でも私は好きよ。
マリア=ルイス・ファウルダースは青白い顔を上げ、窓の外を眺めた。昨夜から激しい雨が降り続いている。
「あのフォルトゥナ様が別人だとは思わない。私のこともきちんと覚えているし、話をすればするほど、腹の奥底にはにえたぎる怒りを持っているのがわかる。でも、もうあの方はそれを持って行動に移さない。私たちの主導者として期待するのは、もう無理だと思う」
書庫の前に立っている長身の女性はなにも言わない。マリアは続けた。
「気を悪くしないで。召喚術を施したあなたには感謝してる。こうしてフォルトゥナ様に再度見えることができたし、『同世界転生』を実証することもできたんだから」
長身の女性が、小さく身体を揺らした。「多くの研究者たちが紡いだ成果だ」
マリアは頷く。
「そういえば、この屋敷は元々フォルトゥナ様の別荘だった。けれども内戦が激化する前にご友人に譲り渡した。今は誰も所有していない。その後ご友人は奥様と一緒に国外へ亡命した。フォルトゥナ様もそれを勧めたらしいわ」
「少し、不服そうだね」
「そうね――あの方は私を愛してくれていたけど、身を案じて匿うことはなかったもの。戦乱が激化すればするほど、私は前線にいた。いちばん死に近いところに、いつも置かれた」
「リンもそうだった」
「……あの女の話はしないで」
マリアは座っていた革張りのソファから立ち上がり、途中にある執務机の角をすっと撫でて、窓のほうへと向かう。
森の中に建てられたフォルトゥナ・ファウルダースの屋敷は、雨の中に佇んでいた。誰ひとりとして利用しなくなった郊外の停車場のように、無言のまま分厚い雲を見上げていた。
「私は継ぐ。フォルトゥナ様の意志を」
マリアの言葉に、長身の人物は無表情のまま問う。「長い道のりになろう」
「でも、道は一本で迷いようがない。この国を正しく国家として認めさせるためには、特に隣接する両国には特殊な働きかけが必要。私だけでは難しい。メデューサとステンノーの力も要る。壁を壊さなきゃならないし」
雨で霞んでいる森の先には、終戦の象徴とも言うべき築城式結界が高くそびえている。マリアは眉根を寄せる。
「あなたにも協力してほしい。エウリュアレ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「準備は整ってる! すぐにでもあと二人の封印を解いて、計画を実行する!」
奇しくもあの日と同じような激しい雨の中、マリアとエウリュアレは屋敷の庭にいた。
「マリア、きみは今冷静ではない。だから――」
「わかってる! 冷静じゃない。ほとんど狂ってると言ってもいいわ! それでも――ああ、フォルトゥナ様、なんで……どうしてあの女のことなんか!」
マリアはその小柄な体躯を折り畳むようにして地面に突っ伏した。青みがかった黒髪を雨が濡らし続けている。
「許さない。リン・ラフォレ=ファウルダース。あの女だけは絶対!」
傍らで佇むエウリュアレは数秒のあいだだけ目をつむり、それから薄く目を開け、空を仰いだ。
「私は嘘をつきたくない。だから話す。もしきみが目的を見失い、きみの中にあるその個人的な憎しみにのみ従い行動するのであれば――」
「そのときは私を殺しなさい。エウリュアレ」マリアは顔を伏せたまま、唸るように言う。「ここまで準備してきたことをすぐに台無しにするような真似はしない。でも、正直、私はこの失望を抑え込む自信がないの。私はあなたを信頼している。あなたがそう判断するなら、殺すべきよ」
「――それで、きみが亡きものとなったあとのイオニクは、誰が率いるのだ?」
エウリュアレの声は相変わらず夜のカルデラ湖のように静かだったが、ほんの雫一滴分の怒りが込められていた。
「ふさわしい者が」マリアは顔を上げた。「それに現実的な話をすれば、フォルトゥナ様が持っていた召喚獣――魔族たちの使役権は、あなたに委譲されている。同世界転生とはいえ、フォルトゥナ様を召喚したのはあなただもの。彼の方が死んだ今――」
「召喚術の主従法則か」
