第四話 逃げない、から
紗良が話してくれた翌日から、何かが変わった。
正確に言うと、私の中で何かが変わった。
紗良の行動は何も変わっていない。相変わらず毎朝お弁当を持ってきて、隣の席で静かにノートを取って、帰り道は北口まで並んで歩く。そのどれも、先週と同じだ。
変わったのは、私の受け取り方だった。
紗良がおかずを分けてくれるとき、これは中学から練習してくれていたものだと思う。メモをくれるとき、ずっと私のことを見ていてくれていたからだと思う。隣を歩くとき、小学四年生からずっと積み上が
ってきた時間があるんだと思う。
そう思うと、全部の重さが変わった。
重い、というのとは違う。ずっしりとした、でも温かい何かだ。
問題は、そう思い始めてから、紗良のことを意識しすぎるようになったことだった。
話しかけられるたびに少し緊張する。笑顔を見るたびに目が離せなくなる。隣を歩くとき、距離が近いなと思う。
これは、どういうことだろう。
自分でも、まだちゃんとわかっていなかった。
その日の昼休み、いつも通り紗良が隣に来た。
今日のお弁当は、小さなサンドイッチだった。いつもと違う形式だ。
「今日はサンドイッチ?」
「うん。たまには変えようと思って」
「かわいいね、形が」
三角に切られていて、ラップで丁寧に包んである。
「ひよりが三角の方が好きって言ってたから」
「え、そんなこと言ったっけ」
「先週。購買のサンドイッチを見て」
先週の昼休み、購買に行ったとき、三角のサンドイッチを見て「なんか三角の方がおいしそうだよね」と言った記憶が、言われてみれば薄っすらとある。
「そんなこと覚えてたの」
「ひよりのことは全部覚えてる」
また淡々と言われた。
全部覚えてる。さらっと言うけど、その「全部」がどれだけの量か。小学四年生から今まで、何年分だ。
「……全部って、かなりの量じゃないの」
「かなりある」
「それ、全部頭に入ってるの」
「入ってる」
紗良がサンドイッチを一つ、私の前に置いた。
「食べて」
「もらっていい?」
「作ったから」
食べた。
おいしかった。ハムとチーズで、マスタードが少し効いていた。
「おいしい」
「よかった」
紗良が少し、表情を緩めた。
その顔を見ながら、私は思った。
この子のそばにいると、なんか、安心する。
最初はゲージのことで混乱していたし、一方的に好かれていることに戸惑ってもいたけど、今はそれより先に安心がくる。隣にいるのが自然で、話すのが自然で、笑顔を見るのが自然で。
これは何だろう。
考えていたら、あかりが近づいてきた。
「ひよりー、放課後ちょっと寄り道しない? 新しいカフェができたんだって」
「え、いいよ。紗良も来る?」
自然に誘っていた。
あかりが少し驚いた顔をした。紗良も少し目を瞬かせた。
「私も?」
「嫌だった?」
「嫌じゃない。行く」
即答だった。
あかりが「やったー! じゃあ三人でね」と言って戻っていった。
紗良が静かに言った。
「誘ってくれた」
「だめだった?」
「うれしかった」
また、うれしかったとそのまま言う。
私は前を向いて、サンドイッチの残りを食べた。頬が少し熱かった。
放課後になった。
三人で学校を出て、駅の反対側にある新しいカフェに入った。木の内装で、落ち着いた雰囲気の店だった。
あかりが積極的にメニューを開いて、あれがおいしそうとかこれにしようとか喋っていた。紗良は静かにメニューを見ていた。
「紗良は何にするの?」
「チャイ」
「渋いね」
「ひよりは?」
「いちごのラテにしようかな」
「甘いの好きだよね、ひより」
「好きだよ、悪い?」
「よくない」
「よくないの」
「甘いの食べてると、かわいい顔するから」
あかりが「えっ」と声を上げた。
私は固まった。
「かわいい顔って何」
「口角が上がって、目が細くなって」
「そんな顔してないと思うけど」
「してる。いつも」
紗良は真剣な顔で言うから、余計に困る。冗談を言っているわけじゃないのがわかるから、笑って流せない。
あかりが小声で「星野さん、ひよりのことよく見てるんだね」と言ってきた。
「うん、見てる」
紗良が普通に答えた。
あかりがまた「えっ」と言った。私も言いたかった。
飲み物が来た。
私はいちごのラテを飲んだ。あかりはほうじ茶のフラッペで、紗良はチャイだった。
「紗良、チャイ好きなの?」
