二本目 魔王しばきに行くんだよ!
部屋を飛び出した先は、小さな農村だった。
「な、なんで逃げるんですか〜!」
後ろから、わかばの声が聞こえる。それを無視して、家々の間を抜けて、あぜ道を走り続けた。
しかし、すぐに息が苦しくなってくる。
「し、しんどい……」
俺は耐えきれず、胸を押さえながら立ち止まった。口の中に残っていた赤マルの味は、とっくに消え去っている。
代わりに広がっているのは、鉄のような血の味だった。
ぜえぜえと息を吐く俺のもとへ、わかばがゆっくりと歩いてくる。それから、心配そうに顔を覗き込んだ。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
「……え? これが大丈夫に見える?」
「ご、ごめんなさい! でも……」
わかばは振り返り、俺たちが走ってきた道に目を向けた。
「まだ、これだけしか走ってませんよ?」
「何を言って……」
俺も振り返る。召喚された家が、すぐそこに見えていた。
うお。マジか、俺の肺。たぶん百メートルくらいしか走ってないのに、これかよ。
「まあいいや」
俺はシャツの胸ポケットに手を入れた。
空っぽだった。
「あれ?」
続いて、ズボンのポケットを探る。
しかし、そこにも何もない。
「あっ」
そうだった。
タバコなんて、この世界にはないんだった。
「何をしているんですか、勇者様……」
わかばが冷ややかな目で俺を見ていた。
目の前に青い画面が浮かび上がる。
【勇者スキル解放まで、残り四十七時間二十八分】
「これから、どうすれば……」
俺は空っぽのポケットから手を抜き、わかばに尋ねる。
「ていうか、村の中になんで魔物が出るんだよ!」
「それは、ここが農村だからです」
「は?」
「正確には、農村だから魔王軍に狙われているんです」
わかばは周囲に広がる畑へ目を向けた。
「なぜかは分かりませんが、魔王が復活したとき、最初に行ったのが畑の掌握でした」
「なんだそれ」
「私たちが一生懸命育てた作物も、決められた量を魔王へ献上しなければなりません」
「献上……」
「しかも、その量は日に日に増えています。各地の農村は、みんなそれで苦しんでいるんです」
「異世界でも増税ラッシュかよ」
「ぞうぜい?」
「いや、こっちの話。それで、作物の献上と魔物に何の関係があるんだ?」
「決められた量を納められなかった村には、魔物を送り込んで村人を脅し、残っている作物まで奪っていくんです」
「督促が物理的すぎるだろ」
そのとき、俺たちが逃げてきた方角から、何かが弾むような音が聞こえた。
ぽよん。
ぽよん。
「……追いかけてきてない?」
「追いかけてきてますね」
【勇者スキル解放まで、残り四十七時間二十五分】
わかばが杖を構えた。
「おい、わかば」
「は、はい」
「お前、魔法とか使えるの?」
「か、回復魔法なら、少々……」
「ちっ」
「ひっ。す、すみません!」
スライムは、俺たちの少し手前で止まった。
ぷるぷると身体を震わせながら、みるみる大きく膨らんでいく。
どうやら、臨戦態勢に入ったらしい。
ていうか、なんで俺がこんな目に遭ってんの?
