じられないといった様子で眉を上げた。「え、まさか初めて聞くん? ブルーノートやで。今夜、すごいライブがあんねん。コネ使って招待券、手に入れた。ちょうどええやろ。あんた、今日かなり打ちのめされたみたいやし、『本物のプロ』の演奏がどんなものか、見に行ったって損はない。」


ルナはテーブルを見つめ、心の奥底にある悔しさを小さな声で口にした。「……もう一度、あの人に歌を聴かせたい。たった一度でいいから。今日よりもっと上手くなってから。」


メイの口調は穏やかだが、揺るぎない決意がこもっていた。「だったら、今日からもっと必死に練習し。地下道でも倉庫でも、どこでもいい。でも、あんたはあいつを怖がったらあかん。」


メイは振り返り、倉庫の隅にあるオフィススペースに向かって大声で叫んだ。「源さん! お先失礼します! 今夜のバー、お願いします!」


高田源一。六十歳近いこの店主は、老眼鏡をかけてビールの仕入れ伝票をチェックしているところだった。


源さんは顔を上げず、しかし、父親のような慈愛に満ちた声で言った。「わかったよ、メイ。気をつけて行ってきな!」


メイは返事をし、珍しく穏やかな笑顔を顔に浮かべた。「はい!」


挿絵(By みてみん)


彼女はルナに振り向いて、「行くで」と言った。メイが先にドアを出ると、ルナは目的地を尋ねることもなく、彼女について倉庫を出て、東京の深夜の交通の流れの中に飛び込んでいった。彼女たちの目的地は、南青山のジャズの聖地、ブルーノートだった。


(ユラのノート・あとがき)

私はずっと、メイはルナが東京で出会った最初の鏡だと思っている。


彼女(広瀬芽依)はNAjNAというバンドのドラマーで、ギタリストの桐谷伸夫と恋人だ。下北沢のインディーズバンド界で名が知れたNAjNAは、ダークロックとゴシック・スタイルを得意とする。メイは甘い言葉を言えず、外見は常にクールで近寄りがたいが、彼女の気遣いは、周到に考えられた実際的な行動の中に隠されており、他人には気づかれにくい。



ルナが後に私に話してくれたことだが、この「4番倉庫」はメイにとって特別な意味を持つ場所だった。四年前、ここが彼女が大阪から東京に来た時の最初の拠点だったのだ。店主の高田源一(源さん)は、この風変わりで賢い「メイ」が、ステージパフォーマーから、暇な時にバーでテーブルを片付けたり、カクテルを習ったりするのを見てきて、既に彼女を半分娘のように思っていた。メイのあのクールな外面も、源さんに別れを告げる時だけは、珍しく少しだけ穏やかさを覗かせる。


彼女とルナとの出会いは、優しく慰めるよりも遥かに価値のある、強力な導きを始めた。


ルナが後で言ったように、あの瞬間、彼女は完全にメイの勢いに引きずられていたのだ。メイは恐らく、ルナに「悔しさ」という感情には二つの使い方があることを理解させた最初の人だろう。一つは、その場で怒り続けること。もう一つは、立ち上がって外へ出て、真の世界との距離を自分の目で確かめることだ。


あの夜、メイは口先だけの慰めではなく、密かに手に入れたブルーノートの招待券を差し出すという、衝撃的な実際の行動で、ルナに後者を選ばせ、彼女をさらに遠いスタートラインの前に連れ出した。


これこそが、彼女たちを繋ぐ最も特別な絆なのだろう――メイは決してルナに優しい慰めを与えないが、彼女が最も支えを必要とする時、彼女独自のやり方で、最も確かな尊重と空間を与えた。彼女たちの友情は、お互いを慰め合うことではなく、「私はあなたを理解しているから、多くは尋ねない」という阿吽の呼吸の上に築かれていた。


________________________________________


第四幕・ブルーノートの聖域


「4番倉庫」の鉄の扉がルナの背後で重く閉まり、倉庫に残るアルコールと汗の匂いを遮断した。夜風が裏路地に吹き込む中、ギターを背負ったルナはメイの後ろに続いて外に出た。彼女は、目の前に停められた光景に、たちまち呆然となった。


そこにあったのは、一台の黒い大型二輪、ヤマハ MT-09だ。流線型の車体は、薄暗いネオンの下で浅く光を反射し、精悍な骨格は、夜の闇の中で潜む黒豹のようだ。二つのヘルメットが、しっかりと後部座席のグラブバーに掛けられていた。


メイは黒い革手袋をはめ、手慣れた動作で屈み込み、タイヤをチェックし、ヘッドライトやメーターを確認する。その一つ一つの手順は、疑う余地のないプロフェッショナルな感覚に満ちていた。


