最終話 0からじゃなくて、続きから
七月になった。
梅雨が明けて、空が急に高くなった。朝から日差しが強くて、セミがうるさくて、夏が来たなという感じがする。
私と紗良は相変わらず、毎日お弁当を一緒に食べて、隣の席で授業を受けて、北口まで一緒に帰っていた。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
私が、自分の気持ちにちゃんと気づいてしまったことだ。
好きだ、と思う。
紗良のことが好きだ。
友達として好き、とか、人として好き、とか、そういう話じゃない。紗良の笑顔が見たくて、声が聞きたくて、隣にいると安心して、離れると会いたくなる。そういう意味で、好きだ。
気づいたのは、三日前の朝だった。
登校したら紗良がいて、「おはよう」と言ってくれた。それだけで、一日が明るくなった気がした。その瞬間に、あ、これは完全にそういうことだ、と思った。
でも、言えていなかった。
伝える前に、ひとつだけやらなければいけないことがあった。
ゲージのことを、話さなければいけない。
最初から見えていた。999という数字。上限突破のゲージ。紗良にだけ表示されるそれが何なのかを、私はようやくちゃんとわかっていた。
あれは、積み重ねだ。
紗良が長い時間をかけて、私への気持ちを積み上げてきた、その量が数字になって見えていた。一回のキャンディから始まって、ずっと見ていて、料理を練習して、毎日お弁当を作って。全部が積み重なって、999になった。
そういうものが見えていたことを、紗良に話さなければいけない。
話してから、伝えたかった。
その日の昼休み、紗良がいつも通り隣に座った。
今日のお弁当は、夏らしくそうめんを小さな容器に詰めたものだった。薬味まで別の容器に入っていて、また手が込んでいる。
「今日、そうめんなんだ」
「暑いから」
「紗良、私の好みほんとによく知ってるね」
「知ってるから」
いつも通りのやり取りだ。
でも今日は、私の方がいつもと違った。
紗良がそうめんを食べ始めたとき、私は静かに口を開いた。
「紗良、話がある」
紗良が箸を止めた。こちらを向いた。
「……いつか話すって言ってたこと」
「見えてるもの?」
「うん」
紗良は何も言わずに待った。
私は少し深呼吸してから、話し始めた。
「最初にゲージが見えたのは、四月の最初の方。紗良の頭の上に、ゲームみたいなUIが浮いてた」
「ゲーム」
「好感度ゲージ、みたいな。それが紗良にだけ見えて、数字が999で、上限突破って書いてあった」
紗良はじっと私を見ていた。
「最初は意味わかんなくて、バグだと思ってた。でも一緒にいるうちに、少しずつわかってきた」
「なんだと思ったの」
「積み重ね。紗良が私への気持ちを積み上げてきた量が、数字になって見えてたんだと思う」
紗良は少し間を置いた。
「ずっと見えてたの」
「ずっと」
「だから、999って言ってたんだ」
「うん。ごめん、ちゃんと言えなくて」
紗良は少し下を向いた。
何を思っているのか、読めなかった。怒っているのか、それとも別の何かなのか。
「紗良、怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「本当に」
紗良が顔を上げた。
「教えてくれてよかった」
「よかった?」
「ひよりが、ちゃんと話してくれたから」
静かな声だった。でも、いつもより少し柔らかい。
「それで、話したかったのはそれだけ?」
まっすぐ聞いてくる。
違う。話したかったのはそれだけじゃない。
私は少し息を吸った。
「もうひとつある」
「うん」
「紗良のこと、好き」
言った。
言えた。
紗良が止まった。箸も、呼吸も、全部が一瞬止まったように見えた。
教室の騒がしさが遠くなった。外のセミの声だけが、どこかから聞こえていた。
「……好き、って」
「そういう意味で、好き。紗良の笑顔が見たくて、声が聞きたくて、隣にいると安心する。そういう意味
