EP 2
極道の壁と、完璧な朝食(調教)
ビキィィィィィィッ……!!
ポポロ村の広場は、天使長ヴァルキュリアが放つ『コンプライアンス執行のオーラ』によって、完全に凍りついていた。
純白の六枚の翼を広げ、絶対的な規律の象徴である『聖槍グラニ』を突きつける彼女の前に、世界神ルチアナ(ピンクジャージ)と月神カグヤ(紫ジャージ)は、抱き合ってガタガタと震えている。
だが、その圧倒的な神気と恐怖の空間を、一筋の紫煙と、重い足音が容赦なく踏みにじった。
「……おい」
カチッ。
真鍮製のオイルライターの音が響き、ドカジャンを羽織った俺――鬼神龍魔呂が、ゆっくりと縁側から歩み出た。
俺の背後からは、ヴァルキュリアの黄金の神気を真っ向から食い破るように、ドス黒く赤黒い『極道の闘気』が、巨大な阿修羅の幻影となって立ち昇り始める。
「……人間?」
ヴァルキュリアは、聖槍を構えたまま、怪訝そうに細い眉をひそめた。
「下界の農民が、この天使長ヴァルキュリアの前に立つなど……自らの命を縮める行為だと理解していますか? そこをどきなさい。その後ろにいる二人の愚神は、天界の法で裁かねばならない罪人です」
「裁くだと?」
俺はマルボロの煙を細く吐き出し、ヴァルキュリアを冷たく見据えた。
「極道のルール。俺のシマの土を踏み、俺の作った飯を食い、俺の畑で汗水流して働いてる奴は……神様だろうが何だろうが、俺の『身内』だ」
「み、身内……?」
「俺の目の前で、俺の身内に刃物を向けるような真似は……たとえ天界の監査役だろうが、絶対に許さねぇ」
ズドォォォォォォンッ!!!
極道の闘気と、天使の神気が、広場の中央で激しく衝突した。
空間が歪み、ビリビリと火花が散る。ルチアナとカグヤが「おじさぁぁんっ!」と悲鳴を上げて俺の背後に隠れた。
「……愚かな。人間の分際で、天界の規律に逆らうというのですね」
ヴァルキュリアの青い瞳が、絶対零度の怒りに染まる。
彼女が聖槍グラニを握り直し、黄金の翼を羽ばたかせて俺に突進しようとした、その時だった。
「……グゥゥゥゥ〜〜〜〜ッ」
張り詰めた空気を、信じられないほど間抜けな音が切り裂いた。
それは、ヴァルキュリアの美しい腹部から鳴り響いた、盛大な『腹の虫』の音であった。
「――――ッッ!?」
ヴァルキュリアの顔が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まった。
構えていた聖槍の切っ先がプルプルと震え、彼女から放たれていた絶対的な威圧感が、風船が割れたようにシュルシュルと萎んでいく。
「……てめぇ、朝飯食ってねぇな?」
俺は闘気をスッと収め、呆れたようにため息をついた。
「い、いえっ! これは、その……天界から急いで降臨してきたための、気圧の変化による胃腸の収縮で……!」
必死で言い訳をする天使長だが、その目は完全に縁側のテーブルに向けられていた。
テーブルの上には、先ほどまでルチアナとカグヤが狂ったように貪り食っていた、俺の作った『極上豚汁』と『塩むすび』の残りが置かれているのだ。
土鍋からは、シープピッグの濃厚な脂と、特製の合わせ味噌、そして太陽芋の甘い香りが入り混じった、暴力的なまでの『美味そうな匂い』が、暴力的に立ち昇っている。
「……腹を空かせたままじゃ、良い仕事はできねぇぞ」
俺は厨房に戻ると、新しい漆塗りの椀に、豚汁をたっぷりとよそい、ふんわりと握った塩むすびを添えて、縁側にドンッと置いた。
「ほら、食いな。話はそれからだ」
「なっ……! 私を愚弄する気ですか!」
ヴァルキュリアが顔を赤くして反発する。
「私たち天使族は、下界の泥臭い食事など口にしません! 私が毎日食しているのは、栄養素を完璧に計算した『ホーリー・ブリック(硬い黒パン)』と、陽薬草を限界まで濃縮した『特製青汁』だけ! 味覚の快楽など、規律を乱すだけの悪しき欲望ですわ!」
彼女は、自分が考案した『地獄の軍用糧食(EPA型)』の絶対性を誇示するように胸を張った。
だが。
グゥゥゥゥ〜〜〜〜ッ!
