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 かくして山口喜子と滝野幸司の聞き込みには、海老名忠義・大森大輔の両刑事に丸出為夫(まるいでためお)の3人があたることになった。

 「まったく、ついてねぇよ」車の助手席に座った海老名が不満を口にした。「何が楽しくて、こんなヤク中よりもイカれた奴のお守りをしなきゃならねぇんだ?」

 「エビさん、声が大きいですよ。丸出さんに聞こえるじゃないですか」と、運転席の大森が車を運転しながら言った。

 「もう十分に聞こえてます」と後部座席の丸出が言った。「別に私は気にしてませんよ。私が名推理を披露して事件が解決に至れば、必ずや私のことを見返してくれるものと信じております」

 「ほう、そりゃ楽しみですな。せいぜいお手並み拝見といきましょうか」と海老名が挑戦的に言う。

 「エビさん、どうして丸出さんに対して、そんな喧嘩(けんか)を売るような言い方しかできないんです?」と大森が運転しながら聞く。

 「だってさ……こいつ、見るからにバカだもん」

 「でも人は見かけによらない、ってよく言うじゃないですか」

 「もちろん。けど中身がイカれてるから、それが見た目にも表れる、ってこともよくあることだ。お前もそういう奴を今まで嫌になるほど見てるだろ」

 「まあ、確かにそうですけど……でも本庁の推薦で連れてこられた方ですよ。何かいい知恵を持ってることは絶対に間違いない、と思いますね」

 「それはないな。本庁が言うんだから絶対に間違いない、って信じてたら絶対に痛い目に遭うぞ。確かに本庁には優秀な人材がたくさんいるし、俺らみたいな低能な所轄の刑事なんかよりも、何百倍も優れた刑事が腐るほどいるのは認めるけどさ、たまにこんなわけのわからない官僚主義というか、おかしなことをやらかしたりするからな」

 「んー、でも今回ばかりは勘の鋭いエビさんといえども、ハズレじゃないんですか? テレビドラマでもよくあるでしょ。見た目は少し変わってるけど、名推理を発揮して事件解決、みたいな探偵ものが」

 「で、俺の役どころは、それを理解できない、名推理で事件解決でも、それが気に入らなくて嫉妬する頭の悪い堅物刑事、ってところか。それで最終回では、実は俺が連続殺人の主犯であることがわかって、逮捕されておしまい、なんてさ。面白そうだな。いつ放送されるんだろ?」と海老名は笑った。「だいたいおまえ、テレビドラマの見過ぎだよ。そんなこと現実にあるわけねぇだろ。このおっさんは百パーセント無能。1万円賭けてもいいぜ」

 「そうですかね……ところで丸出さん、丸出さんは刑事として勤務されていた経験はあるんですか?」と大森は丸出に聞いた。

 「いいえ、私は刑事どころか、警察官になったことすらありません」

 「ほう、ならば今までずっと私立探偵を?」

 「そうです。あくまでも私は名探偵です。もっとも正式に探偵業を始めてから、まだ3年ほどしかたってませんが」

 「3年……失礼ですが、年はおいくつで?」

 「53になります」

 「なら、それ以前の50年間は何をなさってたんですか?」

 「推理小説の研究です。シャーロック・ホームズ、エルキュール・ポアロ、金田一耕助、それから……」

 「みんな架空の人物ばっかりじゃないか。普通はその作者を研究するもんだろ」と海老名が横槍を入れる。

 「そういった推理小説の研究は、大学の文学部かどこかでなさってたんですか?」

 と大森が聞くと、丸出は、

 「いえ、大学に入ったことすらありません。あくまでも自宅で研究を重ねてきました。そうやって数々の推理小説を長い間読み漁り続けて、50歳の誕生日を迎えた日に私は悟ったのです。私の前世はシャーロック・ホームズだった、つまりシャーロック・ホームズの生まれ変わりである、これからの人生を私は名探偵として生きていかねばならない、と」