ルナは目を大きく見開き、その声は微かな震えを伴っていた。「えっ……これ、これに乗って行くんですか?」


手袋をはめたメイは、短い髪を軽く払って、口元に極めて薄い嘲笑を浮かべた。「じゃあ、自転車でも出してくると思ったん?」


ルナは立ち尽くし、その顔には、初めて見るものへの不安がそのまま出ていた。彼女はゆっくりと予備のヘルメットを手に取り、それから少し不安そうに被った。


メイがエンジンをかける。重厚で力強い低音が鼓膜を痺れさせ、車体が微かに振動する。まるで猛獣が目覚めたかのようだ。


ルナはどもりながら言った。「私……こういうの、乗ったことないんですけど……転倒したりしませんか……?」


メイは横を向いて笑い、その眼差しには「お上りさん」という四文字が書いてあった。「大丈夫。私が転けた回数の方が、あんたが歩いた道より多いわ。初めて乗るあんたが、いきなりそんな目に遭うわけないやろ。」


ルナは歯を食いしばり、意を決して後部座席に跨った。


メイは振り返って一言付け加えた。その口調は淡々としている。「しっかり私の腰を掴んでな。じゃないと、あんたのギターが先に飛んでいくかもよ。その大切なギター、落ちても私は責任取らへんから。」

ルナの顔は強張り、バツの悪そうな表情になった。彼女はゆっくりと両手をメイの腰に回した。


メイの右手がスロットルを握った。


次の瞬間、エンジンの音が裂けるように膨れ上がった。


ルナに心の準備をする暇はなかった。

体が後ろへ引かれる。

背中のギターケースが重く跳ねる。


足元が、消えた。


世界が後ろへ倒れていく。

視界にあるのは、黒い夜空と、頭の上を流れていく街灯の光だけだった。


「あっ! ヤバい! ヤバいよ!」


自分の声なのに、風に裂かれて遠く聞こえる。


ルナは反射的に、目の前の体にしがみついた。


次の瞬間、メイが低く怒鳴る。


「おい、やめろやめろ! そこ胸や、ちゃうって!」


ルナの頭は真っ白になった。

どこを掴めばいいのかも分からない。

ただ落ちたくなくて、必死だった。


「ご、ごめんなさい!」


謝罪の声も、すぐに風へ飲み込まれる。


前輪が地面へ戻る感触が、体の奥に鈍く響いた。


ルナはメイの背中に頬を押し付けた。

抗議も、謝罪も、もう形にならない。


バイクは漆黒の稲妻のように、東京の夜へ合流していった。


代々木公園のあの男の言葉。

ユイとの約束。

そして、今この瞬間の、どうしようもない速度。


すべてが混ざり合い、ルナの中でぐちゃぐちゃに渦を巻いていた。


挿絵(By みてみん)


(ユラのノート・第三幕終章・運命の疾走)

彼女がメイのバイクの後ろに乗せられた夜のことを書くたび、私は少しだけ笑ってしまう。


ルナはきっと、ただ怖い乗り物に乗せられたのだと思っていた。

けれど今なら分かる。


あれは、ただの移動ではなかった。


メイはルナを、風鈴珈琲の屋根裏から、次の世界へと無理やり引きずり出したのだ。


ルナの人生には、いつも優しい束縛があった。

ユイとの約束も、故郷への後ろめたさも、彼女を守るものであると同時に、どこかで彼女を留めていた。


メイは、その束縛を初めて乱暴に断ち切った風だった。


このMT-09は、メイが大阪時代に必死で働いて買った最初の愛車だったという。

彼女はそれに乗って大阪から東京まで走り、自分のステージを探しに来た。


だから、あの夜ルナが抱きしめていたのは、ただの腰ではなかった。

故郷を離れ、それでも前へ進もうとした、もう一つの魂だったのだ。


しっかり掴まって、ルナ。


あなたは今、私たちの物語が始まる場所へ向かっている。


ルナの頭の中は混乱していた。代々木公園のあの男の言葉がまだ耳元で反響し、その一言一句が鋭いガラスの破片のようだった。彼女は屈辱と怒りを感じながらも、反論する力がなかった。そして今、彼女はメイに連れられ、完全に未知の目的地へと向かっている。彼女は前方のメイの真っ直ぐな背中を見つめた。いつも気まぐれに見えるのに、肝心な時には誰よりも果断なこの女性は、一体何を彼女に見せたいのだろう?


街の景色が目の前で猛スピードで変わっていく。渋谷の混沌とした喧騒の交差点から、表参道の両脇に整然と並び、ブティックの光を放つショーウィンドウへと。空気までが変わったようだ。ストリートの匂いから、もっと洗練された、希薄な香りへと変わっていった。


そしてついに、ヤマハMT-09のエンジン音は、南青山の広い骨董通りでゆっくりと止まった。メイはプロのライダーとしての本領を発揮し、バイクを正確かつスムーズに、ダークカラーのガラス張りのビルの前に停車させた。


メイはエンジンを切り、キーを抜いた。「着いたで。降り。」


ルナはヘルメットを脱いだ。彼女はまだ猛スピードで走った後の、ぼうっとした状態にある。顔を上げると、目の前には広い道路と、夜の帳が降りて静まり返った巨大なビル群があった。


