《LUNAR EXIT 第一話 : 月光の下、迷走と帰る場所》
彼女は、失われた恋を追って東京へ来た。
けれど、その街で彼女を待っていたのは、
恋の答えではなく、音楽だった。
長野から出てきたばかりの少女・ルナ。
渋谷の地下通路で歌っていた彼女は、ひとりのドラマーと出会う。
まだ名前もない歌。
行き場のない想い。
そして、差し出された小さなきっかけ。
これは、月光の下で迷いながら、
自分の居場所を探していく少女たちの物語です。
《LUNAR EXIT 第一話:月光の下、迷走と帰る場所》
(ユラのノート・2023年3月26日撮影)
私のノートには、少し色褪せたポラロイド写真が一枚、貼られている。
写っているのは、渋谷の地下通路で歌う一人の女の子だ。
白すぎる照明が、彼女の上にまっすぐ落ちている。
彼女は、自分よりもずっと長く生きてきたような古いギターを抱えていた。
目を閉じ、前髪で顔の半分を隠したまま、何かにしがみつくように歌っている。
その表情には、まだ諦め方を知らない頑なさと、今にも折れてしまいそうな不安が同居していた。
その少し前で、大きな黒いTシャツを着たもう一人の女の子がしゃがみ込んでいる。
冷めた目をしているのに、視線だけはまっすぐだった。
彼女は、歌っているその子を、興味深そうに、けれどどこか祈るように見つめていた。
人々は二人のすぐ横を、足早に通り過ぎていく。
誰も立ち止まらない。
写真の中でさえ、その背中はもう残像になりかけていた。
これは、私が初めてルナを撮った写真だ。
あの日の私は、いつものように街を歩きながら、誰にも見向きされない片隅を記録していただけだった。
彼女たちが誰なのかも、何を話していたのかも知らなかった。
私にとってそれは、東京で毎日こぼれ落ちていく、数えきれない一瞬のうちのひとつに過ぎなかった。
その時の私は、まだ知らなかった。
レンズに映っていたものが、ただの偶然ではなかったことを。
あの日、私は知らないまま、
ルナという少女の物語の入口に立っていた。
そしてその入口は、いつの間にか、
私自身の人生にもつながっていくことになる。
第一幕:地下通路の反響と、名もない敬意
2023年3月26日・夕刻
渋谷駅の地下通路は、眠らない街の血管のようだった。
コンクリートとタイルでできたその通路を、人の流れが絶え間なく行き交っている。
空気はいつも少し濁っていた。
ホームの方から流れてくる、錆びた鉄の匂いを含んだ湿った風。
どこかの店から漂う、甘辛いソースの香り。
通行人たちが残していく香水と汗の匂い。
そして、都会の地下にだけある、冷えた埃っぽさ。
それらが混ざり合って、渋谷の地下は、いつも名前のつけようがない匂いをしていた。
頭上には、白く眩しい蛍光灯がずらりと並んでいる。
影を許さないほどの光が、通路を歩く人々の疲れた顔を容赦なく照らしていた。
壁一面のデジタルサイネージでは、新作映画の予告や、アイドルの完璧な笑顔が、無音のまま次々と切り替わっていく。
そのすぐ前を、無表情な人々が足早に通り過ぎていく。
作りものの光と、現実の疲れが、冷たく隣り合っていた。
ルナは、人の流れが少しだけ途切れる一角を選んだ。
背中には冷たいタイル張りの壁。
目の前には、絶え間なく押し寄せる人波。
着ているのは、少し古びた白いTシャツに、ゆったりとしたカーキ色の薄手の上着。
下は、ごく普通のジーンズと、履き古したキャンバスシューズだった。
それは、彼女がいちばん落ち着ける格好だった。
長野を出る時も、ほとんど同じ格好をしていた。
ルナは、長野から苦労して担いできた古いギターケースを床に置き、ゆっくりと蓋を開けた。
内側には、故郷の山々を描いたシールが貼られている。
もう、とっくに色褪せていた。
東京に来て、三日目だった。
長野から持ってきたお金は、ほとんど残っていない。
遠い夢の話よりも、次の食事代の方が、今はずっと切実だった。
路上で歌うこと。
それが、彼女が思いついた、嘘をつかずにお金を得るための、たった一つの方法だった。
ルナは深く息を吸った。
濁った空気が胸に入り、指先が少しこわばる。
それでも彼女は、最初のコードを鳴らした。
古いギターから、少し掠れた木の音がこぼれた。
その音は、がらんとした地下通路に広がろうとして、すぐに四方から押し寄せる騒音に飲み込まれた。
遠くで、電車がホームに入ってくる甲高いブレーキ音がする。
改札のカードリーダーが、短く「ピッ」と鳴る。
スーツケースの車輪が、タイルの上を擦っていく。
何千、何万という靴音が、冷たい波のように通路を満たしている。
その中で、ルナは歌い始める。
声は澄んでいた。
けれど、緊張のせいで、ほんのわずかに震えていた。
歌っているのは、まだ名前のない曲だった。
雪のこと。
約束のこと。
待ち続けること。
ユイに捧げた歌だった。
ルナは目を閉じる。
心の中に、長野の雪山を思い浮かべた。
真っ白な山並み。
静かな空気。
音を吸い込むような雪。
その白さで、目の前にある巨大で騒がしい灰色の迷路に、どうにか抗おうとしていた。
けれど、ほとんどの人は彼女を見なかった。
人波は、感情のない川のように、彼女の横を流れていく。
足を止める人は、誰もいない。
時々、何人かの高校生が好奇心を含んだ目を向けた。
けれど、すぐに友人に促されて、流れの奥へ消えていった。
開いたギターケースの中は、空っぽのままだった。
黒い底だけが、ぽっかりと口を開けている。
もう、勇気が尽きかけていた。
この一曲を歌い終えたら、今日は終わりにしよう。
そう思った時だった。
ルナは、誰かの視線を感じた。
瞼の裏側で、気配だけが分かった。
通路の梁の陰。
そう遠くない場所に、誰かが立ち止まっている。
その視線は動かなかった。
静かに、まっすぐ、彼女の歌だけを聴いていた。
胸が、きゅっと締めつけられる。
ルナは、かえって強く歌った。
それが最後の足掻きであるかのように。
一曲が終わる。
最後のコードの余韻が、空気の中で数秒だけ震えた。
そして、地下通路の騒音の中へ、ゆっくりと溶けていった。
通路の向こうから、ごく小さな声が聞こえた気がした。
ため息のような。
あるいは、嗚咽のような。
けれど、それもすぐに消えた。
ルナが恐る恐る目を開けると、いつの間にか一人の女の子が目の前に立っていた。
首を少し傾げて、ルナをじっと見ている。
肩まで届く金髪のショートヘア。
根元からは、新しく伸びた黒髪が少し見えていた。
大きな黒いTシャツを着ている。
化粧はしていない。
目尻と小鼻のあたりには、薄いそばかすが散っていた。
その瞳は、まるで鋭いメスのようだった。
彼女は広瀬芽依。
のちに、メイと呼ばれることになる少女だった。
ルナは、その気ままで、どこか威圧感のある空気に圧倒され、心臓が一つ、鼓動を飛ばした。
メイの表情は複雑だった。
泣いたばかりのようにも見えた。
けれど、その瞳だけはもう冷静さを取り戻していた。
彼女は深く息を吸い込み、胸の奥に残っていた感情を押し込めるようにしてから、気だるい関西弁で口を開いた。
「あんた、この曲、自分で作ったんか?」
ルナは、反射的に頷いた。
「バンドは?」
「……組んでません」
ルナは小さく首を横に振った。
「ふうん」
メイは腕を組み、品定めするようにルナを上から下まで見た。
「声はまあまあやけど、死にかけの子犬みたいに震えとるな。ギターもぐちゃぐちゃやし」
その言葉は、どれも批判だった。
けれどルナには、不思議と分かった。
この人は、ちゃんと聴いてくれたのだ。
「あの、私……」
ルナが何か言おうとした。
だが、メイはその隙を与えなかった。
少し苛立たしげに「ちっ」と舌打ちすると、持っていたトートバッグの中を乱暴に探り、何も印字されていない小さな白い封筒を取り出した。
ルナが戸惑って見ている前で、メイはしゃがみ込んだ。
そして、その封筒を空っぽのギターケースの片隅に置いた。
乱暴な手つきではなかった。
けれど、優しさと呼ぶには少しぶっきらぼうだった。
「これは、さっきの曲の代金や」
メイは立ち上がった。
声には、相変わらずほとんど抑揚がなかった。
「次も歌で稼ぎたいんやったら、明日の夜十時、ここに来い」
そう言うと、彼女は別のポケットからペンを取り出し、手元のメモ用紙に素早く一行を書きつけた。
それも、ギターケースの中に放り込むのではなく、封筒の横にそっと置いた。
言い終えると、メイはもうルナを見なかった。
そのまま振り返ることなく、人波の中へ消えていく。
まるで最初から、そこにはいなかったかのように。
ルナは、しばらく動けなかった。
