最終回 私のいちばんの勇者様!
「——まだ、ちゃんとお礼も……」
わかばの声が、遠くからかすかに聞こえた。
「俺だって、まだ何も——」
白い光の中で手を伸ばす。
けれど、もう何にも触れられない。
この白い光は、あの時と同じ。
「こんな、別れ方って……」
やがて光が消え、視界が鮮明になる。
俺は恐る恐る、あたりを見渡した。
「ここは……って、臭っ」
その瞬間、強烈な刺激臭が鼻をつく。
ヤニで真っ黄色になった壁と、ゴミで散らかった畳が煙でぼやけて見えた。
俺の右手の指には、どこか懐かしい感触がある。ふと、視線を落とした。
先端を赤くしながら、ゆらゆらと煙を上げるそれは、吸いかけの赤マルだった。
「あれ? 残ってる?」
俺はもう一度、赤マルを見つめる。
「ああ、俺……戻ってきたのか……」
頭はまだ、クラクラしている。
畳の上に置かれたスマホの画面には、途中まで読んでいた異世界小説が開いたままだった。
異世界。
チート能力こそ授かったものの、魔法をぶっ放すことはなかったし、美少女も一人だけだったけど。
それは、夢のような物語だった。
「もしかして、全部……夢だったのか?」
無性に、寂しくなった。
だから、仕方ないよな。
「一本くらいなら……」
俺はそのまま、吸いかけの赤マルを口もとへ運ぶ。
唇に触れた、懐かしい感触。
それから、ゆっくりと深く煙を吸い込んだ。
口の中に少しの苦味、そのあとにほのかな甘みが広がる。
ゆっくりと味わってから肺へ入れると、久しぶりのニコチンが全身に染み渡っていった。
手足の指先に、まるで電流が走ったような感覚が広がる。
「なんで、こんなに美味いんだよ……」
ずっと吸いたかった。
何度も我慢して、何度も夢にまで見た一本だ。
けれど、胸の奥に残った寂しさまでは消えてくれなかった。
ぽたり、と畳に涙が落ちる。きっと、煙が目に染みたからだろう。
すぐに火を消そうとした。けれど、灰皿へ向けた手は言うことを聞いてくれない。
「ははっ。何やってんだ、俺……」
乾いた笑いが漏れた。
「何が勇者だ……」
わかばの笑顔が頭に浮かぶ。
怒った顔も、呆れた顔も、泣いた顔も。
最後に、俺へ手を伸ばしていた顔も。
「結局俺は、お前がいなきゃ、タバコの一本も我慢できない。どうしようもないヤニカスだったよ……」
そして、もう一度赤マルを口に咥えた。
「ごめんな、わかば……」
ふた口目の赤マルは、いつもより苦く感じた。
「そんなことありません!」
「え?」
明るい声と共に、急に視界が白んだ。
白い光が、部屋の中でチカチカと点滅する。
「まさか、また転移か! てか、夢じゃなかった?」
俺は急いで、赤マルを口に咥えたまま、タバコが封印されている金庫に駆け寄った。今度こそ、タバコを持ち込むために。
けれど、ダイヤルロックに触れたところで、手が止まった。
「……」
開ければいい、残りの赤マルを持っていけばいい。
なのに。
なぜか、開ける気になれなかった。
俺はその場に座り込み、目を瞑って転移の時を待つ。けれど、いくら待っても身体に変化はない。ヤニクラも、意識が飛ぶこともなかった。
「今のは、なんだったんだ?」
俺は座ったまま、部屋の中心に目を向ける。
白い光は、まだそこにあった。
やがて光が消え去ると、その中から一人の美少女が現れた。
腰まで伸びた艶やかな黒色の髪。
大きく澄んだ瞳。
白いワンピースに、胸元を革紐で編み上げた若草色のベストを重ねている。
手には、先端に宝石のついた杖を——持っていなかった。
「な……なんで?」
「くっさ! なんですかこれ! てか、部屋きたなっ!」
美少女は鼻をつまんだあと、すたすたと俺に近づいてくる。
「これは没収です!」
そして、俺が口に咥えていた赤マルを取り上げた。
「……」
何も言えない。
目の前にいる。
本当に。
わかばがいる。
「わかば……」
ぽかんと口を開けたままの俺に、わかばは微笑んだ。
その綺麗な顔を、涙でぐしゃぐしゃにしながら。
「これからは、私がずっとそばにいます!」
わかばの熱い涙が、ぽたぽたと俺の膝に落ちた。
「ずっと……って?」
「そのままの意味です!」
「でも、なんでお前がここに……」
「あの魔王が、私を飛ばしてくれたんです」
「……あいつが?」
「はい。勇者様の世界へ」
自分は三十年も帰れなかったくせに。
最後の最後で、余計なことしやがって。
「……そっか」
俺は小さく笑った。
わかばの指につままれた、吸いかけの赤マルが目に入る。
「ごめん、俺……約束したのに……」
わかばは少しだけ目を丸くしたあと、優しく微笑んだ。
「大丈夫です! 一本くらいならノーカンです!」
「ノーカン、なのか?」
「はい!」
「二口吸ったけど」
「一本は一本です!」
「そういう問題?」
「そういう問題です!」
無茶苦茶だ。
でも。
なんか、それでいい気がした。
わかばは赤マルを持ったまま、もう一度とびっきりの笑顔で微笑んだ。
「だからもう一度、私と一緒に禁煙しましょう!」
俺は差し出されたその手を見つめる。
それから、そっと握った。
「……ああ」
わかばが嬉しそうに笑う。
そして。
少しだけ照れたように、俺を見上げた。
——ふふっ。私のいちばんの勇者様!
おわり
◆おまけ◆
「勇者様! まずはこの散らかった部屋を片付けましょう!」
「え? てか、こっちの世界で勇者様はやめてくれない?」
「だって、私、勇者様のお名前知らないですし……」
「あっ、確かに」
そういや、名乗ってなかった。
あれだけ一緒にいたのに。
「教えてくれますか?」
「草太だよ」
「そうた……様?」
「いやいや、様はやめてくれ!」
「じゃあ、草太と呼びます!」
「え、いきなり呼び捨て? 普通もう少し段階を踏むよね? さんとか、せめて君とか」
「いや……ですか?」
わかばが、少しだけ不安そうに俺を見る。
「いやじゃ……ない」
「ふふっ。じゃあこれからも、よろしくお願いしますね」
それから、少しだけ間を置いた。
「草太!」
「……おう」
なんか、妙に照れくさい。
俺は誤魔化すように、足元に転がっていたゴミを拾った。
その時。
部屋の隅にあるテレビから、ニュースキャスターの声が聞こえた。
『——続いてのニュースです。三十年前に突然行方不明となった男性について、新たな情報が——』
「草太! そっちもお願いします!」
「はいはい」
テレビの声はいつの間にか、俺たち二人の話し声に、かき消されていた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
『禁煙勇者』は、これにて完結となります。
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最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




