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一本目 禁煙勇者

 俺は、ぼんやりとした目でテレビに流れるニュースを眺めていた。


『政府は本日、たばこ税の増税を——』


「ちっ」


 思わず舌打ちが出た。画面の隅には、無慈悲な数字が表示されている。


 一箱、六百二十円。


「これで何回目だよ。六百二十円って、ふざけんな」


 ヤニで黄ばんだテレビに向かって悪態をつく。そんな俺を嘲笑うかのように、画面には喫煙所で美味そうに煙を吐く男の姿が映し出された。


「くっそ……。こっちは減煙してんのに、美味そうに吸いやがって」


 苛立ちを紛らわせるため、スマホを開く。表示されたのは、最近ハマっている異世界転生小説だった。


 チート能力を授かり、魔法をぶっ放し、美少女に囲まれる。


 そんな、夢のような世界へ想いを馳せている間だけは、ヤニ切れの苦しみを忘れられた。


「俺も、こんな世界なら、タバコなんてなくても……」


 ふと、思う。


「いや、そもそも異世界って、タバコあんのかな?」


 そういえば、タバコを吸っている異世界主人公なんて見たことがない。まあ、主人公がヤニカスだと格好がつかないからだろう。


 けれど、もしもだ。


 もしも、本当に異世界へ行ったとして、そこにタバコがなかったら——。


 そう考えた瞬間、猛烈に吸いたくなった。


「一本だけなら……」


 俺は部屋の隅に置かれた、小さな金庫へ手を伸ばした。中に入っているのは、現金でも通帳でもない。


 タバコだ。


 見える場所に置けば我慢できずに吸ってしまう。だから金庫へ封印した。


 ダイヤルロックを回す指が何度も滑り、そのたびに苛立ちが増していく。ようやく金庫を開け、残り少ない赤マルの箱を取り出す。


「残り、五本……」


 箱の中を覗き込み、慎重に計算する。


「毎日半分ずつ吸えば、あと十日は凌げる……か」


 俺は震える指で、そのうちの一本を取り出した。ただ紙に葉が巻かれているだけなのに、今の俺には金塊よりも重く感じる。


 口に咥え、火をつける。先端が赤く燃え、細い煙が立ち昇った。一円分の煙も無駄にするまいと、ゆっくり、深く吸い込む。


「ああ……美味い」


 先ほどまで腹の奥で燻っていた苛立ちは、気がつけば綺麗に鎮火していた。古いアパートの狭い部屋に、白い煙が充満していく。


 そのときだった。

 急に、視界が白んだ。


「ん……?」


 タバコの煙——にしては濃すぎる。というか、眩しい。


 白い光が、チカチカ明滅してる。頭がクラクラして、なんか気持ち悪い。


「こんなときにヤニクラかよ……」


 だが、何かがおかしい。


 視界を覆う白い光は、どんどん強くなっていく。身体から力が抜け、次第にまぶたが重くなった。


 嘘だろ。

 まだ半分も吸ってないのに。


「もったいな——」


 次の瞬間、俺の意識はぷつりと途切れた。



 ◆



 目を覚ますと、俺は見知らぬ床に寝そべっていた。


「あれ……? 何が起きたんだ?」


 口の中には、吸いかけの赤マルのほのかな甘みがまだ残っている。


「く、くさっ」


 そんな俺の顔を、一人の少女が鼻をつまみながら覗き込んでいた。


 腰まで伸びた、艶のある黒髪。大きく澄んだ瞳。白いワンピースに、胸元を革紐で編み上げた若草色のベストを重ねている。


 手には、先端に宝石のついた杖を持っていた。


 誰だ、こいつ。

 てか、「くさっ」て言ったよな、今。


「あっ! 目が覚めましたか!」


 俺がまぶたを開けたことに気づき、少女の顔がぱっと明るくなった。俺は重い身体を起こし、周囲を見渡す。


 見覚えのない土壁。

 板張りの床。

 小さな窓から差し込む、柔らかな陽射し。


 足元には、青白く光る魔法陣のようなものが描かれていた。


「ここ、どこだ?」


 頭はまだクラクラしている。そんな俺の様子をよそに、少女は満面の笑みで答えた。


「ここは、ニコティアです!」

「ニコチン?」


「違います! ニコティア、それがこの世界の名前です!」


「この、世界?」


「はい! そして、あなたは勇者に選ばれました!」


「は? 勇者?」


 理解が、追いつかない。


「そうです! これは、いわゆる異世界転生ってやつですよ!」


「異世界……転生?」


 俺は視線を落とし、自分の身体を確かめた。腕も、服装も、元のままだ。若返ってもいないし、別人にもなっていない。


「いや、これ転移じゃね?」

「えっ?」


 少女の笑顔が固まる。


「いや、だって俺、死んでないよな? 身体もそのままだし」


「そ、それは……」


 少女は目を泳がせた。


「そ、そんなこと、どうでもいいんですよ! とにかく!」


 それから、顔を真っ赤にして、誤魔化すように、杖を振り上げた。


「あなたには、魔王を倒してもらいたいんです!」


「魔王?」

「はい!」


 少女は振り上げた杖の先を床につけると、少し俯き、物悲しそうに語り始める。


「今から三十年前、一人の勇者様が悪しき魔王を討伐しました」


「は? なら、もういいじゃん」


「ですが数年前、討ち滅ぼされたはずの魔王が、突如として復活したのです!」


 少女の声が暗くなる。


「それに、魔王を討伐なさった伝説の勇者様も、いまだ戻ってこられません……」


 マジかよ。

 これは悪い夢か?

 それとも、ヤニクラで見ている幻覚か?


