胃痛の元 -1
王城、宰相執務室。
窓の外では、午後の光が白く石畳を照らしていた。
中庭の噴水は穏やかに水音を立て、剪定された木々の影が風に揺れている。
平和だった。
少なくとも、外側だけ見れば。
レイは執務机に向かい、地方から上がってきた報告書に目を通していた。
税収、流通、治安、街道整備。
以前なら読むだけで胃がきりきりする内容ばかりだったが、最近はまだましになっている。
まし。
非常に大事な言葉である。
(“壊滅的ではない”って、こんなに心に優しい言葉だったんだな)
レイは静かに息を吐いた。
表情は穏やか。
背筋は伸び、指先の動きにも乱れはない。
エレスタ王国宰相として、完璧な姿だった。
そこへ、扉が控えめに叩かれる。
「王妃殿下がお見えです」
侍従の声がした。
レイの手が、ぴたりと止まった。
(来た)
(今、平和って思ったばかりなのに)
(平和、短命すぎる)
だが、顔には出さない。
「お通しください」
声は、驚くほど静かだった。
扉が開く。
セラフィナが入ってきた。
淡い色のワンピースの裾が、床の上を音もなく滑る。
陽光を受けた髪がやわらかく光り、その表情にはいつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
手には、一冊の書類束。
革紐で綴じられた、法改訂書だった。
(書類)
(王妃殿下)
(執務室)
(はい、三つ揃いました。本日の不穏セットです)
「レイ〜?」
甘く、軽やかな声だった。
「はい、王妃殿下」
レイは立ち上がり、深く礼をする。
セラフィナは書類束をひらりと持ち上げた。
「この法律の改訂書だけど」
「はい」
「穴があったわよ?」
まるで、刺繍糸のほつれでも見つけたような口ぶりだった。
レイは微笑んだ。
完璧に。
「……左様でございましたか」
(左様でございましたか、じゃない!!)
(法律の改訂書に穴!? 穴って何!? 法律って穴があったら駄目なもの代表では!?)
セラフィナは首をかしげる。
「それでね」
「はい」
「誰かが改ざんしたみたい〜」
室内が、静かになった。
窓の外の噴水の音だけが、妙に遠い。
レイは一拍置いて、差し出された改訂書を受け取った。
指先は乱れない。
紙をめくる音も一定だった。
宰相としては、何ひとつ動揺していない。
(軽い!!)
(言い方が軽い!!)
(“お茶が少し薄いわね〜”くらいの温度で国家文書改ざんを出してこないでください!!)
レイは改訂書を机の上に広げた。
セラフィナはその隣に立ち、白い指先で一行を示す。
「ここよ」
その声は、先ほどより少しだけ静かだった。
「昨日見た写しと違うの」
レイの目が、示された条文を追う。
徴税に関する文言。
地方貴族に課せられる監査義務。
罰則規定の適用範囲。
一見すれば、わずかな違いだった。
助詞が変わり、範囲を示す言葉が削られ、条件文が曖昧になっている。
だが、法とはそういうものだ。
たった一語で、人が裁かれる。
たった一文で、領地が守られる。
たった一つの曖昧さで、悪意ある者に抜け道を与える。
レイの胃が、きり、と縮んだ。
(うわ)
(これ、わざとだ)
(しかも嫌なところを触ってる。性格が悪い。知性の使い方が最悪)
「……確かに、こちらの文言では運用時に解釈の余地が生まれます」
レイは静かに言った。
「特に地方監査において、貴族側が義務の範囲を限定的に主張できる可能性がございます」
セラフィナは微笑んだまま、目だけを細める。
「でしょう?」
声はやわらかい。
やわらかいのに、机の上の書類だけが薄く冷えたように見えた。
「これが通ったら、困る人より喜ぶ人の方が分かりやすいわね」
「……おっしゃる通りでございます」
(もう何人か顔が浮かんでますよね?)
