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《LUNAR EXIT》第三話 東京無赦(下編) ——割れたガラス、つながる声——

第三話・下編です。


今回は、ルナがまだ知らなかった九条雅也の日常と、青山の邸宅での最初の「指導」を描いています。


渋谷、名古屋、機内、青山。


場所はいくつも移りますが、ルナにとっては、どれも少しずつ今までの世界から外れていく時間だったのだと思います。


音楽に向き合うということは、ただ好きなものを追いかけるだけではないのかもしれません。


少し長い話になりますが、ルナにとっても、雅也にとっても、ここから物語の温度が少し変わっていきます。


【ユラのノート】


九条様が、あの日をどのように過ごしていたのか。

私がそれを知ったのは、ずっと後になってからだった。

新聞で読んだわけではない。


雑誌のインタビューでもない。

まして、外から流れてきた噂でもなかった。

結月が、私に話してくれたのだ。


そして結月は言った。


その話は、後になって九条様ご本人が、彼女に語ってくださったものなのだと。

彼女が初めてそのことを話したとき、その声はとても軽かった。

まるで、欠けていた小さなピースをひとつ埋めるだけみたいに。


けれど、聞いているうちに、私は気づいてしまった。

それは小さなピースなどではなかった。

私たちのような普通の人間には、なかなか想像することのできない、もうひとつの生活だった。


九条様の日常は、私たちが言う「忙しい」とは違っていた。

私たちの忙しさは、たとえば電車に乗り遅れることだったり、アルバイトのシフトが詰まりすぎていることだったり、仕事の締め切りに追われることだったりする。


睡眠が足りない日もある。


一日の中で、まともに食事をする時間さえ取れないこともある。

けれど、九条様の忙しさは、そういうものではなかった。


彼は飛び回っていた。


いくつもの都市に現れ、いくつもの会議室に入り、異なる階層の人々と言葉を交わしていた。

彼の時間は、単に仕事によって区切られていたのではない。

家族、企業、政界、警備、名声、責任。


そうしたものによって、何層にも、細かく切り分けられていた。

私は以前、プライベートジェットに乗るということを、どこか遠く、贅沢な出来事のように思っていた。

けれど、結月の話を聞き終えたあと、私は初めて思った。


もしかすると、九条様にとってそれは、自由などではなかったのかもしれない。

それは、ただの移動手段だった。

ひとつの役割から、次の役割へと運ばれていくための。


彼は、行きたい場所へ行っていたのではない。

ただ、現れるべき場所へ、時間通りに到着しなければならなかっただけなのだ。

結月は、そこまで話すと、少しだけ笑った。


嬉しそうな笑いではなかった。

どう言えばいいのか分からなくて、とりあえず笑うしかなかった。


そんな笑い方だった。


私は、彼女が本当は戸惑っていたのだと思う。

あれほど高い場所に立つ人が、外の人間には決して語らないような無力感を、自分にだけ見せてくれた。

その事実そのものが、あまりにも重かったのだ。


それは自慢ではなかった。


愚痴でもなかった。


むしろ、誰かがようやく彼女の前で、ほんの一瞬だけ肩の力を抜いた。


そんなものに近かった。


だから、これから書くことについて、先に断っておきたい。

私は、名古屋支社のあの日のロビーを、この目で見たわけではない。

香坂理沙さんが、政財界の人々をどのように迎えたのかも、実際には見ていない。


九条様が名古屋支社を後にし、次の予定へ向かわれた姿も、私は見ていない。

これは、ずっと後になってから、結月が私に話してくれたことだ。

そしてそれは、九条様がかつて彼女に語ってくださった、彼女と出会う前の、九条家に属する長い一日の話だった。

_________________________________

第一幕|名古屋支社


その日の名古屋支社のロビーは、磨き上げられた、余分な角のない器のようだった。

ガラスカーテンウォールが昼の光を冷たい白へと切り分け、大理石の床に落としている。

すべてが、必要以上に明るかった。


人の靴先も、袖口も、名刺入れも、微笑みさえも、その光に一度検査されたかのようだった。

失礼にあたる角など、ひとつも残されてはならない。

そう言われているような空間だった。


香坂理沙は、ロビーの中央に立っていた。

黒のスーツには一点の乱れもない。

束ねられた髪には余分な後れ毛ひとつなく、指先の動きにさえ無駄がなかった。


彼女は、ただ来客を迎えていたわけではない。

その場の空気そのものを、細く張りつめた一本の線へと整えていた。


誰がどこに立つべきか。


何を口にし、どの瞬間に黙るべきか。

そこにいる全員が、自然と理解していくように。

香坂理沙は、来賓たちへ深く一礼した。


その声は柔らかく、しかし一片の緩みもなかった。


「本日は、九条財閥名古屋支社へご足労賜りまして、誠にありがとうございます。青山事務所秘書室に所属しております、香坂理沙と申します。戦略調整支援、ならびに各支社および地方自治体との連絡窓口を担当いたしております。本日は何卒よろしくお願い申し上げます」


それは、非常に美しい言葉だった。

美しすぎて、そこにはほとんど彼女自身の匂いが残っていなかった。

けれど、だからこそ香坂理沙らしかった。


彼女は、自分がどれほど重要な人間であるかを前に出して示す必要がない。

ただ、一つひとつの言葉を正しい場所へ置くだけで、その場全体を、彼女の整えた方向へ進ませることができる。

年配の議員が、一歩前へ出た。


後に結月から聞いたところによれば、それは佐藤議員だった。

九条財閥にとって、政界における重要な支援者のひとり。

そのような人物がその場に立っているということ自体が、単なる挨拶ではなかった。


今日、いくつかの扉は開いている。

いくつかの言葉は、口にしてよい。

そう示すための存在だった。


「香坂さん、お久しぶりです。ご尊父の香坂宗一郎先生は、変わらずお元気でいらっしゃいますか」


香坂理沙の微笑は、礼儀として最も適切な位置で止まった。


「お心にお留めいただき、誠にありがとうございます。父はおかげさまで変わりなく過ごしております。先日も朝からゴルフへ出かけておりまして、近頃は以前にも増して、後進に物事を任せる余裕が出てまいったようでございます」


表面上は、家の長老の健康を気遣う会話だった。

しかし、そこで本当に確認されていたのは、健康ではない。


関係がまだ生きているか。


家同士の線が揺らいでいないか。

次の世代が、すでに同じ網の中へ入っているか。


そういうことだった。


佐藤議員は満足げにうなずくと、若い議員を香坂理沙の前へ促した。


「山本先生。こちらが香坂家のご令嬢、香坂理沙さんです。九条グループの現場では、要所要所を滞りなく整えてくださる、非常に頼もしい方ですよ」


山本憲一。


愛知県議会の、新進の地方議員だった。

彼が香坂理沙の前に立ったとき、その語調は、慎重すぎるほど丁寧だった。

ひとつひとつの褒め言葉が、あらかじめ角を削られているようだった。


軽すぎてもいけない。


俗っぽくてもいけない。


まして、礼儀を知らないと思われてはならない。


「初めまして、山本憲一と申します。香坂さんは、まことに品格があり、端正で、たいへん魅力的な方でいらっしゃいますね。本日お目にかかることができ、大変光栄に存じます。先ほどのご説明も、簡潔で大変分かりやすく、知性とお人柄の双方を感じました」


香坂理沙は、褒め言葉に流されなかった。

ただ、話を実務へと戻した。


「過分なお言葉を賜りまして、恐れ入ります。実務とは、日々の細やかな調整の積み重ねにすぎません。私はその一部をお手伝い申し上げているだけでございます」


彼女は、自分の役割を小さく言った。

しかし、それは引くことではなかった。

人は、自分を小さく語ることで、かえって場の中心を自分の周囲へ集めることがある。


香坂理沙は、そのことをよく知っている人間だった。

山本議員は、その流れを逃さず、本題へ話を移した。


「差し支えなければ、本日の主要な論点につきまして、少々お伺いしてもよろしいでしょうか」


香坂理沙はうなずいた。


そのうなずきはごく軽いものだった。

けれど、それだけでロビーのリズムが再び締め直されたように見えた。


「承知いたしました。要点のみ、簡潔に申し上げます。大きくは三点でございます。第一に、サプライチェーンのレジリエンス強化。第二に、人材パイプラインの整備。第三に、エネルギー転換への対応でございます。各項目における合意形成、およびタイムラインの整合につきましては、弊方にて微力ながら支援させていただく所存でございます」


短い説明だった。


だが、その短い言葉の中には骨格があった。

範囲があり、相手を越えさせないための境界線もあった。

その後、台湾拠点の企業社長が近づいてきた。


王社長。


AIコールドチェーン物流を手がける企業経営者であり、九条Bioの生物製剤における大中華圏の低温輸送網を請け負っている人物だった。

それは、華やかな事業ではない。

だが、決して失敗の許されない輸送だった。


扱うものは普通の商品ではなく、貴重な生物製剤である。

一度でも温度管理が崩れれば、その損失は金銭だけで埋められるものではない。

香坂理沙は、彼を迎えると同時に、自然に言語を切り替えた。


日本語から、中国語へ。


それは演出ではなかった。


見せびらかすためでもなかった。

国際的な政財界とサプライチェーンの現場で磨かれた、彼女の実務言語だった。

相手に馴染みのある言葉で安心させる。


その同じ瞬間に、主導権がなお九条側にあることを理解させる。

彼女は、その両方を同時に行うことができた。


「王社長、本日は遠路お運びいただき、誠にありがとうございます。九条Bioの低温輸送網につきましては、平素より御社に多大なるご尽力を賜っております。現場運用も、当初の想定以上に安定していると承っております」


彼女の中国語は、澄んでいた。

速すぎず、しかし語句は正確だった。

過度に親しげでもなく、上から押さえつける距離感でもない。


相手に尊重されていると感じさせながら、主導権がどこにあるのかを忘れさせない話し方だった。

王社長は、わずかに身をかがめた。


「香坂さん、とんでもございません。九条研究院より必要な安定性データをご提供いただけなければ、弊社の温度管理システムも、ここまで精度を上げることはできませんでした。各拠点からの報告も、すべて九条Bio様の基準に沿って運用しております」


「恐れ入ります。実際の現場において、データを運用可能な形へ落とし込むことこそが、最も困難な部分でございます。御社が台湾、香港、華南の各拠点で構築されている監視と報告体制につきましても、弊方研究院では次段階の調整に反映させていただいております」


王社長はうなずいた。


「今後、さらに高規格の製剤輸送が必要となる場合にも、弊社側で対応可能です」


香坂理沙は、すぐには答えなかった。


視線をわずかに落とす。


資料を頭の中で照合しているようにも見えたし、相手の言葉が実際にどこまで履行可能なのかを測っているようにも見えた。


「承知いたしました」


彼女はまず日本語で一度判断を置き、それから再び自然に中国語へ戻した。


「必要な条件につきましては、弊方より段階的にご提供いたします。ただし、製剤の中核情報につきましては、引き続き九条研究院が直接管理いたします。御社側にお渡しするのは、輸送管理に必要な範囲のデータに限らせていただきます」


王社長は、すぐにその意味を理解した。


協力はできる。


必要なデータ共有も行う。


だが、中核は外に出さない。

彼は笑みを浮かべたが、その態度は先ほどよりも慎重になっていた。


「その点につきましては、どうぞご安心ください。権限管理、操作記録、異常報告につきましては、すべて九条Bio様の規定に従って運用いたします」


「ご理解賜り、誠にありがとうございます」


彼らの会話は、清潔で、どこか退屈にさえ聞こえたかもしれない。

だが、本当の権力とは、往々にして劇的なものではない。

机を叩くことでも、声を荒らげることでも、誰かが誰かを力でねじ伏せることでもない。


本当の権力とは、静かに条件を決め、手順を決め、権限を決め、責任の所在を決めることだ。

そして全員を、その線に沿って動かせる力のことだ。

最後に、王社長は少し声を落とした。


「将来的に機会がございましたら、ぜひ九条先生にも台湾拠点をご視察いただきたいと存じます。常務に現場をご覧いただければ、弊社チームにとっても大きな励みとなります」


美しい言い方だった。


招待であり、探りでもあった。

敬意を示しながら、自分たちと九条本家との距離を測っている。

香坂理沙は、すぐには返答しなかった。


彼女は手元のインカムに触れ、耳元へ届いたスタッフの報告を受け取る。


「常務がまもなくお見えになります」


香坂理沙は、ただ一言だけ返した。


「承知いたしました」


そして手を下ろし、改めて王社長へ向き直った。

その顔には、依然として過不足のない礼儀があった。


「王社長、台湾拠点ご視察の件につきましては、私より常務へ申し伝えます。本日、お時間が許すようでしたら、後ほど常務に直接、現在の成果を簡潔にご説明ください。九条Bioは、御社の地域コールドチェーンにおける実行力を高く評価しております。その点は、どうぞご安心ください」


王社長は、わずかに頭を下げた。


「ありがとうございます。九条先生にも、何卒よろしくお伝えください」


「必ず申し伝えます」


それが、正式な締めくくりだった。


余分な約束はしない。


しかし、相手を失望させもしない。

十分な敬意を示し、次の一手を残しながら、決定権だけは確かに九条側へ戻しておく。

次の瞬間、香坂理沙の視線がロビーを一巡した。


そのとき、彼女の声が硬くなった。


「ご準備を」


人々は自然と通路を空けた。

微笑みは整え直され、襟元は軽く直された。

低く交わされていた挨拶の声も、ゆっくりと引いていく。


誰も大きな声で命じてはいない。

それでも全員が知っていた。

本当の主役が、まもなく現れるのだと。


入ってきたのは、九条雅也だった。

その日の彼は、ピアノの前に立つ人間ではなかった。

誰かのために譜を書く人間でもなかった。


雨の夜、とあるカフェの入口へ歩いていく人間でもなかった。

その日の彼は、九条財閥常務取締役だった。

彼がロビーへ入ると、香坂理沙は半歩後ろの位置についた。


その距離は正確だった。


遠すぎれば側近には見えない。


近すぎれば境界を越える。


彼女は、人々の視線の中で、公の場にふさわしい呼称へ切り替え、予定を報告した。


「常務、会議の手配はすべて整っております。会議終了後は、直ちに空港へご移動いただき、東京へお戻りいただく予定でございます」


九条雅也は、ただ答えた。


「分かった」


短かった。


その日一日に含まれるすべてが、語るに値しないとでもいうような短さだった。

けれど、ずっと後になって結月からその話を聞いたとき、私はようやく理解した。

その「分かった」の奥には、とても長い一日が押し込められていたのだと。


普通の人間が想像する「長い」ではない。


「今日は疲れた」という言葉で片づく長さでもない。


生まれた瞬間から、すでに決められた道の上へ置かれていて、疲労さえも体面を保ったまま処理しなければならない。


そういう長さだった。


そのときの結月は、まだ知らなかった。

これから自分が出会うのは、ただピアノが弾けて、作曲ができて、言葉が刃物のように冷たい人ではない。

家族と、制度と、責任と、予定によって細かく切り分けられながら、それでもどこかに音楽を残している人だった。


_________________________________


第二幕|渋谷のスナップの朝・風鈴カフェのレタッチ救援


朝九時を少し過ぎた渋谷は、まだ完全には目を覚ましていなかった。

看板の光のほうが、太陽より先に働き始めている。

交差点の白線は、どこまでも引き延ばされたように見えた。


人通りはまばらで、車の音が遠くから滑り込んできては、小さな路地に吸い込まれていく。

望月は、カメラを胸に下げていた。

少し古びてはいるが、長年連れ添った友人のように頼れるNIKON FM2。


金属のボディが服地に触れ、フィルムの巻き上げレバーを軽く引くと、シャッター音が乾いた音で鳴る。

まるで世界を、一コマずつ、安全な距離へ切り分けてくれるようだった。

彼女は、街を白黒で記録するのに慣れていた。


色は、少しうるさすぎる。


白黒のほうが静かだった。


その日、望月は小さな路地を歩きながら、働けそうな場所を探していた。

ただ目的もなく歩いていたわけではない。

今の自分が、とりあえず立っていられる場所を探しているような歩き方だった。


角を曲がったところで、スマートフォンが震えた。

望月は足を止めないまま、電話を耳に当てた。


「もしもし、望月です。お疲れ様です」


電話の向こうにいたのは、藤田先生だった。


「望月、急で悪いんだけど。先方のスケジュールが前倒しになったんだ。前にスタジオで撮った写真、今日中に整理して、全部渡さなきゃいけなくなった。本当に申し訳ないんだけど、今すぐ対応できるかな」


