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第三話 その好感度の、正体

 梅雨に入った。


 六月の雨は、降り出すと長い。朝から曇っていたと思ったら昼前には本降りになって、放課後もまだやまない、みたいな日が続く。


 そういう日でも、紗良は毎日お弁当を持ってきた。


 綺麗に詰められた、彩りのいいお弁当。毎日違うおかずが入っていて、毎日一切れか二切れ、私の箱に移してくる。私が何か言うより先に置いてくるから、断るタイミングがない。


 気づいたら当たり前になっていた。


 授業中は隣の席で静かにノートを取っていて、私が写し間違えていると小さなメモをくれる。休み時間は本を読んでいることが多いけど、私が話しかけると必ず顔を向けてくれる。帰り道は北口まで一緒に歩く。


 全部、気づいたら定着していた。


 あかりには「ひより、星野さんとすごく仲良くなったよね」と言われた。否定しなかった。実際、仲良くなったと思う。


 ただ、問題がひとつあった。


 紗良の頭の上のゲージが、未だに999のままだということだ。


 変わらない。増えも減りもしない。上限突破したまま、毎日ぷかぷか浮いている。


 これが何を意味しているのかを、私はまだちゃんとわかっていなかった。


 その日の昼休みも、紗良は私の隣に座った。


 外は雨だった。窓に雨粒がぶつかる音が、教室の騒がしさの下にずっと混ざっている。


「今日のおかず、何?」


 私が聞くと、紗良がお弁当箱を開いた。


「鶏の照り焼きと、ほうれん草のおひたし」

「おいしそう」

「食べる?」

「もらっていいの」

「どうぞ」


 いつも通りのやり取りだ。照り焼きを一切れもらった。甘くて、柔らかかった。


「……紗良って、料理上手いよね」

「練習したから」

「何のために練習したの」


 紗良が少し間を置いた。


「ひよりに食べてもらいたくて」


 また、さらっと言った。


 もう驚かない、と思っていたのに、今日もちゃんと心臓が跳ねた。慣れないな、この子の発言には。


「……私のために練習したの、料理を」

「うん。中学の頃から」

「中学!?」


 思わず声が大きくなった。


 紗良は静かにうなずいた。


「ひよりが料理できる人に弱いって、誰かが言ってたから」

「誰がそんなこと言ってたの」

「忘れた」

「忘れたの」

「情報源より内容が大事だったから」


 中学の頃からお弁当の練習をしていた。私に食べてもらうために。


 それを今日、初めて知った。


 私はしばらく言葉が出なかった。


 ゲージが999になっているのは、こういう積み重ねがあるからなのかもしれない。私が知らないところで、紗良はずっと何かをしていた。そういうことが、数字になって見えているのかもしれない。


「紗良」

「なに」

「その、好きな理由。そろそろ教えてくれない?」


 紗良が箸を止めた。


「まだ怖い」

「少しだけでもいい。全部じゃなくて」


 紗良はしばらくお弁当を見ていた。


 雨の音だけが続いた。


 それから、静かに口を開いた。


「小学四年生のとき」

「うん」

「図書室で、泣いてた」


 私は聞きながら、小学四年生の記憶をたぐった。


「私が?」

「違う。私が」

「紗良が泣いてたの?」

「うん。クラスで、ちょっと嫌なことがあって。隠れて泣いてた」


 紗良はゆっくり話した。いつもより少しだけ声が低い。


「図書室の奥の棚の陰に隠れてたんだけど、ひよりが来た」


 私は記憶を探ったけど、出てこなかった。


「本を探してたんだと思う。棚の陰を通ろうとして、私に気づいて」

「……それで?」

「何も聞かなかった」


 紗良が少し間を置いた。


「泣いてる理由も、大丈夫かも、何も聞かなかった。ただ、隣にしゃがんで」


 私は何も言えなかった。


「少し経ったら、持ってたキャンディを一個くれた。それだけ」


 紗良が窓の外を見た。雨が窓を伝っている。


「それで、行った」

「それだけ?」

「それだけ」


 私はしばらく考えた。


 キャンディを渡した記憶は、ない。でも、ありそうな話だとは思った。誰かが泣いていたら隣にいたくなる。何か言えなくて、でも何かしたくて、たまたま持っていたキャンディを渡す。そういうことを、昔の私がやっていたとしても不思議じゃない。


