彼女は、楽しむために知識を欲している。人間みたいに。
スズは思考を巡らせた。ジルの症状は明らかに洗脳状態だ。フォルトゥナによる術式の可能性が高いが、その法則がまだわからない。マルタは一時的にかかったが、すぐ我に返った。
自分は――今のところ「正常」だと感じる。だが精神汚染はそもそも、自分が「正常」かどうかの判断ができない。
「ジル・シャントルイユ伍長」スズはジルの目をじっと見て言う。「我々はルーンクトブルグの軍人で、この屋敷にはとある任務できています。どんな任務か、わかりますか?」
「軍人? 兵隊さんだったんですね。とにかくフォルトゥナ様にご報告しないと。私には決められませんから。ここでお待ちいただけますか?」
状況設定が変わった。フォルトゥナがまだこの屋敷を所有していた頃まで遡っている。それにジル自身は気付けていない――だが、スズやマルタを侵入者としては見ていないようだ。
「中尉、どうしますか?」マルタが言う。「私も一時的にやられました。情けない話ですが、このまま正常でいられるかわかりません」
「話を合わせます」スズはマルタに耳打ちしてから続けた。「ええ、ジル。私たちはイオニクの兵士です。戦況のご報告にあがりました。フォルトゥナ様にお目にかかりたいのですが、こちらですか?」
ジルは少し困った顔をした。「ええ、こちらの屋敷におられます。ただ――ううん、どうでしょうか。もちろんフォルトゥナ様は皆様の働きを労いたいとおっしゃると思います。でもお忙しい方なので」
「こちらも緊急の要件で。お忙しければお待ち申し上げます。ご案内いただけないでしょうか?」
「そうですか――では、お待ちいただくかもしれませんが――どうぞこちらへ」
ジルはそう言うと、屋敷の裏手を平然と歩き始めた。辺りはすっかり暗くなり、足元すらうまく見えなかった。だがジルは、まるで仕事の都合上いつもとおる道だというように、ほとんど慣れた足どりで澱みなく先へ進んでいく。
「ジル――中尉、あの子をなんとかする手立てはありそうですか?」
マルタが不安げな表情で囁く。
「術者と接触できればあるいは。そのためにはひとまずむこうの意図どおりにしてみるしかありません」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「フォルトゥナ様がお待ちです」と、レナエラはテオたちを先導し始めた。「お忙しい方ですから、手短に」
ジルと同様、レナエラも何らかの術式により洗脳状態に陥ってしまった。
レオンは目を細めて、慎重にレナエラの後についていく。
「ここまでなんの結界もなく、容易に足を進めることができた。なにか仕掛けてくるとは思ったが――」
周囲に魔導銃を向けつつ、テオも後に続く。「解く方法はないのか?」
「精神汚染の魔術は専門外だ。だが、一定の法則に従っている。トリガーになるのが音か、匂いか、物理的な衝撃か――解除の法則が判明すればあるいは」
「片っ端から試してみるか?」
「――いや、無理に解除しようとするのはまずい。精神汚染は魔術の中でもトップクラスの難易度で、扱えるものもそういない。その魔術をこんなにきれいに、あっさりとかけてくる相手なのであれば、おそらくいつでも彼女を自死させることも可能だ。我々を導いてくれているようだし――とにかく、ついていくしかないだろう」
シンメトリーの庭をレナエラに案内されるかたちで、二人は進んでいく。ときおり冷たい風が吹き、黒い森を不気味に揺らしてから、テオたちの顔を突き刺す。不幸の象徴みたいな姿をした屋敷が、だんだんと近づいてくる。
「ステンノーは間に合うだろうか」と、テオはふと心配になり口にする。
「彼女の飛行速度なら問題ない。大丈夫だよ」レオンは悲しんでいるような喜んでいるような、微妙な表情を浮かべた。「ステンノー・ゴーゴン。彼女は興味深い魔族だ」
「おれたちの目的に共感し、作戦にも協力してくれている。たしかにこんな魔族初めてだ」
「それももちろんある。でもね、僕が最も興味深いと思ったのは、彼女の知識欲についてだ。魔族がなにかを学習するとき、それは自身の生存のためや、破壊や殺戮を効率よく行うため――つまり目的のために学習するしかしステンノー・ゴーゴンの場合は違う」
レナエラは屋敷の扉の前で立ち止まる。
「彼女は、楽しむために知識を欲している。人間みたいに」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
スズとシャントルイユ姉妹はエントランスの中央に立ち、半円状の二本の階段で繋がる踊り場を見上げていた。
屋敷のエントランスには誰もいない。外はもう夜の闇に包まれている。ランプも蝋燭もないのにも関わらず、エントランスはぼんやりと淡い光で包まれていた。ひときわ目立つ大きなシャンデリアと大理石のつるりとした床、大きな壁面のステンドグラス。それらが光を反射し、とても幻想的な光景を作り上げている。
「こちらでお待ちください」ジルが言う。「フォルトゥナ様がじきに参ります」
「ご案内、感謝します」
スズが言うと、一瞬ジルが虚空を見上げ、軽く振動した。
「ジル!」
膝から崩れそうになるジルを慌ててマルタが駆け寄り、抱き上げる。まるで突然糸が切れた操り人形のような滑稽な格好で、ジルは数秒シャンデリアを見上げていた。
「お姉ちゃん」
「ジル、大丈夫? あなた今まで操られて――」
「私――」
たちまち目の焦点が合い、ジルは慌てて起き上がった。「申し訳ありません中尉! 敵の術中に私は――」
「無事みたいでなによりです。それにどうやらこの屋敷の主人は、私たちを歓迎してくれているようですね。ほら、少佐たちも到着しましたよ」
振り返ると、ちょうどレナエラを先頭にテオとレオンが扉を開けて入ってくるところだった。
「ラングハイム中尉、無事か?」
テオがステンドグラスを見上げ、眉根を寄せながら言う。
「少佐たちも元気そうで」
テオは目を細め、かぶりを振った。「そうでもない。レナエラさんが――」
「精神汚染ですね。こちらもやられました。そのまま案内させたのは正しかった。たぶん、もうじき術が解かれますよ」
スズがそう言ったのを聞いていたかのように、レナエラは「フォルトゥナ様がじきに参ります」と、先ほどのジルと同じ台詞を吐いた。弱い電撃が走ったかのように痙攣し、そのままテオに倒れ込む。
「レナエラさん、大丈夫か?」
テオの問いかけにしばらく虚空を見つめていたレナエラだが、程なくしてその瞳が本来の機能を取り戻した。
「私、まさかまたメデューサに操られていたんですか?」
「メデューサかどうかはわからない。とにかく、術が解けたようでよかった――」
そのとき、なにかに気がついたレオンが鋭い声を上げた。
「皆構えろ。来るぞ!」
テオとレナエラは魔導銃を構え、シャントルイユ姉妹は槍を掲げ、スズはシュラムとパッチェを召喚した。ゾウとサイの戦士コンビは召喚されてすぐに目を細め、顔を見合わせた。
「おいおいラングハイム。ここのヤバさを分かっててオレたちを呼んだんだよな?」
サイの戦士シュラムが丸太のような足で地面を擦った。
スズは三角帽を深く被り直した。
「敵の本丸です。腕がなるでしょう?」