ゆっくりと視線を落とす。
ギターケースの片隅に、白い封筒と、住所の書かれたメモが置かれている。
「4番倉庫」
そこには、そう書かれていた。
ルナは恐る恐る、封筒をつまみ上げた。
中には、紙幣らしき厚みがあった。
けれど、いくら入っているのかは分からない。
すぐに開けることはできなかった。
ただ、両手でしっかりと握りしめた。
封筒は軽いはずなのに、手の中でやけに重かった。
メイの体温が、まだそこに残っているような気がした。
逃げるな。
そう言われている気がした。
それは、ルナが東京に来て初めて受け取った、名前のない敬意だった。
そして同時に、彼女の前に差し出された、最初の果たし状でもあった。
第二幕:ネットカフェの一夜と、五千円の重み
同日・深夜
ギターを背負ったルナは、行き場を失った小さな生き物のように、深夜になってもなお騒がしい渋谷の街を歩いていた。
メイの出現は、突然の嵐のようだった。
彼女の心に大きな波を立て、そして何も言わずに去っていった。
嵐が過ぎたあとに残ったのは、疲労と、戸惑いと、まだ少し熱を持った胸の奥だけだった。
ポケットの中には、数枚の硬貨しか残っていない。
それでは、一番安いラーメンすら食べられなかった。
今夜、どこで眠ればいいのだろう。
結局、ルナはぼんやりと光る雑居ビルの前で足を止めた。
大きく「24h」と書かれたガラスの自動ドアを押して、中へ入る。
ドアの向こうから、温かく乾いた空気が流れてきた。
外の湿った夜とは、まるで別の場所のようだった。
最初に目に飛び込んできたのは、天井近くまで伸びる本棚だった。
ぎっしりと漫画が詰め込まれている。
まるで、紙でできた森のようだった。
カウンターの奥では、ヘッドホンをつけた店員が、ぼんやりとスマートフォンをいじっていた。
ルナが近づくと、顔だけを上げ、決まりきった口調でプランを尋ねてきた。
「ナイトパック六時間で、お願いします」
ルナはポケットに残っていた硬貨を、一枚ずつ数えてカウンターに置いた。
そして、無理に礼儀正しい笑顔を作った。
店員は何も言わず、カードを差し出した。
そこには「B-27」と書かれていた。
濃い色の絨毯が敷かれた細い廊下は、迷路みたいに奥へ続いている。
その前に、ルナは隅にある無料のドリンクバーで足を止めた。
少し迷ってから、紙コップに熱いコーンスープを注ぐ。
それが、今日初めて口にした温かいものだった。
人工的な甘さのある液体が喉を通っていく。
それだけで、冷えきっていた体の奥に、ほんの少しだけ明かりが灯ったような気がした。
B-27のブースは、一人が入るだけでいっぱいになるほど狭かった。
リクライニングできる合皮のソファーチェア。
小さな机。
パソコンのモニターとキーボード。
それが、そこにあるすべてだった。
ルナは苦労して、大きなギターケースを壁際の隙間に押し込んだ。
それからソファーチェアに腰を下ろし、膝を抱えるようにして体を丸める。
長いため息が、勝手にこぼれた。
周りは静かだった。
聞こえるのは、パソコンのファンが低く鳴り続ける音。
エアコンの吹き出し口から漏れる、かすかな風の音。
そして隣のブースから、時々聞こえるマウスのクリック音だけだった。
ここには、無数の孤独が一時的に集まっている。
誰も彼女を邪魔しない。
誰も彼女を気にしない。
そのことが、少しだけありがたかった。
しばらくして、ルナは何かを思い出したように、ポケットへ手を入れた。
あの白い封筒が、そこにあった。
何も書かれていない封筒。
けれど、手に取ると、中に何か入っているのが指先で分かった。
ルナの心臓が、また勝手に速くなった。
彼女は封筒を、少し擦れて光沢のある机の上に置いた。
そして、大事なものを扱うみたいに、しばらく黙ってそれを見つめた。
毒舌なのに、不思議なくらい優しかった。
あのドラマーはいったい、何者なのだろう。
彼女はいったい誰なのだろう。
どうして、泣いたような顔をしていたのだろう。
なぜ、これを自分に渡したのだろう。
ルナは、震える指先で封を開けた。
モニターの青白い光の下で、封筒の口が少しだけ破れる。
中に手紙は入っていなかった。
丁寧に折り畳まれた紙幣が、一枚だけ入っていた。
息を止めるようにして、それを広げる。
――五千円札だった。
薄暗いブースの中で、樋口一葉の肖像が目に入った瞬間、ルナの頭の奥で、細い音が鳴った。
何も考えられなかった。
彼女は信じられない気持ちで、指先をそっと紙幣に触れた。
本物かどうかを確かめるように。
メイは言った。
これは、さっきの曲の代金や。
その言葉が、遅れて胸の奥に落ちてきた。
目頭が熱くなる。
こらえる間もなく、涙がこぼれた。
一滴。
二滴。
涙は五千円札の上に落ち、小さな濃い染みを作った。
ルナは慌てて指で拭おうとして、すぐに手を止めた。
汚してはいけない気がした。
これは、ただのお金ではなかった。
次の食事代だった。
今夜、雨風をしのぐための場所代だった。
そして何より、自分の歌に、初めて誰かが差し出してくれた対価だった。
ルナは、もう一度その紙幣を見つめた。
五千円。
大きすぎる。
けれど、足りない。
その重さが、胸の奥にゆっくり沈んでいく。
感謝と安堵のあとから、それよりも重いものが押し寄せてきた。
このままではいけない。
ルナは袖で涙を拭った。
さっきまで揺れていた瞳に、少しずつ、固い光が戻ってくる。
彼女は「4番倉庫」と書かれたメモを手に取った。
五千円札と一緒に、胸の前でしっかり握りしめる。
明日の夜十時。
行かなければならない。
恩に報いるためだけではなかった。
メイに証明したかった。
この五千円で終わらせたくない。
そう思った。
思いたかったのではなく、そう思わなければ、立っていられなかった。
その夜、ルナは東京に来てから初めて、少しだけ穏やかに眠った。
ソファーチェアをできるだけ平らに倒し、ギターを抱きかかえる。
五千円札とメモは、胸元に押し当てた。
夢は見なかった。
パソコンのファンが規則正しく鳴り続ける。
その低い音に包まれながら、ルナはいつの間にか、深く眠りに落ちていた。
第三幕:迷いの果て、4番倉庫
2023年3月27日・夜十時すぎ
もともとひどい方向音痴のルナにとって、夜の渋谷の路地裏は、悪意を持って組まれた迷路のようだった。
スマートフォンの地図に従って、どれも同じに見える角を何度も曲がる。
けれど画面の中の青い点は、酔ったように、いつまでもずれた場所をふらふら漂っていた。
故郷から持ってきた古いスマートフォンは、高いビルに細かく切り取られた夜空の下で、とっくに頼りにならなくなっていた。
「おかしい……ここのはずなんだけど……」
ルナは画面に向かって呟いた。
額には、焦りの汗が滲んでいる。
約束の時間は、夜の十時。
もう、十分も過ぎている。
昨日、五千円札と一緒に胸の奥で灯った小さな火は、道一つ見つけられない自分の情けなさに、今にも消されそうだった。
東京という街は、待ち合わせ場所にたどり着くことさえ、簡単には許してくれないらしい。
もう駄目かもしれない。
そう思いかけた時だった。
タバコと錆が混じったような、どこかで嗅いだことのある匂いがした。
顔を上げる。
路地の突き当たりに、古びた鉄の扉が見えた。
その扉には、白いスプレーで大きく、雑に「4」と書かれている。
見つけた。
ルナは息を吐き、足早に駆け寄った。
扉のそばの暗がりに、一人の影が寄りかかっていた。
指先のタバコが、赤く小さな火を灯している。
メイだった。
メイは、息を切らして駆け寄ってきたルナを見ると、眉をひそめた。
それからタバコの吸い殻を、足元の空き缶に押しつけて消した。
「田舎の子って、迷ったら交番行くもんちゃうん」
それが褒めているのか、からかっているのか、ルナには分からなかった。
「十分遅刻や」
「ご、ごめんなさい! その、道に迷って……」
ルナは顔を赤くして、慌てて頭を下げた。
「もうええわ。中入っとき」
メイはそれ以上何も言わず、重い鉄の扉を押した。
ルナは、その後について中へ入った。
倉庫の中は、想像していた通り、薄暗くて、少し散らかっていた。
古い機材の匂い。
ビールの匂い。
湿ったコンクリートの匂い。
カウンターの奥では、アロハシャツを着た、少し髪の薄い中年の男がグラスを拭いていた。
メイの顔を見ると、彼は口元を緩めた。
「おっ、メイ。今日は可愛い子ぉ連れてきたな」
メイは軽く頷いた。
「源さん、場所借りるで。一時間だけな」
源さんと呼ばれたオーナー、高田源一は肩をすくめた。
「今日は誰も練習してへんから、好きに使ってええぞ。あ、せやけどな……」