 運転していた大森が、思わず急ブレーキを踏んでしまうぐらいの衝撃だった。信号が原因でも、目の前に何かが突然飛び出してきたわけでもない。原因は全て、丸出のその正気とは思えない言葉のせいである。

 「あんた、シャーロック・ホームズの生まれ変わりじゃなくて、ドン・キホーテの生まれ変わりじゃないのか?」わりと読書家として署内でも評判のある海老名が、あきれ返りながら言った。「ドン・キホーテって店の名前じゃないぞ。セルバンテスって作家が書いた、頭のイカれたおっさんのことだぞ。50年間、騎士道物語を読み続けた挙句に、その騎士道物語に書かれてることが全部事実だと勘違いして、自ら騎士として遍歴の旅に出る……そのドン・キホーテと全く同じじゃないか」

 「いえ、私はシャーロック・ホームズです」と丸出が真顔で言った。

 「ドン・キホーテだよ、あんたは。ドン・キホーテ以上だ。ドン・キホーテよりもイカれてる。だいたいシャーロック・ホームズだって架空の人物だ。架空の人物の生まれ変わりだって言うんなら、あんたはドン・キホーテの方がふさわしいよ」と言って海老名は、♪ドンドンドン、ドンキ、ドンキホーテ♪ と、とある店の店内放送を歌い出した。


 そうこうしている間に、3人を乗せた車は現場近くの時間貸駐車場にたどり着いた。

 犯行現場は池袋本町。名前こそ池袋の名を冠してはいるが、池袋駅周辺とは全く別の街である。にぎやかな大型商業施設もなければ、誇らしげに堂々とそびえたつオフィスビルもない。(あや)しげな笑顔を仮面にかぶった客引きもいなければ、コンクリートの壁に染み付いたウイスキーの臭いもない。ラブホテルや風俗店の毒々しい色の香りもなければ、異次元への入り口を思わせるような中国語の派手な看板もない。

 何より人がいない。平日の昼前は特に。いるとしても幽霊のような老人たちや、携帯電話でわけのわからないことを話している外国人ぐらい。すぐ隣は板橋(いたばし)区。というより、豊島区ではなく板橋区の延長と言ってもいいほどの、閑静な住宅街である。

 犯行現場である滝野幸彦の家は、そんな昼間でも眠っているような住宅街の路地裏にある。鉄筋コンクリートの比較的新しい一戸建ての家ではあるが、幸彦の息子の幸司の家に比べれば、建物の大きさも敷地の広さもその半分以下。狭い敷地を取り囲む1メートル70センチほどの高い塀と建物との間にある通路は、人一人がやっと通れる程度で、庭と呼べるほどの広い場所もなかった。門は西側の道路に面した1カ所のみ。金属製の高い柵でできている。門を入ると、すぐに表玄関が立ちはだかっているのが柵の間から見えた。

 「ほら、おっさん、ここが現場だ。よく見とけ」海老名が面倒くさそうな口調で、滝野幸彦宅の門の前で丸出に紹介した。

 これがこの地元有数の資産家の家……だと言われると、誰でも少し拍子抜けしそうな小さな家である。ただし、その建物の中身はかなり最新式の設備が備えられており、扉はオートロック式で鍵は番号入力式。表玄関の上には防犯カメラ。窓には強化ガラスがはめ込まれてあり、滅多なことでは割れないようにできている。その窓には全て格子が設けられてあり、物干し場もない。蟻であろうと蠅であろうと入る隙間すらない、コンクリートではなく緊張感で塗り固めたような家……