「あっ、すみません。まだ目覚めたばかりなのに。色々と話してしまって」


 少女はぺこぺこと頭を下げた。


「あのさ」

「は、はい! なんでしょうか?」


 少女が勢いよく顔を上げる。その瞳は、期待に満ちていた。


「君、タバコ持ってる?」

「たばこ?」


 少女は一瞬固まり、不思議そうに首を傾げた。


「たばこって、なんですか?」


 それは、増税のニュースと同じくらい聞きたくない言葉だった。


「は? マジで言ってる?」

「は、はい。マジです」

「タバコだよ。火をつけて、煙を吸うやつ」

「煙を……吸うんですか?」


 少女は明らかに引いていた。どうやら、本当に知らないらしい。だんだんと苛立ちが込み上げてくる。


「ちっ」

「ひっ」


 少女の肩が跳ねた。


「な、なんか、すみません……」


 それから申し訳なさそうに、深く頭を下げた。


「いいよ。謝らなくて」

「えっ?」

「謝ってもニコチンは出ないし」

「は、はあ……」


 話が通じていない。

 まあ、当然か。


「で、俺、どうやったら帰れるの?」

「帰る……って?」


「そりゃ元の世界にだよ。タバコ吸いかけなんだよ」


 まだ半分以上残っていた。もたもたしていたら、灰になってしまう。


「そ、そんなぁ! せっかく召喚に成功したのに!」


 少女は目に涙を浮かべた。


 勘弁してくれよ。泣きたいのは、吸いかけの一本を置いてきた俺の方だ。


「君、名前は?」

「わ、私は、わかばっていいます」

「……わかば?」


 一瞬、俺は固まった。


「はい。わかばです」

「ちっ。なんで、よりによってわかばなんだよ」


「よ、よりによってって、どういう意味ですか!」


 わかばは顔を赤らめ、頬を膨らませた。


「それより、俺はどうやったら戻れるんだ?」

「そ、それは……」


 わかばは俯いた。両手の人差し指を胸の前で合わせ、申し訳なさそうにもじもじしている。


「たぶん、魔王を倒したら戻れます」

「魔王を倒す?」

「は、はい」


 俺はしばらく考えたのち、勢いよく立ち上がった。


「よし、決めた。行くぞ!」

「えっ!」


 わかばの顔が明るくなる。


「も、もしかして、魔王を倒してくれるんですか!?」


「アホか! タバコ探しに行くんだよ!」

「ま、魔王を倒してくれるんじゃないんですか!?」


「いや、だって俺、一般人よ? ただのヤニカスよ?」


「やにかす?」


「そう。ただのヤニカスが、魔王なんかに勝てるわけないだろ」


「そ、そんなことはありません!」


 わかばは食い下がるように、俺へ詰め寄った。


「あなたは選ばれた勇者なんです!」

「選ばれただけで強くなれるなら、苦労しねえよ」


「いいえ! ちゃんと、勇者の力が与えられているはずです!」


 わかばは俺の胸の前へ手を伸ばした。そして、何もない空間を指でなぞる。まるで、見えないタッチパネルを操作しているようだった。


