胃痛の元 -2
扉が、遠慮がちに叩かれた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
レイは視線だけを扉へ向けた。
「入ってください」
声は穏やかだった。
扉が開き、若い文官が入ってくる。
顔色が悪い。手にした書類束の端が、わずかに震えていた。
「し、失礼いたします。法務局より、該当改訂書の保管記録をお持ちしました」
「こちらへ」
レイは机の空いた場所を示す。
文官は一歩進んだ。
だが、室内にいる面々を見た瞬間、喉を鳴らして固まった。
王。
王妃殿下。
宰相。
ヴェルディウス。
逃げ場のない布陣である。
(気持ちは分かる!!)
(入室しただけで人生の面接会場みたいになってるもんな!!)
文官は震える手で書類を差し出した。
「こ、こちらが昨日までの保管記録です。それと、写しを閲覧した者の名簿も……」
ヴェルディウスが横から受け取り、すぐに目を通す。
「三名、閲覧時間が不自然だな」
「早いですね」
「震えている者から受け取る書類は、落とされる前に読むに限る」
レイは微笑んだ。
(冷静!!)
(そして容赦がない!!)
アランの視線が、名簿からセラフィナへ移った。
張り詰めていた空気の中で、彼だけが当然のように彼女の腰を抱き寄せる。
指先の力は強すぎない。けれど、離すつもりもない距離だった。
文官が息を止める。
レイは微笑みを保つ。
(今!?)
(国家文書改ざんの容疑者名簿を前にして、今その空気を出すんですか陛下!?)
アランはセラフィナだけを見て、低く言った。
「お前が見つけたなら、この国はまだ折れないな」
レイの胃が、きゅっと鳴った。
(甘い!!)
(言ってる内容は国政なのに温度が甘い!!)
セラフィナは、淡く首を傾けた。
「そう? 折れないならよかったわ」
声はさらりとしていた。
まるで、雨が降らずに済んだと聞いた時のような軽さだった。
薄い睫毛が一度だけ伏せられ、すぐに上がる。
その顔には焦りも怒りもない。
ただ、目だけが改訂書の上を静かになぞっていた。
アランは、その横顔を見て小さく笑った。
腰に添えた手が、ほんの少しだけ彼女を引き寄せる。
「お前がそう言うと、本当に何でもないことに聞こえる」
レイは名簿に視線を落としたまま、微笑みを保った。
(何でもあります!!)
(折れる折れないの単位が国家です!! 花瓶じゃないんですよ!!)
ヴェルディウスは、名簿から顔を上げなかった。
紙面に視線を落としたまま、淡々と口を開く。
「陛下、王妃殿下」
声は静かだった。
刃を鞘に収めたまま、机に置くような声音だった。
「何でもないことではありません。国家文書の改ざんです」
一拍。
「花瓶なら、割れてから買い替えれば済みますが」
そこでようやく、ヴェルディウスは目を上げた。
「国は、替えが利きません」
レイは微笑みを保った。
(言った!!!)
(冷静に言った!!!)
(しかも花瓶!!! 俺の心の中から勝手に例えを持ち出すな!!!)
(いや正しい!! 正しいけど!! 国を花瓶と比較する日が来るとは思わなかった!! 宰相人生、予測不能すぎる!!)
文官はさらに顔色を悪くし、名簿を持つ手を震わせた。
アランは、少しだけ不満げにヴェルディウスを見る。
「分かっている」
ヴェルディウスは静かに頷いた。
「では、甘い空気は調査後にお願いいたします」
レイは小さく咳払いした。
「ヴェルディウス」
「必要な確認だ」
(必要か!?)
(いや必要だ!!!)
(この部屋、誰かが言わないと国家犯罪の横で夫婦の距離感が春になる!!!)
(だが言えるのはお前だけだ!!!)
レイは穏やかな顔で名簿を受け取った。
「……では、確認を続けましょう」
(続けましょう!!)
(お願いだから続けましょう!!)
(国は替えが利かないし、俺の胃も替えが利かないんですよ!!!)
セラフィナは、ほんの少し首を傾げた。
「甘い空気……?」
長い睫毛が、ゆっくり瞬く。
本当に分かっていない顔だった。
「何言ってるの?」
淡々とした声。
白い指先は、まだ改訂書の端に触れている。
「通常業務をしているだけだけど……?」
沈黙が落ちた。
アランの手は、当然のようにセラフィナの腰にある。
距離は近い。かなり近い。
だが、本人たちにとってはそれが平常らしい。
レイは微笑みを保った。
(通常業務!!!)
(その距離感が通常業務!!!)
