胃痛の元 -4
レイは、調書を一枚めくった。
紙の音を、わざと少しだけ立てる。
甘く傾きかけた空気に、乾いた現実を差し込むためだった。
「陛下、王妃殿下」
声は穏やか。
表情は完璧。
胃だけが内側で暴れている。
(戻します!! 今すぐ戻します!! ここは取調室!! 法務局次官の名が出た直後!! 夫婦で美しい尋問技術を鑑賞している場合ではございません!!)
レイはバルトへ視線を戻した。
「バルト。供述を確認します」
バルトの肩が跳ねる。
「サルヴァ子爵より文言改ざんを指示され、王都側では法務局次官が関与した。相違ありませんね?」
「……はい」
「よろしい」
レイは淡々と頷き、ヴェルディウスへ目を向けた。
「ヴェルディウス。法務局次官の執務室を封鎖。通信記録、面会記録、金銭の流れも押さえてください」
ヴェルディウスは筆を置き、静かに立ち上がる。
「了解した」
レイは微笑んだまま、もう一枚の書類を取る。
「それから、サルヴァ子爵邸へも人を。逃亡防止を最優先で」
(よし!! 仕事!! 仕事をしている!! 胃は痛いが、国は動いている!!)
アランは、セラフィナの腰に手を添えたまま、視線だけを鋭くした。
甘さが消えたわけではない。
ただ、その奥から王の判断が顔を出す。
「次官を押さえろ。サルヴァ子爵邸もだ」
短い命令だった。
「関係者は全員隔離。証拠を焼かせるな」
レイは即座に頭を下げる。
「承知いたしました」
(速い!! 切り替えが速い!! 今さっきまで王妃殿下を甘やかしていた口で、摘発命令が出た!! 陛下の情緒と政務判断、別々の馬車で走ってるのか!?)
その時、扉の外が騒がしくなった。
若い文官が、顔色を変えて飛び込んでくる。
「失礼いたします! 法務局次官が、先ほど執務室を出たとの報告が!」
レイは、微笑んだ。
完璧に。
「……行き先は」
「記録庫方面です!」
ヴェルディウスが、すでに立ち上がっていた。
「逃走か、証拠隠滅だな」
「どちらでも最悪ですね」
(出た!! 動いた!! 名前が出た瞬間に動いた!! 犯人側の反応が素直すぎる!! せめてもう少し知性で粘れ!! いや粘られても困る!! どうしろと!?)
レイは調書を閉じ、文官へ視線を向ける。
「記録庫を封鎖。出入口をすべて押さえてください。誰も中へ入れず、誰も外へ出さないように」
ヴェルディウスが淡々と続けた。
「火を扱う者も止めろ。紙が多い場所で慌てる人間は、たいてい燃やす」
レイは頷いた。
「急いで」
文官は青い顔で走り去った。
アランは、静かに言った。
「俺も行く」
レイの胃が、きゅっと鳴った。
(来た!!)
セラフィナは、ぱっと顔を上げた。
「あ! みんな、いってらっしゃ〜い」
あまりにも軽い声だった。
取調室の空気に似合わないほど、明るい。
そして次の瞬間、壁際に置かれていた槍を、ごく自然に担いだ。
「……私は、思い当たる所を封鎖してるわね?」
言いながら、すでに扉へ向かっている。
レイは一瞬、完全に固まった。
槍。
王妃殿下。
封鎖。
この三つの単語が、頭の中で綺麗に並んで、全然綺麗ではない結論を出した。
(待ってください!!)
(封鎖って、王妃殿下が直接!? しかも槍で!? それは封鎖ではなく制圧寄りでは!?)
アランが、当然のようにセラフィナの後を追おうとする。
「俺も行く」
レイは即座に一歩前へ出た。
「陛下は記録庫へお願いいたします」
声は穏やかだった。
胃は穏やかではなかった。
ヴェルディウスが横から淡々と続ける。
「王妃殿下の向かわれる先は、すでに封鎖ではなく突破防止になる可能性があります」
「言い方」
レイが小さく言う。
「正確だ」
(正確だから困るんですよ!!!)