望月は、道路の向かい側のガラスに映る光を見つめた。

そこには、少し疲れていて、どこか自分ではないような顔が映っていた。

彼女は理由を聞かなかった。


交渉もしなかった。


こういう仕事では、「どうしてですか」と尋ねても、たいてい何も変わらない。

変えられるのは、自分がそれを受け止められるかどうかだけだった。


「できます。すぐに取りかかります」


「助かる。本当にありがとう。急に頼んでごめん、よろしく」


「いえ、とんでもないです。では、いったん失礼します」


電話を切ってから、彼女はようやく、自分が白い建物の前に立っていることに気づいた。

外壁は、拭き上げられたばかりのように清潔だった。

二面の大きな窓から、店内の温かな光が外へ広がっている。


看板には、Café Fuurin と書かれていた。

それは路地の角に、ひっそりと隠れるように建っていた。

東京の喧騒の外側に、たまたま残された隙間のようだった。


彼女は扉を押して、中へ入った。

先に彼女を包んだのは、暖房の空気だった。

続いてコーヒーの香りが立ちのぼり、外のざわめきをガラスの向こうへ押し戻していく。


カウンターの向こうで、コーヒーを淹れていた女の子が顔を上げた。

手にしたドリッパーからは、まだ細く液体が落ちている。

それでもその動きは落ち着いていて、毎日ここで、この店のリズムをちょうどよく保っている人の動きだった。


「いらっしゃいませ」


それが、月村結月だった。


ただそのとき、望月はまだ知らなかった。

彼女が後に、ルナになるのだということを。

望月は窓際の席を選び、ノートパソコンを開いた。


画面に映った写真は、記憶していたものよりもひどかった。

人物の顔は夜の暗さに押し潰され、背景はぼんやりと一塊になっている。

光源の位置さえ曖昧だった。


本来なら、彼女が仕事として納めるべき成果物であるはずの写真が、今は沈みかけたものの集まりのように見えた。


彼女は調整を始めた。


ホワイトバランス。


露出。


コントラスト。


トーンカーブ。


指がトラックパッドの上を、止まったり進んだりした。

けれど、触れば触るほどおかしくなっていく。

顔は灰色になりすぎるか、不自然に作り物めいてしまう。


背景を明るくすればノイズが浮く。

ノイズを抑えれば、写真全体が死んでしまう。

デジタルのファイルは、失敗をそのまま彼女の前に差し出していた。


暗室はない。


像がゆっくり浮かび上がるのを待つ時間もない。

この仕事は、失敗するかもしれない。

カップがテーブルに置かれた。


小さな音だった。


「カフェラテです」


望月は顔を上げ、礼を言った。

その声は、自分の焦りを驚かせたくないみたいに小さかった。


彼女は画面を見つめた。


今日中に仕上げなければならない。

先方の予定は前倒しになっている。

藤田先生が信頼してくれたからこそ、この写真を任せてくれた。


けれど、もし自分が納められなければ、その信頼は手の中から落ちてしまう。

隣のテーブルにいた女の子が、何度か彼女のほうを見た。

少し迷ったあとで、その子は声をとても軽く置いた。


「今日中に終わらせなきゃいけない」という焦りを、驚かせないように。


「あの……写真で困ってるみたいですけど、大丈夫ですか?」


望月は一瞬、固まった。


世界には自分以外の呼吸もあったのだと、急に思い出したような顔だった。


「え? あ……はい。実は、今日中にどうしても仕上げなきゃいけなくて。でも撮影が失敗していて、全部暗くなってしまって……どうしたらいいのか分からなくて」


女の子は、できることを大きく見せようとはしなかった。

まず、自分にできる範囲を小さく言った。

それでも、その言い方は誠実だった。


「もしよかったら、少しだけ見てもいいですか。ちょっとしか手伝えないかもしれないけど」


そして、相手の警戒を解くように言い添えた。


「学生の頃、建築を勉強していたので、画像編集も少し触ったことがあるんです。よかったら……一緒にやってみてもいいですか?」


望月の目が、ぱっと明るくなった。


「本当ですか? 助かります……お願いします!」


そこからしばらく、テーブルの上にはキーボードとトラックパッドの細かな音だけが残った。

結月は彼女の隣に座り、落ち着いた指先でトラックパッドを動かした。

彼女はいきなり写真を明るくしようとはしなかった。


まずホワイトバランスを元の位置へ戻し、露出を少しずつ、ちょうどいいところまで押し上げる。

それからコントラストを抑え、顔が硬くなりすぎないようにした。

画面を見る彼女の横顔は、とても真剣だった。


写真を修正しているというより、その写真が本来立つべき場所を探しているようだった。


「先にホワイトバランスを少し戻して、露出はプラス0.3くらい。コントラストはあまり強くしないほうがいいです。肌色は彩度で無理に上げるより、色調で少し整えたほうが自然に見えます」


画面の中の顔が、少しずつ浮かび上がってきた。

水の底から、ゆっくり岸へ戻ってくるみたいだった。

望月は思わず、小さく息をのんだ。


「すごい。本当に明るくなった……こうやるんですね」


結月は得意げにはしなかった。

ただ最後の処理をきれいに収めた。

皺になった紙の端を、そっと押さえるように。


「最後に軽くノイズを落として、余計な余白をトリミングします。これで見やすくなると思います」


カウンターの奥で、コーヒーマシンが短く蒸気を吐いた。

その音が、この静かなレタッチの時間に拍子をつけているようだった。

窓際の光がテーブルに落ち、木目をよりはっきりと見せていた。


そのせいで、キーボードを叩く音まで、やけに小さく聞こえた。

数分後、画面の中の写真は、ようやく救い上げられていた。

顔は本来あるべき場所へ戻り、肌の色は灰色の一枚ではなくなった。


背景も、もう黒い霧の塊には見えなかった。

望月は、大きく息を吐いた。

肩に乗っていた重さが、ようやく下りたようだった。


そのとき、店内の「見物」が、ゆっくり形になり始めた。

窓際のテーブルには、白髪の老紳士が二人座っていた。

服はきちんと整えられている。


もう一方には、年配の女性がひとりいた。

手元のコーヒーはほとんど減っておらず、視線はずっとノートパソコンに向いていた。

三人は最初、ただちらちらと見ていただけだった。


それがいつの間にか、椅子を少しずつ近づけるようになっていた。

彼らにとって、若い人たちがパソコンで暗くなった写真を救い出すのは、まるで手品のようだった。


老紳士のひとりが笑った。


「若いのに、たいしたもんだねえ。私らの年じゃ、もう無理だ」


もう一人がすぐに続けた。


「じゃあ今度は、私の写真も少し痩せて見えるように直してもらおうかな」


年配の女性も、半分冗談で、けれど半分は本気のように言った。


「本当ねえ……あっという間にきれいになるのね。今の道具って、すごいのね」


結月は見られていることに少し困ったようで、指をトラックパッドの上に置いたまま、笑えばいいのか、最後のファイル整理を続ければいいのか分からない顔をした。

望月も、つられて緊張した。

急かされるのは怖くなかった。


むしろ、人が多くなりすぎて結月の集中を邪魔してしまうのではないかと、それが怖かった。

見物が、もう少しで取り囲む形になりそうだったそのとき、カウンターのほうから、少し強くて、それでいてどこか愛嬌のある声が飛んできた。

橘美里が、トレーを持ってこちらへ歩いてきた。


彼女はまず、三人の常連をひと通り見た。

その目は、「楽しそうに見てるのは分かるけど、そこまで」と言っているようだった。


「結月、すごいじゃない。本当に先生みたいね」


トレーを置くと、声の調子を少し変え、笑いながら人払いをした。


「でも、みんなで結月を困らせちゃだめよ。はいはい、席に戻って。コーヒー冷めちゃうから」


三人の老人たちは、見つかった子どものように笑いながら、それぞれの席へ戻っていった。

それでも何度か振り返り、画面の続きを名残惜しそうに見ていた。

橘美里のひと言で、ざわつきはまた静けさへ押し戻された。


望月がノートパソコンを閉じたとき、ようやく結月の顔をまっすぐ見ることができた。

さっき、結月の指が画面の上を滑っていったリズム。

それを見ているうちに、望月は、自分がずっと見つけられずにいた近道のようなものを思い出した。


それは単なるレタッチの技術ではなかった。

むしろ、彼女は混乱の中から、それでも残せるものを見つけ出す方法を知っているように見えた。

望月は、結月の手元にあったスマートフォンの画面に気づいた。


「あれ? 本当? あなたもこのアプリ使ってるの?」


結月は瞬きをして、それから少し表情をやわらげた。


「うん。最近、私もすごく好きで。毎日使ってる」


短い会話だった。


けれど、その短さがちょうどよく、ふたりの距離を少しだけ近づけた。

結月は自分のスマートフォンをテーブルの真ん中へ寄せ、望月も自分のスマートフォンを取り出した。

木のテーブルに落ちる温かな光の中で、ふたつの画面が近づいた。


余計な社交辞令はなかった。


「これからも連絡しようね」などという、きれいな言葉もなかった。


ただ、慣れた手つきの数回のタップと、小さな通知音があった。

新しい連絡先が、静かにリストの中へ入った。

そのときの望月は、まだ知らなかった。


自分が今追加したのは、カフェで親切に手を貸してくれた女の子だけではない。


それは月村結月だった。


後のルナだった。


そして彼女が後に何度も思い返すことになる、東京で最初に出会った、いくつかの優しい朝のひとつだった。


【ユラのノート・後記】


ずっと後になってから、結月は笑いながら私に言ったことがある。


「あのときの私、ただのお節介だったよね。私って、そういうところあるから。誰かが困ってるのを見ると、つい手を出したくなるの。面倒くさいでしょ?」


私は、そうは思わなかった。

後になって知ったのだが、結月は子どもの頃から、そういう人だったらしい。

長野にいた頃も、誰かが困っているのを見ると、本人より先に動き出してしまう子だった。


荷物を運ぶ。


逃げたボールを追いかける。

風に飛ばされたものを取るために高いところへ登る。

人の喧嘩でさえ、止めようとする。


そして、止めようとしたはずなのに、いつの間にか自分も喧嘩の中に入ってしまっている。

そんなことが、よくあったらしい。

彼女は、黙って横に立ち、空気が自然に過ぎていくのを待てる人ではなかった。


その頃、近所の大人たちは、そんな彼女をよく笑って見ていたという。

特に、隣の辰原さんの奥さん。


隆志のお母さんだった。


結月が彼女のことを話すとき、いつもこう言っていた。

よく笑う人で、子どもが強がっているのを、見えているのに見えないふりをするのが上手な大人だった、と。

彼女は、結月のあの真っすぐな性格を、とても気に入っていたらしい。


結月が全身を埃だらけにしていたり、膝をすりむいていたり、また誰かのことに首を突っ込んでいたりすると、辰原さんの奥さんは、まず叱るのではなく、笑ってこう言った。


「結月ちゃん、また飛び出していったのね」


結月はそこまで話すと、自分でも照れくさそうに笑った。

小さい頃の自分は、たぶん本当に男の子みたいだったのだと思う、と彼女は言った。


思いついたら走る。


見つけたら関わる。


大人に「それはあなたのことじゃないでしょう」と言われて、ようやく少し遅れて、自分がまた境界を越えていたことに気づく。


大人たちはよく言う。


世話好きすぎることは、必ずしも長所ではない、と。

特に東京では、そうなのだと思う。

誰もが忙しく、誰もが自分の境界線をはっきり引いている。


人の困りごとに早く近づきすぎると、距離感がないと思われることもある。

場合によっては、面倒な人間だと思われることもある。

結月も、それを分かっていた。


だからこそ、自分のことを「お節介」だと笑ったのだと思う。

でも私は、そこにこそ結月という人の不思議さがあるのだと思っている。

彼女は、自分に余裕があるから人を助けるのではない。


多くの場合、彼女自身も、もうすぐ立っていられなくなりそうだった。


お金もなかった。


疲れてもいた。


東京で本当に生きていけるのか、自分でも分かっていなかった。

古いギターを背負い、カフェの二階に住み、アルバイトと練習と迷子と強がりのあいだを行ったり来たりしていた。

それでも、目の前で誰かが落ちそうになっているのを見ると、彼女はやはり手を伸ばす。


格好よく手を伸ばすわけではない。

英雄みたいに手を伸ばすのでもない。

少し不器用で、少し照れくさそうで、先にこう言うのだ。


「少ししか手伝えないかもしれないけど」


それでも、彼女は手を伸ばす。

私はたぶん、あのときから彼女に惹かれていたのだと思う。

後にステージに立つルナに惹かれたのではない。


風鈴カフェのあの朝、明らかに自分自身にも余裕があったわけではないのに、それでも見知らぬ人の隣に座り、写真を一枚ずつ救い上げてくれた月村結月に、私は惹かれたのだ。

あの朝、私たちはただ、出会ったばかりの二人だった。

ひとりは、写真を一度救われた。


もうひとりは、自分はただのお節介だと笑った。

そして、ごく自然に、友だちになった。


_________________________________


第三幕|G650ERの機内・分刻みの昼食報告


名古屋の会議室の扉が閉まった瞬間、時間はまた、きつく巻き直された。

九条家の専用ジェット、G650ERが滑走路のそばに停まっていた。

機体は白く、線は無駄なく整っている。


余計な装飾を持たない、一本の刃物のようだった。

陽光が翼に落ち、冷たい白へと反射する。

搭乗すると、機内の世界はすぐに静かになった。


一般の乗客が交わす話し声はない。

荷物を収納棚へ押し込む音もない。

空港のアナウンスが人混みの中で混ざり合うような雑音もない。


扉が閉まると、外の都市も、滑走路も、スタッフの足音も、すべて別の空気の層の向こうへ隔てられた。

機内にいるのは、乗務員と、九条雅也、そして香坂理沙だけだった。

昼食は、すでに用意されていた。


熟成牛のステーキは、口に運びやすい大きさに切り分けられている。

断面には、まだほのかな熱の光が残っていた。

そばには、適切に開かれた赤ワインが置かれている。


グラスの縁は清潔で、カトラリーの位置にも乱れはなかった。

それは、ゆっくり味わうための昼食ではなかった。

移動時間の中に押し込まれた、身体を維持するための補給だった。


九条雅也は、テーブルのそばに座っていた。

ジャケットは、まだ端正に身につけたままだった。

彼はすぐにナイフとフォークを取らなかった。


ただ、テーブルの上を一度見ただけだった。

その視線には、好みも、嫌悪もなかった。

むしろ、彼はとうに慣れているように見えた。


食事は、置かれるべき場所に置かれる。

時間は、配分されるべき形に切り分けられる。

そして彼は、指定された隙間の中で、自分の身体を保てばいい。


香坂理沙は、テーブルの脇に立っていた。

手にはタブレットを持っている。

画面に並ぶ予定表は、終わりの見えない線路のようだった。


彼女の声は清潔で、平坦だった。

余計な感情は含まれていない。

文が正確であればあるほど、この一日の数秒を節約できる。


そう信じているかのようだった。


「坊ちゃま、本日午後のご予定につきまして、ご報告申し上げます。十二時三十分、羽田到着予定でございます。ご到着後、直ちに永田町へご移動いただき、政界関係者へのご挨拶が二件。その後、港区にて、企業グループ代表とのご面談が一件入っております」