(王妃殿下、その顔は浮かんでる顔です)
控えていた若い文官が、青い顔で口を開いた。
「か、改ざん……でございますか?」
レイは文官に視線を向ける。
「まだ断定はしません」
穏やかな声だった。
(しますけどね!!)
「原本、写し、提出経路、保管記録をすべて確認します。法務局、記録庫、王印管理室へ通達を。該当書類に触れた者の出入りを一時的に止めてください」
「は、はい!」
文官が慌てて部屋を出ていく。
セラフィナはその背を見送り、くすりと笑った。
「大変そうね、レイ」
「職務でございますので」
レイは涼しい顔で返した。
(大変そう、ではなく大変です!!)
(今、俺の胃が法務局より先に封鎖されました!!)
セラフィナは机に広げられた書類を見下ろした。
「でも、妙なのよね」
「妙、でございますか」
「ええ」
彼女の指先が、別の箇所をなぞる。
「ここだけなら、地方貴族の誰かが得をする。けれど、ここも変わっているでしょう?」
レイは目を細めた。
示された箇所は、王都側の承認手続きに関する条文だった。
中央官吏の裁量範囲が、ほんのわずかに広がっている。
それも、気づかなければ見落とすほど自然に。
「……内部に協力者がいる可能性が高いですね」
「そうね」
セラフィナは、楽しそうではなかった。
怒っているようにも見えない。
ただ、静かだった。
「外から手を伸ばしただけでは、ここまでは綺麗に直せないわ」
「綺麗、でございますか」
「ええ。綺麗よ」
セラフィナは微笑んだ。
「腹立たしいくらいに」
レイは静かに瞬きをした。
(あ、怒ってる)
(声が荒くならない分、逆に危ないやつだ)
(誰だ。誰が王妃殿下の前で法律を汚した。今なら自分で出てきた方がたぶん傷が浅いぞ。たぶん)
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
迷いのない足音だった。
レイは顔を上げずに悟る。
(来た)
(この流れで来るな)
(いや来る。王妃殿下がここにいるんだから、来る)
扉が開く。
「セラフィナ」
アラン陛下だった。
部屋に入ったアランは、まずセラフィナを見た。
それから何のためらいもなく彼女のそばへ歩み寄り、自然な動きでその腰を抱く。
あまりに当然の仕草だった。
まるで、それが彼の立つべき位置であるかのように。
レイは深く一礼した。
「陛下」
(近い)
(距離が近い)
(いや、いつものことだ。いつものことだが、執務室で自然にやられると書類の方が気まずそうに見える)
アランはセラフィナの腰に手を添えたまま、机の上の改訂書へ視線を落とした。
「何があった」
レイが答えるより先に、セラフィナが軽く書類を指した。
「法律の改訂書が、少し可愛くないことになっていたの」
「可愛くない?」
アランの声が低くなる。
レイは内心で頭を抱えた。
(王妃殿下!! 表現!!)
(国家文書改ざんを“可愛くない”で包まないでください!! 包装紙が薄すぎる!!)
セラフィナはにこりと笑った。
「誰かが、勝手に言葉を変えたみたい」
沈黙。
アランの目が細くなった。
「……誰が」
その一言だけで、部屋の端に控えていた侍従が息を止める。
レイは静かに答えた。
「現在確認中でございます。原本および保管記録を照合し、関係部署を一時封鎖いたします」
アランは改訂書を見た。
それから、セラフィナを見る。
「お前が見つけたのか」
「ええ。たまたまよ」
セラフィナは何でもないことのように言う。
「昨日見た写しと、今日の文が違ったから」
(たまたま)
(昨日見た写しを覚えていて、今日の文言との差異に気づいて、法的な抜け道まで見抜くことを“たまたま”とは言わない)
(それはもう兵器です。観察眼という名の兵器です)
アランは短く言った。
「よく見つけた」
セラフィナは肩をすくめる。
「この程度なら、見つかるわ」
(この程度!?)
(王妃殿下基準の“この程度”、王国法に優しくない!!)