その中の、濃い色の壁の建物の地階に、彼女は控えめでありながら力強いシンボルマークを見つけた。深青色の光を放つ長方形のファサード、中央には、オレンジがかった黄色いバックライトで縁取られた、ジャズミュージシャンのシルエットがいくつかあり、そのポーズは誇張され、力強さに満ちている。シンボルの下には、濃い茶色の木製の分厚い観音開きドアがあり、その上部には暖かい黄色の光を放つクラシックな照明が三つ埋め込まれていた。


エントランスのデザインは、派手なネオンの海ではなく、落ち着きと内向的な豪華さを湛えている。深青色の冷たい光とバックライトの温かい光が交錯し、この建物は夜の闇の中で、まるで現代美術館のようでもあり、古代の音楽の聖殿のようでもあった。それは静かに南青山の広い通り沿いに佇み、ルナの汗とオイルの匂いが染み込んだジャケットとの間に、息が詰まるような、異質な距離感を生み出していた。

彼女が見上げると、その小さな、深青色の光を放つ文字――「Blue Note Tokyo」――が、今、どんなスポットライトよりも眩しく目に映った。


その名前を、ルナは高価な音楽雑誌の中でしか見たことがなかった。それはジャズの聖殿であり、世界で最もトップクラスのミュージシャンだけが立つことを許されるステージ。彼女が夢にすら見ることのできなかった場所だった。


挿絵(By みてみん)


メイはキーを抜き、バイクに寄りかかったまま、少しだけ顎を上げた。


「着いたで。降り。どうや、すごいやろ?」


ルナの目は、深青色の看板に釘付けになった。

古いブーツも、汗の染みたジャケットも、この場所の空気の中ではひどく場違いに思えた。


メイは顎で入口を示す。


「行くぞ。今夜はあんたの目ぇ覚まさせてやる。何が本物の音楽か、ってことをな」


入口では、身なりの整ったスタッフが分厚いドアを開けてくれた。

高級なウィスキーと香水、木の匂いが混ざった温かい空気が流れ出す。


ルナは手のひらに汗をかきながら、メイの後ろについていった。


メイが青いチケットを二枚差し出すと、受付の女性はすぐに確認し、丁寧に微笑んだ。


「広瀬様、ようこそいらっしゃいました。どうぞ、こちらへ」


「行くぞ。VIP待遇や」


メイは得意げに、ルナの背中を軽く押した。


席に着いた時、ルナの体はまだ硬かった。

ステージまで、信じられないほど近い。

グランドピアノの木目さえ見える距離だった。


メイはノンアルコールのドリンクを二杯注文し、すぐには何も言わなかった。

ただ、テーブルの下で、革手袋をはめた手を小さく上げる。


勝利の「イェイ」サイン。


ルナは思わず笑ってしまった。

その子供じみた仕草だけで、張りつめていた緊張が少しほどけた。

彼女も膝の上で、小さく同じサインを返す。


「何をそんな緊張してんねん。あんたが今座ってる席は、東京の金持ちでもなかなか取れへん席やぞ」


メイはキャンドルの火を眺めるふりをしながら、横目でルナを見た。


「肩の力抜き。ここは寝る場所ちゃう。目ぇ覚ます場所や。あんた、今、試験会場に来たみたいな顔してるで」


ルナは声を落とした。


「わ、私、ちょっと緊張してるんです。こんな場所、息も大きくできない気がして」


メイは肘で軽く彼女を小突いた。


「は? 貴族の舞踏会やと思ってんの? ここはブルーノートや。見られるんは服ちゃう。耳や。さっさとそのお上りさんみたいな顔しまい。本物の音にぶっ飛ばされる準備しとき」


ルナは、少しだけ分かった気がした。


メイの強気は、ただの虚勢ではない。

本物の音楽を、本当に信じている人の強さだった。


ルナは深く息を吸った。

衝撃も、好奇心も、緊張も、全部そのまま抱えたまま、ステージの方へ目を向けた。


挿絵(By みてみん)


会場の照明が落ち、一筋のスポットライトがステージに降りた。

司会者が流暢な英語で何かを告げる。


ルナには、すべての言葉が分かったわけではない。

ただ、バンドの名前が呼ばれた瞬間、客席の空気が一段深くなるのを感じた。


拍手の中、四人のミュージシャンがステージに現れる。

彼らは落ち着いていた。

これから何か特別なことをするという高揚よりも、いつもの場所へ戻ってきた人たちのような静けさがあった。


最初の音が鳴った瞬間、ルナは息をするのを忘れた。


速い。


けれど、ただ速いだけではなかった。


音が走っているのに、誰も置いていかれない。

自由に見えるのに、少しも崩れない。


ピアノの音は、夜空に細かな光を散らすように広がる。

ドラムはその奥で、見えない網を張るように細かく刻まれていた。

ベースは低く、会場の床そのものを支えているようだった。


そしてギターが、その上をすべっていく。


ルナは追いかけようとした。

次にどこへ音が進むのか、頭の中で捕まえようとした。


けれど、すぐに見失った。


代々木公園で、あの男に言われた言葉が、頭の奥で静かに蘇る。


呼吸が浅い。

リズムが不安定だ。

テクニックは未熟だ。


その一つひとつが、今はただの批判ではなくなっていた。

目の前の音が、それを証明していた。


ルナはそこで初めて、自分が「自由」と呼んでいたものの正体を疑った。


それは、もしかすると自由ではなく、ただ支える軸をまだ持っていなかっただけなのかもしれない。


挿絵(By みてみん)