九条雅也は、赤ワインのグラスを指先で半回転させた。

赤い液体がグラスの内側をゆっくり滑り、濃い色の跡を残す。

こういう予定は、何度も聞いてきた。


聞きすぎて、退屈という感情さえ省略できるほどだった。


「分かった」


香坂理沙は、長く止まらなかった。

ただ視線を次の行へ移した。

次の歯車を、機械へ噛み合わせるように。


けれど、次の一文の前で、彼女はわずかに間を置いた。


迷いではなかった。


むしろ、その一文を、先ほどまでの公務から切り離すための間だった。


「十六時より、青山事務所にて、月村様へのご指導が二時間ございます」


ナイフとフォークが、陶器の皿にかすかな音を立てた。


九条雅也が目を上げた。


大きな反応ではなかった。


香坂理沙がそばにいなければ、誰にも気づかれなかったかもしれない。


だが、彼女は見た。


その名前が落ちた瞬間、坊ちゃまの注意が、疲労の奥からわずかに刺されたことを。


「月村?」


香坂理沙の声は、変わらず平静だった。


急がない。


余計な説明もしない。


ただ、記憶を正確に彼の前へ戻す。


「代々木公園にてお会いになった、あの若い女性でございます」


九条雅也は、すぐには答えなかった。

機内には、エンジンの低い振動だけが残っていた。

その音は風でも、海でもなかった。


むしろ、押し込められた時間が、鼓膜の奥へ貼りついたまま進んでいくようだった。


香坂理沙は続けた。


「本件につきましては、グループの正式日程から外しております。内部上は『私用』として処理いたします」


その一言が落ちたとき、空気は先ほどよりも静かになった。


正式日程の外。


私用。


小さな言葉だった。


けれど、九条雅也の生活において、「私用」は決して普通の私用ではない。

行きたいところへ行くことでもない。

会いたい人に会うことでもない。


突然、好きなことをしようと決めることでもない。

それは、巨大な制度の隙間に、香坂理沙が極めて高い精度で切り出した、ごく小さな空白だった。

九条家の一歩一歩は、通常、警備と監視の中にある。


誰が彼に会ったのか。


どこで会ったのか。


何分間会ったのか。


事後記録が必要かどうか。


すべては、本来ならば記録され、保管されるべきものだった。

香坂理沙は、その二時間を、正式な表の上から外した。

それは見落としではなかった。


気まぐれでもなかった。


坊ちゃまに必要なものに対して、彼女が規定そのものよりも敏感であったということだった。


九条雅也は、彼女を見た。


香坂理沙は、その視線を避けなかった。


ただ、報告を続けた。


まるで、今の一文に特別な意味など何もなかったかのように。


「ご指導終了後、十八時より、警備犬の訓練および新たに配備する候補犬の視察がございます。候補犬は、すでに青山へ到着しております。本件は、お父様からのご指示でございます 」