廊下へ消えたはずのセラフィナの声が、軽やかに響いた。
「運動不足だったから丁度いいわね」
その場の全員が、止まった。
文官は青ざめたまま、口を開ける。
バルトは椅子の上で、さらに小さくなった。
アランだけが、ほんの少し嬉しそうに目を細める。
レイは、ゆっくりと微笑んだ。
完璧に。
(聞こえた!! 今のは全員に聞こえた!! 王妃殿下にとって逃走経路の封鎖は軽い運動!! 何だそれは!! 王城警備訓練の最終試験か!?)
ヴェルディウスは静かに扉の方を見た。
「レイ」
「何ですか」
「封鎖先の人員に、逃げるなと伝えた方がいい」
「逃げるな、ですか」
「王妃殿下から」
レイは一瞬だけ黙った。
「……的確ですね」
(逃げる犯人を止めるために、封鎖担当者へ“王妃殿下から逃げるな”と通達する王城!! もう何を守っているのか分からない!!)
アランが短く言った。
「行くぞ」
レイは調書を閉じた。
「はい、陛下」
(記録庫へ!! 現実へ!! いや現実が一番おかしいんだよな!!)
廊下へ出た瞬間、アランの足が止まった。
記録庫へ続く廊下ではなく、セラフィナが消えた方角へ視線が向く。
「セラフィナの方へ行く」
即答だった。
レイは、完璧な微笑みを浮かべた。
「陛下」
声は穏やか。
しかし胃は荒野である。
(出た!! 王妃殿下追跡本能!! 事件発生時でも最優先対象が揺るがない!! ある意味すごい!! だが今は記録庫です!!)
ヴェルディウスが横から淡々と告げる。
「王妃殿下は槍をお持ちです」
アランが眉を寄せる。
「だからだ」
レイは一瞬だけ沈黙した。
(だから!?)
(“安心だ”ではなく“だから行く”!? 陛下の中で槍装備の王妃殿下は心配対象なのか鑑賞対象なのか、判断に困る!!)
ヴェルディウスは表情を変えない。
「心配されるべきは、逃走者側です」
レイは深く頷いた。
「まったく同感でございます」
アランは、セラフィナが消えた廊下を一度だけ見た。
長くは見ない。
ただ、その一瞬だけで、迷いを飲み込んだようだった。
「……セラフィナなら捕まえる」
短く言って、踵を返す。
「記録庫だ。証拠を押さえる」
レイは即座に頭を下げた。
「承知いたしました」
(切り替えた!! 王だ!! ちゃんと王だ!! ただし判断理由の中心に王妃殿下への絶対信頼が鎮座している!! 玉座より自然に!!)
ヴェルディウスも歩き出す。
「妥当な判断です」
「当然だ」
アランの声は低い。
その瞬間、廊下の奥から、どん、と鈍い音が響いた。
続いて、誰かの短い悲鳴。
レイの足が、半歩だけ止まりかける。
(始まった!! 王妃殿下の運動不足解消が始まった!! 逃走者の皆様、本日の相手は王妃殿下です!! ご愁傷様です!!)
アランの視線が、また一瞬だけそちらへ向く。
けれど今度は、戻らなかった。
「急ぐぞ」
「はい」
レイは歩幅を合わせながら、完璧な声で答えた。
(偉い!! 戻らなかった!! 偉いけど廊下の向こうが気になりすぎる!!)
廊下の奥から、また鈍い音が響いた。
どん。
続いて、何かが壁にぶつかる音。
金属が床を滑り、誰かが短く悲鳴を上げる。
そのあとに、セラフィナの楽しそうな声がした。
「そちらは行き止まりよ?」
レイは前を向いたまま、歩調を崩さなかった。
(見えない!! 見えないのに分かる!! 王妃殿下が逃走者を狩場に追い込んでいる!! ここは王城!! 森ではない!!)