胸の奥に、強烈な挫折感が落ちた。

けれど、その底には、どうしようもないほどの憧れが混ざっていた。

一曲が終わると、雷鳴のような拍手が沸き起こった。ルナは、まるですべての力を吸い取られたかのように、ただそこに呆然と座っているしかなかった。会場の照明はひどく暗く、客席はテーブルの上のキャンドルの光だけが揺らめいていた。


ちょうどその時、ステージ上のルイ・ドゥヴェは、探していた人物を見つけたようだ。彼はマイクをスタンドに戻し、直接マヤの方向へと歩み寄った。


ルイは再びマイクを握った。

客席へ向かって、流れるような英語で語りかける。


“Ladies and gentlemen, please welcome our very special friend from Tokyo—MAYA.”


ルナには、すべての単語が聞き取れたわけではなかった。


けれど、Tokyo、special friend、MAYA。

その三つだけは、はっきりと耳に残った。


次の瞬間、客席の空気が変わった。

拍手の質が変わる。

期待の熱が、ステージへ向かって一斉に集まっていく。


その中心へ、あの長身の男が歩いていった。


「……あの人だ……!」


ルナは思わず声を漏らした。


メイが横を見る。


「誰? あんたの知り合い?」


ルナはステージの光の中にいる男から目を離せなかった。


「あの……代々木公園で、私のリズムが不安定だって言った……あの人です」


メイの目が、一瞬だけ大きくなる。

それから、口元がゆっくりと歪んだ。


「うわ。これ、めっちゃ面白くなってきたやん」


その時のメイの顔は、どう見てもルナの味方ではなかった。


「メイさん……?」


「いや、味方やで。一応」


そう言いながらも、メイの目はすでにステージへ向いていた。


マヤはルイの前に立った。

ルイの顔には、抑えきれない喜びが浮かんでいる。


ルイは何も言わず、両手でマヤの肩を掴んだ。

そして、親しみを込めて左右の頬に軽くキスをする。


フランス語だった。


ルナには、一語も分からなかった。


けれど、声の距離だけは分かった。

近い。


それは、ただの仕事相手に向ける声ではなかった。

長い時間を同じ音の中で過ごしてきた人間だけが持つ、遠慮のなさがあった。


マヤは短く答えた。

その返事も、ルナには分からない。


ただ、代々木公園で自分に向けられたあの冷たさとは、少し違って聞こえた。


ルイは続けて、ステージ脇からギターを一本取り、マヤに手渡した。

その時、彼の指先が古びたボディをそっと撫でるのを、ルナは見た。


楽器を渡しているのに、まるで何か大切なものを託しているようだった。


マヤは軽く頷いた。

チューニングに時間をかけることも、コードを確かめることもしない。

ただ数回だけ弦に触れ、バンドメンバーと短く目を合わせる。


それだけで、空気が変わった。


言葉はない。

それでも、彼らの間ではもう何かが始まっていた。


始まったのは、ルナがこれまで聴いたことのない速さの曲だった。


熱い。

それなのに、マヤの顔にはほとんど表情がない。


指だけが、信じられない速度で動いている。

けれど、乱暴ではなかった。

音が暴れているのに、彼自身は少しも揺れていない。


ルナは、その矛盾が怖かった。


その横で、メイの口が半分開いた。


「……爆強」


ほとんど、恋に落ちた人間の声だった。


「なに、あの右手。神の手なん? いや、人間ちゃうやろ、あれ」


「メイさん」


「待って。今ちょっと無理。音楽やってる人間として処理できへん」


ルナは唇を噛んだ。


「どっちの味方なんですか」


「そりゃイケメンに――」


「メイさん」


「違う違う違う。音楽の味方。今のは音楽へのリスペクトや。ほんまに」


そう言いながらも、メイの目は完全にマヤの右手を追っていた。


「でも、あの右手は反則やろ……。伸夫があれくらい弾けたらなあ」


「伸夫さんに失礼です」


「分かってる。分かってるけど、これは別腹や」


「別腹って何ですか……」


