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三十二本目 決着

「ずるいって、何がだよ!」

「回復だ!」

「知らねえよ! お前には三十年があるんだろ!?」


「それとこれは話が違う!」

「同じだ!」

「違う!」


 それからまた殴り合う。いや、殴り合いなんてそんな格好いいもんじゃない。


 拳を振り回して。

 掴み合って。

 転んで。


 立ち上がって。

 息を切らして。

 何度も。

 何度も。

 ただ、食らいつく。


 魔王の拳が俺の顔に入る。すかさずわかばが治す。


 今度は俺の拳が魔王の肩に入る。その傷は残る。


 魔王に足を払われる。また、わかばに治してもらう。


 起き上がる。そしてまた殴る。


 少しずつ、本当に少しずつだが、魔王の息が荒くなっていくのが分かった。


「はあ……はあ……」

「どうした!」

「貴様……!」


 魔王の足元がふらつく。


 俺だってしんどい。身体はもう、ほとんど普通の人間だ。いや、普通の人間より明らかに弱い。


 肺が痛い。

 足も重い。


 それでも。


「まだいけます!」


 後ろから、息を切らしたわかばの声が飛んでくる。同時に、柔らかな光がまた俺の身体を包んだ。


「……」


 そうだった。

 俺は最初から、一人じゃ何もできなかった。


 この世界に来た時だって。


 タバコがなくてイライラして。

 何度も無茶をして。

 そのたびに、こいつが隣にいた。


 俺は魔王を見る。

 あいつは俺と似ている。


 タバコが好きで。

 口が悪くて。

 すぐイライラして。


 同じ勇者で。

 同じように、元の世界へ帰りたかった。


 でも一つだけ、決定的に違う。


 あいつには、隣で止めてくれる奴がいなかった。


 もし、俺の隣にわかばがいなかったら、俺もあいつみたいになっていたのかもしれない。


「負けないでください!」

「……ああ」


 俺は拳を握る。


 この世界へ来たばかりの俺なら、スライム一匹から逃げていた。


 でも、今は——。


「まだやるか?」


 魔王に聞く。


「……愚問だ」


 魔王は荒い息を吐きながら笑った。


「我は魔王だぞ」


 手にしていた杖を放り捨てる。ガラン、と乾いた音を立てて、杖が床を転がった。


「来い」


 魔王が両拳を構える。


「最後だ」

「……上等!」


 俺も拳を握った。


 魔王が床を蹴る。

 俺も走る。


 全然速くない。


 二人とも息を切らしながら、真正面から向かっていく。


 魔王が拳を振り上げる。


「力こそ――パワーだあああああっ!」

「最後までそれかよおおおおお!」


 拳と拳が、真正面からぶつかった。ごつっ、と鈍い音がする。


「いってえええええ!」

「ぐっ……!」


 俺たちは同時に拳を押さえた。


「普通に痛えじゃねえか!」

「貴様が殴ってきたのだろうが!」

「お前もだろ!」


「今、治します!」

 柔らかな光が、俺の拳を包む。

 痛みが引いていく。


「……」


 魔王が、赤くなった自分の拳に視線を落とす。

 それから、俺の背後にいるわかばを見た。


「……そうか」

「あ?」


 魔王が、ほんの少しだけ笑った。


「どうやら貴様は……我とは違うらしい」

「今更気づいたか」

「ふん」


 魔王が、もう一度拳を構える。

 俺も構えた。


 今度こそ。

 最後だ。


「いけええええ!」


 わかばの声が背中を押す。


 床を蹴る。

 魔王も距離を詰めてくる。


 拳を振るう。

 だが、避けられる。


 魔王の拳が頬を掠めた。

 俺も、残った力を全部込めて拳を振り抜く。


「ぐっ!」


 拳が、確かに魔王の顔を捉えた。

 魔王の身体がよろめく。


 一歩。

 二歩。

 そして、そのまま玉座の前で膝をついた。


「はあ……はあ……」


 俺も、その場に膝をつく。

 そこへ、わかばが駆け寄ってきた。


「終わった……?」

「……多分な」


 顔を上げて魔王を見る。

 動かない。


 次の瞬間。

 わかばが俺の胸へ飛び込んできた。


「うおっ」

「よかった……! 本当に……!」

「……ああ」


 身体が震えている。

 俺は、そっとわかばの頭に手を置いた。


 終わった。

 ついに、魔王を倒した。

 これで全部——。


「……ぐ」

「っ!」


 俺はすぐにわかばを庇う。

 魔王が、ゆっくりと顔を上げた。


「まだやるのか?」

「……ふん」


 口元には血が滲んでいる。


 それでも。

 魔王は笑っていた。


「八ミリごときに……負けるとはな」