 すると淡い光が集まり、青色の半透明な板が浮かび上がった。


「おお。これって、ラノベでよくあるステータスってやつか」


 わかばは俺の言葉にも反応せず、必死に画面を操作している。しかし、触れば触るほど、その顔から血の気が引いていった。


「う、嘘……」

「どうした?」


 俺も画面を覗き込んだ。


【攻撃力:12】

【防御力:8】

【素早さ:5】

【魔力:3】


「これって、強いのか?」

「一般人とほとんど変わりません……」

「いや、だから俺、一般人なんだけど」


「そんなはずありません! 異世界から召喚された勇者には、必ず特別な力が——」


 わかばの指が止まった。


「えっ……何、これ?」


 画面の一番下で、赤い文字が点滅していた。


【勇者スキル:LOCKED】

【阻害物質を検出】

【勇者スキル解放まで、残り四十七時間五十八分】


「約二日?」


「あなた様は勇者です。本来なら、強大な力を持っているはず。でも、体内にある謎の物質が、その力を遮断しています」


「体内の、謎の物質……?」


 俺は自分の指先を見つめた。ついさっきまでタバコを挟んでいた、人差し指と中指。


 口の中には、まだ吸いかけの赤マルの味が残っている。


 能力解放まで約四十八時間。

 阻害物質。


 俺の頭の中で、二つの情報が一本の線につながった。


「これ、まさか……ニコチンが抜けるまでってことじゃねえだろうな」


「その、にこちんというのは、なんなんですか?」


 俺は思わず、その場に膝をついた。


「だ、大丈夫です!」


 わかばは励ますように、俺の両手を握る。


「理由はわかりませんけど、あと二日待つだけです!」


 俺はゆっくりと顔を上げた。


「待つだけ、だと?」

「え?」


 わかばの手が僅かに震えた。


「二日もヤニを断つなんて、できるはずねえだろ!」


 そのとき、部屋の外から悲鳴が聞こえた。


「きゃあああっ! 魔物よ!」

「逃げろ!」


 慌ただしい足音が、扉の向こうを駆け抜けていく。


 魔物だと?

 まあ、異世界なんだから、魔物くらいいるか。


 わかばが俺の腕を掴んだ。


「ゆ、勇者様! なんとかしてください!」

「いや。今の俺、ただのヤニカスなんだけど」


 次の瞬間。窓ガラスが派手な音を立てて割れた。


 飛び散る破片とともに、丸くてぷにぷにとした青色の魔物が部屋へ飛び込んでくる。床に落ちた魔物は、ぶるぶると身体を震わせた。


「あ、これスライムか」

「冷静に分析している場合じゃありません!」


 わかばが杖を構える。


 スライムは身体を大きく膨らませ、今にもこちらへ飛びかかろうとしていた。


 俺は静かに、わかばの肩に手を置く。


「わかば!」

「は、はい!」

「逃げるぞ」


 俺は扉へ向かって走り出した。


「勇者さまあああ!?」

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