彼はステージの方を顎でしゃくり、冗談めかして続けた。
「今度は伸夫と一緒に、俺のモニタースピーカー蹴り落とすなよ。この前、二人して飲みすぎて、えらい損させられたんやからな」
(ユラのノート・日付不明)
ルナは後になって、あの時、源さんの言っている意味がまったく分からなかったと話してくれた。
その意味を知ったのは、ずっと後のことだ。
ある夜、みんなでメイの家に集まった時、メイが楽しそうに笑いながら、当時の恋人だった伸夫さんの酔っぱらいぶりを真似していた。
そこでルナは初めて、あの言葉の裏にあった出来事を知った。
数日前、メイが所属していた地下バンド「NAjNA」が、この4番倉庫でライブをした。
その時、ボーカルのサラが、格好つけてモニタースピーカーに足をかけたらしい。
酔っていたギタリストの伸夫さんも、それを真似した。
そして勢いよく、もう一つのモニタースピーカーを踏みつけた。
結果、高価なスピーカーはステージの下へ転がり落ちた。
それが、ルナにとって初めて拾った「NAjNA」という名前の欠片だった。
まだ意味も分からない。
形も分からない。
ただ、やけに濃い色をした、小さな欠片だった。
メイは源さんのからかいに、怒った様子を見せなかった。
むしろ面倒くさそうに、カウンターの方へ手を振った。
けれどその口元には、ルナにはまだ読み取れない、少しだけ気の抜けた笑みが浮かんでいた。
「はいはい、分かったから、源さん」
メイは語尾を少し伸ばした。
年上の親戚に甘えるような、気安い声だった。
「今日はめっちゃ優しーくするから」
そう言い終えると、メイはルナの方を向いた。
その瞬間、さっきまでの柔らかさは消えた。
また、何を考えているのか分からないドラマーの顔に戻っていた。
メイはルナを連れて、中央の小さなステージに上がった。
「弾けや」
背後から、メイの声がした。
気だるそうなのに、逃げ道を塞ぐ声だった。
「昨日の曲でええ。あんたが地面に座り込んで、泣きながら歌うだけの子犬やないってとこ、見せてみい」
メイの大阪弁は、ただの訛りではなかった。
東京に飼い慣らされまいとする、彼女なりの棘のように聞こえた。
ルナは深く息を吸った。
目を閉じる。
そして、一つ目のコードを鳴らした。
音が、がらんとした倉庫の中に広がる。
地下通路で歌った時よりも、ずっとはっきり響いた。
壁に当たり、床に落ち、また返ってくる。
声は、まだ少し震えていた。
けれど昨日とは違う。
そこには、一か八かの決意があった。
メイは最初、ルナの不安定なリズムを探るように、ハイハットを軽く叩いているだけだった。
けれど、サビに入った瞬間、メイの目の色が変わった。
ドラムの音が、急に重心を持つ。
一打一打が、まるで釘のように、ルナの揺れるメロディを繋ぎ止めていく。
バスドラムが歌声の足元を支え、スネアが感情を前へ押し出す。
シンバルが鳴るたびに、清らかで砕けるような光が散った。
それは、ルナの独白の上に、星屑を降らせているようだった。
(ユラのノート・日付不明)
ルナは後で、あの瞬間のことを何度か話してくれた。
メイのドラムが初めて自分の歌を支えてくれた時、もう一人ではないと思ったのだという。
歌は、ひとりで空に投げるものだと思っていた。
けれどあの夜、初めて誰かが、その歌の下に地面を作ってくれた。
そう言っていた。
メイの強いドラムに支えられて、ルナの歌声は、少しずつ安定していった。
錨を見つけた船のように。
ルナは目を閉じた。
歌の中で広がっていく景色は、もう目の前の薄暗い倉庫ではなかった。
太陽の光が降り注ぐ、月見館の二階。
月見館は、大正の初めに月村家の先祖が開いた、百年以上続く温泉旅館だった。
山の斜面に寄り添うように建つ古い木造の建物で、湯の匂いと畳の匂いが、ルナの子供時代そのもののように染みついている。
畳と檜の匂いがする、静かな和室。
ルナは机の前に正座し、古びた木箱を開けていた。
中には、ユイが松本から送ってくれた手紙が、何通か静かに横たわっている。
彼女は、手紙に書かれたユイの整った文字を指でなぞった。
そして、あの日、自分の心を決めさせた一文のところで指を止める。
――「あんたがやれるなら、私は待ってるから」
その瞬間、迷いは消えた。
ルナは箪笥から、使い古したスーツケースを引っ張り出した。
中に入れたのは、数着の服。
お気に入りの本を数冊。
首から下げている303号室の鍵。
それから、あの手紙だけだった。
夜明け前。
家族がまだ眠っている時間に、ルナは一人でスーツケースを引き、旅館「月見館」の古い木造の門の前に立った。
振り返る。
子供の頃からずっと自分を包み込んでくれていた、大きな看板がそこにあった。
ルナは、その看板に向かって、深く、深く頭を下げた。
それは別れだった。
そして同時に、嘘を抱えたまま家を出ていくことへの、謝罪でもあった。
戸倉駅行きの小さなバスは、山道を揺れながら走った。
そこから、見知らぬコンクリートの街へ向かう特急列車へ乗り継ぐ。
窓の外の景色は、青く連なる山々と川のきらめきから、少しずつ、密集した家々と電線へ変わっていった。
ルナは窓に寄りかかり、見慣れた故郷の景色が、視界の端へ少しずつ消えていくのを見ていた。
東京という、巨大で沈黙した街が、地平線の向こうで待っている。
怖くないわけではなかった。
けれどルナは、胸元の鍵を強く握りしめた。
その温かさだけが、あの時の彼女の勇気だった。
音がふっと、4番倉庫の薄暗い空気へ戻ってくる。
ルナは、故郷を離れた時の決意と孤独を、最後の音にすべて注ぎ込んだ。
目を開ける。
振り返って、メイをちらりと見る。
メイの額には、うっすらと汗が滲んでいた。
その瞳は、信じられないほど真剣だった。
さっきまでの気だるさは、もうどこにもない。
代わりに、燃えるような集中だけがあった。
二人の視線が空中ですれ違ったのは、一秒にも満たなかった。
それでもルナには分かった。
今、自分たちは音で会話している。
一曲が終わった。
最後のシンバルの残響が、倉庫の中にしばらく漂っていた。
残ったのは、二人の息遣いだけだった。
「……初めてです」
ルナが、震える声で言った。
「最後まで、一緒に叩いてくれた人」
メイは額の汗を拭い、いつものだらしない顔に戻った。
「ああ? 泣きそうになってんのかと思ったわ」
ルナは少し笑った。
「ほんとに、ちょっとだけ」
メイは立ち上がり、ドラムスティックを片付けながら、淡々と言った。
「勘違いすんなよ。あんたとバンド組むつもりはないからな。私には、私のやることがある」
ルナは力強く頷いた。
「分かってます。でも、今日はありがとうございました。本当に」
メイは何も言わなかった。
ただ軽く手を振ると、ステージを降り、隅にある冷蔵庫からビールを取り出した。
そして、一人で飲み始めた。
その時だった。
帰りかけたルナを、源さんが呼び止めた。
「おい、お嬢ちゃん。ちょっと待ちな」
源さんはカウンターの奥から出てきた。
手には、少し厚みのある封筒を持っている。
その仕草は、どこかぎこちなかった。
まるで、慣れない芝居をしているように。
「さっきな、客が言うてたんや。あんたの歌、良かったって」
源さんは封筒を差し出した。
「こっそりこれ置いてった。頑張りなはれ、やと」
その口調は、少しだけごまかしているようにも聞こえた。
ルナは呆然としたまま、封筒を受け取った。
手の中に、ずっしりとした紙幣の重みが伝わる。
言葉が出なかった。
メイは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
けれど表情は変えない。
ただ、ビールを飲み続けていた。
(ユラのノート・日付不明)
数年後のことだ。
ある晩、高田源一さんが酔っぱらって、冗談めかしてこの話をしてくれた。
その時になって初めて、ルナがあの夜受け取ったものが、客からのチップなんかではなかったことを知った。
ルナが帰ったあと、メイは源さんにこっそり近づいたらしい。
そしてトートバッグから札を取り出し、源さんのポケットに押し込んだ。
メイの目は冷静だった。
けれどその声は、いつになく真剣だったという。
「あの子、思ったより強いわ」
そう言って、メイは一万円を渡した。
「これは私からの賭けや。客からのチップやって嘘ついて、あの子に渡してやってくれ」
源さんは、その時少し呆然としたらしい。
メイの家が、決して裕福ではないことを知っていたからだ。
一万円は、彼女にとって小さな金額ではなかった。
それでも源さんは、メイの顔を見て、何も言わずに頷いた。