その言葉が出た瞬間、さきほど切り開かれた小さな隙間は、何かにゆっくり押し戻されていった。

九条雅也の表情は変わらない。

ただ、グラスの縁に触れた指先が、わずかに動いた。


香坂理沙は続けた。


「十九時より、永田町の要人へのご訪問が一件。二十時および二十二時に、それぞれ政界、財界との会食が一件ずつございます。終了は、二十三時前後を予定しております」


予定は長い影のように、テーブルの上へ覆いかぶさっていた。

熟成牛のステーキは、まだわずかに湯気を立てている。

赤ワインの香りが、空気の中に留まっている。


窓の外には、高空の光が広がっていた。

白く、遠く、何の不純物もない。

けれど、その景色は人を自由にはしなかった。


九条雅也は、低く言った。


「退屈な予定だな」


その声は軽かった。


何かを嫌っているようでもあり、もっと深いものをグラスの底へ押し戻しているようでもあった。

それは、単なる不満ではない。

香坂理沙には分かっていた。


もちろん、分かっていた。


坊ちゃまの言う「退屈」は、ひとつの会談が退屈だとか、一つの会食が退屈だとか、そういう意味ではない。

彼が言っているのは、人生そのものだった。

子どもの頃から、どこに立つべきか、誰になるべきか、どんな表情で誰に応じるべきかを定められてきた人生。


けれど、香坂理沙は「行かなくてもよろしいのでは」とは言えなかった。


それは不可能だった。


「お疲れでしょう」とも言えなかった。


それは柔らかすぎた。


制度そのものが、感情によって一時停止できるものだと認めてしまうほどに。

彼女にできるのは、現実を彼の前へ戻すことだけだった。

彼が退屈の中で、自分の形を失わないように。


「退屈な一日を、何事もなく、平穏に終えられる方こそ、上に立つ方でございます」


それは、説教のように聞こえた。


だが、説教ではなかった。


むしろ彼女が、無数の危険から彼を守り続けるうちに、ゆっくりと残してきた規則のようなものだった。

上に立つ者は、才能だけでは足りない。


嫌悪だけでも足りない。


まして、逃げたいという気持ちだけでは何も保てない。

退屈な一日を、平穏に歩き切らなければならない。

出たくない場所にも、時間通りに現れなければならない。


笑いたくない場面でも、失礼にならない表情を差し出さなければならない。

九条雅也は、低く息を吐いた。

その息は、ほとんどエンジン音に飲み込まれた。


彼は反論しなかった。


彼自身も、それが事実だと知っていたからだ。

しばらくして、彼は彼女の名を呼んだ。


「リサ」


香坂理沙の視線が、タブレットから上がった。


「はい」


九条雅也は、グラスの中の深い赤を見ていた。


「今日は長い」


その言葉に、飾られた感情はなかった。


愚痴にも聞こえなかった。


むしろ、誰かがようやく、彼女だけに聞こえる場所で、疲労を指の隙間から少しだけこぼした。


そんな言葉だった。


主従の距離。


規定の線。


警備の目。


家族の影。


そのすべてが彼に告げていた。

お前は、お前自身ではない。

香坂理沙は、テーブルの脇に立っていた。


表情は、なお平静だった。


機内で揺れない光のように。

けれど、その声は、その瞬間だけ、先ほどよりわずかに低くなった。


慰めではない。


媚びでもない。


ただ、彼女が差し出せる温度を、礼法の奥に隠した声だった。


「はい、坊ちゃま。ですが、長い一日を静かに歩き切ることもまた、力でございます」


九条雅也は何も言わなかった。

香坂理沙も、それ以上前へは踏み出さなかった。

彼女は、境界を知っていた。


そして、自分が今、何をしたのかも知っていた。


十六時から十八時。


青山事務所。


月村様。


その二時間を、彼女は正式日程から外し、私用として処理した。

口に出せば、それは規則から外れた行為を認めることになる。

言わずにおくことこそが、彼女が彼のために残せる余白だった。


それは優しさではない。


気まぐれでもない。


規律の隙間に、彼が息をするための空気を残しただけだった。

彼が「上に立つ者」であることを求められる前に、ほんの短い時間でも、自分の最も本能的で、最も確かな場所へ戻れるように。


音楽へ。


香坂理沙は、わずかに身をかがめた。

その言葉は、印のようでもあり、鍵のようでもあった。


「本日も、完璧に」


彼女が言っているのは、予定のことだった。

そして、彼女自身のことでもあった。

九条雅也は、ただ窓の外を見ていた。


白い雲の層が、翼の下をゆっくりと後ろへ流れていく。

空は、現実とは思えないほど明るかった。

けれど、彼が向かう場所は、空の中にはなかった。


彼は東京へ戻る。


次の会談へ。


次の挨拶へ。


次の、あらかじめ用意された役割へ。

そして、「私用」という欄の中に隠された二時間へ。

そのとき、月村結月はまだ、予定表の上に置かれたひとつの名前にすぎなかった。


代々木公園で会った、古いギターを背負った若い女性。

九条雅也もまだ知らなかった。

その名前が、この日を境に、少しずつ何かの向きを変えていくことを。


【ユラのノート・後記】


結月は後になって、九条様がこんなことを話していたと教えてくれた。

彼はよく、飛行機の中で昼食を取るのだという。


あるいは、夕食を。


私たちにとって、それはどこか遠く、特別で、少し楽しそうで、贅沢な響きを持っていた。

けれど九条様にとって、それはどうやら享受するものではなかったらしい。

予定と予定のあいだに、無理やり押し込まれた、小さな空白。


飛行機は、旅の始まりではない。

ひとつの会議室から、次の会議室へ彼を運ぶための、ただの廊下だった。

私は後に、香坂理沙さんに何度か会ったことがある。


正直に言うと、私は彼女が本当に笑うところを、ほとんど見たことがない。

もちろん、必要な場面では、礼儀正しく、完璧な微笑を浮かべる。

けれどそれは、彼女自身の表情というより、仕事の一部に近かった。


彼女はいつも、ひどく真剣で、ひどく厳格に、九条様のそばにいた。

半歩後ろに立ち、あらゆる混乱を、間違いの起こらない秩序へと整えていた。

だから、結月があの日の飛行機の話をしてくれたとき、私は香坂理沙さんの姿を、容易に思い浮かべることができた。


きっと、あの日も彼女はそうだったのだろう。

平穏で、正確で、ひとつの歯車のように、決して狂ってはならない場所に立ち、九条家という巨大な機械を、静かに動かしていたのだ。


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第四幕|青山の邸宅・門限と「あの木」


青山の街並みは、ルナ が想像していたものとは違っていた。

同じ東京なのに、ここは渋谷のように騒がしくない。

車の音は壁と木陰に吸い込まれ、遠くをかすめるエンジン音だけが、意図的に音量を下げられたように残っていた。


東京に来てまだ二か月も経たない、長野の千曲上山田で温泉旅館の娘として育った彼女にとって、その静けさは優しさではなかった。

むしろ、強く足を踏み出してはいけないと思わせる圧力だった。


青山事務所。


そう呼ばれてはいたが、ルナが想像していたような事務所ではなかった。

そこには、人が働くための部屋だけでなく、人が住むための静けさと、誰かを守るための緊張が同時にあった。

九条雅也の日常は、そこで眠り、そこで働き、そこから次の予定へ送り出されていくのだと、ルナは門の前に立って初めて理解した。


ルナは、スマートフォンの地図を見ながら、同じ場所を二度ほど回った。


顔を上げると、また同じガラスの壁と、高層ビルの反射が見える。

方向は合っているはずなのに、出口の見えない迷路に入り込んだようだった。

彼女は街角に立ち止まり、画面の中の青い現在地を見つめた。


心臓が、いつもより速く打っている。

スマートフォンの地図には、「到着しました」と表示されていた。

けれど、彼女はすぐには信じられなかった。


ポケットから、あの名刺を取り出す。

紙質は普通のものより厚く、縁はきれいに切り揃えられていた。

印字された文字は、深く押し込まれているように見える。


彼女は、住所と目の前の表札を一度照らし合わせた。

それから、もう一度照らし合わせた。

ようやく、自分が本当にここへ辿り着いたのだと分かった。


目の前の邸宅は、不自然なほど大きかった。

白い壁は、新雪のように清潔だった。

灰色の門が、一直線に並んでいる。


門の向こうには、精密に整えられた庭が見えた。

木の影も、石の面も、ガラスも、壁の線も、すべてがそれぞれ正しい場所に置かれている。

青山が東京の一等地であることは、彼女も知っていた。


けれど、知っていることと、実際にその場に立つことはまったく違う。

ある種の富や背景は、「努力すれば近づけるもの」ではない。

それはただ、そこに存在している。


別の世界の重力のように、静かに人を低く押さえつける。

ルナの目は、思わず大きくなった。

口から、ほんの小さな「わあ」がこぼれそうになる。


次の瞬間、彼女はそれを慌てて飲み込んだ。

誰かに聞かれるのを恐れたみたいに。


深く息を吸う。


そして、緊張しながらインターホンを押した。

スピーカーから、澄んだ声が返ってきた。


「どちら様でいらっしゃいますか」


ルナは喉が締まるのを感じながら、それでもきちんとフルネームを告げた。


「月村結月と申します」


短い沈黙があった。


見えない名簿と照合しているような間だった。

やがて、相手の声が急に正式で、恭しいものへ変わった。


「確認いたしました。ようこそお越しくださいました」


門が、音もなく開いた。


ルナが足を踏み入れた瞬間 、ひとつの境界線を越えたような気がした。

すぐに、姿勢のよい警備員が近づいてきた。


一礼し、案内する。


その態度は恭しかったが、だからこそ彼女は余計に落ち着かなかった。

その恭しさは、彼女自身に向けられたものではない。


「彼女がここへ入ることを許されている」という事実に向けられたものだった。


警備員に導かれ、彼女は内側の動線を進んだ。

途中、別の警備員が、庭の端でドーベルマンを連れているのが見えた。


犬の歩幅は安定していた。


肩の線は刃物のように鋭い。

その視線がこちらをかすめた一瞬、空気が少し硬くなった。

犬を連れた警備員はすぐに立ち止まり、礼儀正しく、しかし譲らない声で言った。


「恐れ入ります。こちらからお回りください」


ルナは慌ててうなずき、一歩下がった。

そのとき初めて、彼女ははっきり理解した。

ここにある警備は、雰囲気ではない。


筋肉だった。


正面玄関へ着く頃には、香坂理沙がすでに待っていた。


黒のスーツ。


束ねられた髪。


冷静で、端正な表情。


彼女がそこに立っているだけで、まるで鍵が錠前に差し込まれたように、邸宅全体の秩序がぴたりと合う。


「月村様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


ルナは慌てて頭を下げた。


声は、普段よりずっと慎重だった。


「香坂さん、こんにちは……お邪魔いたします。よろしくお願いいたします」


香坂理沙は多くを言わなかった。

ただ、わずかにうなずき、案内を引き継いだ。

二人は、現代的な長い廊下を歩いた。


ガラスと打ち放しコンクリートの冷たさが、一方にある枯山水の静けさと並んでいた。

白砂は整えられた波のようで、光はまっすぐな線に切り分けられている。

ルナの足音は、絨毯に吸い込まれた。


彼女は、呼吸さえ自然と浅くなっていくのを感じた。

ここにあるものはすべて、自分がどこにあるべきかを知っている。


そんな気がした。


知らないのは、自分だけだった。

やがて、香坂理沙は彼女を下へ導いた。

地下室は、少しも圧迫的ではなかった。


打ち放しの壁は清潔で、吸音材が反響をちょうどよく整えている。

空間は広く、むしろ快適と言ってよかった。

けれど、快適すぎるからこそ、ここが普通の部屋ではないことが、よりはっきりと分かった。


ここは、ある明確な目的のために、精密につくられた場所だった。

ルナは、まず黒いグランドピアノに目を奪われた。

それは沈黙したまま、部屋の一角を支配していた。


まるで、この部屋の本当の主人のようだった。

そばには、赤いセミアコースティックギターと、いくつかのアンプが置かれている。

譜面台も、ケーブルも、椅子の位置も、あまりに整っていた。


その場しのぎで置かれたものは、ひとつもなかった。

彼女が最も足を止めたのは、側面にあるL字型の大きなガラスだった。

ガラスの向こうには、天井から落ちてくる光があった。


白い石で囲まれた四角い空間の中に、一本の木が静かに立っている。

その木は、世界から切り取られて、そこにだけ残された景色のようだった。


風は入らない。


街の音も入らない。


人の視線も入らない。


ただ、上から光だけが落ちて、その枝葉を照らしていた。

清潔すぎて、現実ではないようだった。

香坂理沙は扉の前で立ち止まり、室内に向かって静かに頭を下げた。


「若様、月村結月様をお連れいたしました」


室内の男は、振り返らなかった。


声は短く、冷たかった。


「ご苦労」


香坂理沙は、もう一度頭を下げた。


「それでは、失礼いたします」


扉が閉まる音は、とても小さかった。

けれど、その音は外の世界を一緒に閉じ込めたように聞こえた。

九条雅也が、ようやく振り返った。


彼は、まず彼女に何ができるのかを尋ねなかった。

何を学びたいのかも聞かなかった。


歓迎の言葉もなかった。


ただ、ガラスの外にある一本の木を見た。

そして、彼女の世界を試すように言った。


「この木を、美しいと思うか」


ルナは一瞬、言葉に詰まった。

最初の一言がそれだとは思っていなかった。

それでも、すぐにうなずいた。


「あ……はい。きれいだと思います」


九条雅也は、その木を見たまま言った。


「なぜだ」


ルナは考えた。


いい加減なことは言えない。

けれど、黙り込みすぎるのも怖い。

だから、いちばん直感に近い答えを口にした。


「その……健康に育っているように見えるから、です」


男の否定は、刃のように落ちた。


「違う」


ルナの肩が、わずかにすくんだ。

九条雅也は、ガラスの向こうを指さした。


「ここでは、それしか見えないからだ」


その声は平らだった。


けれど、空間の本質をそのまま切り開くようだった。


「壁が、風も、街の音も、視線も、すべて遮断している。孤独を強いられたものは、そこにいるしかない」


彼は、少しだけ間を置いた。

彼女がその言葉を飲み込むのを待っているようだった。


「それが集中だ」


ルナは何も言えなかった。


彼女は、その木を見た。


不意に、それはただ美しいだけの木ではなくなった。

あまりにも清潔な箱の中に置かれているもののように見えた。


風はない。


雑音もない。


逃げる方向さえない。


九条雅也は続けた。


「削ぎ落とされたあとに残るものだけが、本質だ。それ以外は揺らぎにすぎない」


彼の視線が、木から彼女へ移った。

ルナは思わず、ギターケースのストラップを握りしめた。

自分まで削り落とされてしまうような気がした。


「君は、まだ形になっていない」


その一言で、地下室の空気がさらに冷えたように感じた。


「音にも、言葉にも、影にも、まだ触れきれていない」


彼は声を荒げなかった。


けれど、その一語一語が、正確に彼女の身体へ当たっていく。


「輪郭の曖昧な人間は、世界に触れられない」


ルナの指が、ゆっくりと強く握り込まれた。

その瞬間、彼女は理解した。

この人は、雑談をしているのではない。


理屈を話しているのでもない。

彼は、彼女を切り開いているのだ。

古いギターを背負って東京まで走ってきた自分。


憧れだけで何とかなると、まだどこかで信じていた自分。

その自分を、切り開いている。

九条雅也は最後に、彼女の背中のギターケースへ視線を落とした。


命令の声になった。


「ギターを出せ」


短い沈黙。


「始める」


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第五幕|もう一度・手が震えた日


地下室の光は、選び抜かれたように清潔だった。

必要な白だけが、そこに残されている。


吹き抜けの中庭に立つあの木は、ガラスの向こうで、ほとんど葉影を動かさなかった。

風も、街の音も、誰かの視線も断ち切られ、ただ自分自身の輪郭だけを残している。

その静けさは、書き直しを許さない一枚の紙のようだった。


ルナがギターを抱えて座ったとき、指先はいつもより冷たかった。


彼女は、ただ授業を受けに来たはずだった。

それなのに心の中は、まるで試験会場へ連れてこられたようだった。

目の前にいるのは、世界に認められた天才だと知っている。


だからこそ、彼女はほとんど幼い期待を抱いていた。

この人なら、本当に自分を「本物の音楽」のほうへ引き上げてくれるかもしれない。

同時に、彼女はひどく怖かった。


彼が一秒でも聴けば、長野からここまで持ってきたわずかな自尊心も、歌も、まとめて不合格にされてしまうのではないか。

九条雅也は、世間話をしなかった。

彼が彼女を見る目は、生徒を見る目ではなかった。


まだ形になっていない譜面を見る目に近かった。


どこが滲んでいるか。


どこが歪んでいるか。


どこがただ感覚でごまかされているだけなのか。

彼には、一目で分かってしまう。


「もう一度。上の三度」


ルナは言われた通りにした。

指先で弦を押さえ、右手で弾く。

音が落ちた瞬間、自分ではそこまで悪くないと思った。


少なくとも途切れてはいない。

少なくとも、自分が向かいたい方向には聞こえている気がした。

けれど、九条雅也はすぐに言った。


「止めろ」


彼女の肩が、わずかにすくんだ。


彼は声を荒げなかった。


ただ静かに言った。


「それは三度じゃない。君が三度だと思っている音だ」


ルナの顔が、瞬時に熱くなった。

人前でノートを破り開かれたような気がした。


「はい」


「もう一度」


彼女は弾き直した。


「違う」


もう一度。


「違う」


さらにもう一度。


「今の君は、音を聴いていない」


彼は彼女を見た。


「音楽に聞こえてくれと、祈っているだけだ」


その言葉が落ちた瞬間、ルナの指が固まった。


祈っている。


認めたくなかった。


けれど、その言葉はあまりにも正確だった。

確かに彼女は、多くの場面で音を制御していたのではない。


運に期待していた。


感情がたまたま合うこと。


手触りがたまたま合うこと。


喉がたまたま開くこと。


すべてが偶然重なって、その瞬間だけ音楽のように聞こえること。


それを待っていた。


九条雅也の声は、冷静なままだった。


「感覚は間違いじゃない。だが、今の君には感覚しかない。骨格がない」


ルナは顔を伏せた。


「……はい」


「もう一度」


その日から、「もう一度」はルナの生活の中で、最もよく聞く言葉になった。

けれど、それは一日や二日の出来事ではなかった。

青山と風鈴カフェは、少しずつ彼女の東京での生活の両端になっていった。


MAYAが東京にいる日は、風鈴カフェでのシフトを終えたあと、ギターを背負って青山へ向かう。

MAYAが東京にいない日は、彼女は風鈴カフェに残った。

昼間は、コーヒーを運び、テーブルを拭き、レジに立ち、客に「いらっしゃいませ」と言う。


夜になり、店内の灯りが一つずつ消え、椅子がテーブルの上に逆さに上げられ、コーヒーマシンが静かになると、彼女は屋根裏へ上がった。

前回の授業で残されたノートを、膝の上に広げる。

ときどき、青山から急な連絡が来た。


「若様のご予定変更に伴い、本日の講義は延期とさせていただきます」


また別の日には、香坂理沙からごく短いメッセージで、新しい時刻だけが届く。


十四時。


十六時。


夜の場合もある。


そして、また取り消されることもある。

九条雅也の時間は、普通の人間の時間ではなかった。

彼は毎日、あの地下の音楽室で彼女を待っているわけではない。


