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胃痛の元 -3

法務局、取調室。


窓はない。

壁は厚く、机はひとつ。椅子は三つ。


余計なものがない部屋だった。


呼び出された男は、中央法務局の文書官だった。

名はバルト。法改訂書の写しを管理していた者の一人である。


彼は椅子に座りながら、乾いた笑みを浮かべていた。


「何かの間違いでしょう。私は、通常通り確認印を押しただけです」


レイは向かいに座り、穏やかに微笑んでいた。


「ええ。ですから、その“通常通り”を確認しております」


声は優しい。

実に優しい。


(出た!! “通常通り”!! 犯人候補が一番好きな毛布!! それに包まれば無罪になると思うなよ!!)


ヴェルディウスは隣で記録をめくっていた。

表情は薄く、指先だけが正確に紙を選り分けていく。


「バルト。昨日、第二保管室へ入ったな」


「職務です」


「職務時間外だ」


男の笑みが、ほんの少しだけ固まる。


レイはその変化を見逃さなかった。


「理由を伺っても?」


「急ぎの照合がありましたので」


「誰の指示ですか」


「……上官です」


ヴェルディウスが顔を上げる。


「その上官は、同時刻に王印管理室にいた。お前に指示は出せない」


沈黙。


薄く、冷たい沈黙だった。


レイは微笑みを崩さない。


(はい、一枚剥がれた!!)


(まだ皮一枚!! だが剥がれた!!)


(ここからだ!! ここから官吏の言い訳祭りが開幕する!! なお、祭りの出口はない!!)


バルトの喉が動いた。


「記憶違いかもしれません」


「そうですか」


レイは静かに頷いた。


「では、記憶を補いましょう」


ヴェルディウスが、一枚の紙を机に置く。


入退室記録。

写しの閲覧署名。

そして、改訂前後の文言を並べた比較表。


紙の上で、逃げ道が一本ずつ消えていく。


「この改訂書に触れた者は限られています」


レイの声は、変わらず穏やかだった。


「その中で、文言が変わった時間帯に保管室へ入り、該当箇所を閲覧し、さらに王都側の承認手続きにも関わっていた者」


そこで、レイは一拍置いた。


「あなたです」


バルトの指が、机の下で震えた。


ヴェルディウスが淡々と言う。


「なお、“偶然”を主張するなら、今のうちだ。三回までは聞く」


レイは横目で彼を見る。


「三回も聞くのですか」


「形式上だ」


(形式!!)


(優しさではない!! 処刑台までの階段に絨毯を敷いただけ!!)


バルトの笑みが消えた。


部屋の空気が、少しだけ重くなる。


摘発は、まだ始まったばかりだった。


バルトの喉が、ひくりと動いた。


追い詰められた顔だった。

だが、その目の奥に、まだ小さな侮りが残っている。


「そもそも……」


声が掠れる。


レイは、静かに目を細めた。


バルトは机の上の比較表を睨みつけ、吐き捨てるように言った。


「王妃殿下が、余計なことに気づかなければ……!」


その瞬間、部屋の空気が止まった。


アランの指が、椅子の肘掛けを軽く叩く。

音は小さい。


だが、文官の肩が跳ねるには十分だった。


レイは微笑んだまま、ゆっくりと息を吸う。


(終わった!!)


(今、終わった!!)


(よりによってそこを踏むか!? 地雷原のど真ん中で踊るな!! 陛下の前で王妃殿下を侮るな!! 生存本能を王城のどこに置いてきた!?)


ヴェルディウスが、筆を止めた。


「バルト」


声は冷静だった。

冷静すぎて、薄く冷たい。


「発言を訂正する機会を一度だけ与える」


バルトは、そこでようやく自分が踏み抜いたものに気づいた。


顔から血の気が引いていく。


アランは、まだ黙っている。


それが一番、まずかった。


バルトの顔が、引きつった。


恐怖で止まるなら、まだよかった。

だが彼は、追い詰められた者特有の浅い怒りに縋った。


「王妃が政治に口を出すなど、本来なら……!」


レイは、静かに目を閉じた。


(墓穴を掘るな!! もう底が見えない!! 自分で掘った穴に宮殿でも建てる気か!!)


