表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

胃痛の元 -2

扉が、遠慮がちに叩かれた。


一度。

少し間を置いて、もう一度。


レイは視線だけを扉へ向けた。


「入ってください」


声は穏やかだった。


扉が開き、若い文官が入ってくる。

顔色が悪い。手にした書類束の端が、わずかに震えていた。


「し、失礼いたします。法務局より、該当改訂書の保管記録をお持ちしました」


「こちらへ」


レイは机の空いた場所を示す。


文官は一歩進んだ。

だが、室内にいる面々を見た瞬間、喉を鳴らして固まった。


王。

王妃殿下。

宰相。

ヴェルディウス。


逃げ場のない布陣である。


(気持ちは分かる!!)


(入室しただけで人生の面接会場みたいになってるもんな!!)


文官は震える手で書類を差し出した。


「こ、こちらが昨日までの保管記録です。それと、写しを閲覧した者の名簿も……」


ヴェルディウスが横から受け取り、すぐに目を通す。


「三名、閲覧時間が不自然だな」


「早いですね」


「震えている者から受け取る書類は、落とされる前に読むに限る」


レイは微笑んだ。


(冷静!!)


(そして容赦がない!!)


アランの視線が、名簿からセラフィナへ移った。


張り詰めていた空気の中で、彼だけが当然のように彼女の腰を抱き寄せる。

指先の力は強すぎない。けれど、離すつもりもない距離だった。


文官が息を止める。

レイは微笑みを保つ。


(今!?)


(国家文書改ざんの容疑者名簿を前にして、今その空気を出すんですか陛下!?)


アランはセラフィナだけを見て、低く言った。


「お前が見つけたなら、この国はまだ折れないな」


レイの胃が、きゅっと鳴った。


(甘い!!)


(言ってる内容は国政なのに温度が甘い!!)


セラフィナは、淡く首を傾けた。


「そう? 折れないならよかったわ」


声はさらりとしていた。

まるで、雨が降らずに済んだと聞いた時のような軽さだった。


薄い睫毛が一度だけ伏せられ、すぐに上がる。

その顔には焦りも怒りもない。

ただ、目だけが改訂書の上を静かになぞっていた。


アランは、その横顔を見て小さく笑った。

腰に添えた手が、ほんの少しだけ彼女を引き寄せる。


「お前がそう言うと、本当に何でもないことに聞こえる」


レイは名簿に視線を落としたまま、微笑みを保った。


(何でもあります!!)


(折れる折れないの単位が国家です!! 花瓶じゃないんですよ!!)


ヴェルディウスは、名簿から顔を上げなかった。


紙面に視線を落としたまま、淡々と口を開く。


「陛下、王妃殿下」


声は静かだった。

刃を鞘に収めたまま、机に置くような声音だった。


「何でもないことではありません。国家文書の改ざんです」


一拍。


「花瓶なら、割れてから買い替えれば済みますが」


そこでようやく、ヴェルディウスは目を上げた。


「国は、替えが利きません」


レイは微笑みを保った。


(言った!!!)


(冷静に言った!!!)


(しかも花瓶!!! 俺の心の中から勝手に例えを持ち出すな!!!)


(いや正しい!! 正しいけど!! 国を花瓶と比較する日が来るとは思わなかった!! 宰相人生、予測不能すぎる!!)


文官はさらに顔色を悪くし、名簿を持つ手を震わせた。


アランは、少しだけ不満げにヴェルディウスを見る。


「分かっている」


ヴェルディウスは静かに頷いた。


「では、甘い空気は調査後にお願いいたします」


レイは小さく咳払いした。


「ヴェルディウス」


「必要な確認だ」


(必要か!?)


(いや必要だ!!!)


(この部屋、誰かが言わないと国家犯罪の横で夫婦の距離感が春になる!!!)


(だが言えるのはお前だけだ!!!)


レイは穏やかな顔で名簿を受け取った。


「……では、確認を続けましょう」


(続けましょう!!)


(お願いだから続けましょう!!)


(国は替えが利かないし、俺の胃も替えが利かないんですよ!!!)


セラフィナは、ほんの少し首を傾げた。


「甘い空気……?」


長い睫毛が、ゆっくり瞬く。

本当に分かっていない顔だった。


「何言ってるの?」


淡々とした声。

白い指先は、まだ改訂書の端に触れている。


「通常業務をしているだけだけど……?」


沈黙が落ちた。


アランの手は、当然のようにセラフィナの腰にある。

距離は近い。かなり近い。

だが、本人たちにとってはそれが平常らしい。


レイは微笑みを保った。


(通常業務!!!)


(その距離感が通常業務!!!)