 だが、そんな家にも1カ所だけ緑の潤いがある。敷地の南東側、門の外から見て右手へ裏道を回った奥の敷地の角の所、そこに大きな木が生えている。何の木かは海老名も大森も知らないが、幹の太さは根元で30センチほど。高さは2階の窓のところまで届く。ただでさえ狭い敷地内の通路でも、この木はかなりの障害である。人が通り抜けるのは不可能ではないが、木の幹や建物の壁に接触せずに通り抜けるのは、かなり難しい。そのすぐ裏側、敷地の東隣は別の民家。南隣は単身者用のアパート。例の木は、その民家とアパートとに接する角にある。あまり日当たりのいいとは言えないこの場所に、なぜ1本だけこのような木があるのかはわからない。

 ちなみに、滝野幸彦宅の南隣にあるアパートのさらに南隣、つまり2軒隣は息子の幸司の家。間にあるアパートも含めて、この3軒は全て元々滝野一家の敷地で、今でもその所有者は幸彦名義。アパートも当然、大家は幸彦である。

 その幸彦は殺害され、妻の沙由里も不在で、幸彦宅には誰もいないはず。どっちみち、この家に今のところは用がない。その2軒隣の幸司の家には後ほど寄るとして、まずは第一発見者である山口喜子の自宅へ行くことにした。


 山口の家は滝野幸彦の家をひとまわり大きくした程度で、築数十年ほどの一戸建てである。子供たちはみな独立して、夫である山口真俊と2人暮らし。

 真俊は、滝野幸彦と同い年で幼馴染。生まれも育ちも、この池袋本町である。今は年金暮らしではあるが、定年まで東京都の職員だったという。実直さが服を着て座っているような、真面目な元公務員の老人。

 一方、第一発見者である妻の喜子は東北地方の出身で、真俊との結婚により初めてこの池袋本町に住んだという。夫の真俊よりも横だけひとまわり大きな肥満体の持ち主で、まるで空気の少ししぼんだ風船のよう。宙に浮くこともなく、床をまるで転がるように歩くその姿を見ると、若い頃の姿を全く想像ができないほど女としての魅力に欠けた、ただの太った老婆に過ぎない。

 「沙由里ちゃん、やっぱり犯人じゃなかったんですね。あの子、メールでうれしそうでしたよ」と喜子はうれしそうに言った。

 緑色のカーペットの敷かれた洋風の居間に、まだ布団を掛けたままの横長の大きな炬燵(こたつ)。その炬燵の横長の部分を挟んで、一方には山口夫妻が、向かい側には海老名、大森、丸出がそれぞれ座布団に座っている構図である。

 「いや、まだ沙由里さんが完全に容疑から外れた、というわけではないんですよ」と海老名が言う。「ただ、もう少し色々な側面から情報を集めてみよう、と思いましてね。今日ここへうかがったのも、前回聞けなかったことを色々とお聞きしたいと思いまして」

 「そうなんですか。まあ、沙由里ちゃんが犯人なはずは絶対ないと思いますけどね」と喜子が言った。「あの子、虫も殺せないような子ですよ。以前、滝野さん()の台所でゴキブリが出て、私がそれをスリッパではたき殺したら、あの子、『あーあ、死んじゃった。かわいそうに』ですって。さっきまでゴキブリ見て『いやー!』とか大声で騒いでたのに……ま、そういう子なんですよ。派手な服とか着たりするけど、わりと心の優しい子でしてね」

 「なるほど。ところで奥さん、今メールのことを話してましたよね? 沙由里さんとEメールのやりとりをなさってるんですか?」

 「そうですよ。あの子とはちょっとしたメル友でしてね。もっとも私、古い人間だから、最近になってやっとスマホの使い方を覚えたばかりでして。あの子は若いから、SNSだか何だか色んな使い方知ってますけど、なかなか着いていけなくて」

