ご挨拶をと思ったけど、残念ね。
スズの召喚獣の中でも高い殺傷力を誇る「大地に泳ぐ魚」。
土で覆われた姿の、大きな口を持った鯉のような生き物。
それが今、屋敷の床を突き破りこの世界に召喚された。轟音を響かせ、そのひれで大地を揺らし、巨魚は大蛇に噛み付いた。大きさは蟒蛇と互角だ。
噛み付いた箇所から黒々とした血が大量に溢れ出る。大蛇は野太い声で叫び、屋敷全体を揺るがす。長い胴体で巨魚に巻きつき応戦する。
テオは魔導銃の可動と発射を最速で繰り返し、大蛇へ向かって閃光を浴びせる。シュラムが戦車のように突進していき、うろこに覆われた胴を切りつけていく。
「まずい! 天井が! 退避してください!」マルタが叫んだ。
巨魚に巻きついたまま大蛇は胴をくねらせ、屋敷のあらゆる建具に衝突していた。もうほとんど原型を留めていない。天井が落下してくるのも時間の問題だった。
テオは最後に渾身の魔力を込めて、大蛇の喉元目掛けてノヴァを放った。
「効いてくれ!」
閃光は口の中へ直撃し、喉を貫通した。
「少佐! 早く!」
マルタとジルの誘導で皆庭に躍り出た。最後にテオが振り返ると、ところどころ肉が抉られ、引き続き巨魚に食い荒らされている大蛇が砂ぼこりの中に見えた。動きが緩慢になり、目が虚ろになっている。
テオたちは庭を疾走し屋敷から離れた。
完全なシンメトリーで整えられた庭園は見る影なく、屋敷の崩壊により吹き飛んできた瓦礫でめちゃくちゃなありさまになっている。過去、この屋敷で営まれた日常に想いを馳せると、なんとも物悲しい気持ちになる。
「皆さん……よかった。無事でしたか……」
庭園の端のほうにあるベンチで、レナエラが休んでいた。ゾウの先生パッチェが巨大な両刃の剣を構えて警護していた。
「レナエラさんの方は具合はどうだ?」
テオの言葉にレナエラは頷く。
「なんとか……心配かけてすみません」
「エスコフィエ大佐。つらいところ申し訳ないが、ゴーゴンたちの魔力の状態はどうなっている?」
レオンが汗で濡れた髪をかき分けて言う。
「ここで感知していましたが、エウリュアレの魔力は消滅しました。メデューサの魔力は残っていますが、かなり弱くなっている感じがします」
「そうとうなダメージを与えたはずですが、完全に魔力が消えるまで油断はできません」
今やただの瓦礫の山と化した屋敷跡を、スズは睨みつけた。
スズが召喚した巨魚が瓦礫を蹴散らし、天高く飛び跳ね、また地面の中に潜っていった。
満腹になり、元いた世界に戻ったらしい。
「大地に泳ぐ魚で相手をいちばん確実に仕留める方法は、丸呑みして別世界に道連れにしてもらうことです。でもあの蛇のスケールではそれも叶わない。かなり喰ったと思いますが」
「気をつけろみんな。間違っても『やったか?!』なんて言うなよ。世界一有名なフラグだ」とシュラム。
「悪ふざけはよせ」とパッチェ。
砂埃が次第に晴れ、辺りに静寂が戻ってくる。
屋敷跡は微動だにしない。夜の闇の中で息を潜めている小動物の巣のように、ひっそりと瓦礫が折り重なっている。
「メデューサの魔力が少しずつ細く、弱くなっていきます」
そしてレナエラは蒼白になった顔で、放心したように言った。
「――今、消えました」
エルフの姉妹は抱き合って泣き叫んだ。ゾウとサイの戦士はガッツポーズをする。レオンとテオは、やはりレナエラと同じように放心したようになり、顔を見合わせる。
「終わったか……」
レオンがベンチに腰を下ろして、天を仰いだ。
そのとき。
「マウラ・グラントーニという名前を覚えておいでかしら? エスコフィエ大佐」
まるで重役の秘書官がオフィスで他愛ない会話でも始めるみたいに、その声は言う。
「えっ……」
レナエラは声がしたほうを振り返る――
「いけません! 全員、目を伏せてください!」とスズが叫ぶ。
咄嗟にテオは地面のほうに目をやり、声の主のほうには銃を向ける。
マルタとジルも同じように目を伏せた。スズは反対の方向を見ると同時に、シュラムとパッチェを返戻する――万が一、相手の術式により操られでもしたら、かなり戦況が不利になるからだ。
しかしレナエラ、そしてレオンはその声の主の目をまともに見てしまった。
