世界がのぞんだ終焉と、私たちが選んだ始まり③
玉座の間での決断から、どれほどの時が流れただろうか。
数日かもしれないし、あるいは数ヶ月かもしれない。
私の主観時間と観測対象の時間は乖離し曖昧に溶け合っていた。
ただ一つ確かなのは二人が足を踏み出したその瞬間から、世界そのものが彼女たちを「殺し」に来たということだ。
ザァァァァァ⋯⋯。
冷たい雨が容赦なく降り注いでいる。
そこは、かつて栄華を極めた古代都市の廃墟だった。崩れかけた石壁、苔むした石畳。人々の記憶から忘れ去られた場所。
だが今の二人にとって屋根があるというだけでそこは王宮にも勝る安息の地だった。
焚き火が爆ぜる音が雨音に混じって小さく響く。
炎の前に座り込んでいるのはかつての勇者ジャンヌと魔王ディアドラだった二人、その姿にかつての威光はない。
ジャンヌの白銀の鎧は傷だらけで所々がひしゃげ、泥にまみれている。
輝かしかった銀髪も雨と土で汚れ、頬には切り傷が痛々しく走っていた。
ディアドラもまた豪奢だった漆黒のドレスの裾を引き裂き、動きやすいように短く整えていた。優雅だった所作には疲労の色が滲み、その白い肌にも無数の擦り傷が刻まれている。
世界の理は、二人を明確な「バグ(異物)」と認定していた。
追ってくるのは人類軍だけではない。
天からは「調律者」と呼ばれる無機質な天使の軍勢が降り注ぎ、地からは魔王の制御を離れた凶暴な魔物たちが湧き出る。
眠る間もなく、食べる暇もなく、ただひたすらに世界の果てを目指して走る日々。
それは地獄と呼ぶに相応しい逃走劇だった。
――しかし。
(⋯⋯なんて、顔をするの)
私は観測しながら胸が締め付けられるような思いを抱いていた。
泥だらけで傷だらけで明日をも知れぬ命。
それなのに焚き火の明かりに照らされた二人の表情は、かつての玉座や神殿にいた時よりも遥かに満ち足りて見えたのだ。
「⋯⋯痛むか?」
ディアドラが湿った布でジャンヌの腕を拭いながら問うた。
ジャンヌの二の腕には、昼間の戦闘で天使の槍にかすめられた深い裂傷が走っていた。
「平気だ。これくらい、慣れている」
「嘘をつけ。顔をしかめているぞ」
ディアドラは呆れたように溜息をつくと、自分のドレスの余り布を裂いて作った包帯を、ジャンヌの腕に巻き始めた。
その手つきは恐ろしく不器用だった。
無理もない。彼女は魔王だ。傷つけば魔法で治癒するか、あるいは部下に傅かれて治療を受ける側だったのだから。
他人の手当てなど数十年の生涯で一度もしたことがなかっただろう。
ぎゅっ、と包帯が強く締め付けられジャンヌが「うぐっ」と呻く。
「あ、すまん。⋯⋯力加減がわからん」
ディアドラが慌てて緩める。
世界を恐怖に陥れた魔王がたかが包帯一つに眉を寄せ、脂汗をかいて悪戦苦闘している。
その姿を見てジャンヌが噴き出した。
「ふっ⋯⋯くくっ」
「な、何を笑う! 私は真剣にやっているのだぞ!」
「すまない。⋯⋯ただ、魔王様ともあろうお方が包帯も巻けないのかと思って」
ジャンヌは笑っていた。
それは勇者としての仮面を被った「聖なる微笑み」ではない。
年相応の少女が親しい友人の失敗をからかうような、無防備であどけない笑顔だった。
「うるさいな。⋯⋯お前こそ、勇者というものはもっと頑丈にできていると思っていた」
ディアドラは少し拗ねたように口を尖らせながら、それでも丁寧に不格好な結び目を作った。
そして包帯を巻き終えたジャンヌの腕――そこにある無数の古傷をそっと指先でなぞる。
「⋯⋯こんなに、柔らかい皮膚をしているとは知らなかった。⋯⋯剣が刺されば血が出るし、叩けばあざができる。⋯⋯なんだ、お前もただの人間だったんじゃないか」
その言葉には深い慈しみと懺悔のような響きがあった。
今まで勇者を「光の象徴」としてしか見ていなかったディアドラはともに泥にまみれ、傷つき、血を流す姿を見て初めて、その鎧の下にある「生身の命」に触れたのだ。
「⋯⋯ああ。私は、ただの人間だ。痛いのも、寒いのも、お腹が空くのも嫌いな、どこにでもいる人間だ」
ジャンヌは自分の腕に触れるディアドラの冷たい指の感触を噛み締めるように焚き火の炎を見つめながら呟く。
「でも、それを知っているのは⋯⋯世界で、お前だけだ」
その言葉にディアドラの手が止まり二人の視線が絡み合い――沈黙、互いが互いの「人間証明」になっていた。
神殿で崇められていた偶像と玉座で恐れられていた怪物。
そんな虚飾をすべて剥ぎ取り、泥だらけの素肌を晒し合って初めて二人は「生きて」いた。
* * *
「⋯⋯食うか?」
ディアドラが煤けた布袋から何かを取り出した。
それは数日前に廃村から失敬してきたカチカチに乾いた黒パンと干し肉の切れ端だった。