「あの子、ルナのことやけどな。一万円やって聞いたら、目ぇキラキラさせとったわ」
源さんは笑って言った。
「俺も、思わず懐に入れそうになったわ」
私たちは笑った。
けれど、その時私は初めて分かった気がした。
メイは、ただ偶然ルナを引き止めたわけではなかった。
たぶん最初から。
本人でさえ気づかないうちに。
彼女は、ルナという存在に、とてつもなく大きな賭けをしていたのだ。
時計の針は、もうとっくに午前零時を過ぎていた。
ルナはギターを背負った。
そして、メイの後ろ姿にもう一度、深く頭を下げた。
それから、あの重い鉄の扉を開けた。
第四幕:真夜中の帰り道と、コンビニの灯り
2023年3月27日・深夜
扉の外に出ると、夜風はひどく冷たかった。
それでも、ルナの胸の奥はまだ熱を持っていた。
彼女は五千円札を慎重に二つ折りにし、財布のいちばん奥へしまった。
そして、たった今受け取った一万円札は、別のポケットに入れた。
空を見上げる。
街の灯りを吸い込んだ夜空は、ぼんやりとオレンジ色に染まっていた。
もしかしたら、自分はこの街で生きていけるのかもしれない。
初めて、そんなふうに思えた。
頭の中ではまだ、メイと合わせた時のドラムが鳴っている。
誰かに聴かれたこと。
支えられたこと。
自分の声が、ひとりきりで宙に消えず、誰かの音に受け止められたこと。
その感覚が、温かい流れになって、体の内側をゆっくり巡っていた。
ルナはスマートフォンを取り出し、地図を開いた。
ここから昨夜のネットカフェまでは、歩いて二十五分ほどかかる。
電車はもう、とっくに止まっていた。
タクシー、という考えが一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、すぐに打ち消した。
五千円札は、命綱みたいなものだった。
一万円札は、これから数日を生き延びるためのお金だ。
無駄にはできない。
ルナはギターのストラップを締め直した。
そして、ネットカフェのある方角へ、一歩ずつ歩き始めた。
倉庫を出たばかりの興奮は、一人きりの帰り道の中で、深夜の冷たさに少しずつ冷やされていった。
通り過ぎる商店街は、昼間ならきっと賑わっているのだろう。
けれど今は、ほとんどの店がシャッターを下ろしていた。
数本の街灯だけが、薄い光を落としている。
その光に照らされて、ルナの影は細く長く伸びた。
誰もいない通りに、彼女の足音だけが響く。
はっきりと。
少し寂しく。
これが、現実だった。
音楽で心がどれほど熱くなっても、曲が終われば、彼女はまた一人になる。
ポケットには、使うことをためらうほど大切なお金しかない。
住む場所もない。
東京に来たばかりの、ただのよそ者だ。
メイはかっこよかった。
音楽のセンスも、圧倒的だった。
けれど彼女は、はっきり言った。
自分には、自分のやることがある、と。
あの一瞬の火花は、このまま消えてしまうのだろうか。
自分は、これからどうすればいいのだろう。
ルナは俯いたまま、黙って歩き続けた。
胸の奥を巡っていた熱は、少しずつ、夜の冷たさに置き換わっていく。
その時だった。
「ピンポーン」
電子音が、静かな商店街に小さく響いた。
顔を上げると、角にファミリーマートがあった。
暗い商店街の中で、その店だけが白く明るく光っている。
まるで、小さな灯台のようだった。
ルナは足を止めた。
曇りひとつないガラスの向こうで、若い店員が棚の商品を並べ直している。
その何気ない動きが、妙に生活らしく見えた。
温かいお茶を買おうか。
それとも、肉まんをひとつだけ。
そんな気持ちが、ふと湧いた。
けれどルナは、ポケットの中の紙幣にそっと触れた。
そして、何も買わないことにした。
しばらくのあいだ、彼女は店の前に立ったまま、その光を見つめていた。
その光は、何かを解決してくれるわけではない。
今夜の宿をくれるわけでもない。
明日の不安を消してくれるわけでもない。
ユイに会わせてくれるわけでもない。
それでも、そこに明かりがあるだけで、少しだけ息がしやすくなった。
この街に、完全に見捨てられたわけではない。
そんな気がした。
ルナは小さく息を吐いた。
そしてもう一度、ギターケースを背負い直す。
今夜も、自分にあるのは、あの狭いブースだけだ。
それでも彼女は、少しだけ軽くなった足で、ネットカフェへ向かって歩き始めた。
第五幕:ネットカフェの夢と、303号室の初めてのキス
2023年3月28日・午前零時
狭いブースの中で、ルナは昨夜のように地図を確認したり、明日の予定を考えたりはしなかった。
ただ、冷たいギターケースを抱きしめ、ソファーチェアの上で体を丸めていた。
胸の奥から、大きな悔しさが込み上げてくる。
どうして、ユイは何も言わずにいなくなってしまったのだろう。
もしユイがまだそばにいたら。
今頃、二人でギターを弾いていただろうか。
今日の自分とメイみたいに、音を合わせて、笑っていただろうか。
涙が、音もなく袖を濡らした。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
果てのない疲れと悲しみの底で、ルナはいつの間にか眠りに落ちていた。
【夢の始まり】
……高校一年生の春に戻っていた。
四月。
新学期が始まったばかりの長野は、まだ少し肌寒かった。
それでも陽の光は、もう春の色をしていた。
桜はちょうど満開で、風が吹くたびに、淡い花びらが雪のように舞い散る。
止むことのない、やわらかな雪のようだった。
真新しい制服を着たルナは、まだ中学生の頃の幼さを少し残していた。
知らない校舎。
知らない廊下。
知らない人たち。
戸惑いながら校内を歩いていると、風に乗って、澄んだギターの音が聞こえてきた。
その音に重なるように、清らかな歌声が流れてくる。
ルナは足を止めた。
音のする方へ向かうと、部室のそばの一階廊下に、一人の先輩がいた。
開け放たれた窓にもたれ、座ったままギターを弾いている。
ユイだった。
春の風が、ユイのさらさらした髪を揺らしていた。
降り注ぐ陽の光が、彼女の輪郭をやわらかく包んでいる。
ユイの歌声は、ルナの少し掠れた声とは違っていた。
山の渓流みたいに澄んでいて、まっすぐで。
聴いている人の胸の中へ、静かに流れ込んでくるようだった。
ルナは、ただ見とれていた。
その光景が、今まで見たどんな絵よりも美しいと思った。
ユイは、ルナの視線に気づいたようだった。
最後の音を歌い終え、顔を上げる。
二人の目が、ぴたりと合った。
ユイは少しも驚かなかった。
ただ、太陽の光みたいに温かい、優しい笑みを浮かべた。
その笑顔は、湖面に落ちた小石のように、ルナの心に小さな波紋を広げていった。
波紋は広がり、時間と場所の境目を少しずつ曖昧にしていく。
高校の校舎。
舞い散る桜。
春の風。
それらがゆっくり薄れていき、代わりに現れたのは、もう一つの見慣れた場所だった。
月見館。
大正の初めから続く、月村家の温泉旅館。
ルナにとっては、家であり、仕事場であり、子供時代の匂いそのものだった。
陽の光が降り注ぐ、家の長い廊下。
夏の蝉の声が、いつの間にか校内のチャイムの音に重なっていた。
ユイはアルバイトとして、ルナと一緒に旅館の廊下を拭いている。
太陽に温められた木の廊下。
水を張ったバケツ。
固く絞った雑巾。
二人は床を拭きながら、楽しそうに話していた。
音楽のこと。
学校のこと。
どうでもいい、けれどその時の二人には大切だったこと。
ユイの明るい笑い声と、ルナの少し弾んだ笑い声が、がらんとした旅館の中で混ざり合う。
その声は、軒先に吊るされた風鈴の音と重なっていた。
チリン、チリン。
その音に導かれるように、ルナは障子を開けた。
その奥にあったのは、二人だけの秘密基地だった。
三百三号室。
旅館の中でも、いちばん奥まった場所にある和室。
畳の清らかな匂いがして、窓の外の風鈴の音が、すぐそばに聞こえる部屋だった。
ユイが、後ろからルナを抱きしめている。
ルナの指は、まだぎこちなくコードを押さえていた。
その上に、ユイの温かい手がそっと重なる。
「ここは、指の先を立てて。そうしないと、他の弦に当たっちゃうから……」
ユイの声が、耳元でやわらかく響いた。
吐息が少しかかって、くすぐったい。
その近さに、ルナの心臓はどんどん速くなっていった。
ギターを抱えていることさえ、急に難しくなる。
ユイから、石鹸のような淡い匂いがした。
それは旅館の洗面所で使っているものと同じ匂いのはずなのに、ユイから漂ってくるだけで、まるで別のものみたいだった。
ルナは動けなかった。
怖かったわけではない。
嫌だったわけでもない。