ああ、なんか指先がめちゃくちゃ震えてきた。
頭もぼんやりする。無性にイライラして、何もかもが鬱陶しい。
そのとき、俺の身体から黒い煙のようなものが立ち昇るのが見えた。
「ゆ、勇者様……これは……」
「なんだ、これ?」
「も、ものすごい殺気です……!」
「殺気?」
わかばは青ざめた顔で、俺から一歩後ずさった。
「これが、勇者様の本当の力……?」
「いや、チート能力は封印されてるんだろ」
「あれほど弱かったステータスも、きっと何かの間違いだったんです!」
わかばは、なぜか嬉しそうに目を輝かせている。一方、目の前のスライムは身体を小刻みに震わせていた。
さっきまで大きく膨らんでいた身体が、みるみるうちに萎んでいく。
そして——。
ぽよん。
スライムは勢いよく後ろへ跳ねた。
ぽよん。
ぽよん。
ぽよん。
そのまま、俺たちが逃げてきた道を引き返していく。
「あっ」
「魔物が逃げていきます!」
やがて、スライムの姿は家々の向こうへ消えていった。
静まり返ったあぜ道に、わかばの歓声が響く。
「すごいです、勇者様! 戦わずして魔物を退けるなんて!」
「いや、俺、何もしてないけど」
「勇者様の殺気に、恐れをなしたんですよ!」
「だから、殺気なんて出してねえって」
俺は震える拳を握り締めた。頭はぼんやりしている。無性にイライラする。
口が寂しい。タバコ吸いてえ。
「あっ、そういうことか」
俺は、この黒いオーラの正体にようやく気づいた。
「わかば」
「はい!」
「これ、勇者の力じゃねえわ」
「えっ?」
「ただのヤニ切れだ」
「やに切れ……?」
目の前に、青い画面が浮かび上がった。
【通常スキルを獲得しました】
【威圧:極度の禁断症状により、周囲の生物へ強い恐怖を与える】
【勇者スキル解放まで、残り四十七時間十三分】
禁煙開始から、まだ四十七分。
この状態が、あと四十七時間も続くらしい。
魔王と戦う前に、俺の理性が死ぬかもしれない。
「勇者様、もうすぐ日が暮れます!」
わかばが西の空を見上げた。
「ひとまず、今晩は私の家で休みましょう」
「わかばの家?」
「はい!」
◆
【勇者スキル解放まで、残り四十七時間五分】
禁煙開始から、まだ五十五分。
俺はわかばに連れられ、彼女の家へ向かった。
といっても、来た道を百メートルほど戻っただけだが。
「あのさ」
「はい?」
「さっき、この家に魔物が出たよね。戻って大丈夫なの?」
「大丈夫です!」
わかばは胸を張って答えた。
「勇者様の放つ恐ろしい殺気があれば、魔物は近づけませんから!」
「ヤニ切れを防犯装置みたいに言うなよ」
家へ入ると、わかばはすぐに台所へ立った。
トントンと、何かを切る音が聞こえてくる。
しばらくすると、香ばしい匂いが漂ってきた。
俺が座るテーブルに、完成した料理が次々と並べられた。
「揚げ茄子、焼き茄子……これは麻婆茄子?」
「はい! どうぞ、召し上がってください!」
「いや、なんでナスばっかなの?」
「うちは、ナス農家なので」
「いや、それにしても、もうちょっと何かあるだろ」
わかばは少し俯いた。それから、上目遣いで俺の顔を窺う。
「ナス……お嫌いでしたか?」
そんな顔をされたら、文句なんて言えねえだろ。
「いや、嫌いじゃないけど……」
俺は焼きナスを口に運んだ。柔らかな実が、口の中でとろりと崩れる。
「なんか、味薄くない?」
「えっ? そうですか?」
俺はテーブルに置かれた塩を手に取り、焼きナスへ振りかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「なんだよ」
「そ、そんなに塩をかけたら駄目です!」
「これくらい濃い方が美味いんだよ」
「駄目です! 身体に悪いです!」
わかばは腰に両手を当て、頬を膨らませた。
「お前、俺の母ちゃんかよ」
けれど、その言葉を聞いた瞬間。膨らんでいたわかばの頬が、ゆっくりとしぼんだ。
「お母さん……」
「わかば?」
「いえ。なんでもありません」