(王城の服務規程に追記するか!? “王および王妃殿下の通常業務には腰抱きが含まれる”って!?)
ヴェルディウスは少しだけ目を伏せた。
「……失礼いたしました。認識の相違です」
レイは横目で彼を見る。
(引いた!!!)
(ヴェルディウスが引いた!!!)
(勝てない相手だと判断した顔だ!!!)
アランは、当然のように頷いた。
「ああ。通常だ」
何の迷いもない声だった。
セラフィナの腰に添えた手が、ほんの少しだけ彼女を引き寄せる。
「お前がそばにいるなら、仕事も進む」
室内の空気が、また一段おかしな方向へ傾いた。
若い文官は、目のやり場を完全に失っている。
ヴェルディウスは名簿を見たまま、静かに瞬きをした。
レイは微笑みを保った。
(追撃!!!)
(陛下が当然の顔で追撃した!!!)
(通常業務の定義が今、王の一言で補強された!!!)
ヴェルディウスが淡々と口を開く。
「陛下。仕事が進むのは結構ですが、証言者の動揺も進んでおります」
文官の肩が、びくりと跳ねた。
レイは穏やかに頷く。
「……まずは名簿の確認に戻りましょう」
(戻ろう!!)
(全員で現実に帰還しよう!!)
セラフィナが、改訂書の端を指で押さえた。
「まず、保管記録と写しの照合を優先しましょう。改ざん箇所だけではなく、同じ経路を通った文書も確認するべきね」
アランはその言葉を聞きながら、別の行に視線を落とした。
「ここもだ」
短く言って、罰則規定の末尾を指す。
「適用時期が曖昧になっている。これでは、施行前の案件を逃がせる」
セラフィナは一度だけ頷いた。
「なら、そこも含めて洗うわ。法務局、記録庫、王印管理室。それから過去三ヶ月の改訂書も」
「範囲を広げろ」
「ええ。関連する地方監査の記録も必要ね」
二人の言葉は短い。
短いのに、方針が次々と固まっていく。
セラフィナが拾い、アランが見抜き、セラフィナが束ね、アランが最後に線を引く。
アランはセラフィナの腰を抱いたまま、静かに告げた。
「決まりだ。該当文書に触れた者を全員確認する。関連文書も三ヶ月分遡れ。改ざんが一箇所で済むとは思うな」
「承知いたしました」
レイは完璧な声で答えた。
(速い!!!)
(なんだ今の!?)
(会議は!? 根回しは!? 説明資料は!?)
(王妃殿下が方針を置く! 陛下が別の穴を刺す! 王妃殿下が全部まとめる! 陛下が最終判断!)
(終わった!!!)
(普通なら半刻かかる流れが、一瞬で終わった!!!)
ヴェルディウスが、涼しい顔で名簿に印をつける。
「効率的だな」
レイは微笑んだ。
「ええ。非常に」
(効率的すぎるんだよ!!!)
(政務が爆速で進む!! 国にとってはありがたい!! 宰相としてもありがたい!!)
(ただし目の前の光景が近い!!!)
(距離が近い!!!)
(王国の意思決定が腰抱き状態で完了している!!!)
※※※※※
(はい)
(皆様、ご覧いただけただろうか)
(これがエレスタ王国である)
(恋愛で政治が回っている)
(恐怖)
顔は笑っている。
声も落ち着いている。
手元の筆記も乱れない。
だが、レイの内心では、すでに机が三台ほど粉砕されていた。
(いや、違うんだ)
(本当に違うんだ)
(陛下が王妃殿下に甘えているだけなら、まだ分かる)
(王妃殿下が陛下をうまく転がしているだけなら、まだ処理できる)
(だが違う)
レイは、目の前の二人を見る。
距離は近い。
近すぎる。
だが、その近さのまま、判断は鋭い。
甘い空気の中で、法の穴が塞がれる。
腰を抱いたまま、王命が下る。
見つめ合う合間に、制度改修が決まる。
(政治が!!)
(ちゃんと!!)
(進んでいる!!!)
ヴェルディウスが、静かに書き留める。
「記録には、陛下および王妃殿下の協議により決定、としておく」
「お願いします」
レイは微笑んだ。
(書けないからな)
(“陛下が王妃殿下の腰を抱いた状態で国家方針決定”とは、公文書に書けないからな)
(後世の史家に余計な仕事を増やしてはいけない)
アランがセラフィナを見る。
「疲れていないか」
「平気よ」
「なら続ける」
「ええ」
それだけで、次の処理に移った。
レイは思った。
エレスタ王国は強い。
間違いなく、強くなっている。
ただし。
(動力源が怖い!!!)