名古屋へ飛び、大阪へ飛び、福岡へ飛び、彼女には想像もできない会議や晩餐の中で、「九条家の人間」として立っている。

けれど、彼が青山へ戻れば、授業は続いた。

そして、続くたびに、前回から何も途切れていなかったかのように始まった。


最初に、彼女は音程で砕かれた。


次に、リズムで砕かれた。


その次になってようやく、彼女は自分がこれまで伴奏だと思っていたものが、ただ空間を埋めていただけなのだと知った。

その日、九条雅也はピアノの前に座った。

ひとつの和音を押さえ、音を空気の中に留める。


「伴奏とは、弾き続けることじゃない。歌が入る場所を残すことだ」


彼はもう一度弾いた。


今度は、音が少なかった。


左手は低音だけを置き、右手はごくわずかな音で中間の色を補った。

音が減ったはずなのに、部屋全体はむしろ広くなった。

ルナは初めて、その空白を聴いた。


何もないのではない。


歌が立てる場所だった。


彼女はギターを抱え、慎重に合わせて弾いた。

けれど、音を減らすと怖くなる。


空白が怖い。


指は無意識のうちに、いくつか余計な音を足していた。


九条雅也はすぐに言った。


「それは君の不安だ。音楽が必要としているんじゃない。君が静けさを怖がっているだけだ」


その一言は、それまでのどんな技術的な指摘よりも深く刺さった。

彼女は、自分が歌うときにも同じことをしているのだと思い出した。


止まるのが怖い。


空くのが怖い。


沈黙が来たら、自分だけが置いていかれるような気がする。

別の日の授業で、九条雅也はすぐに弾かせなかった。

紙に、彼女にはまだ読み切れないいくつかのコードを書きつけ、それからピアノの前に座った。


「和声は雰囲気じゃない。重力だ」


ルナは顔を上げた。


「重力……?」


九条雅也は、多くを説明しなかった。


ただ、弾いて聞かせた。


最初の和音が落ちたとき、部屋の空気がわずかに押されたようだった。

二つ目の和音で、何か不安定なものが宙に吊られた。

三つ目の和音が落ちると、その宙に浮いていた力が、ゆっくり地面へ戻っていった。


ルナは動けなかった。


彼女は初めて、自分が音楽を「感じている」のではなく、見えない道を見ているような気がした。

同じいくつかの音でも、位置が変われば色が変わる。

同じ旋律でも、下に置かれる和声が変われば、意味がまったく変わる。


音楽は、感覚だけではなかった。


構造がある。


方向がある。


重さがある。


いい加減にしてはいけない理由がある。

彼女は慌ててノートを開いた。


文字は急ぎすぎていた。


鉛筆の先が紙をこすり、小さな音を立てる。


和声は雰囲気ではない。


和声は重力。


音には方向がある。


感覚には骨格が必要。


九条雅也は、彼女が一ページいっぱいに書いたノートを見ても、褒めなかった。


ただ言った。


「覚えたことと、できることは違う」


ルナが顔を上げる。


九条雅也は手をピアノへ戻した。


「弾け」


ピアノの音が落ちた。


それは、彼女が隠れられる場所などどこにもないほど清潔だった。

彼女はギターを抱えて合わせた。

そして、理解することと、実際にできることは別なのだと知った。


伴奏には空白が必要だと知っていても、手が本当に止まれるとは限らない。

和声には方向があると知っていても、耳がそれを追えるとは限らない。

音は前へ進むべきだと知っていても、身体がその場に取り残されないとは限らない。


また別の授業で、九条雅也は短い旋律を弾いた。

まるで問いかけのような旋律だった。


「四小節。きれいにしようとするな。答えろ」


ルナは固まった。


「即興……ですか?」


「即興は、でたらめに弾くことじゃない。自分がどこにいるのか分かっているから、一度離れて、戻ってこられるんだ」


その言葉は簡単だった。


けれど、ルナはそれを理解した瞬間、かえって怖くなった。

彼女はずっと、感情が強ければ自由なのだと思っていた。

でも、九条雅也の自由は違っていた。


彼の自由は、道がどこにあるかを知っているから、一時的にそこから離れられる自由だった。

彼女はまだ、自分がどこに立っているのかさえ分かっていない。

ピアノがもう一度、問いを投げた。


今度、ルナはすぐには弾かなかった。


先に聴いた。


低音がどこへ向かうのか。


和声がどこで緊張するのか。

その問いが、本当はどこで止まっているのか。

そして、彼女は一つの音を弾いた。


小さな音だった。


美しいとは言えなかった。


けれど、逃げてはいなかった。


九条雅也は褒めなかった。


ただ言った。


「今のは、少し近い」


ルナの胸が、小さく震えた。


「少し近い」


良い、でもない。


できた、でもない。


上達した、でもない。


それでも、その頃の彼女にとっては、遠くで誰かが一瞬だけ明かりを点けてくれたような言葉だった。


九条雅也は厳しい。


そのことを、ルナは誰よりも分かっていた。

彼は、人に聞こえのいい余地を残す話し方をしない。


「今日はよく頑張った」というような言葉で彼女を慰めることもしない。


彼女が間違えれば、間違いだと言う。

彼女が逃げれば、逃げたと指摘する。

彼女が感情で音を押し通そうとすれば、その感情の層を剥がし、下に空洞の骨格があることを見せる。


けれど、ルナも分かっていた。

彼は、本当に彼女を教えている。

適当に数回聴いて、きれいな助言をいくつか与えているわけではない。


面白い田舎の女の子として、気まぐれに構っているわけでもない。

彼女がかわいそうだから、少し時間を与えているのでもない。

彼は彼女の弱点を聴き取る。


分解する。


印をつける。


そして、その先にある次の道を彼女の前へ置く。

その道は細く、冷たく、とても歩きにくかった。

けれど、それは確かに道だった。


だからルナは、止まれなかった。

不規則で、貴重で、九条家の予定によっていつでも切り取られてしまう二時間を、無駄にしたくなかった。

授業が入らない夜も、本当に空いているわけではなかった。


彼女はノートを膝の上に広げた。


和声は重力。


伴奏は埋めることではない。


静けさを怖がらない。


即興とは、自分がどこにいるかを知り、一時的に離れること。


右手が逃げている。


裏拍が遅れる。


表情で音程を補わない。


ひとつずつ読み返し、ひとつずつ練習し直した。

最初は、ただ指先が痛いだけだった。

その痛みは普通のものだった。


練習している人間なら、誰でも通る痛みのように思えた。

彼女はむしろ、少し安心していた。

少なくとも、自分の身体に努力の跡が残っている気がしたからだ。


けれど、痛みは少しずつ深い場所へ沈んでいった。

手首の奥が重く酸っぱくなり、前腕の内側を細い糸で引かれているような感覚が出てきた。

朝起きると指の関節がこわばり、マグカップを握る動きさえ少し遅れた。


おかしいことは分かっていた。

それでも、彼女は止まれなかった。

止まったら、せっかく開きかけたものが、また閉じてしまう気がした。


次に九条雅也の前へ立ったとき、彼が一秒聴いただけで、自分があの言葉たちを身体に入れられていないと見抜くのが怖かった。

だから彼女は、弾き続けた。


カチ。


カチ。


カチ。


カチ。


メトロノームの音が、風鈴カフェの深夜に繰り返し響く。

まるで、眠ることを許してくれない心臓のようだった。

彼女は、それを努力だと思っていた。


青山の地下音楽室で、ある日、手を上げた瞬間、手首が先に裏切るまでは。

その日も、天井からの光はあの木に落ちていた。

何ひとつ変わっていないように見えた。


けれど、ルナの手は、今日がいつもより難しい日になることを、彼女自身より先に知っていた。

九条雅也はピアノのそばに立ち、いつものように言った。


「もう一度。準備しろ。俺を見ろ」


ルナはうなずいた。


「はい……」


彼女は手を上げた。


手首が弦の上で止まった、その瞬間。


指先が、わずかに震えた。


とても小さな震えだった。


他の人間なら、気にしなくていいと言ったかもしれない。

彼女自身も、なかったことにしたかった。


けれど、九条雅也は見た。


「そのまま止めろ」


ルナの手が固まった。


「動かすな。そのまま手を見せろ」


彼は一歩近づいた。


ルナは動けなかった。


九条雅也の視線が、彼女の手に落ちる。


医師のように冷たかった。


彼は彼女に触れなかった。


ただ見た。


数秒後、彼は言った。


「腱鞘炎気味だな。」


ルナは固まった。


「……え?」


「震えている。今日はここまでだ」


ルナの顔から、血の気が引いた。


彼女はすぐに首を振った。


「大丈夫です。少し痛いだけで、まだ弾けます」


九条雅也の目が沈んだ。


「大丈夫なわけがない」


声は、いつもより硬かった。

感情を失って怒鳴るような怒りではなかった。

彼女のその強がりに、明らかに苛立った声だった。


「帰れ」


その二文字が落ちたとき、ルナの胸は何かに強く塞がれた。


帰れ。


彼女は分かっていた。


彼が自分を傷つけないために止めていることを。

彼が正しいことも、分かっていた。


実際に手は震えていた。


指先は思うように動かず、その熱と痛みは、ただの疲労ではなかった。

けれど、分かることと、痛まないことは別だった。

その瞬間、彼女が聞いたのは「休め」ではなかった。


「お前には無理だ」だった。


「お前には、もう教わる資格がない」だった。


「お前はいらない」だった。


彼女は、それらの声を必死に押し込めようとした。

でも、押し込めれば押し込めるほど、胸は痛くなった。


「……はい」


彼女は頭を下げ、ギターをケースにしまった。

ファスナーを閉める音は小さかった。

けれど、静かな地下室では、妙にはっきり響いた。


手がまだ震えていたせいで、ファスナーが途中で引っかかった。

彼女は慌ててもう片方の手で押さえた。

まるで、楽器を片づけることさえできない自分を、彼に見られたくないみたいだった。


そばの長いテーブルでは、香坂理沙が端午の節句のための花を整えていた。

菖蒲の葉は、刃物のようにまっすぐに裁たれている。

まだ咲ききっていない蕾には、初夏の前の青さがあった。


若い青楓の葉が、白い器のそばに置かれ、枝物の角度を彼女が少しずつ調整していく。

本来なら、それは華道家か、この邸宅の女主人が担うような仕事だったのかもしれない。

けれど、香坂理沙はあまりにも自然にそれをしていた。


自然すぎて、結月は一瞬、錯覚した。

この青山の邸宅にあるすべての季節、儀式、秩序、沈黙は、彼女ひとりによって保たれているのではないかと。

ルナがギターをしまい、強がり、帰るよう命じられるまでの一部始終を、香坂理沙は見ていた。


けれど、口を挟まなかった。


慰めもしなかった。


ただ、その失われていく重さを、黙って視線の中へ収めていた。

ルナはギターケースを背負い、九条雅也へ頭を下げた。


「今日は……ありがとうございました」


九条雅也は振り返らなかった。

その声は、相変わらず短く、冷たかった。


「手が安定したら来い」


本来なら、それは許可の言葉だった。

手が安定したら、また来い。

けれど、そのときのルナには、もう後半が聞こえていなかった。


彼女に聞こえたのは、最初の「帰れ」だけだった。

自分があの音楽室から追い出された、という事実だけだった。


「はい」


扉が開いた。


外の光は、地下室より少し暗かった。

彼女が出ていく足取りは、来たときよりも軽く、そして重かった。

自分がなぜ、こんなにも傷ついているのか、彼女には分からなかった。


彼が自分を守ろうとしていることは分かっていた。

自分の手が本当に震えていることも分かっていた。

それでも、胸の中で繰り返し響いているのは、ただひとつの言葉だけだった。


私は、また要らないって言われた。

それは、九条雅也が言った言葉ではなかった。

彼女の心の一番怖い場所が、彼の声を借りて言った言葉だった。


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第六幕|夢・雪と廊下の光


その日、風鈴カフェへ戻ったあと、ルナはいつもより早く屋根裏の灯りを消した。

身体のほうが先に降参していた。

けれど、心はまだ降参していなかった。


横になっても、彼女はまだ考えていた。


指板のこと。


拍のこと。


和声のこと。


そして、九条雅也のあの一言。


帰れ。


まぶたを閉じた瞬間、世界は不意に季節を変えた。


蝉の声が近かった。


彼女は、長野の校舎に立っていた。

真夏のグラウンドは、陽に晒されて白くなった紙のようだった。

遠くで、教師が拡声器を通して整列を指示している声が聞こえる。


その声は、蝉の音に混じって輪郭を失っていた。

生徒たちは運動場に何列かで並んでいる。

白い体操服は日差しを受けて眩しく、影は短く、証拠を残すのを拒むようだった。


廊下の向こうから、ギターの音が聞こえた。


澄んでいて、明るい。


風みたいな音だった。


ユイは、廊下の窓辺に座っていた。

陽の光が彼女の髪に落ち、柔らかな金色の膜のように見えた。

窓の外には、熱気で少し白くかすんだグラウンド。


窓の内側には、古い校舎特有の木の匂いを含んだ廊下。

彼女は顔を上げ、ほんの少し笑った。

まるで、すべてはまだ、ゆっくり進めていけるのだと言うように。


「結月、今日、放課後に一緒に練習しよう」


ルナの胸が熱くなった。


彼女は高校の制服を着ていた。

けれど、自分の顔があの頃の顔ではないことを、どこかで知っていた。

夢の中で時間は乱れていた。


それでも、心だけは乱れていなかった。


彼女は一歩前へ出た。


その光をつかまえたくて、手を伸ばした。

次の瞬間、彼女は後ろへ引き戻された。


腕を引かれたのではない。


身体ごとだった。


まるで、背後から床を抜き取られたみたいに。


廊下の光が砕けていく。


木の床も、窓枠も、部室の扉に貼られた古いポスターも、すべて遠くへ退いていく。


「待って」


そう言うことさえ、間に合わなかった。


雪が降ってきた。


彼女は、松本の冬へ落ちていた。

積もった雪は、音を埋めてしまうほど厚かった。

街灯は雪の中でぼんやりと滲み、いくつもの輪をつくっている。


見えない柵みたいだった。


遠くの踏切の音が、吹雪に切られながら聞こえてくる。

コンビニの看板だけが、白い世界の中で孤独に光っていた。


彼女は雪を踏んで歩いた。


靴底は重く、一歩ごとに何かを追いかけているようだった。

部屋は、突然あたたかくなった。

彼女は、ユイの膝の上に頭を預けていた。


その膝の温度が、彼女を寒さの中からすくい上げてくれるようだった。


小さなアパートの一室。


こたつの中には、薄い熱が残っている。

テーブルには、コンビニで買ったプリンと、飲みかけの温かいお茶が置かれていた。

窓の外では、まだ雪が降っている。


けれど部屋の中は、二人の呼吸に包まれているみたいに静かだった。

ユイの指が、彼女の髪をやさしく梳いた。

その目には、愛情しかなかった。


「結月、卒業したら、一緒に東京で暮らそう。私が働くから、結月は曲を書いて。二人で住もう」


その「曲を書いて」という言葉が、小さな灯りのように、彼女のいちばん柔らかい場所を照らした。


彼女はうなずきたかった。


その言葉を、強く胸の奥にしまい込みたかった。

けれど、カメラが急に近づいた。

ユイの笑顔が、アップの中で少しずつ色を失っていく。


誰かに色を抜き取られているみたいだった。

部屋の温度が、一瞬で冷たい青へ変わった。

こたつの熱も、遠くへ引いていく。


空気が、ガラスのように硬くなった。

ルナは、また吸い込まれた。

秋の東京が、画面の向こうにちらついていた。


画面の中のユイ――高坂唯は、以前より少し痩せて見えた。

彼女は、自分は忙しいのだと言っていた。

背後には、幼稚園の職員室のような場所が見えた。


壁には子どもたちの絵が貼られ、机の上には整理しきれていない書類や教材袋が積まれている。


時間は、もう遅かった。


蛍光灯が彼女の顔を照らし、少し青白く見せていた。

ユイは、いつも画面から視線を外していた。

横のほうへ視線を逃がし、自分を見られたくないように。


「結月、最近、本当に忙しくて。時間ができたら、ちゃんと話そうって思ってたの」


その言葉は、鈍い刃物のようだった。

いちばん痛かったのは、「忙しい」ではなかった。


「思ってた」だった。


ルナの喉が締まった。


「唯、こっち見て話して……?」


声は、とても小さかった。


少しでも大きく出したら、相手をもっと遠くへ押しやってしまう気がした。

けれど、画面の向こうのユイは、こちらを見なかった。


ただ、黙っていた。


その沈黙は、東京の夜が二人の間に先に落ちてしまったみたいだった。

次に、時間は一月へ跳んだ。

松本の大雪の夜は、さらに重くなっていた。


ルナは、スマートフォンを握りしめて雪の中に立っていた。

雪はまつ毛に当たり、すぐに水になった。

彼女は何度も何度も電話をかけた。


相手が出てくれさえすれば、この白い場所から引き戻してもらえるのだと信じるように。


唯。


出て。


お願い、出て。


画面は東京へ切り替わった。


冬の路地は狭かった。


コンビニの白い光が、冷たく濡れた地面を照らしている。

ユイは一人で夜道を歩いていた。

濃い色のコートを着て、マフラーをきつく巻いている。


彼女はひどく疲れて見えた。

幼稚園の残業を終えて、ようやく外へ出てきた人の顔だった。

一日中、他人の子どもの世話をしていたのに、夜になると残るのは自分ひとりだけ。


そんな顔だった。


手の中で、スマートフォンが震えた。


画面が光る。


結月。


ユイは足を止めた。


その名前を見た彼女の目が、何かに刺されたように揺れた。

指は画面の上で止まっている。

すぐに出ることも、すぐに切ることもできない。


冬の白い息が、彼女の唇からゆっくりとほどけていった。


彼女は深く息を吸った。


もう少しで、何かが口から飛び出してしまいそうだった。

けれど、最後まで彼女は言わなかった。


着信を切った。


画面が暗くなった。


ユイのまつ毛が、わずかに震えた。

それは冷たさではなかった。


面倒くささでもなかった。


その表情は傷ついていて、痛そうだった。

振り返りたくないのではなく、振り返ることが怖い。


そんな顔だった。


それでも、彼女は結局、振り返らなかった。

スマートフォンをポケットへ戻し、再び歩き出した。


路地は長かった。


角から吹いてきた風が、コートの裾を持ち上げる。

彼女の背中は、遠ざかっていく。


どんどん小さくなる。


最後には、東京の冬の夜に飲み込まれた。

そして、ルナはまだ反対側に残されていた。


松本に。


雪の中に。


スマートフォンは、何も返さなかった。

雪の音が、急に大きくなった。


街灯は遠い。


世界が、電源を落とされたみたいだった。

ルナはその場に立っていた。


先に膝から力が抜けた。


彼女は雪の中に膝をついた。

手には、まだスマートフォンを握っている。

まるで、もう冷えきってしまった約束を握っているみたいだった。


吹雪が、すべての音を飲み込んでいく。

彼女はユイの名前を呼ぼうとした。

けれど、声は口を出た瞬間に散ってしまった。


手をついて立ち上がろうとした。

けれど、掌は雪に沈み、膝も冷たさに押さえつけられた。

世界は、境界のない白だった。


その中心に、彼女だけが取り残されていた。

カメラは、ゆっくりと引いていく。

雪の中の彼女は小さくなる。


小さくなる。


さらに小さくなる。


最後には、白の中に残った黒い点だけになった。

夢が覚める直前の一瞬、彼女はひとつの声を聞いた。


ユイではなかった。


風でもなかった。


ずっと遠くから、九条雅也の冷たい命令が、もう一度落ちてきた。


——帰れ。


ルナは、はっと目を開けた。


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第七幕|青山の地下音楽室・砕けた音


そのギターは、いつもより重かった。


過去のように重かった。