で」
紗良は少し俯いた。
黒い髪が顔に少しかかって、表情が見えなかった。
私は少し焦った。
「あの、重かったかな。紗良はずっと好きだったのに、私は今更で、タイミングがずれてるのはわかってて」
「ひより」
紗良が顔を上げた。
目が、少し赤かった。
「え、泣いてる?」
「泣いてない」
「目、赤いよ」
「泣いてない」
紗良はそう言ったけど、目が潤んでいるのはわかった。
「うれしかった」
小さな声で、そう言った。
私は何も言えなくなった。
「ずっと、待ってたから」
「……ごめん、時間かかって」
「謝らなくていい。ひよりが自分で気づいてくれたから、よかった」
紗良が少し息を整えてから、静かに続けた。
「0からじゃなくて、続きからね」
「え?」
「ひよりが言ってたじゃん。999の理由を知りたいって」
そんなことを言ったっけ。記憶をたぐると、四話前の自分が確かにそう言っていた気がする。
「知りたい」
「じゃあ、これから全部話す。時間かけて」
「全部?」
「全部。小学校のこと、中学のこと、高校に入ってからのこと」
紗良が少しだけ笑った。
声が出る、ちゃんとした笑い方だった。
「多いよ、量が」
「多い。でも、ひよりなら全部聞いてくれると思ってるから」
聞く。絶対に聞く。
「聞く。全部」
「じゃあ、これから少しずつ」
紗良がそうめんの容器を私の方に少し寄せた。
「食べて。冷たいうちに」
「うん」
私はそうめんをもらいながら、ゲージのことを確認した。
999。変わらない。
でも、今は違う見え方がした。重荷じゃなくて、宝物みたいに見えた。これだけの時間をかけて、これだけの気持ちを積み上げてくれた人が、隣にいる。
そう思ったら、胸がいっぱいになった。
放課後になって、二人で学校を出た。
夏の日差しが強くて、影が濃く伸びていた。
並んで歩きながら、紗良が静かに言った。
「ひより、ひとつ聞いていい?」
「なに」
「好きになったの、いつ頃」
「え、特定できるかな」
「いつ頃」
私は考えた。
最初にゲージを見たとき、一緒にお弁当を食べ始めたとき、図書室の話を聞いたとき、カフェで三人で写真を撮ったとき。
「……雨の日に、一緒に帰ったとき、かな」
「三週間前」
「そのくらい」
「そのとき何があったの」
「傘、並べて歩いてたじゃん。あのとき、紗良がそばにいるのが当たり前になってるなって思って。当たり前って、いつからだろうって考えたら、気づいたら自然に隣にいる人になってたなって」
紗良が少し立ち止まった。
私も合わせて止まった。
「自然に、隣にいる人」
「うん」
「それが、好きってこと?」
「そういうことだと思う」
紗良はしばらく私を見ていた。
夏の光の中で、黒い目がまっすぐこちらを向いていた。
「私ね」
「うん」
「図書室で泣いてたとき、ひよりが来てくれなかったら、きっとあんなに好きにならなかったと思う」
「そっか」
「泣いてたのに、何も聞かなかった。ただ隣にいてくれた。それが、すごく嬉しかった」
「覚えてなくてごめん」
「覚えてなくていい。ひよりがひよりだから、やった行動だから」
紗良が少し笑った。
「これから、覚えてて」
「うん、覚える。全部」
紗良がゆっくり手を伸ばしてきた。
私の手に、そっと重ねるように触れた。
指が絡んで、繋がった。
ひんやりしていた。でも、すぐにあたたかくなった。
「ひより」
「なに」
「これから、もっと積み上げよう」
「999の続き?」
「999の続き」
私は繋いだ手を少し握り返した。
「積み上げよう。一緒に」
紗良がうなずいた。
夏の空が広くて、セミの声がうるさくて、日差しが強かった。
でも紗良の手があたたかくて、隣に紗良がいて、それだけで全部が明るく見えた。
ゲージを見上げた。
999のまま、でも今は、これがゴールじゃなくてスタートに見えた。
ここから先、どれだけ積み上がっていくかは、まだわからない。
でも、一緒に積み上げていく相手が決まった。
それで、十分だった。