「まだ言ってんのか!」

「ぐわっはっは……」


 力のない笑い声が、玉座の間に響く。

 やがて、魔王は大きく息を吐いた。


「我の負けだ」

「……」


 その言葉を聞いて。

 ようやく俺は拳を下ろした。


「じゃあ、人間界から魔王軍を引け」


 魔王は、口元の血を手の甲で拭う。


「……ああ」


「畑も返せ。奪った土地も全部だ」

「ああ」

 思ったより素直だ。


 なら。

 最後にもう一つ。


「工場も止めろ」


 魔王の表情が固まった。


「……それは」

「止めろ」

「……」


 露骨に目を逸らしやがった。


「止めろ」

「二回言うな!」

「未練たらたらだからだろ!」

「三十年だぞ!」

「知らねえよ!」


 ったく。

 最後まで面倒くさい奴だ。


 しばらく黙っていた魔王は、やがて諦めたように息を吐いた。


「……分かった」

「よし」


 俺も大きく息を吐く。

 これで、本当に終わった。

 俺は、隣にいるわかばを見る。


「帰るか」

「……え?」

「お前の村」


 わかばの目が大きくなる。


「畑。一緒にやるんだろ?」

「勇者様……」

「その前に、穴の開いた家もなんとかしねえとな」


 わかばが泣きそうな顔で笑った。


「はい!」


 俺も笑う。


 これから、村へ戻って。

 家を直して。

 畑をやって。


 またこいつと、くだらないことで喧嘩して。

 そんな毎日が始まる。

 そう思った、その時だった。


「……ん?」


 足元が明るい。

 見ると、白い光が俺の足を包んでいた。


「……え?」


 わかばも足元を見る。

 光は少しずつ、上へ昇ってくる。


「なんだ、これ」

「勇者様!」


 わかばが慌てて俺の腕を掴んだ。


「魔王!」


 俺は振り返る。


「てめえ、何した!」

「……我ではない」

「は?」


 魔王も驚いた顔で俺を見ている。

 白い光は止まらない。


 膝。

 腰。

 少しずつ、俺の身体を包んでいく。


「じゃあなんだよ、これ!」

「……」


 魔王が俺を見つめる。

 そして、何かに気づいたように目を見開いた。


「まさか……」

「何だよ!」

「……帰還か」

「は?」


 魔王は、俺を包む光を呆然と見つめている。


「我が敗れたことで……条件が満たされたのか」

「待て」


 背筋が冷たくなる。


「じゃあ、三十年前……お前が帰れなかったのは」


「……」


 魔王は何も答えない。

 でも、もう分かった。


 こいつは三十年前。

 先代魔王を倒していない。

 自分の力で、どこか別の世界へ飛ばした。


 だから。

 魔王を倒したことにはならなかった。

 帰還条件も、満たされなかった。


「待ってください!」


 振り返ると、わかばが泣きそうな顔で俺を見ていた。


「せっかく……」


 声が震えている。


「せっかく全部終わったのに!」

「……」

「一緒に帰れると思ったのに!」


 白い光が、胸元まで昇ってくる。


「わかば!」


 俺も強く手を握り返した。

 帰りたかった。

 ずっと。


 この世界へ来たばかりの頃は、それしか考えていなかった。


 タバコ吸いてえ。

 家に帰りてえ。

 こんな世界、早く出ていきてえ。


 なのに。

 今は。


「くそっ……!」


 帰りたくない。


「なんでだよ……今じゃねえだろ!」


 わかばの手を、もっと強く握る。

 でも、おかしい。


 確かに触れているのに、少しずつその感触が薄くなっていく。


「……行かないでください」

「わかば」

「……はい」


 何か言わなきゃ。


 ありがとう。

 ごめん。

 好きだ。


 いろんな言葉が頭に浮かぶ。

 でも、どれも違う気がした。


 まだ。

 もっと。


 こいつに言いたいことがあった。

 伝えたいことがあった。

 なのに、時間がない。

 わかばの顔が、涙で滲んでいく。


「……待ってます」

「え?」


「私、勇者様のこと……ずっと待ってますから!」


 泣いているのに、それでも必死に笑っていた。


「だから、絶対に——」


 最後まで聞こえなかった。

 白い光が、視界を埋め尽くす。


「わかば!」


 俺は手を伸ばす。

 その先に、わかばの手がある。

 なのに、もう触れられない。


 最後に見えたのは、泣きながらそれでも俺に向かって必死に手を伸ばしている、わかばの顔だった。


 そして——。


 俺の手から、その温もりが完全に消えた。

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