 「もし差し支えなければ、奥さんのスマホを少しお借りしてもよろしいでしょうか?」

 喜子から借りたスマートフォンは表示される文字の大きめな、高齢者に需要があるいわゆる簡単スマホ。海老名がEメールの送受信欄をざっとチェックしている間、大森は、

 「奥さん、少々おつらいでしょうが、滝野幸彦さんが遺体となって発見された時のご様子について、もう一度お聞きしてもよろしいでしょうか?」

 と言って、喜子と当時の状況についての再確認を始めた。

 一方の丸出はその間、茶菓子として出された、喜子が自ら焼き上げた手作りクッキーをバリバリと音を立てて食べながら、ジュルジュルと大きな音で緑茶をすすっているだけ。およそ耳の中に人の話を聞き入れているとは思われない様子である。しかもひとしきり茶を飲み干すと、大森との深刻な話し合いの最中にも関わらず、喜子に向かって、

 「おばさん、お茶おかわり」

 「おい、あんた、少しは慎めよ。飯食いに来たんじゃないんだぞ」

 と海老名が制止にかかった。喜子は丸出の頼みを聞いて席を立とうとしたが、それも海老名が止めに入った。

 「ああ、奥さん、お構いなく。そんなに長くはいませんから。お話の方を続けてください」

 「で、えーっと、滝野さん家の鍵は番号入力式になってますけど」と大森が話を続ける。「今までにも滝野さん家で、その鍵の番号を押して開けてみたことはありましたか?」

 「いえ、あれが初めてです。番号だってあの朝、沙由里ちゃんから電話で聞いて、初めて知ったぐらいですから」

 「他にあの家の鍵の番号を知ってる方に、心当たりはありますか?」

 「さあ……滝野の旦那さん、沙由里ちゃん以外では、幸司君とその子供たちぐらいなんじゃないですかね? よくは知りませんけど」

 「そういえば、裏玄関には週に1度、酒屋も出入りしていたそうで。その酒屋が知っているという可能性は」

 「うーん……それはどうなんでしょう? 考えられませんね」

 「で、その酒屋……」

 この時突然、ブーッ! と明らかに放屁(ほうひ)と思われる大きな音がして、一瞬、時が固まった。部屋全体に響き渡り、地響きすらするぐらいの音である。

 「おい、丸出さん、あんただろ」

 海老名が音の震源地から判断して、そう聞いた。丸出は素直にうなずいて、

 「ま、自然な生理現象ですよ。誰にだってあるでしょう」

 「こんな真面目な話し合いの場で、オナラなんかするような奴はいないよ。ちゃんと話を聞いてるのか?」と海老名が怒りながら言うと、すぐに山口夫妻の方に向き直って、「本当にどうもすいません。こいつを連れてきたのも、上からの命令でしてね……で、酒屋のことでしたよね」

 滝野幸彦宅に出入りしていた酒屋に関する情報を聞き取ったところで、海老名は喜子のスマートフォンを本人に返却した。特に問題はなし。

 「どうもありがとうございました……で、少し話は変わりますが、そもそも奥さんはなぜ滝野さん家に、家政婦として雇われ出したのでしょうか?」

 「私は別に家政婦を職業としているわけではありません」と喜子が言う。「ちょっとしたボランティアのつもりでやってるんですよ。ま、時々私には十分すぎるぐらいのお小遣いをくれましたけどね。そもそものきっかけは、沙由里ちゃんに料理を教えてやってくれ、ってことでして」

 「ほう、それで奥さんに白羽の矢が立った理由は?」

 「こいつは料理が上手なんですよ」と夫の真俊が、自分の妻を自慢しながら話し始めた。「自慢するわけじゃないんですけど、本当にうまい。今まで40年も毎日こいつの料理を食べ続けてますが、飽きるということがありませんでね。もう近所でも評判なんですよ。よく近所の奥さんたちを集めて、ちょっとした料理教室を開くぐらいでして。もちろん幸彦が、この評判を知らないわけがありませんからね。それでこいつに声をかけたんでしょう」

