とても穏やかであり、とても不健全な時間だった。
屋敷のエントランスに現れたのはエウリュアレ・ゴーゴンだった。
ゴーゴン三姉妹の次女。蜘蛛を自在に操る、魔族の中でも最高位の部類。オルフ大戦ではフォルトゥナの指揮の元、旧イオニクの反乱軍として戦っていた魔族。
「最後に会ったのはトルーシュヴィルの村……いや、ケルニア大聖堂の地下でも、君の蜘蛛をお見かけしたな。エウリュアレ」
テオは魔導銃を向けたまま言った。
エウリュアレは二階へ続く階段の踊り場に立ち、テオたちを見下ろしていた。大きな黒いローブが、ほっそりとした長身を覆っている。前に戦ったときに彼女が操っていた虫たちは、今は羽虫一匹飛んでいなかった。
「あの者とは戦ったことがあるな」ゾウの戦士パッチェが、エウリュアレを睨みつける。「とても厄介な術を使う」
「お前、虫野郎か!」シュラムが両手のファルシオンを互いに打ちつけた。「しっかし、このやべえ感じはあいつじゃねえな……どうなってんだここは?」
「ちょっと黙っててください」スズがサイの戦士を嗜める。
「テオ・ザイフリート。転生者」エウリュアレは呟くように、言葉を発した。「あのとき私が言ったことを覚えているか?」
「『責任が始まる』だったな。謎かけのように言葉を残して逃げ仰る。悪い癖だ」
「人間はより多くの殺戮を望んでいる。殺戮は責任を伴い、それを解消しようと行動し、また殺戮が始まる。そうやって勝手に滅んでいく」
レオンがカツリと靴を鳴らした。「なにが言いたい?」
エウリュアレは目を細めた。もっともフードで顔が隠れておりほとんど見えなかったが、不思議なことに彼女の表情の変化がテオには分かった。
「ルーンクトブルグとソルブデンは手を取り合った」エウリュアレは続ける。「この二国間の共闘は、我々の想定にはなかった。現に今リオベルグの住民は無傷だ。無論、共通の敵が現れたとき打算的で一時的な協力関係を築くことは、人間にはよくある。それでも、私はこの動きに感銘を受けたよ」
「クンツェンドルフと、ここにいるレナエラ・エスコフィエ大佐の功績です」スズが無表情のままエウリュアレを見上げた。「しかし、魔族であるあなたが人間を理解するとは考えにくいですね。それもフォルトゥナの入れ知恵ですか?」
「フォルトゥナ?」エウリュアレは僅かに首を傾げる。「そうか。なるほどそう考えるに足る理由はあるな。フォルトゥナが生きている。そちら側にある情報を繋ぎ合わせれば、妥当な帰着だ。だが、フォルトゥナはここにいない。マリアが伝えた通り、五年前に死んだよ。この屋敷で」
スズは目を細めた。テオとレオンは顔を見合わせ、シャントルイユ姉妹は槍を構えなおす。
「――だが今回の魔族の軍勢は誰が指揮をとっている? メデューサはどこだ? 魔力を隠しているようだが、この屋敷にいるのだろう?」レオンがエウリュアレを睨みつける。
「その質問にはどちらも明確に答えることができる。だが、まだ時間がある。少し話そうじゃないか」
いったいなにを企んでいる――テオは魔導銃ノヴァを握りなおす。エウリュアレは混乱するテオたちの様子を楽しむかのように微笑し、話し始めた。
「六十年前のオルフ大戦後ほどなくして、フォルトゥナ・ファウルダースは復活した。私がフォルトゥナに直接教わった『同世界転生』を施し、彼は再度この世界に誕生した」
レオンが目をみはった。「同世界転生だと? エウリュアレ、きみがか?!」
「召喚術を身につけるための時間なら、正直捨てるほどあった」エウリュアレは簡潔に答えた。