メイは胸のあたりを押さえ、深刻そうな顔をした。


「ギター恋愛脳が、勝手に起動してんねん」


ルナは怒ればいいのか、呆れればいいのか、自分でも分からなかった。


激しい感情が、冷たい手つきで形にされていく。

燃えているのに、燃え乱れない。


ステージのすぐそばにいるはずなのに、ルナは熱を感じなかった。

むしろ、冷たいものが胸の奥に触れた。


音が速すぎて、追いかけようとした瞬間にはもう次の場所へ進んでいる。

それなのに、一つとしてこぼれない。


これは上手い、という言葉で足りるものではなかった。


しばらくして、メイはふざけた声を少しだけ引っ込めた。


「……でもな、ルナ」


彼女はステージを見たまま言った。


「あいつが言うたこと、全部が全部ハズレってわけやない」


ルナの胸が、小さく縮んだ。


「悔しいやろ」


ルナは答えられなかった。


メイは顎でステージを示した。


「なら、ちゃんと見とき」


その声は、もう笑っていなかった。


「今夜は泣く日ちゃう。盗む日や」


ルナは、息をするのを忘れていた。


演奏は、まだ続いていた。ルナの視線は、無意識のうちにマヤの秘書へと向けられた。彼女は、香坂理沙の背筋が、先ほどよりもさらにピンと伸び、膝の上に置かれた両手が無意識に握りしめられているのを見た。その眼差しには、驚きと、懐かしさが混ざっていた。ルナは、彼女が確かに見たと確信した。あの元々冷静で、凍りついたようだった瞳が、メロディを聞いた瞬間、深く、言葉にできない動揺が、ごくかすかに揺れたことを。彼女の唇はごくわずかに震え、まるで、ある時間の記憶に無言で留まっているかのようだった。


それは一瞬の取り乱しに過ぎなかった。次の瞬間には、その秘書は既に平穏を取り戻していた。しかし、その一瞬の動揺は、ルナの心の湖に石を投げ入れたように、波紋を広げた。


曲は、荒々しいアルペジオの中で突然終わりを告げた。数秒間の静寂の後、ブルーノート全体が、狂乱に近い拍手と歓声に包まれた。


ルナは、拍手をすることも忘れて、ただ座ったまま動けなかった。


マヤはただ軽くお辞儀をし、ルイにそっと頷いた。



(ユラのノート・音楽メモ)


正直に言うと、私は音楽のことをほとんど分かっていない。


だからここに書くことは、私の分析ではない。

ずっと後になって、ルナが何度も、言葉を選びながら、根気よく私に説明してくれたことだ。


あの時の演奏は、おそらくBPM240から250前後だったらしい。


そう言われても、正直、私はまったく分からなかった。

数字だけを聞いても、それが速いのか、どれくらい異常なのか、何も実感できなかった。


するとルナは少し困ったように考えてから、私にも分かる言葉に置き換えてくれた。


「一分間に二百四十拍くらい。つまり、一秒に四拍あるってこと」


それから彼女は、テーブルの端を指先で軽く叩いた。


一、二、三、四。


ほんの一秒の間に、それだけの拍が詰め込まれる。


ルナは私にも同じように手を叩かせた。

私は途中で何度も遅れた。

そのたびに彼女は、責めることなく、もう一度ゆっくり説明してくれた。


それでようやく、私はあの夜の演奏がどれほど速かったのかを実感した。


けれど、ルナが本当に打ちのめされたのは速さではなかった。


あれほど速いのに、一音一音の粒が崩れないこと。

音の長さも、強さも、響きの色も、すべてが揃っていたこと。

自由に聴こえるのに、実際にはリズムの芯から一度も外れていなかったこと。


ルナはそれを、こう言った。


「自由に聴こえるほど、完全にコントロールされてたんだと思う」


私はその意味を、今でも完全には分かっていない。


ただ、あの話をする時のルナの声が、少し悔しそうで、少し嬉しそうだったことだけは覚えている。


ルイは顔に抑えきれない興奮と喜びを浮かべ、ステージ脇のギタースタンドに向かい、素早く彼のもう一本のエレキギターを手に取った。彼はマヤに軽く頷き、その眼差しには、これから始まる次の勝負への期待が満ちていた。マヤは変わらず、手の中のギターをしっかりと握り続けている。