レイは改訂書を閉じた。
「陛下。王妃殿下。これは単独犯ではない可能性がございます。地方貴族側と中央官吏側、双方に利が生じる形で文言が調整されています」
「逃がすな」
アランが言った。
「無論でございます」
(逃がしませんとも!!)
(逃がしたら、次に改ざんされるのは俺の寿命です!!)
そこへ、ヴェルディウスが音もなく入室した。
「レイ。法務局および記録庫へ通達を出した。王印管理室も閉鎖手続きに入ってる」
「早いですね」
「王妃殿下が執務室へ向かわれた時点で、念のため」
レイは一瞬だけ、ヴェルディウスを見た。
ヴェルディウスは涼しい顔をしていた。
(分かる)
(分かるぞ、ヴェルディウス)
(王妃殿下が動いた時点で何か起きる前提。正しい。あまりにも正しい。だが悲しい)
セラフィナは楽しげに笑った。
「まあ。準備がいいのね」
ヴェルディウスは一礼する。
「恐れ入ります」
(褒められている)
(たぶん褒められている)
(いや、王妃殿下の微笑みは時々、褒美と処刑台の区別がつかない)
レイは手元の書類を揃えた。
「まずは、改訂書に触れた者を全員確認します。写しを取った者、保管した者、運んだ者、確認印を押した者。全員です」
「人数は」
アランが問う。
「少なくとも二十名以上。関連部署まで含めれば、さらに増えます」
「多いな」
「少ないよりはましでございます」
(多いよ!!)
(普通に多いよ!!)
(ただ、人数が多い方が網にかかるものも増える。嫌だな。すごく嫌だな)
セラフィナが、ふと改訂書に視線を落とした。
「ねえ、レイ」
「はい」
「これ、犯人を見つけるだけでは足りないわ」
レイは目を伏せた。
その声の温度が、変わったことに気づいたからだ。
「再発しない形にしないと」
「……おっしゃる通りでございます」
「文書の保管手順も、写しの照合方法も、王印の扱いも、全部見直しましょう」
「承知いたしました」
(増えた)
(仕事が増えた)
(今、確実に山が生まれた。書類山脈、新規誕生)
「それから」
セラフィナは、微笑んだ。
「関わった人たちには、どうしてそんなことをしたのか、きちんと聞かないとね」
声は甘い。
甘いのに、逃げ道がない。
アランはセラフィナの腰を抱く手を、ほんの少しだけ引き寄せた。
「俺も行く」
即答だった。
レイは微笑んだ。
「陛下」
(でしょうね!!!)
「まずは事実確認を優先いたします。陛下と王妃殿下には、こちらで整理した後にご報告を」
アランがレイを見る。
「セラフィナが聞くなら、俺もいる」
レイの胃が、きりきりと音を立てた。
(出た)
(王妃殿下同行時の陛下同席確定演出)
(もう判子作るか? “陛下もご同行”って赤字で押すか?)
セラフィナは小さく笑う。
「アラン、そんな顔をしなくても、逃げたりしないわ」
アランは答えない。
ただ、セラフィナの腰に添えた手が離れない。
レイは見なかったことにした。
(見ていない)
(私は何も見ていない)
(宰相には時に高度な視界制御能力が求められる)
セラフィナは机の上の改訂書を指で軽く叩く。
「では、レイ。お願いね」
「承知いたしました」
レイは深く礼をした。
完璧な宰相として。
完璧な臣下として。
完璧な顔で。
(お願いね、の中身が重い!!!)
(法改訂書の改ざん調査! 関係部署封鎖! 犯人特定! 制度改修! 陛下の同行調整! 王妃殿下の安全確保! 全部まとめて“お願いね”!!)
(軽い!!)
(国家が軽やかに俺の胃へ着地した!!)
セラフィナは満足したように微笑み、アランはその隣で当然のように彼女を抱いている。
ヴェルディウスは涼しい顔で記録を取り、侍従たちは息を殺している。
レイは改訂書を抱え、静かに息を吐いた。
エレスタ王国は今日も平和である。
少なくとも、民の目には。
(俺の胃以外はな!!!)