ただ、自分の体が、自分のものではなくなってしまったようだった。
ユイの手の温かさ。
背中に触れる腕のやわらかさ。
耳元に残る声。
石鹸みたいな匂い。
その一つひとつが、ルナの中に沈んでいく。
言葉にするには早すぎて、理解するには近すぎる感情だった。
女の子同士だから、とか。
こんなことをしていいのだろうか、とか。
そんな言葉は、その時のルナの中にはまだなかった。
ただ、ユイが近い。
そのことだけで、胸が苦しいくらい満たされていた。
ユイが、少しだけ顔を覗き込んだ。
その優しい瞳と、視線が合う。
二人は、しばらく見つめ合った。
空気が、そこで止まったようだった。
時間の流れが、ひどくゆっくりになる。
ユイが、少しずつ近づいてくる。
ルナには、ユイの長い睫毛が、かすかに震えているのが見えた。
そして。
やわらかく温かいキスが、ルナの唇にそっと落ちた。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
世界中の音が、遠くへ引いていく。
窓の外の風鈴の音さえ、聞こえなくなった。
ルナの感覚は、唇に触れたその温かさと、ユイの近さだけに集まっていた。
それは、激しいキスではなかった。
何かを奪うものでも、急かすものでもなかった。
むしろ、確かめるような。
ずっと言葉にできなかった気持ちを、そっと分け合うようなキスだった。
けれど、ルナの中の何かを、確かに変えてしまうには十分だった。
柔らかくて、温かくて。
あまりにも自然だった。
それまでルナは、女の子同士がこんなふうになることを、はっきり考えたことがなかった。
けれどユイの唇が触れた時、違和感は少しもなかった。
間違っているとも思わなかった。
むしろ、これまでの人生で一度も感じたことがないほど、自然だった。
ずっと失くしていた小さな欠片が、ようやく正しい場所にはまったようだった。
今までぼんやりしていた「好き」という気持ちが、その瞬間、初めて形を持った。
ああ、私はこの人が好きなんだ。
友達としてでも、憧れとしてでもなく。
その事実だけが、怖いほど静かに、ルナの胸の奥へ落ちていった。
ただこの人のそばにいたい。
できるなら、ずっと。
世界が静止してしまったような安心感。
自分がこんなにも優しく触れられているのだと気づいた時の、胸が痛くなるほどの喜び。
それは、ルナが初めて知った種類の幸福だった。
どれくらい時間が経ったのかは分からない。
一秒だったのかもしれない。
もっと長かったのかもしれない。
ルナは本能のように、静かに目を閉じた。
この瞬間を、忘れたくなかった。
【夢の終わり】
ルナは、はっと目を開けた。
目の前に、ユイはいなかった。
三百三号室もない。
あるのは、ネットカフェの狭いブース。
単調なデスクトップ画面。
そして、パソコンのファンが鳴らし続ける冷たい駆動音だけだった。
ルナは無意識に手を伸ばし、自分の唇にそっと触れた。
そこには、まだ夢の中の温かさが残っているような気がした。
あの時、自分を満たしてくれた安心感も。
初めて、自分の気持ちに形が与えられた、あの感覚も。
けれど、指先に触れたのは、自分の唇だけだった。
大きな喪失感が、瞬く間に胸の奥へ広がっていく。
一筋の涙が、目尻からこぼれた。
それは音もなく、合皮のソファーに落ちて消えた。
夢が完全であればあるほど、目覚めたあとの現実は、脆く崩れていく。
第六幕:夜明けのエレベーターと、雪国の約束
2023年3月28日・午前六時半
やわらかく繰り返される電子音が、ルナを浅い眠りから引き上げた。
ブースのパソコン画面に、小さなウィンドウが表示されていた。
「ご利用時間が終了いたします。退室のご準備をお願いします。」
その文字が、無言で点滅していた。
六時間が、終わったのだ。
ルナはゆっくりと体を起こした。
夢の甘さと喪失感が、まだ薄い霧のように胸の奥に残っている。
長く眠ったような気もするし、一睡もしていないような気もした。
不自然な姿勢で眠ったせいで、体のあちこちが痛い。
ルナは、あの大切な五千円札とメモを丁寧にしまった。
そして、自分よりも大事な古いギターを背負う。
片手には、数着の着替えが入ったスーツケース代わりの袋を持った。
ブースの扉を開ける。
早朝のネットカフェの廊下には、夜の名残のような奇妙な匂いが漂っていた。
かすかなタバコの匂い。
カップ麺の油の匂い。
密閉された空間で夜を過ごした人たちの、疲れた匂い。
ガラスの自動ドアが開いた瞬間、東京の夜明けの冷たい空気が流れ込んできた。
ルナは思わず身震いした。
空は、もう明るかった。
荷物を抱えたまま、ルナは古びたエレベーターに乗り込んだ。
中は少し湿っぽく、金属の壁には、ぼんやり疲れた自分の姿が映っている。
その背中には、体よりも大きく見えるギターケースがあった。
ルナは「1」のボタンを押した。
黄色いランプが点き、扉がゆっくり閉まり始める。
その扉が閉まりきる直前、細い手が差し込まれた。
センサーが反応し、扉がもう一度開く。
入ってきたのは、五十歳くらいの背の高い女性だった。
少し猫背気味で、濃紺のトレンチコートに、色褪せたジーンズを合わせている。
足元は、履き古した白いキャンバスシューズだった。
疲れているように見えたが、顔立ちははっきりしていた。
鼻筋が通り、口元には、長い時間を生きてきた人特有の静かな影がある。
左目の下には、小さな、けれどはっきりとしたホクロがあった。
手には、買ったばかりらしい小麦粉の袋と、水筒を持っている。
袖口には、白い粉が少しついていた。
女性はルナの向かいに立った。
そして落ち着いた顔のまま、何も言わなかった。
エレベーターの扉が閉まった。
狭い箱の中には、蛍光灯のかすかな電流音だけが響いていた。
女性はルナと、その大きな荷物をちらりと見た。
それから、何気ない調子で尋ねた。
「この上にお住まい?」
極度の疲れでぼんやりしていたルナは、ほとんど反射的に答えた。
「あ……六階、だに……」
思わず、信州の言葉が出てしまった。
ルナは顔が熱くなるのを感じ、慌てて言い直した。
「あ、いえ、六階です」
女性は横目でルナを見た。
口元が、一瞬だけ、ごく薄く笑ったように見えた。
その時だった。
エレベーターが突然、ガクンと大きく揺れた。
耳障りな金属音が響き、箱は急に止まる。
頭上の照明が二度点滅し、薄暗い非常灯だけが残った。
ルナは思わず息を呑んだ。
「え……」
狭い箱の中で、古い機械の低い唸りだけが残っている。
女性は驚いた様子を見せなかった。
落ち着いた手つきで非常ボタンを押し、インターホンに向かって状況を伝える。
しばらくして、くぐもった声が返ってきた。
「確認しますので、そのままお待ちください」
それきり、エレベーターの中に短い沈黙が落ちた。
非常灯の淡い光が、二人の顔をぼんやり照らしている。
ルナはギターケースのストラップを握りしめた。
胸の奥が、嫌な音を立てている。
閉じ込められたことへの怖さなのか。
この数日間、ずっと張りつめていた疲れなのか。
それとも、さっき夢で見たユイの温もりが、まだ体のどこかに残っているせいなのか。
自分でも分からなかった。
女性は、そんなルナを責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ静かに立っていた。
その静けさが、かえってルナの胸の奥に触れた。
「東京には、仕事で?」
女性が、さっきと同じ穏やかな声で尋ねた。
「あ、はい」
ルナは慌てて頷いた。
けれど、すぐにその答えは違うような気がした。
彼女は俯き、履き古したキャンバスシューズのつま先を見つめた。
そして、自分の心に打ち明けるように、少しずつ声を小さくしていった。
「長野から来ました」
「……仕事、というわけでもないんですけど」
「友人と、約束があって」
この数日間の緊張のせいか。
眠れていないせいか。
それとも、止まったエレベーターの中で、逃げ場がなくなったせいか。
ルナの中で張り詰めていた糸が、ふいに緩んだ。
彼女は顔を上げないまま、蚊の鳴くような声で続けた。
「でも、来てみたら、ずっと連絡が取れなくて……」
その言葉が落ちた瞬間、ルナの意識は、行き場のない喪失感と一緒に、あの雪の日へ引き戻されていった。
まだ、ユイの温もりが近くにあった頃の朝へ。
(ユラのノート・日付不明)
ユイのことを、ルナはめったに話さない。
けれど本当に弱っている時、記憶の欠片は、本人の意志とは関係なくこぼれ落ちることがある。
あの止まったエレベーターの中で、見知らぬ女性にこぼしてしまった言葉も、きっとその一つだったのだと思う。