二人は振り返ったその瞬間の姿を保ったまま、硬直した。
「あらいけないわ。術式を閉じておくのを忘れちゃった」
彼女は三日月のような細い瞳を持ち、紫の髪をしている。不気味なほど整った顔だちは、ほんの少しの汚れすらも許さない潔癖さを感じさせた。
「イオニクの指導者代理を名乗るときは、マウラ・グラントーニで通していたのよ。エスコフィエ大佐とはお会いしたことがあったわ。ご挨拶をと思ったけど、残念ね。ついでに私のことを返そうとしていた召喚術師も、あっさり石にしちゃった」
「オルフ大戦のときも、その姿であなたはよく軍人たちを石にして楽しんでいましたね。メデューサ」
メデューサ・ゴーゴン。ゴーゴン三姉妹の三女である彼女は、魔族の中でも高い知能と残忍性を併せ持つ。そして、目を合わせた者を石化してしまう能力は、オルフ大戦時も恐れられていた。
「不死身の魔女スズ・ラングハイム。あなたはたしかコカトリスの血じゃ効かなかったわね。でも私の術式は効くはずよ。コカトリスなんかのとは全然仕組みが違うから」
スズが顔を伏せたままにしているところを見ると、どうやらそのようだ――テオは必死に考えを巡らせた。こちらは四人。かなり疲弊しているうえに、相手を見ることができないという大きなハンデがある。
ノヴァの最大火力ならばおそらくメデューサを葬ることができる。だが一度避けられてしまえば、次の魔力充填までに時間を要する。それは致命的だ。
――時間を稼ぐしかない。
「メデューサ……あの大蛇はたしかにお前自身だった。そして、致命傷を負わせたはずだ」
メデューサはケラケラと笑った。
「あんな野蛮で醜いのが私なわけないでしょう? あの大きな蛇ちゃんは私の魔力の相当量を分け与えて作り出した、いわば化身。魔力反応で相手の位置や存在を判断する術師や軍人は引っかかると思ってたわ。私自身は魔力を隠蔽して近くにいた。私はこれでも用心深いのよ。完全に魔力を隠すような芸当ができることは、エウリュアレにも言っていなかった。みんな一生懸命戦っていたわね。ご苦労様」
メデューサは上機嫌な様子で、すたすたとレナエラに近づく。
「――何をするつもりだ。メデューサ――」
石化したレナエラの頭を、異様に優しい手つきで撫でる。
そしていきなり、右手の人差し指をぼきりと折った。
「嫌……やめて!」マルタが叫ぶ。直視できなくても、なにをしたのかは気配でわかったのだろう。
「お姉ちゃん……」ジルが悲痛な声を上げる。
「あら? そっちの銀髪のお二人はエルフかしら? この世界には元々いなかったはず。不死身の魔女ちゃんの召使い?」
今度はマルタとジルのほうへ歩いていく。二人とも目を伏せたまま震えている。
「綺麗な髪ね。惚れぼれしちゃう。それに、いじめがいのありそうな身体してる」
メデューサはその指でさらさらと二人の銀髪を梳く。と思えば、急に握り潰すようにしてマルタの胸をしだく。
「んぐっ……!!! はぁああっ!」マルタは痛みに声を上げる。
「お姉ちゃん!」
そしてマルタは正面からメデューサの目を見てしまう。痛みに悶えるような滑稽な体制のまま、彼女は石になる。
「あなたコレクションに加えてあげる。玄関脇にでも置いてこうかしらね。そっちのおチビちゃんと一緒に」
ジルのほうへ歩いていき、銀色のショートカットの前髪を引っ掴み持ち上げる。
「きゃあああっ!」
メデューサはお構いなしにジルの剥き出しになったひたいを眺め、彼女の華奢な腹を殴りつけた。
「おごっ?!!」
そしてジルも石化させてしまった。
「きゃあははは! なにこの格好! お腹押さえちゃって、大便でも我慢してるの?!」
「メデューサ! その辺にしておいてもらおうか!」
屈辱的な仕打ちに耐えかねて、テオは銃口を向けたまま怒鳴った。
「テオ・ザイフリート少佐。引き金を引かないのは懸命だわ。このくらい至近距離でも、私はその気になれば魔道銃の弾道を回避することができるし、石化したあなたのお友達を盾にすることだってできる」
メデューサの気まぐれで、いつ皆バラバラにされてしまっても不思議じゃない。
幸い今は上機嫌に勝ち誇っている。もう少し。
銃で狙いをつけ、確実に最大火力を撃ち込める隙を生むことができれば――