かつての魔王城なら家畜の餌にもしなかったであろう代物だ。
ジャンヌもまた王宮の晩餐会で最高級の料理を振る舞われていた身、食べられたものではないと拒否するかと思いきや、そのパンを受け取ると嬉しそうに半分に割り、その片方をディアドラに差し出した。
「半分こ、だ」
「⋯⋯フン。魔王に施しとはいい度胸だな」
憎まれ口を叩きながらもディアドラはそれを受け取り、おそるおそる口に運ぶ。
硬い。味がしない。砂が混じっている。
だというのに。
「⋯⋯美味いな」
「ああ。⋯⋯美味い」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
なぜ、こんな粗末な食事が王宮のフルコースより美味しいのか。
それは、これが「与えられた食事」ではなく自分たちで「選んで勝ち取った食事」だからだ。
誰の期待にも応える必要がない。
誰の顔色も窺う必要がない。
ただ隣にいる愛しい共犯者と共に命を繋ぐためだけに食べる。
その自由の味が枯れ果てた味蕾を震わせるほどの甘露となっていた。
食事を終えて夜が深まる。
雨はまだ止まない。気温が下がり石畳の冷気が容赦なく体温を奪っていく。
廃墟には寝具はなかった。二人は焚き火の傍に身を寄せ合い、互いの背中を預けるようにして座った。
背中合わせの体勢、それはいつ敵が襲ってきても即座に対応できるようにという戦士としての本能的な配置、それと同時に互いの体温を最も効率よく共有するための形でもあった。
ジャンヌの背中からディアドラの背中へ。
薄い布一枚越しに心臓の鼓動が伝わってくる。
ドクン、ドクン。
そのリズムは焚き火の爆ぜる音よりも確かに、互いが「ここにいる」ことを証明していた。
「⋯⋯ねえ、ディアドラ」
ジャンヌが、背中越しの温もりに寄りかかりながら、ぽつりと口を開いた。
「なんだ」
「魔王というのは、もっと怖い顔で寝ると思っていた」
「⋯⋯なんだそれは」
「昨日、お前の寝顔を見た。⋯⋯口を半開きにして、なんだか幼い子供みたいだった」
「なっ⋯⋯! み、見ていたのか!?」
背中の向こうでディアドラが赤面し、慌てふためく気配が伝わる。
ジャンヌはくすくすと笑った。
こんな軽口を叩ける日が来るなんて、聖剣を振るっていた頃には想像もできなかった。
「⋯⋯お前こそ。勇者というのは、もっと清廉潔白で寝言なんて言わないと思っていたぞ」
「えっ。わ、私、何か言っていたか?」
「ああ。『もう食べられない⋯⋯』と言っていた。勇者の夢にしては随分と俗物だな」
「う⋯⋯わ、忘れてくれ!」
今度はジャンヌが赤面する番だった。
背中越しに互いの恥ずかしさと愛おしさが伝播していく。
冷たい雨音と遠くで響く魔物の咆哮。
世界は依然として彼女たちを殺そうとしている。
明日の朝には、追っ手に見つかり、命を落とすかもしれない。
それでもこの瞬間だけは、焚き火の明かりが届く範囲だけは誰にも侵せない二人の楽園だった。
(⋯⋯尊い。なんて、尊いのだろう)
私は観測しながら、溢れる涙を拭うことさえ忘れていた。
これは甘やかなイチャイチャではない。
ここにあるのは生存本能と結びついた、もっと根源的な「愛」だ。
寒いから、くっつく。
怖いから、手を握る。
寂しいから、声を聞く。
そんな人間として当たり前の営みを彼女たちは今、生まれて初めて学び、経験している。
世界中を敵に回して全てを失って、ようやく手に入れた「人間らしい夜」。
その代償があまりにも大きすぎることに胸が張り裂けそうになる。
けれど二人の表情に後悔の色は微塵もない。
「⋯⋯ジャンヌ」
「ん」
「⋯⋯寒くはないか」
「ああ。お前がいるから、暖かい」
ディアドラが、そっと自分の手を後ろに回した。
ジャンヌもそれに気づき、自分の手を伸ばす。
背中合わせのまま二人の指先が触れ合い、そしてしっかりと恋人繋ぎに絡め取られる。
泥だらけの手。
血の滲んだ指。
その繋がれた手だけがこの冷たく残酷な世界に残された、唯一の真実だった。
「⋯⋯おやすみ、ディアドラ」
「ああ。⋯⋯おやすみ、私の勇者」
やがて二人の呼吸が穏やかな寝息へと変わっていく。
炎が小さくなり廃墟が深い闇に包まれる中、繋がれた手の熱だけは朝が来るまで冷めることはなかった。
それは破滅へと向かう秒読みの中での、ほんの一瞬の蜜月。
だがその一瞬の輝きは勇者として生きた十数年よりも、魔王として君臨した何十年よりも遥かに鮮烈で美しいものだった。
私はその光景を目蓋の裏に焼き付けながら、ただ祈るように見守り続けた。
どうか、この夜が少しでも長く続きますように。
どうか、朝が来るのが少しでも遅くなりますようにと。