松本の雪。
小さな部屋。
そして、ルナの人生を東京へ向かわせた、あの約束。
【回想の始まり】
それは、松本の短大に通っていた頃のことだった。
ルナとユイが二人で借りていた、小さなアパートの部屋。
窓の外では、粉雪が舞っていた。
街全体が、白く静かに染まっている。
松本の雪は、ルナの故郷である千曲の雪に少し似ていた。
大きく、厚く、街を囲む山々をやさしく覆い隠してしまう。
けれど、部屋の中は暖かかった。
ルナは、ユイより先に目を覚ました。
体の奥に、昨夜の名残がまだ少し残っていた。
首筋の近くには、ユイの穏やかな寝息がかかっている。
腰に回された腕が、温かかった。
ルナは静かに寝返りを打った。
ユイの寝顔は、安心しきった子どものように穏やかだった。
それを見ていると、胸の奥がやわらかくほどけていく。
ルナは思わず身を乗り出し、ユイの額にそっとキスを落とした。
起こさないように。
冷たい空気を立てないように。
そっとベッドを抜け出す。
部屋は狭く、仕切りもない。
ルナは箪笥の前まで歩き、今日着ていく服を探し始めた。
二人にとって、それはもう、ごく自然な朝の風景だった。
「……ルナ」
いつの間にか目を覚ましていたユイが、ベッドの上でうつ伏せになっていた。
布団にくるまったまま、眠たげな顔だけを覗かせている。
「昨日の夜さ、夢でね、私たちが東京のライブハウスでライブやってたんだよ」
「え?」
素っ気ないTシャツを手にしていたルナが、振り返った。
「東京で?」
「うん、東京」
ユイは起き上がった。
布団が肩から少し滑り落ち、朝の光が白い肌を淡く照らしていた。
その瞳は、雪明かりを映したように輝いている。
「卒業したら、二人で東京に行ってみない? もっと大きな世界を見て、本当のステージで歌ってみようよ。きっと楽しいよ!」
ルナは、光に包まれたユイを見つめた。
胸の中に、迷いが生まれる。
東京は、遠すぎた。
あまりにも大きすぎた。
ルナには、そんな野心はなかった。
そんな勇気もなかった。
ただ、今みたいに、静かにユイのそばにいられればよかった。
それだけで十分だった。
ユイは、ルナの臆病さを見抜いたかのように微笑んだ。
そしてベッドから降り、薄いブランケットを体に緩く巻いたまま、ルナの後ろへ回った。
ジーンズを履こうとしていたルナを、そっと抱きしめる。
ユイはルナの首筋に顔を寄せ、その肩に、羽のように軽いキスを落とした。
「ルナが何を怖がってるか、知ってるよ」
ユイはルナの肩に顎を乗せた。
その声はやわらかかったが、不思議なほどまっすぐだった。
「でもね、二人で一緒なら、何だってできる気がする。ルナが隣にいてくれたら、私はどんなことにも挑戦できる勇気が持てるんだ」
ルナは、背中から伝わるユイの温かさを感じていた。
近くにある心臓の鼓動。
肌越しに伝わる体温。
肩に残る、さっきのキスの感触。
不安も、臆病さも、そのぬくもりの中で、少しずつほどけていくようだった。
ルナは顔を上げた。
鏡の中に、ユイの真剣な顔が映っている。
「……ユイが行くなら」
ルナは小さな声で言った。
「うん?」
「私も行く」
ルナは振り返った。
そして初めて、自分からユイの瞳をまっすぐ見つめた。
怖かった。
けれど、逃げたくなかった。
「ユイと一緒なら、どこへでも行けるから」
ユイの表情が、ぱっと明るくなった。
「約束だよ!」
そう言って、ユイはルナを強く抱きしめた。
それが、二人の約束だった。
東京を舞台に、ユイが夢に火をつけ、ルナがその夢を追いかける。
二人で行けば、きっと何かが始まる。
そう信じていた約束だった。
【回想の終わり】
ルナの瞳は虚ろだった。
雪の降る、あの暖かい朝に、まだ心だけが留まっている。
非常灯の薄い光の下、エレベーターの扉には、ぼやけた自分の姿が映っていた。
ルナはまるで、そこにユイの笑顔を探しているようだった。
この数日で積もりに積もった悔しさ。
戸惑い。
恋しさ。
それらが一気に溢れ、胸の奥に押し込めていたものを、もう止められなくしていく。
そして、ほとんど聞こえないほど小さな呟きになった。
「ただ、もう一度会いたいだけ」
「ただ、どうしてなのか聞きたいだけなの。それだけなのに」
その声は、夢の中の言葉のように、狭い箱の中へ消えていった。
インターホンから、小さなノイズ混じりの声が聞こえた。
「お待たせしました。まもなく動きます」
その声が、回想の中にいたルナを現実へ引き戻した。
ルナは、はっとして顔を上げる。
最初に目に入ったのは、点滅する階数表示ではなかった。
向かいに立っている女性の、底の見えない静かな瞳だった。
ルナの頭の中で、細い音が鳴った。
そこで初めて気づいた。
自分は、独り言を言っていたのではなかった。
心のいちばん深いところにある秘密を、まったく知らない他人に話してしまっていたのだ。
羞恥心が、一気に押し寄せた。
頬が熱くなる。
首から耳まで赤くなっていくのが分かった。
今すぐ、この場から消えてしまいたかった。
ルナは慌てて体を向け直し、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「突然、見ず知らずの人にこんなこと、本当に申し訳ありません!」
女性は、しばらく黙ってルナを見つめていた。
そして、ようやく口を開いた。
その声は、さっきと同じように穏やかだった。
けれど、ルナの中で渦巻いていた混乱に、小さな石を投げ込むような響きがあった。
「東京は、答えをくれる街じゃない」
その時、エレベーターが低く唸り、ゆっくりと動き出した。
照明が正常に戻り、箱はわずかに揺れながら、再び下へ降りていく。
やがて、静かな音を立てて扉が開いた。
女性は荷物を持ち、外へ出た。
扉が閉まる直前、女性は振り返った。
まだ頭を下げたまま、困惑しきっているルナに向かって、言葉の続きを静かに告げる。
「でもね、答えがなくても生きていけるようになるまで、ここにいさせてくれる」
扉が、ゆっくりと閉まった。
女性の姿は、朝の光の向こうへ消えていった。
第七幕:銭湯と練習曲、夕暮れの風鈴
2023年3月28日・午前七時
ビルを出て、朝の光の下に立った時、ルナは自分の服を見下ろした。
スーツケース代わりの袋の中には、最後のきれいなTシャツが一枚だけ残っている。
この数日、ネットカフェで過ごした体には、あの場所特有のこもった匂いが染みついていた。
肌もべたついていて、気持ちが悪い。
店のショーウィンドウの前を通り過ぎた時、ガラスに映った自分の姿が目に入った。
脂っぽくなった髪。
疲れの滲んだ目。
血の気の薄い顔。
ルナは思わず眉をひそめた。
駄目だ。
このままじゃいけない。
彼女はスマートフォンで地図を開き、近くの松屋を探した。
まずは、何か食べよう。
そう決めた。
店に入り、食券機の前に立つ。
ルナの視線は、いちばん安い朝定食で止まった。
三百八十円。
彼女はポケットから一万円札を取り出し、少しだけためらってから、券売機に差し込んだ。
あの女性の言葉が、ふと頭をよぎる。
答えがなくても生きていけるようになるまで、ここにいさせてくれる。
そうだ。
生きていなければ、答えを待つこともできない。
朝食はすぐに運ばれてきた。
湯気の立つ白いご飯。
生卵。
納豆。
それから、温かい味噌汁。
ルナは黙って食べた。
味噌汁の湯気が顔にかかり、冷えきっていた鼻先を少しずつ温めてくれる。
最後の一口を飲み込む頃には、体の奥に、ほんの少し力が戻っていた。
食後、ルナは地図を頼りに、近くの銭湯へ向かった。
銭湯の湯気は、思っていたよりもずっと濃かった。
服を脱ぎ、体を洗い、広い湯船にそっと足を入れる。
熱さに思わず息をのんだ。
けれど、その熱はすぐに、こわばった筋肉の奥へじんわり染み込んでいった。
ルナは肩まで湯に沈み、長く息を吐いた。
熱い。
でも、気持ちいい。
そのまっすぐで容赦のない熱さが、何日も張り詰めていた神経を、少しずつほどいていく。
ふと、実家の月見館の温泉を思い出した。
あそこの湯は、もっとやわらかかった。
窓の外の景色も、ずっときれいだった。
けれど、その懐かしさはすぐに湯気の中へ消えた。
今のルナに必要なのは、ゆっくり楽しむための温泉ではなかった。
疲れも、不安も、ネットカフェの匂いも、昨日から抱えていた恥ずかしさも、全部まとめて洗い流してくれるような、この荒っぽい熱さだった。
汗が滲み、体の中にたまっていた重さが、少しずつ抜けていく。
べたつきも。
挫折感も。
エレベーターで取り乱した時の羞恥心さえも。
湯気と一緒に、どこかへ立ちのぼっていくようだった。