ヴェルディウスも足を止めない。
「問題なさそうだな」
「問題の定義を確認したくなりますね」
「王妃殿下側に問題はない」
レイは微笑んだ。
(逃走者側には大問題だよ!!!)
廊下の奥から、セラフィナの笑い声が響いた。
「ははっ」
軽やかで、楽しげで。
けれど、その場にいる者の足を止めさせるには十分すぎる声だった。
「楽しいわね?」
少し間が空く。
「ね? そうでしょう?」
返事はない。
代わりに、誰かが床を擦るような音だけがした。
レイは、前を向いたまま微笑んだ。
(楽しんでいらっしゃる!!!)
(完全に楽しんでいらっしゃる!!!)
(逃走者に同意を求めないでください!! その“そうでしょう?”に頷ける人間は、たぶん今この廊下にいません!!)
アランの足が、ほんの一瞬だけ遅くなった。
レイの胃が、跳ねる。
だがアランは振り返らなかった。
「……急ぐ」
低い声だった。
ヴェルディウスは淡々と頷く。
「王妃殿下側は順調です」
レイは静かに息を吐いた。
(順調の音が悲鳴!!)
アランは、一度だけ目を閉じた。
廊下の奥からは、まだ物音が聞こえている。
短い悲鳴。床を擦る音。金属が石床を跳ねる高い音。
その合間に、セラフィナの楽しそうな笑い声が混じった。
「ふふっ」
あまりにも軽やかだった。
王城の廊下で逃走者を追い詰めている声とは思えない。
アランの指が、ほんのわずかに動く。
けれど彼は、振り返らなかった。
「セラフィナは任せる」
低く、短く告げる。
「俺たちは証拠を押さえる」
その声から、甘さが消えたわけではない。
ただ、王としての判断が前に出ただけだった。
レイは深く礼をした。
「承知いたしました」
(王だ!! ちゃんと王だ!! ただし“任せる”相手が槍持ちの王妃殿下!! 王城の戦力表が根本から歪んでいる!!)
ヴェルディウスは、足を止めずに頷いた。
「妥当です。王妃殿下側に追加戦力は不要でしょう」
「言い方」
「事実だ」
(事実!! たぶん事実!! そして事実なのが一番怖い!!)
その直後、奥の廊下から、また鈍い音が響いた。
どん、と壁が鳴る。
誰かが情けない声を上げる。
少し遅れて、セラフィナの声が届いた。
「逃げる方向を間違えているわよ?」
アランが、低く呟く。
「……楽しそうだな」
その声には、ほんのわずかな羨ましさが混じっていた。
レイは前を向いたまま微笑む。
(混ざった!! 何か混ざりました陛下!! 国家犯罪摘発中です!! 王妃殿下の運動会に参加希望を出さないでください!!)
ヴェルディウスが淡々と言う。
「記録庫です」
「ああ」
たったそれだけで、アランの視線が前へ戻る。
廊下の先に、記録庫の扉が見えた。
重い木扉。
鉄の補強。
王国の法令、改訂書、写し、保管記録。
紙にされた権力が眠る場所である。
その隙間から、かすかに焦げた匂いが漂ってきた。
レイの笑みが、少しだけ深くなる。
(燃やした!! やっぱり燃やした!! 紙の多い場所で火を使うな!! 人類の基本!!)