約束のように重かった。


一度も取られなかった電話のように重かった。

青山の邸宅は、相変わらず静かだった。

門で名前が確認されると、すぐに扉が開いた。


「月村様、どうぞお入りください」


警備員は彼女に一礼した。


その声は、最初に来たときのように、何度も確認する必要を含んではいなかった。

このところ、彼女は何度もここへ来ていた。


正門から主屋へ。


長い廊下を通り、地下の音楽室へ。

その道は、もう誰かに案内されなくても分かる。

けれど、その日の彼女は、その道を歩くたびに、一枚の薄い霧を隔てているような気がした。


門限の声。


警備員の視線。


廊下の光。


どれにも、感情はなかった。

枯山水の白砂は、白すぎた。

ガラスに映る自分の影は、遠すぎた。


彼女は、背中にギターを背負った自分の影を見下ろした。

それが今の自分なのか、夢の中で雪に膝をついていた自分なのか、ふいに分からなくなった。


地下室の扉が閉まる。


世界が、切り落とされた。


九条雅也は、すでにピアノのそばにいた。

彼は、彼女がよく眠れたかを聞かなかった。

手がまだ痛むのかも聞かなかった。


ただ、いつもと同じように、要求だけを置いた。


「始めろ」


ルナはギターを抱えた。


最初の音から、もう濁っていた。


自分でも分かった。


けれど、手が自分のものではないみたいだった。

指先の落ちる角度が、ほんの少しずれる。


それだけで音が滲む。


取り戻そうとすると、今度は拍が前へ流れた。


「止めろ」


心臓が、ぎゅっと縮んだ。


「もう一度」


彼女はもう一度弾いた。


二度目は、さらに悪かった。

夢の中で聞いた「本当は」という言葉が、まだ喉の奥に引っかかっているようだった。

音を良くしようとすればするほど、手は震えた。


耳にあるのは、ピアノの余韻のはずなのに、どこかで雪の音が混じっていた。


地下室に風はない。


それなのに、頬が冷たかった。

九条雅也は、最初はただ冷静に間違いを指摘した。


「右手が硬い。拍が前へ流れている。低音を聴いていない」


短く、正確だった。


まるで校正しているようだった。


ルナはうなずいた。


「はい」


「もう一度」


彼女は弾いた。


「違う」


もう一度。


「違う」


また、もう一度。


「今の君は、弾いていない。力を入れているだけだ」


その言葉が落ちたとき、ルナの奥で何かが小さくひび割れた。


力を入れているだけ。


そうかもしれなかった。


彼女は、音を出そうとしていたのではない。

崩れないように、必死で何かを押さえ込んでいただけだった。

九条雅也は、さらに言った。


「止まれ。今、自分がどこにいるのかを聴け」


ルナは弦の上で手を止めた。


耳を澄ませようとした。


けれど、何も分からなかった。


低音の方向も。


和声の重さも。


自分の立っている場所も。


分かるのは、手首の奥に残る熱と、指先の震えと、胸の中で何度も繰り返される声だけだった。


——帰れ。


九条雅也は、彼女を見ていた。


「何を聴いた」


ルナは答えられなかった。


喉が動かない。


何か言わなければと思った。


けれど、声が出ない。


九条雅也の視線が、彼女の手元から顔へ移った。


「何も聴いていないのか」


ルナの指が、ギターの側板を強く握った。


違う。


何も聴いていないわけではない。


聴こえている。


雪の音。


切られた着信。


ユイの横顔。


九条雅也の「帰れ」。


自分の中で勝手に作られた「要らない」という声。


全部、聴こえている。


けれど、それは音楽ではなかった。


「……分かりません」


ようやく出た声は、思ったより細かった。

九条雅也の表情は変わらなかった。


「分からないなら、止まれ。分からないまま弾くな」


その言葉は、正しかった。


正しい言葉だった。


だからこそ、ルナには耐えられなかった。

彼女の中で、何かがゆっくり反転した。


止まれ。


帰れ。


弾くな。


分からないなら。


要らないなら。


「……じゃあ」


声が、勝手に出た。


九条雅也が、わずかに眉を動かした。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


自分でも驚くほど、声が震えていた。

怒っているのか、泣きそうなのか、分からなかった。


「止まったら、私は何になるんですか」


九条雅也は答えなかった。


ルナは、ギターを抱え直した。


「弾けないなら、私はここにいないほうがいいんですか」


「そういう話ではない」


九条雅也の声は、低かった。


「君は今、音を聴ける状態ではない」


「分かってます」


「分かっているなら、今日は弾くな」


「分かってます!」


その声が、地下室にぶつかった。

自分の声なのに、ルナは一瞬、それが誰のものか分からなかった。

九条雅也は、静かに彼女を見ていた。


その静けさが、さらに彼女を追い詰めた。

怒鳴ってくれたほうがよかった。

分かりやすく叱ってくれたほうがよかった。


そうすれば、まだ相手の言葉を憎むことができた。

けれど彼は、ただ正しかった。


正しすぎた。


「私は……」


ルナは口を開いた。


でも、言葉は続かなかった。

私は何をしに東京へ来たのか。


私は何を捨ててきたのか。


私は誰に置いていかれたのか。

私は、まだ誰かに選ばれたいのか。

全部が一度に胸へ押し寄せた。


ユイの顔が浮かんだ。


松本の雪が浮かんだ。


画面の向こうで視線を外した高坂唯が浮かんだ。


出なかった電話。


切られた着信。


膝をついた雪の感触。


そして、目の前にいる九条雅也。

冷たくて、正しくて、彼女の音の嘘を一秒で見抜く人。


「……もう」


ルナは、息を吸った。


視界が滲んだ。


「もう、分かんない」


次の瞬間、彼女はギターを投げた。

正確には、投げたというより、抱えていたものを手放した。

けれど、その動作には、確かに壊す意志があった。


古いギターが床に落ちた。


鈍い音がした。


地下室の清潔な空気を、乾いた亀裂の音が裂いた。


ギターの胴が割れた。


ネックが歪んだ。


何本かの弦が、弾けるように震えた。

その音が、いつまでも残った。

ルナ自身も、動けなかった。


落ちたギターを見下ろしていた。

あれは、ただの楽器ではなかった。

長野から背負ってきたものだった。


東京へ来る理由だった。


ユイとの約束に、まだ繋がっていると思い込んでいたものだった。

それが、床の上で壊れていた。

九条雅也は、何も言わなかった。


ルナは、彼の顔を見られなかった。

見たら、本当に終わってしまう気がした。


彼女は後ずさった。


椅子のそばには、ギターケースが倒れていた。

ノートは床に開いたまま落ちている。

鉛筆は、ピアノの脚のそばまで転がっていた。


けれど、彼女は何も拾わなかった。


何も持たなかった。


もう一秒でもそこにいたら、壊れたギターも、あの名前も、あの過去も、全部に引き戻されてしまう気がした。


足音が、廊下で乱れた。


地下室の扉が開き、すぐに重く閉まった。


風鈴は鳴らなかった。


ここは、風鈴カフェではない。

彼女の代わりに音を出してくれるものなど、ここにはなかった。

ちょうどそのとき、入口のほうから、香坂理沙が書類を抱えて入ってきた。


彼女の視線が、ルナの顔に一秒にも満たない時間だけ止まった。

その一秒の中に、ほんの少しだけ驚きがあった。

人間の本能のようなものだった。


次の瞬間、彼女の表情は、完璧な冷静さへ戻っていた。

ルナは、香坂理沙の脇をすり抜けた。


香坂理沙は止めなかった。


追いかけもしなかった。


ただ、わずかに身を引き、通路を空けた。

まるで、一つの事故が、すでに決められた導線の上を通過するのを許すように。

彼女は、床の上のギターへ視線を落とした。


ギターの胴は割れていた。何本かの弦だけが、まだ微かに震えていた。

そばには、置き去りにされたケースと、和声、拍、伴奏について書き込まれた小さなノートがあった。

香坂理沙の目が、それらの上で一瞬だけ止まった。


そして、視線を戻した。


彼女は、何事もなかったかのように地下室へ入った。


書類をテーブルに置く。


紙の端は、測ったようにそろえられた。


「本日の確認書類でございます」


少しだけ間を置いた。


その声は、なお恭しかった。


「それと、先ほどの件につきましては……このままですと、今後の対応には、少々工夫が必要かと存じます」


九条雅也は、すぐには答えなかった。

彼は、床から天井まで続くガラスのそばに立ち、外の木を見ていた。

その木は、変わらず立っていた。


まるで、何も聞いていなかったみたいに。


「彼女は水晶じゃない」


彼の声は低かった。


「ガラスなら、割れても溶かせば、また作れる」


香坂理沙は反論しなかった。

彼に沿うように、声を最も平らな位置へ置いた。


「はい。確かに可能でございます」


その間は、ほんの一瞬だった。

けれど、その一瞬は、本当の意味を形式の中へ隠すためのものに見えた。


「ただし、同じ形に戻せるかどうかは、別の問題でございます」


彼女は、最後の一文を彼に返した。

責任を、坊ちゃまの手へ戻すように。


「ご判断は、坊ちゃまにお任せいたします」


香坂理沙は、深く一礼して退いた。

地下室には、九条雅也だけが残った。

彼は、あの木を見つめたまま、長いあいだ黙っていた。


床の上では、壊れたギターが、過剰に清潔な光の中にまだ横たわっていた。


【ユラのノート・後記】


ずっと後になって、結月があの日のことを話してくれたとき、彼女の声は、思ったよりも静かだった。

九条様が、わざと自分を傷つけたわけではないことは分かっている、と彼女は言った。

あのときの自分の演奏がひどかったことも、分かっている、と。


手は痛んでいた。


頭もはっきりしていなかった。

前の夜の夢の中の雪が、まだ完全には消えていなかった。

九条様が聴いたのは、もしかすると、彼女の音の中にあった混乱だけだったのかもしれない。


けれど、人が砕けそうになっているときに聞こえるのは、相手が本当に口にした言葉とは限らない。

彼女が聞いたのは、自分がいちばん恐れていた一言だった。


——私は、もう要らないんだ。


だから、あのギターが床に落ちたとき、壊れたのは木でも、弦でもなかった。

彼女がずっと背負っていて、それでも重すぎるとは認められなかった、あの過去だった。


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第八幕|風鈴カフェ・雨上がり


雨は上がったばかりだった。

けれど、東京の空気はまだ湿っていた。

通りには、まだ人が歩いている。


濡れた路面が街灯を映し、光は低く、薄く伸びていた。

風鈴カフェは営業していなかった。

入口には「本日休業」の小さな札が掛かっている。


店内には弱い灯りが一つだけ残され、カーテンはすべて閉じられていた。


光は低く抑えられている。


そこは、もうカフェというより、感情を一時的に隠しておくために残された場所のようだった。

ルナは、窓際のソファの隅に縮こまっていた。

両膝を抱え、身体を小さく丸めている。


泣き終えたあとだった。


目の縁はまだ赤く、崩れ落ちる寸前のところから、どうにか自分を少しだけ引き戻したように見えた。


ギターはなかった。


ケースもなかった。


ノートもなかった。


彼女の手は空っぽだった。


まるで、自分の一部を、青山のあの地下音楽室に置いてきてしまったみたいだった。

その夜、メイは本当なら、ようやく仕事を終えたところだった。

ノブオと、NAjNAと、一日中レコーディングに追われて、何も食べていなかった。


やっと八王子へ戻り、ノブオが夜食のラーメンを用意してくれたところだった。

湯気が立ち始めた、その瞬間に、メイは何気なくルナへ電話をかけた。

電話がつながった瞬間、彼女はすぐに異変に気づいた。


声ではない。


呼吸だった。


泣いたあとで、それでも必死に押し殺している呼吸。

メイは多くを聞かなかった。

ラーメンにも一口も手をつけず、「ちょっと出る」とだけ言い残し、上着をつかんで飛び出した。


八王子から渋谷まで、雨はまだ降っていた。

彼女はずっと速く、急いで走った。

ようやく店の外でエンジン音が止まったとき、ルナはもう泣き終えていた。


そこに残っていたのは、丸まったままの静けさだけだった。

外から、大型バイクのエンジン音が聞こえてきた。


遠くから近づいてくる。


低く、安定した音だった。


ヘッドライトが窓の外をかすめた。

光がカーテン越しに揺れ、ルナの背後を冷たい白い線のように通り過ぎた。

ほんの一瞬、彼女の縮こまった輪郭が照らされる。


彼女は動かなかった。


ただ、呼吸がほんの少し止まった。


エンジンが止まった。


少しして、扉が開いた。


風鈴が、小さく鳴った。


メイが店に入ってきた。


レインウェアには、まだ雨の粒が残っている。

彼女は扉を閉めながら袖口を軽く振り、レインウェアを脱いで掛けた。

口元では小さく文句を言っていた。


怒っているようで、本当はほっとしている声だった。


先に店内の灯りを点けた。


光が落ち、閉じられたカーテンと、低く沈んだ空気が浮かび上がる。

メイはあたりを見回すこともなく、まっすぐ窓際へ歩いた。

ソファのそばに腰を下ろす。


「雨降ってんのに、呼び出す?」


少し火のついたような声だった。


「心配して、すぐ飛んできたんだけど。……で、今は大丈夫そう? 泣き終わった?」


ルナは答えなかった。


膝を抱える腕に、少しだけ力が入る。


メイは横目で彼女を見た。


声には、ここまで急いできた息がまだ残っていた。


「さっき電話で言ってたでしょ。めちゃくちゃ言われたのに、今度は止められて弾くなって言われたって。だから思ったわけ。それ、いったいどっちなんだよって」


ルナの喉が詰まった。


ようやく、ひとことだけ出た。


「……分かんない」


メイはすぐには彼女を見なかった。

ただ前を見たまま、空気に向かって話すように言った。


「私さ、大阪でバンドやってた頃、めちゃくちゃ怒られたよ。リズムだけじゃなくて、立ち方も、表情も。なんなら、水飲むのが遅いって言われたこともある」


少し間を置き、声の角をゆるめる。


「だから、今日みたいなの、別に珍しくない。しんどいのは普通。でも、それは終わりのしんどさじゃない」


ルナは顔を上げなかった。


ただ、呼吸が少しずつ落ち着いていった。


メイは続けた。


「ねえ、ああいう育ちがよくて、しかも天才みたいなタイプっているでしょ。ああいう人が、私らみたいな人間を無視するのって、ほんと簡単なんだよ」


彼女の声が、少し低くなる。


「興味のない相手なら、最初から視界に入れない」


ルナの指先が、わずかに動いた。

メイはそこで、ようやく彼女を見た。


「もし本当に、あいつがあんたを駄目だって思ってたなら、そもそも口なんか出さない」


店の中が、一瞬静かになった。

雨上がりの車の音が、ガラスの向こうを遠く滑っていく。

メイの声は、さらに低く、そして確かになった。


「でも、そうじゃない」


ルナが、ゆっくりと少しだけ顔を上げた。


メイは彼女を見た。


「あいつは、ちゃんとあんたを見てる。止めるし、突くし、逃がさない。そういうやり方をするのはさ、『伸びる』って思った相手だけなんだよ」


彼女は眉をひそめた。


九条雅也の肩を持つことに、どうにも慣れていないような顔だった。


「あいつは、あんたに時間を使う価値があるって判断した」


ルナの目が、また赤くなった。


メイはため息をついた。


「口が悪いのは性格の問題。嫌ってるからじゃない」


そこで、少しだけ止まった。


「選手として見てるんだよ、あんたのこと」


その言葉が落ちたあと、風鈴カフェの中はしばらく静かになった。

ルナはすぐに泣かなかった。


すぐに答えもしなかった。


ただ膝を抱えたまま、「追い出された」という場所から、ゆっくり別の可能性を聞き取り始めているようだった。


要らないのではない。


捨てられたのでもない。


九条雅也は、本当に自分を見ているのだ。


あまりにも正確に。


あまりにも冷たく。


あまりにも容赦なく。


だから、痛かった。


メイは、ふいに思い出したように自分の腹を押さえた。


「あ、だめだ……急にめっちゃ腹減った。私、さっきから何も食べてない」


彼女は立ち上がった。


声を、わざと軽くする。


「近くでなんか買ってくる」


入口まで行きかけて、もう一度ルナを見た。


「……ついでに、あんたの分も買ってこようか。プリンでいい?」


ルナは一秒だけ黙った。


それから、小さくうなずいた。


「……うん」


メイは少し笑った。


ものすごく優しい笑顔ではなかった。

けれど、さっきほど怖い顔でもなかった。


「よし。座って待ってな。勝手にどっか行くなよ」


ルナは、ほんの小さくうなずいた。


メイが扉を開ける。


風鈴が、また軽く鳴った。


扉が閉まる。


店の中には、ルナだけが残された。

弱い灯りは変わらなかった。

カーテンも閉じられたままだった。


雨上がりの東京が、外で濡れた光を帯びている。

時間が、一拍だけ遅くなったようだった。

ルナは膝を抱え、空っぽの手を見下ろした。


そこにギターはない。


ケースもない。


それでも、さっきメイが言った言葉は、まだ店の中に残っていた。


選手として見てるんだよ。


信じられるかどうか、彼女にはまだ分からなかった。

けれど少なくとも、その言葉は、彼女をすぐに雪の中へ引き戻さなかった。


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第九幕|青山の夜話・異なる次元の基準


夜が深くなると、青山の邸宅は、磨き上げられた器のように静かになった。


雨はもう止んでいた。


庭の石面には、まだ湿り気が残っている。

ガラスの向こうの木は、深い色の輪郭だけになっていた。

昼間、光に照らされて清潔に見えた枝葉は、今は夜の中へ沈んでいる。


どんな問いにも答える気がないようだった。

地下音楽室は、すでに整えられていた。

壊れたギターは、一時的に長いテーブルの上へ置かれている。


胴は割れ、ネックは歪み、何本かの弦が緩んでいた。

ケースも、ノートも、鉛筆も、香坂理沙がそろえて置いていた。

彼女は、勝手に修理へ出さなかった。


勝手に処分もしなかった。


それは九条家の物ではない。

そして、彼女がルナの代わりに行き先を決めてよい物でもなかった。

九条雅也がリビングへ戻ってきたとき、ジャケットはまだ腕に掛けられていた。


香坂理沙は音もなく進み出て、それを受け取った。

半歩下がり、クローゼットへ掛ける。


ハンガーの位置。


肩の線の角度。


袖口の整え方。


すべてが、一度で決まった。

それは、見せるための手際ではなかった。

長い年月の中で積み重ねられた記憶そのもののようだった。


掛け終えると、彼女はいつもの半歩後ろの位置へ戻った。


距離は、再び引かれた。


九条雅也は、すぐには座らなかった。


窓の外の木を見ていた。


まるで、まだ地下音楽室にいるかのようだった。

香坂理沙は静かに立っていた。


急かさない。


先に口を開かない。


長い沈黙のあと、九条雅也が低く言った。


「……つまり、俺の基準が高すぎたということか」


その言葉は、反省のようでも、弁解のようでもなかった。

むしろ、音楽で世界を判断することに慣れた人間が、初めて、自分の基準が音以外のものを傷つけたのかもしれないと気づいた。


そんな響きだった。


香坂理沙は、わずかに目を伏せた。


「坊ちゃまの基準が高すぎるのではございません。次元が異なるのでございます」


その声は平穏だった。


慰めではない。


迎合でもない。


「月村様の本日の状態は、確かに良好とは申せませんでした。手もまだ回復しておらず、睡眠も明らかに不足しておりました。演奏が崩れていたことについては、坊ちゃまのご判断に誤りはございません」