次の演奏で、ルナは二本のギターが互いに絡み合っていくのを見た。


ルイの音は明るく、外へ向かって伸びていく。

マヤの音は冷たく、低いところでその形を支えている。


やがて二人は、まるで言葉を使わずに言い合いを始めたように見えた。


片方が投げる。

もう片方が受け取り、さらに鋭く返す。


その速度はどんどん上がっていく。

ルナには、どこまでが決まっていて、どこからがその場で生まれているのか、まったく分からなかった。


「ねぇ、メイ……あれ、何をしてるの?」


ルナは声を潜めた。


「二人とも、バラバラに弾いてるように見えるのに、どうして崩れないの?」


メイはステージから目を離さないまま、口元だけで笑った。


「会話してんねん。音で」


それ以上の説明はなかった。


でも、その一言で、ルナは少しだけ分かった気がした。

あれは競争ではない。

相手を倒すための音ではなく、相手が返してくる音を信じて投げる音なのだ。


やがてドラムが前へ出た。

リズムが一気に膨らみ、会場の空気がさらに熱を帯びる。


ルナには専門的なことは分からない。

ただ、あの四人が同じ場所に向かっていることだけは分かった。


ドラムソロが終わると、音楽は自然に主旋律へ戻っていった。マヤとルイは、最後にもう一度、同じ旋律を重ねる。音がぴたりと止まった瞬間、二人は同時に深々と頭を下げた。


ルイは満足そうに客席を見渡し、再びマイクを手に取った。

今度も、流暢な英語だった。


ルナには、すべての単語が聞き取れたわけではない。


それでも、brother、Lyon、Paris、Maya Kujo。

いくつかの言葉だけは、はっきりと耳に残った。


その響きだけで十分だった。


マヤは、たまたま呼ばれた客演者ではない。

ずっと前から、この世界の内側にいる人なのだ。


その事実が、ルナの胸の奥に、また別の重さを落とした。

会場の観客は、さらに熱烈な拍手と歓声を送った。


ルイは続いてステージ脇にいる、黒い制服を着た会場スタッフに頷きかけた。スタッフは素早く前に出て、マヤの手からギターを受け取った。


マヤはルイに会釈をした。彼の視線はルイと素早く交錯し、二人だけが理解できる感謝の気持ちが込められていた。彼は踵を返し、ステージ左側の自分の席に戻った。ルイは自分のギターを手に、バンドを率いて最後のセットの演奏を続けた。


今なら、あの人をちゃんと見られる。


そう思った。


ルナはマヤに視線を向けた。彼は手元の琥珀色のウイスキーを、まるで先ほどの熱狂など自分とは関係がないかのように、静かに味わっていた。


ステージではまだ音が鳴っている。客席も熱を帯びている。


それなのに、マヤだけが薄暗い席の中で、彫刻のように動かない。


あれほど激しい音を出した人間が、どうしてこんな顔で座っていられるのだろう。


ルナは、その答えを探すように、彼の横顔を見つめ続けた。


バンドの最後の音符が鳴り止み、会場は再び熱狂的な拍手に包まれた。ルイはバンドメンバーと共に観客に深くお辞儀をし、今夜のパフォーマンスが終了したことを告げた。彼は顔に極度の満足感を浮かべ、ギターをバンドのアシスタントに手渡したが、他のメンバーと一緒にバックステージへは向かわなかった。


ちょうどその時、ルイは抑えきれない興奮と喜びを露わに、マヤと香坂理沙がいる小さなエリアに直接向かって行った。


ルイはまず香坂理沙に歩み寄り、左右の頬に軽くキスをした。


挿絵(By みてみん)


それから理沙に向かって、フランス語で何かを言った。


ルナには、一語も分からなかった。


けれど、その声の明るさだけは分かった。

舞台上で観客に向ける声とは違う。

もっと近く、もっと遠慮がない。


理沙は表情を崩さない。

ただ、ほんのわずかに目元だけで受け止めた。


そのやり取りの意味は分からない。

けれど、距離は分かった。


この人たちは、同じ時間を共有している。

ルナがまだ触れたことのない、長い時間を。


やがてベーシストのマークも輪に加わった。

彼は身振りを交えながら、何か昔話をしているようだった。

ルイが笑い、理沙もかすかに口元を緩める。


そして、マヤが笑った。


ほんの少しだけ。

けれど、確かに。


ルナは息を止めた。


代々木公園で自分を見下ろしたあの男と、同じ人物には見えなかった。

彼はこの輪の中では、氷の彫刻ではなかった。

誰かの冗談に反応し、誰かの記憶の中にいて、誰かから自然に名前を呼ばれる人だった。


そこへ、さらに背の高いドラマーが加わった。

汗を光らせ、演奏の熱をまだ全身に残したまま、彼は大きな声で英語を投げ込んだ。


ルナは、ほとんど追いつけなかった。


ただ、ルイが笑い、マークが肩をすくめ、マヤがわずかに眉を動かしたことで、それが親しい冗談なのだと分かった。


意味は分からない。

けれど、温度は分かった。


彼らは、同じ言葉を話しているのではない。

同じ音の中で、同じ時間を生きてきた人たちなのだ。


ルナはそこに、自分だけが入れない透明な壁を感じた。


メイはまだ先ほどのギターソロの余韻に浸っていた。強いものを見てしまった人間の、どうしようもない顔だった。


「やば……伸夫も、あれくらい弾けたらなあ」


彼氏に対してあまりにも失礼なことを、メイは真顔で呟いた。


その横で、ルイが口にした “Maya’s a free agent” という短い言葉が、少し離れた場所にいたルナの耳に引っかかった。


意味を正確に理解できたわけではない。

けれど、free agent という響きだけが、なぜか強く残った。


マヤは、どこかのバンドに縛られている人ではないのかもしれない。

もしかしたら、誰かが声をかければ、一緒に演奏できる人なのかもしれない。


もちろん、それは大きな誤解だった。

けれどその時のルナには、閉じていた壁に細い隙間が開いたように思えた。


さらにダーネルが、冗談めかして何かを言った。


ルナには、すべての意味は分からなかった。

けれど、耳に残った言葉があった。


free agent.


diamond.