わかばはそう言って笑った。けれど、その笑顔はどこか寂しそうに見えた。
俺は改めて、家の中を見回す。小さなテーブルの周りには、一脚、空いている椅子があった。
「そういえば、お前、この家で一人で暮らしてるのか?」
「……はい」
「家族は?」
「三年前までは、お父さんとお母さんと、三人で暮らしていました」
「三年前?」
わかばは膝の上で、両手を強く握り締めた。
「両親は、魔王に殺されました」
「え?」
「正確には、魔王が直接手を下したわけではありません」
「どういう意味だ?」
「魔王が、この村にナスの増産を命じたんです」
わかばは、テーブルに並ぶ料理へ目を落とす。
「だんだん、献上しなければならない量が増えていきました。お父さんとお母さんは、昼も夜も働き続けて……」
わかばの声が震える。
「ある日、二人とも畑で倒れました。そのまま、目を覚まさなかったんです」
「過労死……か」
「それから、私は魔王への復讐を誓いました」
わかばは小さく頷いた。
「でも、私には回復魔法しか使えません。魔王軍と戦うことなんて、とてもできませんでした」
「それで、俺を呼び出したのか?」
「はい」
わかばは家の隅に置かれた、一冊の古びた本へ目を向けた。
「両親が亡くなったあと、街を歩いていたときです。魔王軍が落としていった本を拾いました」
「その本に、召喚の方法が?」
「はい。異世界から勇者を呼び出す方法が書かれていました」
わかばの目もとが、かすかに赤みを帯びた。
「それから三年間、必死に魔法を勉強しました。何度失敗しても諦めないで……今日、やっと召喚に成功したんです」
「それが、俺か……」
「はい」
わかばは笑った。けれど、すぐにその笑みを消し、深く頭を下げた。
「でも、いきなり知らない世界へ呼び出して、しかも、勇者様の好きだった、たばこもなくて……」
「……」
「そのうえ、魔王まで倒してくださいとお願いするなんて、虫が良すぎますよね」
「わかば……」
「ごめんなさい、勇者様」
わかばは顔を上げた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「私、魔王を倒さなくても、元の世界へ帰れる方法を探してみます」
「そんな方法、あるのか?」
「分かりません。でも、必ず探します」
わかばは無理に笑顔を作った。
「ですから、もう少しだけ待っていてください。それまでは、この家を自由に使ってもらって構いません」
一瞬、わかばは言葉に詰まった。
「どうせ……私しかいませんから」
【勇者スキル解放まで、残り四十七時間四十五分】
禁煙開始から、一時間三十分。
◆
その夜。
俺は板張りの硬い床に横になっていた。この家にはベッドが一つしかない。
床で寝ると言い張るわかばを無理やりベッドへ押し込み、俺は毛布一枚を借りた。
静かな家の中に、わかばの寝息だけが聞こえている。
「魔王を倒す、か」
俺はただ、元の世界へ帰って、吸いかけの一本を取り戻したいだけなんだが。
けれど、本当に魔王を倒さなくても帰れる方法なんてあるのか?
見つかるまでに、一体どれだけの時間がかかる?
三年間も一人で魔法を勉強したわかばが、今度はたった一人で帰還方法を探すという。
そう考えると、夕食のときに見せた、あいつの寂しそうな笑顔が頭から離れなかった。
それに——。
俺は小さく息を吐き、目を閉じた。
◆
翌朝。
俺はベッドの横に立ち、眠っているわかばの肩を揺らした。
「おい。起きろ、わかば」
「んっ……」
わかばが眠そうに目を開ける。
「おはようございます、勇者様……」
「行くぞ」
「えっ?」
わかばは目をこすりながら、身体を起こした。
「行くって、どこへですか?」
俺は家の扉を指さした。
「決まってんだろ」
「勇者様……?」
「魔王しばきに行くんだよ!」
わかばは大きく目を見開いた。やがて、その顔に満面の笑みが広がっていく。
そうだ。
これはあくまで、最短でタバコを吸うためだ。
【勇者スキル解放まで、残り三十三時間十五分】
禁煙開始から、十六時間。