ヴェルディウスが鼻先だけで息を吸う。
「焦げているな」
「ええ」
「慌てている」
「でしょうね」
レイは扉の取っ手へ視線を落とした。
中には、おそらく法務局次官がいる。
証拠を燃やし、逃げ道を探し、それでも自分だけは助かるつもりでいる。
よくある話だった。
そして、よくある話ほど、処理を誤れば面倒になる。
アランが一歩前へ出る。
「開けろ」
「はい」
レイは静かに頷いた。
(さて)
(次は証拠隠滅犯とのご対面だ)
(お願いだから、これ以上燃やすなよ)
記録庫の扉に手をかけた、その時だった。
背後の廊下から、足音が聞こえた。
まず、荒い息。
次に、石床を蹴る乱れた足音。
誰かが必死に走っている。
レイは振り返る。
角の向こうから、一人の男が飛び出してきた。
顔は青ざめ、髪は乱れ、片手で壁を掴むようにして走っている。
逃走者だ。
その後ろから。
こつ。
静かな音がした。
こつ、こつ。
ヒールが石床を叩く音。
急いでいない。
走ってもいない。
追い詰める気配すら、表には出していない。
それなのに、男は振り返るたびに顔を歪め、さらに足をもつれさせていた。
廊下の奥から、セラフィナが現れる。
槍を肩に担いだまま、のんびりと歩いていた。
口元には、楽しげな笑みが浮かんでいる。
まるで散歩だった。
ただし、前を走っている男にとっては、散歩ではない。
(来た!! 王妃殿下が来た!! しかも走っていない!! のんびり!! ゆっくり!! それで逃走者が全力疾走!! 何だこの光景!! 捕食者と昼下がりの散策を混ぜるな!!)
男が叫んだ。
「た、助けてくれ!」
レイは微笑みを保った。
(誰に!? 我々に!? 王妃殿下から!? それとも人生から!?)
セラフィナのヒールが、また鳴る。
こつ。
その音だけで、男の肩がびくりと跳ねた。
レイは思った。
恐怖とは、時に刃よりも遅い足音をしている。
セラフィナの声が、廊下にやわらかく落ちた。
「あら? もう終わり?」
こつ。
ヒールの音が、逃走者の背後で止まる。
彼女は槍を肩に担いだまま、少しだけ首を傾げていた。
口元には笑みがある。楽しげで、涼しくて、追い詰めた相手の息の乱れさえ眺めているような笑みだった。
「残念ね?」
逃走者の膝が、がくりと折れた。
「ひっ……!」
レイは、記録庫の扉に手をかけたまま微笑んだ。
(残念!? 何が!? 追跡時間ですか!? 運動量ですか!? 逃走者の根性ですか!? 王妃殿下、その評価軸は王城警備基準に載せてはいけないやつです!!)
ヴェルディウスが、倒れかけた男を淡々と見下ろす。
「捕縛対象が一名増えたな」
「ええ」
レイは穏やかに頷いた。
(増えたというか、届けられた!! 王妃殿下による徒歩配送!! なお受取人の胃に負担あり!!)
アランだけが、セラフィナを見て目元をわずかに緩めた。
「怪我はないか」
問いかける相手が、逃走者ではなくセラフィナなのは、もはや誰も指摘しなかった。
セラフィナは、アランの問いに軽く笑った。
「ええ。大丈夫よ」
息ひとつ乱れていない。
槍を肩に担いだまま、廊下を少し散歩してきただけのような顔をしている。
その足元では、逃走者が床に崩れ落ちていた。顔色は紙より白く、呼吸は荒く、目だけが完全に「もう逃げません」と語っている。
レイは、その光景を静かに見つめた。
アランはセラフィナだけを見ている。
セラフィナは楽しげに微笑んでいる。
ヴェルディウスは涼しい顔で捕縛の指示を出している。
逃走者は、魂だけ先に退職願を出している。
そして記録庫の扉の向こうからは、まだ焦げた匂いがしていた。
レイは完璧な宰相の顔で、深く息を吐く。
(王妃殿下は無傷!! 逃走者は心が粉砕!! 陛下は王妃殿下しか見ていない!! ヴェルディウスはいつも通り!! そして記録庫は燃えかけている!! 情報量が多い!! 王城の廊下で発生していい出来事の上限を超えている!!)
胃が痛い。
だが、立ち止まっている暇はない。
逃走者は届いた。
証言も取れた。
次官はこの先にいる。
証拠は燃えかけている。
つまり。
(仕事だ!! ものすごい仕事だ!! 逃げ場がないほど仕事だ!!)
レイは微笑んだまま、記録庫の扉へ向き直った。
「では、次に参りましょう」
声は、穏やかだった。
胃は、盛大に反乱を起こしていた。