そして、周囲の笑い声。


その断片だけで、ルナの頭の中に、勝手な意味が組み上がっていく。


マヤは、誰かと固定で組んでいるわけではない。

もしかしたら、誰かが声をかければ、一緒に演奏できる人なのかもしれない。


もちろん、それは大きな誤解だった。

けれど、その時のルナには、そう聞こえてしまった。


永遠に外側にいるしかないと思っていた壁に、ほんの細い隙間が開いたような気がした。


今しかない。


彼女はギターのストラップを握りしめた。指先が白くなる。


メイが気づいた時には、ルナはもう立ち上がっていた。


「え、何!? 何!? おい、どこ行くんや?」


ルナは答えなかった。

外国語が飛び交う小さな輪の中へ、まるで吸い寄せられるように歩いていく。


輪の端で立ち止まり、深く息を吸った。


「あの……初めまして。私、月村結月と申します……」


声は小さく、明らかに震えていた。


ダーネルとルイが振り返る。

突然現れた日本の少女に、二人は少し驚いたようだった。


ダーネルが明るく笑い、英語で何かを言った。


ルナには分からない。


するとルイが、少しだけ日本語を探すようにして言った。


「ファン、かな?」


ルナの頬が一気に熱くなった。

ファンとして来たわけではない。

けれど、その場でどう否定すればいいのかも分からなかった。


「ち、ちょっとだけ……」


マヤがついに振り返った。彼の視線は二本の冷たいサーチライトのように、淡々と彼女を一瞥した。彼の元々静かで、ほとんど波のない瞳は、ルナの顔を見た後、ごくわずかに認識の光を瞬かせた。


「……ああ、代々木公園の、君か。」彼の口調は穏やかで、驚きや熱意は全くなく、ただ一つの事実を淡々と述べただけだった。



覚えられていた。


それだけで、ルナの胸の奥に小さな火が灯った。

代々木公園での自分は、完全に無かったことにはされていなかった。


彼女はギターケースのストラップを握りしめ、残っている勇気をかき集めた。


「あの……もし、機会があったら、いつかあなたと一緒に……演奏とか……」


マヤはそれを聞くと、顎を微かに上げた。薄暗い光の中で、彼はすぐに話さず、ただ、彼女を見透かそうとするかのような、極度に真剣な眼差しで、ルナに釘付けになった。


そしてマヤが言った。「一緒に演奏できるのは、選ばれた者だけだ。」


ルナの顔が強張った。

胸の奥が、冷たく縮む。


せっかく集めた勇気が、その一言で静かにほどけていった。


彼女がまだ反応できずにいると、マヤの傍にいた香坂理沙が、静かに半歩前へ出た。


その口調は丁寧だった。

けれど、反論を許さない静けさがあった。


「坊っちゃま、そろそろお時間でございます。明日の朝一番で仙台へ向かう会議がございますので、この辺りでお引き上げいただければと存じます」


マヤは微かに頷き、香坂理沙を見ることなく、簡潔に言った。「承知した。」彼はもう一度ルナを見ることもなく、一目で合図を送り、すぐに踵を返し、未練なく去っていった。


香坂理沙はテキパキと彼に続き、その足音はステージ脇の冷たい光の中で遠ざかっていった。


挿絵(By みてみん)


沈黙が落ちた。


ルナは、安物のギターを背負ったまま、青い光の下に一人で立っていた。

両手が震えている。

けれど、その背中を追うことはできなかった。


自分が何を言ったのか。

あの人に、ちゃんと聞こえていたのか。

それすら分からなかった。


分かっているのは、一つだけだった。


この夜、彼女は夢に近づいた。

そして、そのすぐ近くで、現実に真正面からぶつかった。


出口のそばで、ルナはしばらく動けなかった。


「……これが、夜と、光の、距離感、か」


挿絵(By みてみん)


(ユラのノート・あとがき)