 「なるほど、どうりでこのクッキーもうまいわけだ」

 と丸出も賛同した。もっとも皿の上にはクッキーなど、1個も残っていなかったが……丸出一人で全部食べてしまったのである。

 「でも沙由里さんは料理を全く覚えようとはしなかった。包丁を握りたくない、とか言って」と大森が言った。

 「まあ、包丁さえ使わなければ、少しは料理の手伝いもできるんですけどね」と喜子。「ただ何しろあの子、色々忙しくて家を不在がちだから、そういった家事全般をやってる時間がないんですよ。というわけで、自然と私があの家の家事の手伝いとかをするようになったわけなんです」

 「ところで奥さん、滝野さんは女性好きとして大変有名だったらしいですが」と海老名は、どうせ聞いても無駄だろうと思えるようなことを、あえて聞いてみた。「その幸彦さんに言い寄られたことなんかあったりしますか?」

 「あるわけないじゃないですか。あの人、20代の若い子にしか興味がないんですよ」と喜子は少し照れながら話した。恋をするメスのカバのように。「私なんて、こんなデブのおばさん……成増(なります)に住んでる娘から『となりのトトロ』みたいね、なんてバカにされるぐらいですから。孫たちに『ほら、トトロおばあちゃんよ』ですって。失礼しちゃうわ」

 「その通りですな。まさにその通り!」と突然、丸出が楽しそうに口を挟んできた。「こんな妖怪ババア、女であるどころか、人間であるかどうかすら疑わしいですからな」

 「あの、マルデダメオさんでしたよね」

 海老名は怒りに満ちあふれた真顔で、わざとそんな言い方をした。丸出は即座に、

 「マルイデタメオです。先程何度も申しましたが」

 「で、そのマルデダメオさん、ちょっと外に出ててもらえませんか? あなたがここにいると、聞きたい話も聞けなくなりそうなんですよ。ここは俺と大森だけで十分なんで、今すぐ外に出てってください」

 「私は本庁や署長の推薦を受けて、ここに来たわけですぞ。この私に対して、ただのヒラ刑事が偉そうに命令する気ですか?」

 「いいから出てってください」

 「私は名探偵ですぞ。私がいなければ……」

 「いいから!」

 と海老名が強い口調で念を押すと、丸出もついに折れて、「私がいないせいで、捜査が難航しても知りませんぞ……」とか何とか小声でつぶやきながら、外へ出て行った。

 「大変申し訳ございませんでした」と海老名は山口夫妻に向かって、深々と頭を下げながら謝罪した。「上の連中もまったく何を考えてるんだか……命令とはいえ、ああいう奴は本当に困ったものです。非常に不快な思いをなさったことを、お詫びします」

 「いえいえ、構いませんよ。妻がすっかり妖怪ババアみたいになってしまったのは、事実ですし」と真俊が苦笑しながら言った。

 「本当にすみません……ところで話の方を続けて構わないでしょうか?」と海老名は言った。「滝野さんの女性好きというのは、若いころから有名だったんですか?」

 「それがそうでもないんですよ。幸彦の女狂いが始まったのは40を過ぎてから、最初の奥さんが出て行ったあたりからです。同い年ですから、子供のころからあいつを見てますけど、確かにあいつは勉強もできて、スポーツもできて、しかもちょっとばかり顔もいいんで、昔から女の子にはもててましたけど、あまり変に浮いた話は聞いたことがなかったですね。最初の奥さんも清楚な方で、結婚に至るまでの段取りもきちんとしてました。結婚してからも、浮気をしてるなんて(うわさ)は聞いたことがなかったです」

 「最初の奥さんが出て行ったきっかけとは?」

 「実はこっそりと浮気をしてたのが発覚したらしいんですよ。それまで全然噂にも上らなかったのに。あとは娘さんの突然の家出……」

 「娘さんはなぜ家出をしたんでしょうか?」

 「何か進路問題で幸彦と喧嘩したらしいんですな。外国へ留学したい、みたいなことを言ったら、そんな遠い所へ行くなってことで、幸彦は猛反対しました。ま、幸彦から直接聞いた話なんですけど、他にも何かあったんじゃないんですか?」