彼女は一瞬、間を置いた。


「ただ、坊ちゃまがお聞きになったものは、誤りでした。月村様が聞いていたものは、おそらく同じものではございません」


九条雅也が、ようやくわずかに視線を横へ向けた。

香坂理沙は、なお半歩後ろの位置を保っていた。

この機会に近づくこともしない。


言葉を責めるような形にも変えない。

ただ、判断だけをそこへ置いた。

書類を机の上に差し出すように。


「月村様は、非常にはっきりと理解してしまわれました。『選ばれた人間』とは、あのような音を出せる人間なのだと」


空気の中に、短い沈黙があった。

九条雅也の指が、グラスの縁で止まる。

香坂理沙は、目を逸らさなかった。


「ですので、彼女に、音楽をまだ少しでも好きでいられる余地を残すことが、より適切であったかと存じます」


その言葉が落ちたあと、部屋は静かになった。

九条雅也はソファへ戻り、腰を下ろした。

グラスの中の氷が、かすかに音を立てる。


何かの言葉を、飲み込んだような音だった。

香坂理沙は、半秒だけ動きを止めた。

それは、あまりにも短い沈黙だった。


けれど、その半秒は、ひとつの境界線でもあった。

彼女は、部屋の中に第三者がいないことを確認した。

そして、その言葉が、ただ一人にだけ届くべきものだと確かめた。


それから、いつもの立ち位置を一度ほどき、ゆっくりと膝を折った。

九条雅也の耳元へ、身を寄せる。

息遣いが聞こえるほど近かった。


軽く、規則正しく、感情はない。

それでも、無視することのできない距離だった。

香坂理沙は、ほとんど息だけの声で、低く言った。


「坊ちゃま……お父様のお耳には――入りません」


それ以上の説明はなかった。

彼女は、「知られないでしょう」と言ったのではない。


「知らせません」とも言わなかった。


ただ、そうなる可能性そのものが、彼女の手の中で静かに消されている。


そんな声だった。


言い終えると、香坂理沙はすぐに身を離した。


半歩。


頭を下げる。


深い一礼。


すべての距離と礼法が、一瞬で元の位置へ戻った。

まるで、先ほどの接近など存在しなかったかのように。


「失礼いたしました」


香坂理沙が退いたあと、リビングには九条雅也だけが残された。

彼は、窓の外の木を見つめたまま、しばらく黙っていた。

ガラスの外に風はなかった。


木も動かなかった。


けれど彼は、初めて思った。

壁と、視線と、街の音から切り離されたあの木は、集中のためにそこに立っているのではないのかもしれない。

もしかすると、ただ、ほかに行く場所がないだけなのかもしれない。


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第十幕|風鈴カフェ・扉の外に立つ人


——同じ夜・深夜——


雨が上がったあとの渋谷の夜は、水で洗われたみたいだった。

路面は濡れて光り、街灯は長く引き伸ばされた光になって、アスファルトに貼りついている。

遠くで、たまに車が通った。


タイヤが水たまりを踏み、低い音を立てる。

その音で街は一瞬だけ目を覚まし、すぐまた夜の底へ沈んでいった。

風鈴カフェは営業していなかった。


入口には「本日休業」の小さな札が掛かったままだった。

店内には低い灯りが一つだけ残され、テーブルと椅子はきれいに片づけられている。

コーヒーマシンは沈黙していた。


昼間にあったカップや皿の音、客の話し声、ミルの振動。

そういうものは全部、雨に流されて遠くへ行ってしまったみたいだった。

ルナは、窓際のソファの隅に座っていた。


メイが出ていく前に淹れてくれたホットミルクは、もう湯気を立てていなかった。

彼女は両手でカップを包み、うつむいたまま少しだけ口に含んだ。


温度が喉を通っていく。


そこには、ほんの少し甘さがあった。

けれど、胸の中に空いた穴は、少しも埋まらなかった。

彼女は、もう泣いたあとだった。


涙は、力まで一緒に連れていってしまった。

今の彼女は、ただ座っていた。

手は空っぽで、隣の場所も空っぽだった。


本当ならギターケースが寄りかかっているはずの場所には、何もない。

彼女はときどき、無意識にそちらを見た。

そのたびに、もう一度確認することになる。


あのギターは、本当にここにない。

メイは、何か食べるものを買ってくる、すぐ戻ると言っていた。

だから、ルナはずっと待っていた。


二階へ上がることもできなかった。

店の外へ出ることもできなかった。

このソファから離れた瞬間、自分はまた、あの雪の中へ落ちてしまうような気がした。


どれくらい経ったのか分からない。

彼女はもう一度、ホットミルクを飲んだ。

カップは、さっきほど熱くなかった。


カップの縁を見つめたまま、小さな声でぼやく。


「メイ、遅いな……」


その言葉が落ちた直後、外から車の音が聞こえた。

メイの大型バイクではなかった。

もっと低く、もっと抑えられた音だった。


車輪が濡れた路面を踏み、水音がかすかに鳴る。

まるで誰かが、わざと動きを遅くしているみたいだった。


ルナは顔を上げた。


最初は、ただ通り過ぎる車だと思った。

けれど、すぐに扉の外で、三度だけ軽いノックが響いた。


コン、コン、コン。


急いではいない。


強くもない。


ただ、中にいる人へ「誰かが来た」と知らせるだけの音だった。

ノックのあと、扉の外の人はもう扉に触れなかった。

声をかけて急かすこともしなかった。


半分閉じたカーテン越しに、ルナは黒い影が数歩下がるのを見た。

その影は、街灯と細い雨のあいだで止まった。

彼女は、最初に少しだけ息を抜いた。


「……メイ?」


けれど次の瞬間、違うと思った。

メイは、こんなふうにノックしない。

メイならそのまま扉を押し開けて入ってくる。


そして、コンビニの唐揚げが冷めたとか、途中で酔っぱらいにぶつかりそうになったとか、文句を言うはずだった。

メイは、扉の外で待たない。

ルナの手が、カップのそばで止まった。


扉の外は静かだった。


その静けさは、相手もまた、彼女が開けるかどうかを待っているようだった。

彼女はゆっくり立ち上がり、扉のほうへ歩いた。

指先がドアノブに触れたところで、少しだけ止まる。


怖かったからではない。


あの三度のノックが、あまりにも礼儀正しかったからだった。

その礼儀正しさが、距離まで彼女の手元へ返してくるようだった。


彼女は扉を開けた。


雨上がりの冷たい空気が、先に入ってきた。


湿った匂いがした。


外の雨は、実際にはまだ完全には止んでいなかった。

ほとんど見えないほど細く、街灯の下だけで薄い霧のように浮かんでいる。

九条雅也が、数歩離れたところに立っていた。


黒いスーツは、夜よりも深かった。

肩の線は、街灯に切り取られてはっきりしている。

細い雨が彼の髪先と上着に落ちていたが、音はしなかった。


ただ、そのもともと冷たく硬い輪郭を、さらに静かにしていた。


彼は近づかなかった。


口も開かなかった。


あの三度のノックのあとに残された距離は、彼女自身が決めるものだと分かっているようだった。


ルナは何も言わなかった。


ただ彼を見ていた。


店の暖かい光は、彼女の背後に残っている。

扉の外の冷たい光は、彼の上に落ちている。

二人のあいだには、濡れて光る短い地面があった。


とても細いのに、渡るのがひどく難しい川のようだった。

彼女は、自分は怖がると思っていた。

後ろへ下がると思っていた。


うつむいて、先に「ごめんなさい」と言うと思っていた。

青山の地下室にいたときのように、自分をできるだけ小さくしてしまうと思っていた。

けれど、彼女はただ立っていた。


彼を見ていた。


九条雅也も、彼女を急かさなかった。

両手をポケットに入れ、背筋を伸ばして立っている。


近づきもしない。


声もかけない。


今ここで早すぎる言葉をひとつでも出せば、彼女をまた怯えさせてしまう。

そう分かっているみたいだった。

細い雨が、二人のあいだに落ちていた。


長い時間が過ぎたあと、ルナはゆっくり外へ出た。


一歩。


もう一歩。


九条雅也の前で止まる。


近づくと、彼の上着に細かな雨粒が乗っているのが見えた。

夜気と、冷たい雨と、かすかな酒の匂いが混じった気配がした。

彼女は顔を上げ、彼を見た。


長いあいだ、見ていた。


泣き腫らした目に、また水がたまっていく。


唇が少し動いた。


けれど声にはならなかった。

言いたいことが胸の中に多すぎて、どれも完全な言葉として出てこられないみたいだった。

九条雅也は、彼女を見下ろしていた。


表情は相変わらず淡かった。

けれど、その淡さの中に苛立ちはなかった。

立ち去ろうとする気配もなかった。


ルナの涙が、ついにこぼれた。

最初の一滴が頬を滑ったとき、彼女自身も少し驚いたようだった。

次の瞬間、さらに涙が落ちた。


息を吸ったが、その息はひどく崩れていた。

胸の中で一晩中張り詰めていた糸が、とうとう切れてしまったみたいだった。


「ごめんなさい……」


声は小さかった。


細い雨に食べられてしまいそうなほど小さかった。


九条雅也は動かなかった。


ルナは、もう一度言った。


「ごめんなさい……」


今度は、声がもっと震えていた。

彼女は突然、一歩前に出た。

もう立っていられなかったようにも見えた。


あるいは、もうあの細い川の向こう側にひとりで立っていたくなかったのかもしれない。

彼女は手を伸ばし、彼のスーツをつかんだ。

そして、顔を彼の胸元に埋めた。


「ごめんなさい……!」


九条雅也は、その勢いにわずかに後ろへ下がった。

けれど、彼女を押し返しはしなかった。

ルナは彼の服をつかんでいた。


指先が白くなるほど強く。


そのスーツは冷たかった。


雨上がりの夜の空気を含んでいた。

それでも彼女には、ようやく消えないものに触れたように感じられた。


「でも……でも……私、まだ歌いたい……」


声は途切れ途切れだった。


胸のいちばん底から、無理に押し出されているみたいだった。


「怖い……もう、どうしたらいいのか分からない……」


九条雅也は、彼女を見下ろした。

少しして、ようやく手をポケットから出した。

その動きは遅く、抑えられていた。


彼の手が彼女の背中に置かれたとき、その力は、抱きしめるというより、彼女がまだ立っていることを確かめるようだった。

これ以上、下へ落ちていかないことを確認するようだった。


「……何も知らない兎が、山から逃げ出して、東京まで走ってきた」


ルナは顔を上げなかった。


九条雅也は少しだけ間を置いた。


「普通なら、どこかで獣に食われている。そこで物語は終わりだ」


それは、慰めではなかった。

少なくとも、普通の人間が言う慰めとは違っていた。

けれど、だからこそ彼らしかった。


九条雅也の手は、まだ彼女の背中に置かれていた。


「でも、君はここまで来た」


ルナの呼吸が、一瞬止まった。


「だから、俺はもう君を戻さない」


その言葉は平らだった。


余分な優しさも、感情の飾りもなかった。

けれどそれが落ちたとき、まるで一つの扉が彼女の背後で閉まり、別の扉がようやく開いたようだった。

ルナは、ゆっくり顔を上げた。


九条雅也は彼女を見ていた。


「譜面は俺が書く。編曲も俺がやる。君がまだできない部分は、俺が補う」


彼は「大丈夫だ」とは言わなかった。


「信じている」とも言わなかった。


ただ、責任を分けた。


一つずつ、彼女の前に置いていった。


契約のように。


救命索のように。


「君がやることは、一つだけだ」


ルナの目にはまだ涙が残っていた。

それでも、彼女は彼を見た。


九条雅也は言った。


「ちゃんと歌え」


その瞬間、ルナはふいに理解した。

メイの言っていたことは、もしかすると本当だったのかもしれない。

彼は、自分を要らないと思っているのではない。


本当に見ているのだ。


冷たく。


正確に。


痛いほどに。


けれど、彼は彼女をその道から突き落としたわけではなかった。


ルナは強くうなずいた。


「……はい」


声は小さかった。


けれど、もう砕けてはいなかった。

路地の向かい、少し暗い場所に、香坂理沙が静かに立っていた。

街灯の光は、彼女の肩の線と横顔だけを淡く縁取っている。


彼女は近づかなかった。


声もかけなかった。


ただ、九条雅也が視界の中にいることを確認していた。

彼女は、ルナが彼を抱きしめるのを見た。

そして、九条雅也が彼女の背に手を置くのを見た。


その表情は、一瞬だけ読み取りにくかった。


驚きではない。


不満にも見えない。


むしろ、長いあいだ秩序を保ってきた人間が、本来触れてはならなかったはずの線が、静かにほんの少し動いたのを目撃した。


そんな表情だった。


そのわずかな変化は、すぐに彼女の中へ戻された。

同じ路地の反対側から、メイがコンビニの袋を提げて戻ってきた。

袋の中で、プリンの容器と唐揚げの箱が軽くぶつかっている。


彼女は歩きながら、あくびをした。


「プリン二つで足りるかな……あいつ泣きすぎて、たぶん食べらんないかもだけど……」


顔を上げる。


そして、路地の真ん中で止まった。

風鈴カフェの入口で、ルナが九条雅也を抱きしめていた。


メイは瞬きをした。


もう一度、瞬きをした。


「……は?」


二歩ほど前へ進む。


空腹のせいで幻覚でも見ているのではないかと、確かめるみたいだった。


「え、ちょっと待って……何これ?」


手の中のビニール袋が、少し揺れた。


「いつからそんなドラマ始まってんの?」


雨上がりの渋谷は、まだ光っていた。

入口には、ようやく受け止められたルナ。

向かいには、黙って立つ香坂理沙。


路地の入口には、完全に処理落ちしたメイ。

夜は、誰のためにも止まらなかった。

けれど、いくつかの人の軌道は、この雨上がりの深夜に、静かに少しだけずれていた。


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第十一幕|最初の戦友・三人のつながり


朝だった。


風鈴カフェは、まだ開店前だった。

空気の中には、挽いたばかりのコーヒー豆の香りが残っている。

窓辺から差し込む陽の光が、カウンターの縁を照らし、昨夜の名残のような影を、少しずつ遠くへ押しやっていた。


ルナは一階の営業スペースで、開店準備をしていた。

椅子を一脚ずつ正しい位置へ戻す。


テーブルの面を確認する。


カウンターを拭く。


カップを決まった場所へ戻す。

やかんの中で湯が沸き、薄い湯気が上がっていた。

彼女の動きは、特別に手際がいいわけではなかった。


けれど、ひとつひとつが真面目だった。

店を整えているようで、同時に、自分自身を少しずつ整え直しているようでもあった。

その目は、昨夜のようにはもう乱れていなかった。


物事が簡単になったわけではない。

ただ、彼女はようやく、自分の心を、どうにか立っていられる場所まで戻せたのだ。

扉が開き、風鈴が小さく鳴った。


メイが、コンビニのビニール袋を提げて入ってきた。


袋が手の中で軽く揺れる。


あまり眠っていないように見えた。


髪も少し乱れている。


けれど、その顔つきはひどく嫌な感じだった。


一目で分かる。


完全に、からかう準備をしてきた顔だった。

口を開いた瞬間から、もう腹が立つ。


「ねえ、私が昨日プリン買いに行っただけで、戻ってきたらもう抱きついてたわけ?」


ルナの手から、雑巾が落ちかけた。


「……は? 今、何て言ったの?」


メイはまったく逃がさなかった。

むしろ、さらに悪い顔で笑った。


「で? 大魔王、降臨したんでしょ。どこまで進んだの?」


ルナの顔が、一気に赤くなった。


「な、何も進んでない! 何それ! 何も起きてないから!」


必死に否定すればするほど、何かを突かれたように見えた。

メイは椅子を引いて座り、ビニール袋をテーブルの上に置いた。

そして、ゆっくりと追い打ちをかけた。


「何も起きてないなら、なんで顔赤いの?」


「赤くない!」


「赤いよ」


「赤くない!」


「めちゃくちゃ赤い」


「メイ!」


ルナはとうとう毛を逆立てた猫みたいになった。

そのまま雑巾を投げつけそうな勢いだった。

メイは肩を震わせて笑った。


その反応だけで、八王子からここまで来た価値があったとでも言いたげだった。


ルナは深く息を吸った。


どうにか、自分を普通に話せる状態へ戻そうとする。


「彼はただ……手伝ってくれるって言っただけ」


メイが片眉を上げた。