次の瞬間、アランの声が落ちた。


「本来なら?」


低い。

怒鳴ってはいない。


それなのに、部屋の温度だけが一段下がる。


バルトの喉が、ひゅ、と鳴った。


アランは椅子に座ったまま、ゆっくりと視線を上げる。


「続けろ」


レイはそこで、穏やかに口を挟んだ。


「バルト。今の発言は、非常に重要です」


声は柔らかい。

だが、逃げ道は塞いでいる。


「なぜ、王妃殿下の発見を“余計”だと思ったのですか?」


(怒るな。拾え。証言にしろ。胃は後で泣け。今は仕事だ。ものすごく嫌だが仕事だ!!)


レイは、バルトから視線を外さなかった。


外さないつもりだった。


だが、視界の端に映ったセラフィナの表情に、意識が引っかかる。


彼女は笑っていた。


楽しそうに。


けれど、その笑みは温かくない。

花が開くような笑みではなく、刃の縁に光が乗ったような冷たさがあった。


バルトを見る目は静かだった。

静かなのに、逃げ場をひとつずつ数えているようだった。


レイの背筋に、薄いものが走る。


(あ、駄目だ)


(王妃殿下が面白がっている。これは獲物が罠の中で暴れている時の顔だ。絶対に今、逃がす気がない)


ヴェルディウスが、筆を構え直した。


「レイ」


「ええ」


レイは微笑んだまま、バルトへ向き直る。


「続けてください。王妃殿下が政治に関わることが、なぜ不都合だったのですか?」


バルトの唇が震えた。


「そ、それは……」


視線が泳ぐ。

レイから逃げ、ヴェルディウスから逃げ、アランから逃げた先で、セラフィナに捕まった。


彼女はまだ笑っている。


冷たく、楽しそうに。


バルトの顔色が、さらに悪くなった。


「王妃殿下が関われば、すべて……見つかると」


レイは静かに瞬きをした。


(はい、出た!!)


(“王妃殿下がいると困る”発言!! つまり王妃殿下が邪魔だった!! それはもう自白の玄関です!! ようこそ調書へ!!)


ヴェルディウスの筆が、さらさらと紙の上を走る。


「記録した」


アランはセラフィナの方を見た。


一瞬だけ。


それからバルトへ視線を戻す。


「誰にそう言われた」


短い問いだった。


バルトの喉が、また鳴った。


セラフィナが、くすりと笑った。


小さな音だった。

それなのに、取調室の空気が一瞬で薄くなる。


彼女はアランの腕から、するりと離れた。


一歩。


また一歩。


急がない。

音も立てない。

それなのに、バルトの肩が目に見えて強張っていく。


レイは微笑みを保ったまま、指先だけで名簿の端を押さえた。


(王妃殿下が動いた!!)


(ゆっくり来る!! 怖い!! 処刑台が自分で歩いてくるより怖い!!)


セラフィナは、バルトのすぐそばで足を止めた。


楽しそうな冷笑を浮かべたまま、少し身を屈める。

そして、彼の耳元に何かを囁いた。


声は、レイには届かなかった。


ただ、結果だけは見えた。


バルトの顔から、血の気が引いた。


唇が震え、目が見開かれる。

喉が音もなく動いた。


ヴェルディウスの筆が止まる。


「……何を仰ったのですか」


レイは静かに尋ねた。


セラフィナは、にこりと笑う。


バルトは、もう笑っていなかった。


「ああ……」


セラフィナは、ゆっくりと身を起こした。


口元には、まだ笑みが残っている。

やわらかく、上品で、けれどバルトの顔色だけを確実に奪っていく笑みだった。


「思い当たることを聞いただけよ?」


その声は、あまりにも穏やかだった。


バルトの肩が、小さく跳ねる。


レイは微笑みを保ったまま、目だけでバルトを見る。


(思い当たること!!!)


(それを聞かれた瞬間に顔色が死ぬなら、思い当たりがありすぎるんですよ!!!)