(王城の服務規程に追記するか!? “王および王妃殿下の通常業務には腰抱きが含まれる”って!?)


ヴェルディウスは少しだけ目を伏せた。


「……失礼いたしました。認識の相違です」


レイは横目で彼を見る。


(引いた!!!)


(ヴェルディウスが引いた!!!)


(勝てない相手だと判断した顔だ!!!)


アランは、当然のように頷いた。


「ああ。通常だ」


何の迷いもない声だった。

セラフィナの腰に添えた手が、ほんの少しだけ彼女を引き寄せる。


「お前がそばにいるなら、仕事も進む」


室内の空気が、また一段おかしな方向へ傾いた。


若い文官は、目のやり場を完全に失っている。

ヴェルディウスは名簿を見たまま、静かに瞬きをした。


レイは微笑みを保った。


(追撃!!!)


(陛下が当然の顔で追撃した!!!)


(通常業務の定義が今、王の一言で補強された!!!)


ヴェルディウスが淡々と口を開く。


「陛下。仕事が進むのは結構ですが、証言者の動揺も進んでおります」


文官の肩が、びくりと跳ねた。


レイは穏やかに頷く。


「……まずは名簿の確認に戻りましょう」


(戻ろう!!)


(全員で現実に帰還しよう!!)


セラフィナが、改訂書の端を指で押さえた。


「まず、保管記録と写しの照合を優先しましょう。改ざん箇所だけではなく、同じ経路を通った文書も確認するべきね」


アランはその言葉を聞きながら、別の行に視線を落とした。


「ここもだ」


短く言って、罰則規定の末尾を指す。


「適用時期が曖昧になっている。これでは、施行前の案件を逃がせる」


セラフィナは一度だけ頷いた。


「なら、そこも含めて洗うわ。法務局、記録庫、王印管理室。それから過去三ヶ月の改訂書も」


「範囲を広げろ」


「ええ。関連する地方監査の記録も必要ね」


二人の言葉は短い。


短いのに、方針が次々と固まっていく。

セラフィナが拾い、アランが見抜き、セラフィナが束ね、アランが最後に線を引く。


アランはセラフィナの腰を抱いたまま、静かに告げた。


「決まりだ。該当文書に触れた者を全員確認する。関連文書も三ヶ月分遡れ。改ざんが一箇所で済むとは思うな」


「承知いたしました」


レイは完璧な声で答えた。


(速い!!!)


(なんだ今の!?)


(会議は!? 根回しは!? 説明資料は!?)


(王妃殿下が方針を置く! 陛下が別の穴を刺す! 王妃殿下が全部まとめる! 陛下が最終判断!)


(終わった!!!)


(普通なら半刻かかる流れが、一瞬で終わった!!!)


ヴェルディウスが、涼しい顔で名簿に印をつける。


「効率的だな」


レイは微笑んだ。


「ええ。非常に」


(効率的すぎるんだよ!!!)


(政務が爆速で進む!! 国にとってはありがたい!! 宰相としてもありがたい!!)


(ただし目の前の光景が近い!!!)


(距離が近い!!!)


(王国の意思決定が腰抱き状態で完了している!!!)


※※※※※


(はい)


(皆様、ご覧いただけただろうか)


(これがエレスタ王国である)


(恋愛で政治が回っている)


(恐怖)


顔は笑っている。

声も落ち着いている。

手元の筆記も乱れない。


だが、レイの内心では、すでに机が三台ほど粉砕されていた。


(いや、違うんだ)


(本当に違うんだ)


(陛下が王妃殿下に甘えているだけなら、まだ分かる)


(王妃殿下が陛下をうまく転がしているだけなら、まだ処理できる)


(だが違う)


レイは、目の前の二人を見る。


距離は近い。

近すぎる。

だが、その近さのまま、判断は鋭い。


甘い空気の中で、法の穴が塞がれる。

腰を抱いたまま、王命が下る。

見つめ合う合間に、制度改修が決まる。


(政治が!!)


(ちゃんと!!)


(進んでいる!!!)


ヴェルディウスが、静かに書き留める。


「記録には、陛下および王妃殿下の協議により決定、としておく」


「お願いします」


レイは微笑んだ。


(書けないからな)


(“陛下が王妃殿下の腰を抱いた状態で国家方針決定”とは、公文書に書けないからな)


(後世の史家に余計な仕事を増やしてはいけない)


アランがセラフィナを見る。


「疲れていないか」


「平気よ」


「なら続ける」


「ええ」


それだけで、次の処理に移った。


レイは思った。


エレスタ王国は強い。


間違いなく、強くなっている。


ただし。


(動力源が怖い!!!)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