 「娘の家出に妻の離婚、そして女狂い……」と海老名がつぶやくように言う。「あの当時の、息子の幸司さんの心境はどうだったんでしょうね?」

 「そりゃ影響は非常に大きかった、と思いますよ。見事不良になって、悪い仲間と池袋駅前の繁華街で遊び歩くようになりましたからね。時々家に帰って来ては幸彦と喧嘩ばかりして、『この変態野郎』とか『俺もこんな家出てってやる』とか言って」

 「でも出て行かなかった」

 「ええ。それだけはやめてくれ、後継ぎがいなくなっては困る、みたいなことを言って。娘さんの時もそうでしたけど、幸彦は自分の血縁みたいなことには異常なほどこだわるんですよ。奥さんに幸司君の養育権を渡すことも拒否したぐらいですから。何百年も続く地主の家系だからですかね? だからたとえ息子が不良になろうが、喧嘩ばかりしようが、出て行かせはしなかった。あの2人は一時期、本当に仲が悪かったんですよ。幸司君が社会人になって、結婚して子供ができてからも、あまり仲が良かったとは言えなかったですね。結婚してから幸司君一家は、ここから少し離れた要町(かなめちょう)に住んでたんですけど、ま、新婚生活の邪魔になってはいけないということで、さすがに幸彦もお互い別居することは渋々認めたんですけど、相変わらず仲の悪い状態は続いてて、お互いの家を行き来していたという話もあまり聞かなかったし。あの2人が和解するようになったのは、幸司君が車椅子に乗るようになってからじゃないんですか?」

 「そういえば幸司さんが、交通事故を起こして障害を患うような身体になって、すぐに奥さんとは離婚してますね。あれは何が原因か、おわかりになるでしょうか?」

 「不倫していたのが発覚したからですよ。やっぱり親子だからですかね? 女好きなのは。というのも、あの事故の時、幸司君の車にとある女性が同乗してて、その女性は亡くなりました。で、その女性は何者かって話になって、実は幸司君と不倫してた、ということがわかったわけです」

 「なるほど、だから奥さんは夫の介護もしようとせずに、出て行ったわけだ」と大森は納得して言った。「そして子供たちも置いて行った」

 「いや、初めは子供たちを連れて出て行こうとしたんですが、幸彦が反対しましてね」と真俊は続ける。「孫は渡さん、慰謝料だけはくれてやる、って感じで。さっきも言ったように、血縁には妙にこだわりますから。それでその後は、元々住んでた家を改築して幸司君一家専用の家にして、自分は今の小さな家を建てて住んでた、ってわけです」

 「でも母親がいないことで、幸司さんの子供たちに何か精神的な影響が生じている可能性もあるんじゃないんですか?」と海老名は真俊に聞いてみた。

 「少なからず影響はあるんじゃないんですか? 幸司君の上の息子の(かける)君は今年で20歳になりますけど、大学受験浪人2年目です。聞くところによれば、ろくに勉強もしないで部屋に引き(こも)ってゲームばかりしてるそうで。確かにちょっと内気な若者って感じですね。それから下の娘さんはつい去年、高校を中退して今はフリーターだそうですけど……」

 「これ、あくまで噂なんですけど……」と突然、喜子が口を挟んできた。「礼奈(れな)ちゃん……滝野の旦那さんの孫娘さん、幸司君の娘さんのことですけど、2年ぐらい前に妊娠して、子供をおろしたことがあるらしいんですよ。そんな子には見えないんですけどね」

 「ほう、10代で妊娠……」と海老名はつぶやいた。「その子の交際相手のこととかは、何かご存じでしょうか?」

 「いえ、あくまでも噂なんで、詳しいことは全然……」

 「なるほど、とりあえずは貴重な情報をありがとうございます。最後にもう一つだけお聞きしますが、滝野さんが殺害される数日前ぐらいに、滝野さんの身の周りで、何かいつもと違うようなことが起きてたりしてませんかね?」