ヴェルディウスは筆を再び動かした。


「では、思い当たった内容も確認しましょう」


淡々とした声だった。


「バルト。王妃殿下に何を聞かれた」


バルトは答えない。


答えられない。


アランは、静かにセラフィナの方へ手を伸ばした。

彼女が戻ってくるのを、当然のように待っている。


セラフィナは、すぐには戻らなかった。


バルトの横に立ったまま、白い指先を机へ置く。


こつ。


小さな音が、取調室に落ちた。


こつ、こつ。


一定の間隔。

急かすでもなく、苛立つでもなく、ただ数えるような音。


バルトの喉が震えた。

視線は机の一点に縫い留められ、瞬きだけがやけに多い。


レイは静かに息を吸う。


(怖い!!)


(何もしていない!! 指で机を鳴らしているだけ!! それなのに尋問器具より効いている!!)


ヴェルディウスは筆を止めずに言った。


「バルト。沈黙も記録する」


こつ。


セラフィナの指が、もう一度机を叩いた。


アランは椅子に座ったまま、黙ってそれを見ている。

その目だけが、少し細くなっていた。


バルトの唇が、震えた。


「王妃殿下は……」


声が掠れる。

喉の奥で、言葉が引っかかっている。


「私の弟の借金のことを……」


こつ。


セラフィナの指先が、机を鳴らす。


レイは目を細めた。


(弟。借金。そこを押さえている。王妃殿下、どこまで見ているんですか。いや、知っていた。知っていたけど、本人の耳元で囁くのは怖い!!)


バルトは顔を歪め、逃げるように言った。


「……グ、グレイン卿です。グレイン卿に命じられました」


セラフィナの指が止まった。


音が消える。


それだけで、部屋の温度が変わった。


レイは、穏やかな微笑みを貼りつけたまま、バルトを見た。


(はい嘘!! 今の沈黙、完全に嘘!! 王妃殿下の指音が止まった瞬間、俺の胃も止まった!!)


ヴェルディウスが淡々と筆を走らせる。


「虚偽証言の疑いあり」


「まだ疑いですか」


「形式上だ」


バルトの額に汗が滲む。


セラフィナは、ゆっくりと笑ったまま、再び指先を机に置いた。


こつ。


バルトの肩が跳ねる。


「……サルヴァ子爵です」


ついに、声が落ちた。


「サルヴァ子爵に、文言を直せと……言われました」


レイは深く頷いた。


「記録を」


「すでに」


ヴェルディウスの筆は、止まっていなかった。


レイは微笑む。


(出た!! 本命!! ようこそ調書の中心へ!! そしてさようなら、俺の穏やかな午後!!)


レイは、机の上に置かれた名簿へ視線を落とした。


サルヴァ子爵。


地方監査の対象に、ちょうど名前があった男だ。

偶然にしては、出来すぎている。


「動機は」


レイが静かに問う。


バルトは肩を丸め、机を見つめたまま答えた。


「監査が入れば……子爵領の帳簿が、持たないと……」


ヴェルディウスが筆を走らせる。


「つまり、監査逃れか」


「それだけでは、王都側の承認手続きまで触る理由が薄いですね」


レイは微笑んだ。


(はい、まだある!!)


(監査逃れだけなら地方で足掻け!! 王都の文書に手を突っ込んだ時点で共犯者の香りが濃い!! 香るな!! 臭い!!)


アランの目が細くなる。


「王都側は誰だ」


バルトの顔が、また白くなった。


その反応だけで、答えは十分だった。


ヴェルディウスが淡々と言う。


「続けろ。ここで止めると、王妃殿下の指がまた鳴る」


バルトの視線が、セラフィナの白い指先へ吸い寄せられた。


こつ。


セラフィナの指先が、机を叩いた。


こつ、こつ。


取調室に、乾いた音だけが響く。

大きな音ではない。けれど、バルトの呼吸を少しずつ乱すには十分だった。


彼の額から汗が落ちる。


レイは穏やかに微笑んだまま、名簿の端を押さえた。


(鳴った!! 再開した!! 王妃殿下式時限爆弾、作動!! 音は小さいのに圧が大きい!! この部屋の空気、完全に指先に支配されている!!)


