十五本目 勇者と小悪魔
食事を終えた俺たちは、すぐに出発するつもりだった。だが、老人や村の人たちに強く引き止められ、結局この村で一泊することになった。
俺は老人の家で、久しぶりに湯船へ浸かり、旅の汗を流した。
風呂から上がったあと、火照った身体を冷ますために外へ出る。庭に置かれていた椅子へ腰を下ろし、背もたれに身体を預けた。
「……気持ちいいな」
頬を撫でる夜風が心地いい。
ぼんやりと夜空を見上げる。
雲ひとつない空には、数えきれないほどの星が瞬いていた。こうしてゆっくり空を眺めるのも、随分久しぶりな気がする。
てか、今タバコ吸ったらめちゃくちゃ美味いだろうなぁ。あ、あの赤い星……なんかタバコの火に見えてきた。
そんなくだらないことを考えていた時だった。
「勇者様〜」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返る。
「……」
そこに立っていたのは、風呂上がりのわかばだった。
村の人から借りたのだろう。
いつもの服ではなく、薄手の白い寝間着を一枚だけ身につけている。
少し大きめなのか、襟元はゆったりとしていて、片方の肩も今にもずり落ちそうだった。
いやいや、無防備すぎだろ。
ちょっと覗いたら見えるじゃねぇの?
そして、長い黒髪はまだ濡れている。
毛先から落ちた雫が、白い首筋をつうっと伝っていった。湯上がりの頬も、ほんのりと赤い。
「えへへ。お風呂、気持ちよかったですねぇ」
わかばは俺の視線など気にも留めず、いつものようににこっと笑った。
「……お前」
「はい?」
「その格好……その、大丈夫なのか?」
「え?」
わかばはきょとんとした顔で、自分の胸元を見下ろした。そして慌てたように、布地をぱたぱたとはたく。
「な、なにか汚れでも付いてますか!?」
「そういう意味じゃねぇよ!」
「えぇ?」
こいつ、本気で分かっていない……のか?
わかばは首を傾げ、不意に俺の顔をじっと見つめた。それから、何かに気づいたように口もとを緩める。
「あれぇ?」
「……なんだよ」
「勇者様、顔真っ赤ですよぉ〜?」
「っ……これは、風呂上がりだからだ」
咄嗟にそう答える。
すると、わかばはさらに首を傾げた。
「でも勇者様、お風呂から上がったの、ずいぶん前ですよね?」
「え?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
そんな俺の顔を、わかばは不思議そうに覗き込む。
「じゃあ、なんでそんなに顔赤いんですかぁ〜?」
ふわっと、どこか甘くていい匂いが鼻をくすぐる。禁煙すると鼻が効くようになるというが、こんな弊害があるとは……。
思わず言葉に詰まる。
「私のことも、ずっとじろじろ見てますし〜」
「そ、それはだな……」
俺はすぐに、目の前に迫る秘境への扉から目を逸らした。
「もしかしてぇ〜、勇者様——」
「あ、あぁ! そうだ! わかば、ちょっと用事を思い出した!」
「へ?」
「俺、ちょっと行ってくる!」
「こ、こんな時間にですかぁ!?」
俺は慌てて家へ戻り、逃げるように用意された部屋へ向かった。
危なかった。
あのままいたら、思わず扉に手をかけるところだった。
急いで部屋に入ると、そのまま敷かれた布団にダイブした。
てか、あいつわざとやってるよな?
今やタバコを我慢するより、こっちを我慢する方がよっぽどキツくね?
くっそ、こんな時こそ一服して、気持ちを落ち着かせたいところなのに。
さっき夜風に当たったせいか、無駄に冴えた頭でそんなことを考えている時だった。
コンコン。
「ん? 誰か……来た?」
コンコンコン!
「勇者様ぁ、起きてますかぁ〜」
「……」
コンコンコン!!
「寝てます」
「いや起きてますよね!?」
「……寝てます」
「も〜う、勇者様!」
扉の向こうから、わかばの少し膨れた声が聞こえる。
「……なんだよ。何か用か?」
「おやすみなさいを言いに来ただけです!」
「……それだけ?」
「はい!」
なんだよ、それだけか。
「……おやすみ」
「えへへ。おやすみなさい、勇者様!」
くそ。
せっかく夜風に当たったのに。
俺の顔は、なぜか余計に熱くなっていた。
◆
翌朝。
俺たちはアストレアへ向けて旅立つため、村の出口に立っていた。
そこには、昨日の老人をはじめ、村中の人々が集まっていた。
「勇者様、聖都アストレアは、ここよりさらに南にあります」
「ああ」
俺は手にした地図に目を落とす。
そこには、この村からはるか南、高くそびえる山の上に一点の丸印がされていた。
「あなた様なら、きっと魔王に打ち勝てます。ですが、道中くれぐれもお気をつけて」
「ああ」
それから老人は、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ところで勇者様、その……目の下にクマができておりますが、大丈夫ですか?」
「ええ。ただの寝不足です。問題ありません」
「も、もしや、昨日用意した布団に何か問題でも!?」
「いや、違います」
俺は隣にいるわかばへ目を向ける。
わかばは俺と目が合うと、すっきりとした顔でにこりと微笑んだ。
「いえいえ、昨日のお布団、ふっかふかでとても気持ちよかったです!」
いや、お前は爆睡してんのかよ。こっちは誰のせいで寝れなかったと思ってんだ。
「そ、それはよかった」
老人はそう言うと、近くの村人に手招きした。村人は小さく頷き、俺の前まで歩いてくる。それから、大きな紙包みを差し出した。
「少ないですが、日持ちする食料を入れています」
俺はその紙包みに視線を落とす。
「いや、これはあんたらで食べてくれ」
「で、ですが……」
村人は紙包みを手にしたまま、一歩前へ出た。
「一万ゴールドも貰ったし、食料はどうにでもなるよ」
「……勇者様」
隣から声がして、振り向く。
わかばが、どこか嬉しそうに俺を見ていた。
「じゃあ、そろそろ行きます」
そう言って、俺は村人たちに背を向けた。後ろから老人の声が聞こえる。
「魔王を倒したら、ぜひこの村に遊びに来てください。虹色鳥の目玉焼きでおもてなしいたします」
「ははっ、それは楽しみだな」
振り返らずに答えると、俺とわかばは村の外へと歩き出した。
「ふふっ、勇者様」
「なんだよ?」
「お優しいところも、三十年前の勇者様とそっくりですね!」
三十年前の伝説の勇者……か。
「別に……普通だよ」
わかばは「あっ」と口を開ける。
それから、俺の顔を覗き込んだ。
「また、顔赤いですよぉ〜」
「え?」
俺は無意識に頬へ手を当てていた。
「今度はどんな言い訳をするんですかぁ〜?」
「言い訳ってお前、昨日のはだな——」
「ふふっ」
楽しそうに笑うわかばを横目に、俺は歩く速度を少しだけ上げた。
……こいつ、完全に味を占めやがったな。
こうして俺たちは、次の目的地——聖都アストレアへ向けて歩き出した。