彼女の腹の虫は、主人の高尚な理念を裏切り、豚汁の匂いに反応してさらに大きな音を立てた。
「ほーらヴァルちゃん、意地張らないで食べなさいよ! おじさんのご飯食べたら、天界の青汁なんてただの泥水に思えるから!」
「そうよそうよ! 一緒にこっち側(底辺パラサイト)に堕ちましょうよ!」
俺の背後から、すっかり毒された芋ジャージの神々が、ゲラゲラと笑いながら煽り立てる。
「くっ……! そこまで言うなら、一口だけです! 一口だけ食べて、下界の食事がいかに野蛮で脂っこいだけの代物か、証明して差し上げますわ!」
ヴァルキュリアは、怒り心頭で聖槍を傍らに突き立てると、ドカドカと縁側に歩み寄り、箸を手に取った。
彼女は、黄金色に輝く豚汁の汁をすくい、おそるおそる美しい唇へと運んだ。
ズズッ……。
ジュワァァァァァァッ……!!
「――――ッッ!!!」
ヴァルキュリアの青い瞳が、限界まで見開かれた。
全身を、電流のような衝撃が突き抜ける。
美味い。
今まで彼女が口にしてきた「食事」という概念を、根底から覆すほどの圧倒的な旨味。
シープピッグの豚バラ肉から溶け出した濃厚な甘い脂が、特製の合わせ味噌と完璧に乳化し、五臓六腑の隅々にまで染み渡っていく。
具材としてゴロゴロ入っている『太陽芋』のホクホクとした食感、『大名タケノコ』のサクッとした歯ごたえ、そして『たまんネギ』の自然な甘み。
「あ、あぁ……っ」
ヴァルキュリアは、震える手で塩むすびを手に取り、かじりついた。
少し固めに炊き上げられた『米麦草』の粒が、口の中でほどけ、絶妙な塩加減が米本来の甘みを極限まで引き立てる。そして、すかさず豚汁で追いかける。
「美味しい……っ! なにこれ……!?」
天使長の美しい目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「豚肉の脂が……全然しつこくない! お出汁の旨味がお野菜の奥まで染み込んでて……っ! それにこのおにぎり……! 私の食べていたレンガみたいな黒パンと違って、ふんわりしてて、噛めば噛むほど甘いぃぃっ!」
彼女の脳裏に、毎日歯を食いしばって飲み込んでいた「致死量の苦みを持つ緑の絶望(青汁)」の記憶が蘇る。
私は、一体何のためにあんな泥水を飲んでいたのだろうか。
こんなにも温かく、美味しく、心が満たされる食事が、この世界には存在したというのに。
「ハフッ、ズルルッ! んぐっ、んんん〜〜っ♡」
もはや、天界の規律も、天使長としての威厳も、完全に消し飛んでいた。
ヴァルキュリアは、顔を椀に突っ込むような勢いで豚汁を掻き込み、塩むすびを貪り食った。その美しい銀髪が豚汁の汁で汚れようとも、彼女は箸を止めることができなかった。
「……ふぅっ♡」
ものの数分で、大きな土鍋に入っていた豚汁の最後の一滴まで飲み干したヴァルキュリアは、ふうぅぅっ、と深い深いため息をつき、縁側に大の字になって寝転がった。
「あははははっ! ヴァルちゃん、完全に陥落したわね!」
「ほーら見なさい! 結局、おじさんのご飯の前に神のプライドなんて無力なのよ!」
ルチアナとカグヤが、指を差してゲラゲラと笑う。
その笑い声にハッと我に返ったヴァルキュリアは、慌てて飛び起き、口の周りについた味噌をハンカチで拭った。
「こ、コホンッ!」
彼女は態勢を立て直し、わざとらしく咳払いをすると、聖槍グラニを杖のようにして立ち上がった。
「……ルチアナ様、カグヤ様。天界への強制連行は……今回は、保留といたします」
「えっ!?」
「貴女たちの底辺労働の実態を、私自身の目で直接『監視』する必要があると判断しました。ええ、これはあくまで監査役としての職務! 決して、明日の朝食が気になったからではありませんわ!」
ヴァルキュリアは、耳まで真っ赤にしながら、苦しい言い訳(完全な後付けの理屈)をまくし立てた。
「監視するためには、私もこの村に滞在しなければなりません。……そこの農家の人間。私が滞在する間の『三食』の提供を、特別に許可してあげますわ!」
「……たく、素直じゃねぇな」
俺は呆れながら、真鍮製のライターをポケットにしまった。
「まぁいい。俺の作った飯を食うなら、てめぇも今日から俺の身内だ。……ただし、タダ飯は食わせねぇぞ。監視だか何だか知らねぇが、食った分はキッチリ畑で働いて返してもらうからな」
「わ、私が農作業を!? ふ、ふん、天界の規律を重んじる私にとって、労働など造作もありませんわ!」
こうして。
天界の最恐の執行者であった天使長ヴァルキュリアは、極道農家の圧倒的な『豚汁』の前に完全敗北し、ルチアナとカグヤに続く三人目の「居候(底辺労働者)」として、ポポロ村に定住することになったのである。
――だが、その平和なドタバタ劇の裏側で。
ポポロ村のすぐ近郊の森の中では、炎上神ワイズの台本に従い、一人の『ハリボテの勇者』が、村を焼き尽くすための醜悪な準備を着々と進めているのだった。
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