ヴェルディウスは筆を止めない。


「バルト。王都側の協力者を」


こつ。


バルトの喉が鳴った。


「……法務局次官、です」


アランの視線が、静かに沈んだ。


ぱん、と。


セラフィナが両手を軽く合わせた。


乾いた指音が、こつこつと続いていた音を断ち切る。


バルトの肩が、びくりと跳ねた。


セラフィナは満足そうに微笑む。

その笑みは美しく、優しくさえ見える。


「よく言えました」


声は、褒めるようにやわらかかった。


だからこそ、バルトの顔色はさらに悪くなる。


レイは微笑みを保った。


(褒めた!!)


(褒め方が幼子に言うそれ!! だが相手は国家文書改ざん犯!! 温度差で風邪をひく!!)


ヴェルディウスは淡々と書き留めた。


「法務局次官。記録した」


アランはセラフィナを見て、ほんの少し目元を緩める。


「上手いな」


レイは静かに息を吐いた。


(陛下!! 感想が甘い!! でも実際上手い!! 反論できないのが一番つらい!!)


セラフィナは、くすりと笑った。


「ふふっ」


白い指先が、机の縁をそっとなぞる。

先ほどまで音を鳴らしていたその手が止まっただけで、バルトの呼吸が浅くなる。


「手荒にするより、ずっといいでしょう?」


声はやわらかい。


けれど、笑みは冷たい。

褒めるようで、許してはいない。

逃がすつもりなど、最初からない。


セラフィナはバルトの顔を覗き込むように、わずかに首を傾げた。


「ね?」


バルトの唇が震えた。


「は……はい……」


レイは穏やかな顔で、調書へ視線を落とす。


(同意した!!)


(今の“はい”は完全に生存本能!!)


(手荒にしていないのに、精神が丁寧に解体されている!! 王妃殿下、それは優しさの形をした処理です!!)


アランは、椅子から立ち上がった。


音はほとんどしない。

けれど、部屋にいた全員がその動きに気づいた。


彼はまっすぐセラフィナのそばへ歩み寄る。

バルトには一瞥もくれない。


当然のように、セラフィナの腰へ手を添えた。


「お前は本当に、無駄がないな」


低い声だった。

褒めている。

それも、隠す気のない声で。


アランはセラフィナの横顔を見つめ、少しだけ身を寄せる。


「手を汚さずに折る。……綺麗だ」


レイは調書に視線を落としたまま、完璧な笑みを保った。


(甘い!! そして危ない!! 褒め言葉の中に不穏が混ざっている!! 砂糖壺に刃物を入れるな!!)


ヴェルディウスは筆を止めずに言った。


「陛下。記録上は、王妃殿下による任意の供述促進です」


「そう書け」


「承知しました」


レイは小さく頷く。


(そう!! それでいい!! 公文書に“綺麗に折った”などと書けるか!! 調書を詩集にするな!!)


レイの胃が、きり、と鳴った。


最初は小さかった。

けれど次の瞬間、内側からきゅうっと絞られるような痛みに変わる。


レイは微笑んだ。


完璧に。


調書の上に置いた指先も、少しも震えない。


(来た!! 胃痛!! 本日分の本隊が到着した!! 先遣隊ではない!! 本隊だ!!)


アランはセラフィナの腰を抱いたまま、なおも彼女を見ている。


バルトは顔面蒼白。

ヴェルディウスは平然と記録。

セラフィナは冷笑の余韻を残したまま美しく立っている。


そして陛下は、それを甘い声で褒めた。


(状況整理!! 国家文書改ざん犯が自白!! 法務局次官の名前が出た!! 王妃殿下が精神を丁寧に解体!! 陛下がそれを“綺麗だ”と評価!! ここは取調室!! 夫婦の鑑賞会場ではない!!)


レイは静かに息を吸った。


痛い。


非常に痛い。


だが、宰相は倒れない。

倒れたら、この部屋の常識を誰が拾うのか。


「……では、供述の裏取りに移りましょう」


声は穏やかだった。


(戻す!! 話を戻す!! この空気を国家運営の軌道へ戻す!! 誰か俺に胃薬と勲章をくれ!! できれば胃薬を先に!!)

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