湯船から上がる頃には、ルナの体には、懐かしさよりも先に、奇妙なほどさっぱりとした決意が残っていた。
シャワーを浴び、最後のきれいなTシャツとジーンズに着替える。
それだけで、少しだけ生まれ変わったような気がした。
銭湯を出たルナは、その隣にあるコインランドリーへ入った。
袋に入っていた汚れた服をすべて取り出し、今脱いだばかりのカーキ色の上着も一緒に、洗濯機へ放り込む。
洗濯と乾燥には、しばらく時間がかかる。
その場で待っているつもりはなかった。
ルナはギターを背負い直した。
昨夜、メイのドラムに支えられた時の感覚が、まだ体のどこかに残っている。
あれを忘れないうちに、もう一度弾いてみたかった。
少し歩いた先に、小さな公園があった。
地域の人しか使わないような、静かな公園だった。
午後の日差しは暖かく、目に痛いほどではない。
ルナは隅のベンチに腰を下ろし、ギターケースを開けた。
今回の目的は、はっきりしていた。
練習すること。
それから、もし今夜のネットカフェ代くらい稼げたら、という小さな期待。
ルナは、昨夜のメイのドラムを思い出しながら、ゆっくりとコードを鳴らした。
リズムを安定させる。
コードの切り替えを、少しでも滑らかにする。
声を、音の上にちゃんと乗せる。
歌っているのは、相変わらずユイに捧げた曲だった。
けれど、昨日とは感触が違っていた。
そこには、絶望に混じった泣き声はなかった。
代わりにあったのは、メロディを少しでも正しい形に近づけようとする、静かな集中だった。
通りかかった人が、少しずつ足を止め始める。
遠巻きに聴いている人が、数人いた。
犬の散歩をしていた年配の女性は、ルナの前を通る時、小さく微笑んで頷いてくれた。
ルナは、あえてその反応を追わなかった。
ただ、自分の音の中に沈んでいた。
夕方の光が、彼女の横顔とギターのボディに降り注ぐ。
木目の上に、やわらかな金色の層が重なっていく。
空が少しずつ暗くなり、街灯が一つ、また一つと灯り始めた頃、ルナはようやく演奏を止めた。
時間は、もう夕方六時半を過ぎていた。
ギターケースの中をちらりと見る。
空っぽだった。
ルナは、自嘲気味に小さく笑った。
静かに練習しているだけでお金を稼ごうなんて、やっぱり甘かったらしい。
けれど、不思議と落ち込んではいなかった。
今日の午後、彼女は少しだけ取り戻したのだと思う。
自信というには、まだ小さすぎるもの。
けれど、確かに自分の中に残ったもの。
音楽は、ただ気持ちを吐き出すためだけのものではない。
誰かに届くように、形を整えていくものでもある。
そんなことを、少しだけ分かった気がした。
ルナはギターを片付け、コインランドリーへ戻った。
乾いた洗濯物からは、石鹸のいい匂いがした。
それを袋に詰めて背負うと、空腹を思い出したように、お腹が小さく鳴った。
まずは夕食を食べよう。
それから、今夜泊まるネットカフェを探そう。
そう決めて、ルナは公園を出た。
見慣れない小さな路地に入った時だった。
チリン。
高く澄んだ、心地よい音がした。
続いて、濃いコーヒーの香りが風に混じって流れてくる。
ルナは足を止め、顔を上げた。
そこには、小さな喫茶店があった。
入口のそばには、古風な風鈴が吊るされている。
店内から漏れる灯りは、やわらかな黄色をしていた。
それは、夕暮れの路地の中で、ひどくあたたかく見えた。
第八幕:路地の風鈴と、信州の善意
2023年3月28日・夕方六時半
ルナは路地の入口に立っていた。
片手には、まだ少し温かい半額弁当の入った袋。
背中には、古いギターケース。
目の前には、小さな喫茶店があった。
路地の角に建つ、古い建物を改装したらしい二階建ての店だった。
外壁は明るいグレーで整えられ、正面には大きなガラス窓が二面に開いている。
木枠の扉の上には、手書きの看板が掛かっていた。
「喫茶 風鈴珈琲」
丸みのある文字で、そう書かれている。
入口には、江戸切子の小さな風鈴が吊るされていた。
夕方の風が通るたびに、チリン、チリン、と澄んだ音を立てる。
ガラス越しに見える店内は、ルナが想像していた喫茶店よりも、ずっと現代的だった。
淡いグレーの壁。
余分な装飾を削ぎ落とした、明るい木のカウンター。
窓際に等間隔で並ぶ、小さなテーブルと椅子。
奥には、手入れの行き届いたコーヒーマシンと、整然と並べられたカップが見える。
広すぎるわけではない。
けれど、不思議と息苦しさがなかった。
古い建物の面影を残したまま、今の感覚で丁寧に整えられた店。
そんなふうに見えた。
ここ数日、ルナが見てきた東京とは違っていた。
渋谷の騒がしさとも。
ネットカフェのこもった空気とも。
コンビニの白すぎる光とも違う。
ここだけ、少し時間の流れが遅いように見えた。
ルナの視線は、やがてガラス窓に貼られた一枚の紙で止まった。
少し色褪せた紙に、マジックで手書きの文字が並んでいる。
「アルバイト募集」
時給:1,200円~(経験者優遇)
勤務時間:週2~3日、1日6~8時間
時間帯:朝11時~夜7時の間で応相談
仕事内容:接客、簡単なドリンク作りの補助
ルナの心臓が、一つ、勝手に大きく跳ねた。
その時だった。
喫茶店の木製の扉が、内側から開いた。
見覚えのある人影が出てくる。
その女性は腰をかがめ、入口に置かれていた「営業中」の木札を裏返そうとしていた。
朝、エレベーターで出会った、あの女性だった。
ルナの体は、一瞬で硬くなった。
思わず、路地の陰に隠れそうになる。
けれど、すぐに踏みとどまった。
逃げても、何も変わらない。
銭湯で、自分にそう言い聞かせたばかりだった。
ルナは深く息を吸った。
スーツケース代わりの袋とギターケースを持ち直し、まっすぐ店の方へ歩き出す。
女性はルナの気配に気づいたようだった。
ゆっくりと体を起こし、こちらを見る。
二人の視線が重なった。
その瞳は、朝と同じように穏やかだった。
ルナは女性の前で立ち止まり、少し緊張しながらも、丁寧に頭を下げた。
「こんばんは」
声は大きくなかった。
けれど、はっきりと出た。
「外のアルバイト募集の張り紙を見て……少し、お話を伺いたくて」
女性は、ルナを見つめた。
それから、ほんの少し目元をゆるめた。
「ああ。朝、エレベーターで会った子ね」
覚えられていた。
そう思った途端、ルナの頬が熱くなる。
彼女は慌てて、もう一度頭を下げた。
「はい。朝は、失礼しました。月村結月と申します」
女性も、静かに頷いた。
「橘です」
それから橘は、店の看板をちらりと見て、少しだけ笑った。
「店の名前は、風鈴珈琲。常連さんたちは、私のことを風鈴さんって呼ぶけれどね」
ルナはもう一度、小さく頭を下げた。
橘は木札を裏返し、「準備中」にしてから、店の扉を少し開けたまま尋ねた。
「喫茶店で働いたことはある?」
「喫茶店は、ありません」
ルナは正直に答えた。
「でも、実家が長野で温泉旅館をやっていて、小さい頃から接客や掃除の手伝いはしていました。なので、人と接する仕事は、少しだけ慣れています」
そこまで言ってから、少しだけ目を伏せる。
「ただ、コーヒーのことは、あまり詳しくなくて……」
橘は落胆した様子を見せなかった。
むしろ、その笑みは少しだけ深くなった。
「接客ができるなら十分よ。コーヒーは、これから覚えればいいから」
その言葉に、ルナの肩の力が少し抜けた。
橘はいくつか簡単な質問をした。
いつから働けるか。
どれくらい入れるか。
東京にはどれくらいいるつもりなのか。
そして、ふと少しだけ表情を曇らせた。
「東京に来て、どのくらい?」
「まだ、五日目です」
ルナは答えた。
「今は、ネットカフェに泊まっていて……これから部屋を探そうと思っています」
言い終える頃には、声が小さくなっていた。
恥ずかしさが、喉の奥に引っかかる。
「そう」
橘は静かに言った。
その声には、驚きよりも、理解に近いものがあった。
そして、少しだけ痛みのようなものも。
「女の子が東京でネットカフェ暮らしというのは、少し心配ね」
橘は振り返り、店の二階を指さした。
「この店の屋根裏に、小さな部屋があるの。普段は使っていないけれど、掃除はしてあるわ」
ルナは思わず顔を上げた。
「寝るだけなら、十分だと思う。もしよかったら、しばらくそこを使いなさい」
「え……」
「お昼は店で出せるし、まかないもある。全部すぐに整うわけじゃないけれど、ネットカフェよりは、ずっとましだと思うわ」
その突然の温かさに、ルナは息をのんだ。
手に持っていた弁当の袋が、少し音を立てる。
「本当に……いいんですか?」
「いいわよ」
橘は、当たり前のことのように言った。