「好き。あと、ひよりがいちごのラテを飲んでるとき、チャイの方が写真映えするかなと思って」
「写真?」
「一緒に写真撮りたかったから」
あかりが「もう無理」と呟いてフラッペを飲んだ。
私も似たような気持ちだった。
でも、写真を撮りたいと思ってくれていたのは、素直にうれしかった。
「撮ろう。三人で」
「え、私も入っていいの?」
紗良が少し目を丸くした。
三人で、と言ったのが意外だったのかもしれない。紗良と二人で、と思っていたのかもしれない。
「当たり前じゃん、三人でいるんだから」
「……そっか」
あかりがスマホを出した。三人で画面に向かって、それぞれ好きな顔をした。
写真を見ると、あかりが笑っていて、私がちょっとぎこちなくて、紗良が少しだけ笑っていた。
「紗良、笑ってる」
私が言ったら、紗良は少し照れたように視線を外した。
「楽しかったから」
「そっか」
その一言が、なんかとても素直で、私はまた胸のあたりがむず痒くなった。
カフェを出て、三人で駅まで歩いた。
あかりが先に別の改札に向かって、私と紗良が残った。
「今日、楽しかったね」
「うん」
「また行こう、三人で」
「行きたい」
紗良が少し間を置いてから、静かに言った。
「ひより」
「なに」
「最近、前と変わった気がする」
私は少し驚いた。
「どこが?」
「なんか、近い」
「近い?」
「距離が。前より近くなった気がする」
自分では意識していなかったけど、言われてみると、そうかもしれない。最初の頃より、紗良に話しかけるのが自然になった。触れても意識することが、減ったわけじゃないけど、驚かなくなった。
「そう、かな」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
「そっか」
紗良が少し俯いた。
「ひより、少し聞いていい?」
「うん」
「私のこと、どう思ってる」
まっすぐな質問だった。
私は少し考えた。
どう思っているか。
ゲージが見えて、最初は困惑した。一方的に好かれていることに戸惑った。でも一緒にいるうちに、紗良のことがわかってきた。一途で、真剣で、さりげない気遣いができる。
最近は、そばにいると安心する。笑顔を見たいと思う。もっと知りたいと思う。
それって、どういうことだろう。
「大事だと思ってる」
正直に言った。
「大事」
「うん。紗良のそばにいると落ち着くし、笑顔が見たいと思うし」
言いながら、これは友達としての話をしているのか、それとも違うのか、自分でもまだわからなかった。
紗良が顔を上げた。
「好き、じゃないの?」
直球だった。
私は少し口ごもった。
「それは、」
「まだわからない?」
「……うん」
「正直でよかった」
紗良は静かにそう言った。
「責めてないよ。ひよりが自分の気持ちに正直でいてくれる方がいい」
「ごめん、ちゃんと答えられなくて」
「謝らなくていい」
紗良が私をまっすぐ見た。
「ひよりが逃げないでいてくれたら、それでいい。今は」
逃げない。
その言葉が、胸に刺さった。
「逃げないよ」
「本当に?」
「本当に。紗良のこと、ちゃんと知りたいから。999の理由も、全部」
紗良がぴたりと止まった。
「また999って言った」
「あ」
また言ってしまった。
「ひより、絶対何か見えてる」
「見えてない」
「嘘」
「見えてない、見えてない」
紗良がじっと私を見た。
黒い目で、静かに、真剣に。
私は視線を逸らせなかった。
「いつか、教えてくれる?」
紗良が静かに聞いた。
「何を」
「見えてるもの」
私は少し間を置いた。
「……いつか、ちゃんとわかったら」
「わかったら?」
「教える」
紗良が少しだけ、口の端を上げた。
「待ってる」
そう言って、改札に向かって歩き始めた。
私はその後ろ姿を見送りながら、胸の中を確認した。
どきどきしていた。
紗良の笑顔を見てどきどきして、名前を呼ばれてどきどきして、まっすぐな目で見られてどきどきして。
これは何だろう。
もう、なんとなくわかってきていた。
わかってきていたけど、ちゃんと認めるのが少し怖かった。
でも紗良は言っていた。逃げないでいてくれたら、それでいいと。
逃げない。
私はそう決めながら、自分の改札に向かった。
ゲージは今日も999だった。
でも今は、その数字がとても大切なものに見えた。