「しかし彼は、イオニクの再建について以前ほどの熱量を持ち合わせておらず、私とマリアは少なからず動揺した。それからの約五十五年間は、今振り返ってもかなり奇妙な生活だったよ。国としての体を成していないイオニクを今後どうしていくか、私もマリアも考えていないわけではなかった。だがその時間のほとんどが、実際には老いた偉大なる召喚術師の世話に充てられていた。マリアは言っていた。彼の目にはまだ怒りと信念が宿っていると。だが結局私には最後まで分からなかったね。少しづつ、だが確実に身の回りのことができなくなっていく老人の身体を洗い、髭を剃り、食事を口に運び、排泄物の処理をする――とても穏やかであり、とても不健全な時間だった。彼は口にはしなかったが、私が『同世界転生』を行ったことに腹を立てていたのかもしれない――そう思う」
「そんな生活に変化が訪れたのは五年前だ。フォルトゥナが老衰で息を引き取った。そしてザイフリート、君が大聖堂の地下で聞いたように、マリアにとっては最悪の言葉を、彼は死に際に言い放ったんだよ」
「リン=ラフォレ・ファウルダースのことか。フォルトゥナは、彼女に会いたいと」
エウリュアレは軽く頷く。
「マリアはあの一言で冷静さを欠いた。あの日から彼女は、衝動的に、取り返しのつかないことをしでかす可能性があった。それはマリア自身も自覚していたようだ――私がそう判断するならば殺してほしいと言っていた。それからは打って変わって忙しい日々が訪れた。メデューサとステンノーの封印解除、ソルブデンとの密約、『白銀の党』の設立――隣接する両国に対し、メデューサは上手に揺さぶりをかけてくれた。半分は私が意図した通りに動いてくれたが、半分は彼女自らの意思だ」
「半分? つまりきみは、メデューサをじゅうぶんに使役しているわけではないということか?」
レオンの問いに、エウリュアレは数秒沈黙してから、静かに言う。
「さすがは大召喚術師殿だ。意味を説明する必要はないようだね」
マルタが槍をしっかりと握りしめたまま、レオンの方に目をやる。
「どういう意味ですか? 大召喚術師様――彼女がメデューサを使役?」
「召喚術の主従法則だよ」レオンは驚愕したような、それでいて呆れたような表情で言う。「イオニクに残された魔族の多くは、確かにフォルトゥナが召喚し使役していた。だがフォルトゥナが一度死に、エウリュアレが同世界転生を行う。つまりこの時点で、エウリュアレがフォルトゥナの“主人”となる。その後老衰でフォルトゥナが二度目の死を迎えた――このとき、残された魔族たちの使役権は誰に移譲されると思う?」
「フォルトゥナの“主人”だった、エウリュアレ・ゴーゴン」スズが答えた。「魔族を指揮していたのは、あなたでしたか」
「しかしな、不死身の魔女殿。主従法則も絶対的なものではないようだ。同世界転生においてはその効力が薄れるのかもしれない。とにかく、私の愛する姉妹であるメデューサやステンノーは、必ずしも私の思い通りに動いてくれるわけではなかった。さて、時間だ」
テオの後方で切り裂くような声が聞こえた。
「レナエラさん!」
振り返ると、レナエラが膝をつき、頭を抱えて叫び声を上げていた。顔面蒼白になり、目が飛び出そうになっている。
エウリュアレはエントランスに降り立ち、後ろを振り返った。
テオは感じた。
のたうち回る魔力を。
牙を剥きなにかを噛み砕き引きちぎらなければ気が済まないと喘ぐ、魔力を。
「その帝国軍の女は離れたほうがいい」エウリュアレは言う。「最大まで放出したあれの魔力は、その女の体質では地獄だろう。自我がやられるぞ」
「パッチェ! レナエラを連れて外へ!」スズが指示を叫ぶ。
「御意」ゾウの戦士がレナエラを抱えてエントランスから出ていくのを見守ってから、スズはローブを脱ぎ、指にはきちんと指輪があることを確かめた。
「少佐。あなたの魔導銃にかかってますよ」
テオは乾いた笑い声を出した。
「プレッシャーをかけないでくれ」
エントランスの正面の扉が轟音を立てて破壊された。