「それが、好きになった理由?」

「きっかけ」

「きっかけ」

「その後も、ひよりのこと見てた。見てたら、もっと好きになった」


 紗良がこちらを向いた。


「明るくて、誰にでも優しくて、困ってる人をほっとけなくて」

「そんな大したことじゃ」

「大したことだよ」


 静かに、でもはっきり言った。


「ひよりはそう思わないかもしれないけど、私にとっては大したことだった」


 私は返す言葉が出なかった。


 キャンディ一個で、こんなに長い時間、好きでいてくれたのか。


 なんか、なんて言えばいいかわからなくて、私は少し下を向いた。


「ごめん、覚えてなくて」

「いい。覚えてなくていい」

「よくない。紗良にとって大事なことなのに」

「ひよりが覚えてないのは、ひよりが悪いんじゃない。ひよりにとって特別じゃなかっただけで、それは普通のことだから」


 淡々と言うけど、その言葉の裏に何かが滲んでいる気がした。


 普通のことだから、と言えるようになるまでに、どれくらいかかったんだろう。


「それでも、好きでいてくれたんだ」

「うん」

「ずっと」

「ずっと」


 ゲージのことを思い出した。999。上限突破。


 あの数字は、こういう積み重ねの結果なんだと、今はっきりわかった。一回のキャンディから始まって、ずっと見ていて、ずっと好きでいて、気づいたら数えきれないくらいになった。それが999なのだと思った。


「紗良、ひとつ聞いていい?」

「なに」

「怖い、って前に言ってたじゃん。何が怖いの」


 紗良は少し考えてから言った。


「ひよりが、引いたら嫌だから」

「引く?」

「重いって思われたら。小学校から好きで、料理も練習して、毎日お弁当持ってきて、席も隣になりたくて。それを全部知ったら、引くかもしれないと思って」


 私は正直に自分の気持ちを確認した。


 引いているか。


 引いていない。


 重いといえば重いかもしれない。でも、嫌じゃなかった。むしろ、そこまでしてくれていたことが、なんか、胸に刺さった。


「引いてないよ」

「今は」

「今も、これからも」


 紗良がまっすぐ私を見た。


「断言できるの?」

「できる。紗良のこと、ちゃんとわかろうとしてるから」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 でも嘘じゃなかった。この三週間、紗良のそばにいて、紗良のことが少しずつわかってきていた。静かだけど一途で、不器用だけど真剣で、さりげないけどちゃんと気遣いができる。


 そういう子だってわかってきていた。


 紗良が少し目を伏せた。


「……ありがとう」


 いつもより、声が柔らかかった。


 その瞬間、視界の端でゲージが揺れた気がした。


 999のまま、でも何か、輝きが増したような。そんな気がした。


 昼休みが終わって、午後の授業が始まった。


 五時間目は体育だった。雨だからグラウンドは使えなくて、体育館でバレーボールをすることになった。


 チームを組んだら、偶然紗良と同じになった。


 紗良は体育が得意そうには見えなかった。実際、サーブはあまり飛ばないし、レシーブも上手くない。でも、ボールが来たときに確実にそこへ動いていた。


 一回、私がレシーブを失敗して床に転がったとき、紗良がすっと手を差し伸べてきた。


 引っ張り起こしてもらいながら、私は「ありがとう」と言った。


 紗良は「うん」とだけ言った。


 それだけだった。


 でも、体育館を出るとき、あかりが「星野さんって、ひよりのこと見てるよね」と言ってきた。


「え、そう?」

「さりげないけど、ずっと目で追ってた。気づかなかった?」

「気づかなかった」

「ひよりって鈍いよね」


 鈍い、か。


 でも、気づいていたのかもしれない。言語化できていなかっただけで、紗良が自分のことを見ているのを、どこかで感じていたのかもしれない。


 放課後、傘を持って昇降口に向かうと、紗良がいた。


「待ってたの?」

「うん」

「雨、やんでないね」

「一緒に帰ろうと思って」


 私は紗良の顔を見た。


 雨の音が続いていた。外はまだ本降りで、傘を持った生徒たちが次々と出ていく。


 今日、紗良が話してくれたことを思い出した。


 図書室。キャンディ。ずっと好きでいてくれた時間。


 私はそれを知って、何かが変わった気がした。うまく言えないけど、紗良への見方が変わった。ゲージの数字の意味が、少しだけわかった。


「紗良、今日、話してくれてありがとう」


 紗良が少し顔を向けた。


「ちゃんと聞けてよかった」

「……聞いてくれてよかった」


 紗良の声がわずかに揺れた。


 雨の中、二本の傘を並べて歩き始めた。


 雨音の中で、紗良は静かに隣を歩いていた。


 999の理由が、少しずつ見えてきた気がした。


 まだ全部じゃない。でも、見えてきた。


 そして、私の胸の中にも、何かがじわじわと積み上がり始めているのを、今日初めてちゃんと感じた。

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