 「あ、そうそう、思い出した……私が最後に生きてる旦那さんを見た前の日の夕方だったんですけど、夕食の支度を始めようとしてた時に、幸司君がいきなり旦那さんの家に押しかけて来ましてね。『ちょっと親父と内々の話があるんで、僕たちのそばに近寄らないでくれますか?』って怖い顔して言うんですよ。車椅子に乗るようになってから、すっかりおとなしくて優しそうな顔付きになってたのに、あんなに怖い顔をした幸司君を見たのは久しぶりですね。で、幸司君は旦那さんと居間の隅っこの場所で、何事かをボソボソと小声で話してたんですけど、私は台所で夕食の支度をしてたんで、もちろん聞こえませんでしたよ。でも一言だけ、大声で幸司君が怒鳴る声が聞こえて……確か『いい加減にしてくれ、姉貴だけじゃまだ足りないのか、この変態野郎』とか何とか……」

 「姉貴だけじゃ、まだ足りないのか?」と海老名は、一言一言()みしめるように繰り返した。「確かにそう言ったんですね?」

 「まあ、うろ覚えであまり自信がないんですけど、確かにそんなことを言ったように記憶してます」

 「どのような意味をお持ちか、おわかりになりますか?」

 「さあ……家出した早智子ちゃんのことを言ってるんだ、ということ以外に何もわかりません」

 「それからどうなったんですか?」

 「それからまたボソボソと何か話し込んだ後、幸司君の家の裏玄関の合鍵を出してくれってことで、幸司君、その鍵を受け取って帰っていきましたよ。その鍵は台所の片隅に掛けてあるもので、旦那さんが私のすぐそばを通り抜けて取りに行ったんですけど、その時旦那さん、30万円と書かれた小切手持ってましたね」

 「30万……額は確かですか?」

 「それははっきりと覚えてます。3の後にゼロが5つ書かれていたのは、間違いありませんでした」

 「30万という額に何か思い当たるふしはありますか?」

 「さあ……」

 「いったい2人は何を話し合ってたんでしょうね?」

 「んー……私にはまったく想像すらつきませんよ……」


 こうして山口夫妻に対する聞き込みは終了した。

 海老名と大森が山口夫妻宅から出ると、丸出が恨めしそうな目で2人を見ながら、門の前で幽霊のように突っ立っていた。

 「ついてくるなよ」と海老名が丸出に向かって言った。「俺らが乗ってきた車の前にいろ。絶対にそこを動くんじゃないぞ」


 「それにしても、今の山口夫妻の話をどう思いますか?」

 滝野幸司宅へ向かう道すがら、大森が海老名に聞いた。海老名は、

 「ま、あの2人の言うことは信用できるだろう。少なくとも妻の喜子はシロだし、滝野沙由里に関しても、ますますクロの可能性は薄まってきた」

 「あとは滝野幸司ですね。かなり臭いますよ」

 「そうだな、奴に対する聞き込み次第で、何か重要なことが必ずわかるはずだ。それにしても、あのドン・キホーテのおっさん……」

 「シャーロック・ホームズじゃなくて?」

 「だからドン・キホーテだって。自分がシャーロック・ホームズの生まれ変わりだと思ってるドン・キホーテ。あいつがいたんじゃ仕事にならんよ」

 「そうですね。僕も何だかエビさんの言ってることが正しいんじゃないか、って思えてきましたよ。聞き込みの最中に食ったり飲んだり、()をこいたり、面と向かって相手を侮辱するようなことを言ったり……ま、見たまんまのことを正直に言ってるとはいえ、信じられないですよ。あれで何か名推理でも思いつけるんですかね?」

 「思いつくわけないだろ……ついてきてないだろうな?」

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