「手伝ってくれる、ねえ」


わざと語尾を伸ばす。


「音楽の? それとも……そっち系?」


「メイ!」


今度は本気で声が出た。


「譜面を書いて、編曲もして、ギターの部分もやってくれるって。私はちゃんと歌えって言われただけ。……それだけ!」


メイは、耳まで赤くなったルナの顔を見つめ、ゆっくりとうなずいた。


「へえ——ちゃんと歌え、ね」


二秒だけ我慢した。


でも、やっぱり我慢できなかった。


「恋愛脳、起動してるじゃん」


「してない!」


「否定が早い。これは怪しい」


ルナは悔しすぎて言葉が出ず、ただ力いっぱいメイを睨んだ。

メイはひとしきりからかったあと、袋の中からプリンを取り出した。

ふたを開け、ひと口すくう。


スプーンをくわえたまま、彼女の笑みは少しずつ引いていった。

まるで、冗談のふたを閉じて、その下にある本当の判断を見せるみたいだった。


「でも、真面目な話」


声が少し低くなる。


「あいつが自分から『俺がやる』って言ったの、私、初めて聞いた」


ルナは固まった。


メイはもう笑っていなかった。

プリンをテーブルに置き、ルナを見る。

その視線が急に真剣すぎて、空気が一瞬、呼吸しづらくなる。


「月うさちゃん。それが何を意味するか、分かってる?」


ルナは答えなかった。


メイはスプーンで、プリンのカップの縁を軽く叩いた。


「それ、SSR引いたとか、そういうレベルじゃないから」


彼女はルナを見た。


「ゲームのルールごと変える限定カードだよ」


ルナは口を開きかけた。


けれど、どう返せばいいのか分からなかった。

メイは椅子の背にもたれ、視線を窓の外へ流した。

午前の街並みが、ガラスの向こうで静かに動いている。


昨夜の雨水が、まだ道端で光っていた。

彼女の目は、ゆっくり沈んでいった。

面倒なことになると分かっているのに、それでももう決めてしまった人の目だった。


「……よし。じゃあ、私も真面目に言う」


ルナはカウンターのそばに立っていた。

手にはまだ雑巾を握っている。


メイは言った。


「このバンド、今日から始めよう」


ルナが顔を上げた。


一瞬、理解できなかった。


いや、理解はしていた。


ただ、それを信じることができなかった。


メイは彼女を見なかった。


視線を窓の外に置いたままのほうが、言い切りやすいみたいだった。


「私さ、NAjNAのほうのデビュー契約、まだ止まってる。まだサインしてない」


一度、言葉を切る。


「今なら、まだ間に合う。まだ動ける。まだ会社に回収されてないし、『商品』のハンコも押されてない」


ルナの指が、ゆっくりと強くなった。

メイはそこでようやく振り返り、彼女を見た。


「だから、今のうちに、いちばん理屈に合わないことをやってみたい」


その声は平らだった。


けれど、冗談ではなかった。


「一回、あんたと突っ走る」


店の中が静かになった。


やかんからは、まだ薄い湯気が上がっている。

コーヒー豆の香りが、朝の光の中に残っていた。

ルナはカウンターのそばに立ったまま、急に鼻の奥がつんとした。


下唇を噛み、すぐには何も言わなかった。


ただ、強くうなずいた。


それは単なる感動ではなかった。

もっと、確信に近いものだった。

昨夜まで、彼女は自分を、東京に投げ出された人間のように感じていた。


古いギターを背負い、知らない街へ飛び込み、何とか自分が手ぶらで来たわけではないと証明しようとしていた。

けれど今、彼女のそばに残っているのは、ただ不確かなギターだけではなかった。

野良犬みたいに口が悪くて、でも誰よりも頼りになる戦友がいる。


そして、守ってやるようなことを言いながら、振り返れば宿題ばかり押しつけてくる魔王もいる。

ルナは顔を伏せ、少しだけ笑った。


目はまだ少し赤かった。


けれど、今度は泣かなかった。


「……うん」


彼女は言った。


「じゃあ、始めよう」


メイは彼女を見て、同じように笑った。


「よし」


彼女は食べかけのプリンを、ルナの前へ押し出した。


「先に食べな。ボーカルが餓死するバンドなんて、バカすぎる」


ルナは、とうとう笑ってしまった。


朝はもう始まっていた。


そして、彼女たちも、始まった。


【ユラのノート】


後になって、結月があの朝のことを話してくれるとき、彼女はいつも、まずメイのことを「本当にうるさかった」と文句を言った。

メイは朝っぱらから風鈴カフェにやって来て、口が悪くて、何かあるたびに「ドラマのヒロイン」とか「恋愛脳、起動」とか言ってきた。

そのせいで、本気で怒りそうになったのだと。


けれど、私はその話を聞くたびに思う。

それは、結月にとって本当は、とても大切な記憶なのだと。

なぜなら、それは彼女が初めて、東京は人を飲み込むだけの街ではないのだと感じた朝だったから。


前の夜、彼女は風鈴カフェでメイに受け止められた。

メイは、とても乱暴なやり方で彼女を叱った。

叱られることは、必ずしも嫌われることではない。


止められることは、必ずしも見捨てられることではない。


そう教えた。


そのあと、九条様も来た。


彼は、きれいな慰めの言葉など言わなかった。

それは彼のやり方ではなかった。

ただ雨の中に立ち、あの冷静で、不器用で、ほとんど契約のような口調で、彼女に告げたのだ。


もう君を戻さない。


東京に来たばかりの結月にとって、それはとても大きなことだった。

彼女はそれまで、自分はただ東京に放り出された人間なのだと思っていた。

けれど、その夜、初めて気づいたのだ。


自分は、もしかすると、完全にひとりではないのかもしれない。

メイは、彼女にとって最初の戦友だった。

九条様は、まったく理解できない相手なのに、それでも本当に手を伸ばしてくれた人だった。


そして、彼女がその頃から、九条様のことをほんの少し好きになり始めていたのかどうか——

私がそう言うたびに、結月はすぐに眉をひそめて、「考えすぎ」と言った。

けれど、私はよく覚えている。


彼女は、ただメイの冗談に照れていただけではなかった。


怖がっていたのだ。


自分の中に、初めて知らない感情が生まれたことを。

それは、彼女がよく知っていた依存ではなかった。

ユイに対する、あの痛みにも似ていなかった。


メイに対する安心とも違っていた。

もっと知らないものだった。

細い雨が上がったあと、窓辺にふと差し込む、小さな光のようなもの。


大きくはない。


けれど、見なかったふりはできない光だった。


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第十二幕|八王子焼肉


——第三話・終幕——


昭和の匂いが残る理髪店の中で、暖かな黄色い灯りが壁をやわらかく照らしていた。

はさみの音が、細かく落ちる。

店の隅では、ラジオが低い声で何かを話していた。


急がない時間が、そこだけ静かに流れているようだった。

鏡の中で、ルナは背筋を伸ばして座っていた。

肩にはクロスがかけられている。


髪はもう、半分以上短くなっていた。

残っているのは、うなじのところに垂れた最後のひと房だけだった。

それは、まだ手を離せずにいる過去のようにも見えた。


理髪師の手が、ほんの一拍だけ止まった。

それから、少しだけ声をやわらかくして言った。


「はい、最後いくよ」


はさみが落ちる。


最後の長い髪が、するりと滑って、クロスの上に落ちた。

それは、句点みたいに軽かった。

ルナは、鏡の中の自分を見つめた。


短くなった髪はすっきりしていて、耳とうなじが見えている。

全身を一度、風が通り抜けたみたいだった。

見つめているうちに、彼女は少し照れくさそうに笑った。


「……きれい」


その言葉はとても小さかった。

まず、自分自身にだけ聞かせるための声だった。

次の瞬間、電話の着信音が鳴った。


彼女はその一瞬の凝視から、現実へ引き戻された。

店の外へ出て、電話に出る。


夜が落ち始めていた。


街灯がつき、空気には初夏の手前の涼しさが混じっている。

ルナは上着を引き寄せ、指先で新しく短くなった髪に触れた。

本当に自分が変わったのだと、確かめるみたいだった。


「もしもし?」


電話の向こうにいたのは、メイだった。

声はいつも通り、まっすぐだった。


「ルナ。今、空いてる?」


「どうしたの?」


メイは命令みたいに、二つの単語だけを投げてきた。


「八王子。焼肉」


ルナは固まった。


「え、急すぎない?」


「急じゃない。取り立てに行く」


「取り立て……何を?」


「八代。あいつ、私とサラに焼肉、めちゃくちゃ借りてる」


ルナは一秒で理解した。


口元がゆっくり上がる。


笑いの中に、少しだけ悪いものが混じった。


「……え、それって借金取りってこと?」


メイは当然のように言った。


「そう。焼肉の借りを取り立てるの。分かるでしょ」


ルナはすぐに乗った。


「取り立てなら行く。行く行く」


電話の向こうで、メイが勝ったように笑った気配がした。


「でしょ? じゃ、決まり。JR八王子集合。遅れたら置いてくから」


「ひどい」


「ひどくない。仕事だから」


「何の仕事?」


「仲間としての仕事」


その言葉だけ、少しだけ軽さが違った。

冗談みたいに言っているのに、冗談だけではなかった。


「私ら、仲間でしょ」


ルナは夜の色を見た。


指先で、切ったばかりの髪先にそっと触れる。

その「仲間でしょ」という言葉が胸に落ちたとき、昨夜までの重たいものが、また少し遠くへ押しやられた気がした。


彼女は小さくうなずいた。


「……うん。分かった」


八王子の夜には、渋谷より少しだけ生活の粗さがあった。

焼肉店の中では、炭火が肉の端を少しずつ丸めている。

脂が落ちるたびに、じゅっと音が弾けた。


熱気。


煙。


笑い声。


タレの匂い。


そういうものが全部混ざり合って、人を丸ごと包み込んでしまうようだった。

皿は一枚、また一枚と運ばれてくる。

テーブルの上は少しずつ乱れ、空気はどんどん熱くなっていった。


サラは肉を一口食べた。


表情はほとんど変わらない。


ただ、淡々と言った。


「おいしい」


メイはすぐに笑って返した。


「私が呼んだんだからね。来るって分かってたし」


サラは、彼女の得意げな顔には反応しなかった。


ただ、短く促した。


「早く食べて。まだたくさんある」


いちばん盛り上がってきたところで、メイが急に箸を止めた。

重大なことを思い出したみたいだった。


「……あ、まずい。ベースがいない」


サラは一秒だけ止まった。


式を計算し終えた人みたいに、すぐ答えを出した。


「ルナが弾けばいい」


さらに、もっととんでもない案を平然と足す。


「弾きながら歌えばいい」


メイがぱんっと手を叩いた。


「うわ、あんた天才じゃん!」


ルナは驚いて、箸を落としそうになった。


「えっ、無理! 私、ベースなんて触ったことない!」


メイは悪い顔で彼女を見た。


「じゃあ何? あの天才にベース弾かせるつもり?」


ルナは一瞬止まった。


「天才って……?」


「MAYAに決まってるでしょ」


メイは当たり前みたいに言った。

そして次のたとえを、そのまま投げつけてきた。


「あんたそれ、大谷翔平に『投げなくていいから捕手やって』って言ってるようなもんだよ?」


サラが淡々と追い打ちをかける。


「もったいない」


ルナは少しだけ言葉を失った。


「いや、でも……私、ほんとに無理だよ?」


メイは周りを見た。


八代が、焼き台の向こうで肉を返している。

その手元には、なぜか古い赤いベースが立てかけられていた。


年季が入っている。


ボディには小さな傷がいくつもあった。

でも、妙に存在感があった。


メイの目が光った。


「八代」


八代は、嫌な予感がした顔で振り返った。


「何だよ」


メイは、にやりと笑った。


「あんたの嫁、ちょっと貸して」


八代の顔色が変わった。


「貸さねえよ!」


「一瞬だけ」


「一瞬でも駄目だ。あれは俺の嫁だ」


「焼肉、借りてるよね?」


八代が黙った。


その沈黙は、敗北だった。


メイは勝ち誇ったように笑った。


「はい、決定」


「おい、丁寧に扱えよ。ほんとに丁寧に扱えよ。倒したらお前、ただじゃ済まねえからな」


「はいはい。うるさい店主だな」


八代は文句を言いながらも、赤いベースをルナのほうへ持ってきた。

まるで娘を嫁に出す父親みたいな顔をしていた。


「絶対ぶつけるなよ」


ルナは両手を出した。


「え、えっと……お借りします」


ベースは、想像よりずっと重かった。


ギターとはまったく違う。


ボディが身体に触れた瞬間、どこに手を置けばいいのか分からなくなった。

ルナは、メイがテーブルを叩いて作るリズムに合わせようとした。

けれど、すぐにひどくずれた。


指は指板の上で完全に迷子になっていた。

メイがテーブルを叩きながら、笑い崩れた。


「指、迷子になってる!」


ルナも、気まずそうに笑った。


「難しい……!」


サラは彼女を見て、やっぱり淡々と言った。


「でも、楽しそう」


ルナは一瞬、固まった。


それから、いっそ上手いふりをすることにした。

ベースを抱えたまま、少し大げさに身体を揺らしてみせる。


「変?」


メイは即答した。


「最高」


店内の笑い声が、いちばん高くなった。

その瞬間のルナは、昨夜、風鈴カフェの隅で空っぽの手を抱えて縮こまっていた女の子とは、まるで違って見えた。

切ったばかりの短い髪は、まだ新しい清潔さをまとっている。


目の中には、もう一度光が戻っていた。

完全に大丈夫になったわけではない。

傷がもう癒えたわけでもない。


それでも彼女はようやく、笑い声に押されて、少しだけ前へ進めるようになっていた。

そのとき、のれんがふいに持ち上がった。

冷たい風が一筋流れ込み、店の熱気に細い切れ目を入れた。


少年が、入口に立っていた。

痩せていて、冷たくて、無口だった。

暖かな店の光は、彼の半分だけを照らしている。


もう半分は、まだ夜の中に残っていた。

表情には、あまり変化がなかった。

こういうにぎやかな場所に入ることに慣れていないようにも見えた。


あるいは、こういうにぎやかさが自分のものではないと、最初から知っているようにも見えた。

彼は、あまり大きくない声で言った。


「……持ち帰り。焼肉、一つ」


八代はすぐに店主の顔に戻った。


「あいよ。すぐ用意する」


少年は入口のそばで待った。

待っている時間は短かった。

それでも彼は、見てしまった。


店内の暖かな光の中で、ルナが赤いベースを抱え、めちゃくちゃな音を出している。

メイはテーブルを叩いて笑っている。

サラは平然と肉を食べている。


八代は忙しそうに振る舞いながら、自分の「嫁」が心配で仕方ない顔をしている。


煙。


肉の匂い。


笑い声。


そのすべてが、小さな店の中に詰め込まれていた。

熱を持った、まるで別の世界みたいだった。

少年は一度だけ、それを見た。


目は変わらなかった。


持ち帰りの袋が差し出された。

彼はそれを受け取り、金を払い、背を向けた。


のれんが落ちる。


冷たい風が、そこで断ち切られた。

店の中には、変わらず笑い声と、煙と、暖かな光があった。


何事もなかったみたいに。


誰も、その背中に気づかなかった。

けれど、運命はもう動き始めていた。


ルナはまだ知らなかった。


焼肉の匂いと、笑い声と、くだらない騒ぎに満ちたこの八王子の夜に、彼女たちの最初のバンドの輪郭が、もう一本、静かに骨を生やし始めていたことを。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第三話・下編では、ルナが九条雅也という人物の音楽だけでなく、その背後にある家や責任、そして孤独に触れる回になりました。


青山の地下室で交わされた言葉は、決して優しいものではありません。


けれど雅也にとって音楽は、ただ美しいものではなく、自分を保つための場所でもあります。


ルナがそこへ足を踏み入れたことで、二人の関係も少しずつ変わり始めます。


次回からは、ルナ自身の音と、彼女の周囲にいる人たちとのつながりが、さらに動いていく予定です。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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