ルナが後にあの夜のことを話してくれた時、彼女が一番長く沈黙したのは、マヤの演奏そのものについて語る時ではなかった。


彼女がうまく言葉にできなかったのは、香坂理沙のことだった。


マヤは、すべてを焼き尽くすような曲を弾いていた。

けれど、その顔は冷たいままだった。


その一方で、客席の隅に座っていた理沙だけが、ほんの一瞬、何かを受け取ったように見えたという。


ルナには、その意味は分からなかった。

もちろん、私にも分からない。


ただ、その数分間だけ、ブルーノートという大きな場所が、二人だけのために狭くなったように感じたのだと、ルナは言った。


演奏の上手さだけではなかった。

あの夜、ルナを打ちのめしたのは、音楽の奥にある、人と人との深さだったのだと思う。


彼女は、歩き始めたばかりの子供が、知らないうちに世界大会の決勝の前に立たされてしまったような顔をしていた。


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エピローグ


大型二輪MT-09のエンジン音は、風鈴珈琲の前の路地口で低く息を吐き、やがて静かに止まった。


メイはヘルメットを脱ぎ、潰れたショートヘアを軽く振った。夜風が、汗ばんだ額を冷ましていく。彼女はルナのヘルメットも外し、慣れた手つきでバイクの側面に掛けた。


ルナは黙ったまま後部座席から降りた。


足は地面についている。

それなのに、まだどこか遠くから戻ってきていないようだった。


手袋を外す動きも遅い。肩は少し丸まり、背中のギターケースだけが、彼女をかろうじて支えているように見えた。


メイは横目でルナを見た。


余計な慰めは言わなかった。

ブルーノートで何があったのかも、聞かなかった。


答えは、ルナの張りつめた背中に出ていた。


「……どうした?ちょっと、ショックが大きすぎた?」


ルナは返事をせず、ただ喉から微弱な「うん」という言葉を絞り出した。その瞳は虚ろで、足元に街灯で長く伸びた影を見つめていた。


メイは後部座席のボックスを開け、ゆっくりといくつかの物を取り出した。彼女の声は低く、自分に言い聞かせているかのようだ。だが、その言葉には、現実に対する透徹した理解と、境界線を示す感覚が滲み出ていた。


「あの神様みたいなレベルのやつは、無理やって」


「平常心、平常心」


ルナは顔を上げ、口元に苦々しい、崩壊しないように努めた、礼儀正しい笑みを浮かべた。それは慰めに対する返答ではなく、優しさに対する精一杯の配慮だった。彼女は頷き、細い声で言った。


「……乗せてくれて、ありがとう。」


メイは振り返らず、ただ適当に手を振って合図を送った。


「さっさと二階に上がって風呂入ってこい。神様にビビった後は、汗かいたままやと冷えるで」


ルナは小さく「うん」と言い、あの安物のギターを背負った。彼女はゆっくりと風鈴珈琲の脇のドアへと入っていった。温かい光が廊下に沿って差し込み、彼女の背中を細く長く引き伸ばした。


(ユラのノート・日付不明)


あの夜のメイは、ほとんど何も聞かなかった。


ルナが何を言って、どう断られたのか。

どの言葉が一番痛かったのか。

そういうことを、一つずつ確かめようとはしなかった。


ただ、ルナの背中を見ていた。


私は後になって、それがメイなりの優しさだったのだと思うようになった。

慰めれば、ルナはきっと泣いてしまった。

問い詰めれば、もう一度あの場所に引き戻されてしまった。


だからメイは、何も聞かなかった。


「神様みたいなレベルのやつは、無理やって」


そう言って、少し乱暴に現実との距離を作ってやった。

それから「平常心」と、いつもの軽い調子で付け足した。


優しい抱擁ではない。

けれど、あの時のルナに必要だったのは、抱きしめられることよりも、立っていられるだけの場所だったのだと思う。


ルナは屋根裏部屋に戻ってからも、一言も発しなかった。


部屋には、昼間のコーヒーと焼き菓子の香りがまだかすかに残っていた。

けれど彼女のジャケットには、夜風と汗と、バイクの油の匂いが染みついていた。


ルナはジャケットを脱ぎ、ギターを壁の隅にそっと立てかけた。

余計な音を立てないように、ひどく慎重な動きだった。


薄い毛布を引き寄せると、彼女はベッドに横たわった。

泣きはしなかった。

呆然としていたわけでもない。


ただ、枕を抱きしめ、体を小さく丸めた。


それは眠る姿勢というより、自分の内側に戻っていく姿に近かった。

世界に強く叩かれすぎて、痛みを言葉にする前に、心が先に扉を閉じてしまったのだ。


壁掛け時計の音だけが、静かな部屋に落ちていた。


電気は消されないまま、夜だけが続いていた。



第二話 完


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


最初は、心の中に小さなバンド物語の種のようなものがありました。


それが少しずつ膨らんでいくうちに、かつて音楽をしていた頃の記憶や、あの時に感じていた悔しさ、憧れ、言葉にできなかった感情が、少しずつよみがえってきました。


その想いを重ねながら、この物語を形にしていきたいと思っています。


まだ試行錯誤の多い創作ではありますが、音楽と物語への愛情だけは、ひとつひとつの場面に込めているつもりです。


また、この物語のアニメ版も YouTube で公開しています。


AIによる映像表現はまだ発展途中で、小説版とは一部構成や表現が異なる部分もありますが、映像ならではの空気感も楽しんでいただけたら嬉しいです。


▼WEB

https://www.lunarexit.com/


▼第一話 シネマティック版

https://www.youtube.com/watch?v=APuI1fJjfvE


▼第二話 シネマティック版

https://www.youtube.com/watch?v=HnaTDK-W4hU&t=26s


▼第三話 シネマティック版

https://www.youtube.com/watch?v=krvLniYtBaY


▼第三話(下編) シネマティック版

https://www.youtube.com/watch?v=GCCb6uYah-c


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