「困っている子を見て、放っておけるほど、私は都会の人間になりきれなかったの」
ルナは何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
けれど、胸の奥に渦巻く戸惑いは消えなかった。
こんなに優しくされる理由が、分からなかった。
ルナは顔を上げ、思わず尋ねた。
「でも……どうして、私にそこまでしてくださるんですか?」
橘は少しだけ黙った。
それから、懐かしむように微笑んだ。
「私も、松本の出身なの」
ルナは目を見開いた。
「松本……」
「あなたを見ていたら、昔の自分を少し思い出したのよ」
橘は路地の向こうへ、少しだけ視線をやった。
「田舎から東京に出てきて、何も分からなくて、それでも何かを探していた頃の自分をね」
風鈴が、チリン、と鳴った。
橘は、少し照れたように笑った。
「まあ、信州の子を見かけたら、ほっとけないじゃんね」
その語尾に、ほんの少しだけ故郷の響きが混じっていた。
ルナの胸が、小さく揺れた。
東京に来てから初めて聞いた、故郷に近い言葉だった。
橘は再びルナの方を向いた。
その目は穏やかだったが、声には芯があった。
「どう? うちで働いてくれる?」
その瞬間、ルナの目が赤く潤んだ。
もう、迷いはなかった。
彼女は強く頷いた。
声には、抑えきれない涙が混じっていた。
「はい。ぜひ……よろしくお願いします」
「じゃあ、決まりね」
橘は微笑んだ。
「ちょうど閉店作業の時間だから、手伝ってくれる? 終わったら、屋根裏で休んでいいから」
そして橘は、声を少しやわらげて付け加えた。
「無理しなくていいからね。今日はまず、あったかいものでも飲みな」
その言葉に、ルナは思わず唇を噛んだ。
泣いてしまいそうだった。
「はい……ありがとうございます」
ルナは何度も頭を下げた。
そして弁当の袋をカウンターの端に置くと、慌てて雑巾を手に取り、テーブルを拭き始めた。
木のテーブルには、昼間の誰かが残していったコーヒーの香りが、まだかすかに残っていた。
入口の風鈴が、もう一度鳴った。
チリン。
その音は、もう見知らぬ音ではなかった。
ルナにとってそれは、東京に来て初めて聞いた、帰る場所を知らせてくれる音だった。
第九幕:屋根裏の光と、真夜中のメッセージ
橘を手伝って、テーブルを拭いたり、グラスを洗ったりしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
夜八時前には、店内はすっかり片づいていた。
「よし、今日はこれで終わりね。お疲れ様」
橘はエプロンを外し、自分のバッグを手に取った。
「屋根裏への階段はカウンターの奥。鍵は扉の横に置いてあるから。今日はゆっくり休んでね。明日は十一時に来てくれればいいから」
「はい。風鈴さん、本当にありがとうございました」
ルナは入口まで橘を見送り、深く頭を下げた。
店の扉が閉まる。
最後に、風鈴がチリン、と澄んだ音を立てた。
その音が消えると、世界が急に静かになったような気がした。
広すぎるわけではない店内に、ルナだけが残された。
けれど、不思議と怖くはなかった。
彼女はすぐに屋根裏へは上がらなかった。
カウンターの端に置いていた半額弁当の袋を開ける。
もうすっかり冷めていた。
それでもルナは、木のカウンターの隅に腰を下ろし、静かに、一口ずつ食べた。
誰にも急かされない夕食だった。
それだけで、少し泣きそうになった。
食べ終えると、ルナは袋をきちんと畳んで捨て、カウンターの奥にある細い階段へ向かった。
木の階段は、足を乗せるたびに小さくきしんだ。
屋根裏の部屋は、広くはなかった。
それでもルナにとっては、東京に来てから初めて手に入れた、本当に自分だけの場所だった。
部屋には、簡単な木のベッドが一つ。
その上には、古いけれど清潔な布団が敷かれていた。
隅には段ボール箱がいくつか積まれている。
小さな窓には薄いカーテンがかかり、夜風がほんの少しだけ布を揺らしていた。
古い木材の匂い。
洗剤の匂い。
下の店からかすかに上がってくる、コーヒーの残り香。
それらが混ざり合って、そこには不思議な安心感があった。
ルナは荷物を下ろすと、雑巾を手に取った。
床を丁寧に拭き、段ボール箱を隅に寄せる。
持ってきた、石鹸の匂いのするシーツをベッドに広げる。
小さな部屋は、少しずつ彼女の場所になっていった。
すべてを終えると、ルナはベッドの端に腰を下ろした。
自分の手で整えた、狭くて、静かで、誰にも追い出されない空間。
それを見回した瞬間、何日も張り詰めていた神経が、ゆっくりほどけていくのを感じた。
ここが、東京での、初めての家だった。
ルナはスマートフォンを充電することさえ忘れていた。
ただギターを抱きしめる。
体の奥から、心地よい疲れが押し寄せてくる。
そのまま彼女は、深く眠りに落ちた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
深夜の静けさの中で、突然スマートフォンが震えた。
枕元に置いていた画面が、暗い部屋の中で白く光っている。
新しいメッセージが一件。
メイからだった。
[メイ]
01:00 AM
寝とるか?
明日の夜、ちょっと高級なクラブでライブあんねん。
伸夫が急に用事できたみたいでな。
あんた、一緒に見に来てみいひん?
ルナは画面を見つめた。
眠気も、疲れも、さっきまで見ていた夢の名残も、その一瞬でどこかへ吹き飛んだ。
彼女はベッドの上で飛び起きた。
頭の中には、たった一つの言葉しかなかった。
行く。
ルナはスマートフォンを両手で握りしめた。
胸が、ありえないほど速く鳴っている。
段ボール箱も、古い布団も、小さな屋根裏部屋も与えてくれなかった種類の高揚感が、指先から体中へ広がっていった。
それは、ただの誘いではなかった。
東京という大きな街のどこかで、誰かが自分を呼んでいる。
そう感じた。
(ユラのノート・日付不明)
何年か経ってから、ルナはよく、あの夜のことを笑いながら話してくれた。
ようやく東京で安心して眠れる場所を見つけて、これから深く眠ろうとしていたその時に、あの猫みたいなドラマーが、まるで稲妻のように、彼女の夜へ飛び込んできたのだと。
ルナはいつも、眠たそうな目でスマートフォンを見て、次の瞬間に飛び起きた自分を大げさに真似してみせた。
そして、少し照れたように笑うのだった。
「あの瞬間ね、ただ東京でバイトを始めた女の子じゃなくなった気がしたの」
「大きな冒険の中で、初めて仲間から合図をもらったみたいだった」
私は今でも、その時のルナの目を覚えている。
まだ何者でもなかった頃の彼女の瞳に宿っていた、まぶしいほどの期待を。
それは、後にどれほど大きな成功や喝采を浴びても、二度と同じ形では戻ってこない光だった。
そして、あの五千円札のこと。
ルナはあの日以来、一度もそれを使わなかった。
何年も経った今、その少し色褪せた紙幣は、小さな額縁に入れられている。
ルナの部屋の、ベッドの枕元。
静かな場所に、今も大切に飾られている。
それは、ただのお金ではなかった。
彼女たちの物語の始まりであり、ルナがこの巨大な街で初めて受け取った、名前のない優しさだった。
(第一話 完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、心の中にあった小さなバンドの風景から始まりました。
音楽をしていた頃の記憶や、
今でも忘れられない音、場所、人との出会い。
そうしたものを少しずつ重ねながら、
『LUNAR EXIT』という物語を書いています。
私はプロの作家ではありませんが、
音楽と物語への思いを込めて、少しずつ続けていけたらと思っています。
また、本作のシネマティック版もYouTubeで公開しています。
小説とは少し違う形になりますが、
映像としての『LUNAR EXIT』も楽しんでいただけましたら嬉しいです。
▼WEB
https://www.lunarexit.com/
▼第一話 シネマティック版
https://www.youtube.com/watch?v=APuI1fJjfvE
▼第二話 シネマティック版
https://www.youtube.com/watch?v=HnaTDK-W4hU&t=26s
▼第三話 シネマティック版
https://www.youtube.com/watch?v=krvLniYtBaY
感想や応援をいただけると、とても励みになります。
これからも少しずつ更新していきますので、
どうぞよろしくお願いいたします。