マリアは立ち上がり、頬に張り付いた髪を剥がしながら言った。
「あなたが持つその力はイオニク再建に必要。そしてその後、平和で豊かな国家を築くためにもね」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「両国に対して、メデューサがそうとう揺さぶりをかけてくれている。多少乱暴だが、今のところそれが功を奏していると言えよう」
エウリュアレの声は薄明かりの灯るランプを揺らした。屋敷はとっぷりと重たい闇に包まれている。静かに雨が土を濡らし、葉を揺らす。
「懸念がある」と、マリアは短く言う。
「ある程度、察しがつく」と、エウリュアレが返す。「メデューサとステンノーは、今果たして“召喚獣”なのか、という懸念だろう?」
「わかっているなら、答えも用意しているんでしょうね?」
エウリュアレはフードの中の頭を軽く左右に揺らした。
「いや、用意はない。本来であればあの二人は、主従法則により私に使役権がある。だが、一度封印されたからか、あるいはあの二人の魔力が強力であるがゆえに、主従法則に従わないのか――とにかく、ここのところ私の思いどおりに動かないことが多い」
「メデューサはステンノーを刺し、ステンノーはあの帝国軍の女のところに行くことを選んだ」
「もちろん、私は意図していない」
「フォルトゥナ様は死んだ」マリアはちゃんとそこに事実が存在しているかどうかたしかめるみたいに、はっきりと口にした。「あのときから、結局のところ私たちは消耗戦をやっている。今さら仕方がない。魔族が魔族らしく、彼女たちの論理で動き出す。それは想定できたこと」
エウリュアレは軽く咳払いをした。「私もいずれそうならないとも限らない」
「あら? あなた気づいていなかったの?」マリアは悲しげな微笑みを浮かべる。「あなたはじゅうぶん魔族をやっている。だから私は信頼している。人間が相手だとこうはいかないわ。フォルトゥナ様でさえ、最後は信じきれなかった」
「マリア、ひとつ意見を聞かせて欲しい」
「なにかしら?」
「魔族が迎えるべき理想の最期とは、いったいどんなものなのだろう? 私はときどきこの問いについて考えるが、いつも答えは出ない」
マリアはほんの一瞬だけ真顔になった。
そしてその後、驚くほど優しさを湛えた笑顔になった。不思議なことに、エウリュアレにはまるで母親のような表情に映った。
「魔族であれ人間であれ、理想の最期なんてものを求めるのが間違いだと思うわ。多くの友人に看取られて死ぬのと、誰にも気づかれることなく前線で朽ち果てるのと、どちらが尊い死かなんて、誰にも答えを出せない」
エウリュアレは、執務机の角をそっと撫でた。
「つまり、私が抱えているこの問いは、とても個人的で、物語的なものなのだろうね」
「そうね。魔族らしくない。でも私は好きよ。どういう結末にするのか、あなたに決める権利がある」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「マリア――悲しい存在だね、魔族というのは」
エウリュアレはそう呟く。
まもなくあの不死身の魔女や“不死身殺し”テオ・ザイフリートがこの屋敷に来るだろう。案内人はもう出した。この屋敷の最後の客人だ。丁重に迎えよう。
「どうしたのエウリュアレ? もうすぐ連中がやってくる。ここからが面白いところよ」
メデューサは執務机に脚を投げ出し、革張りの椅子に腰掛けている。
「メデューサ、ひとつ意見を聞かせてほしい」
「なにかしら?」
「魔族が迎えるべき理想の最期とは、いったいどんなものなのだろう? 私はときどきこの問いについて考えるが、いつも答えは出ない」
メデューサはほんの一瞬だけ真顔になった。
そしてその後、なにもかもを嘲笑うかのような、邪悪な笑顔になった。
「魔族の最期? なぜそんなものについて考える必要があるの?」
エウリュアレは、執務机の角をそっと撫でた。
「つまり君はステンノーを刺したとき、彼女が最期を迎えるかもしれないとは考えなかったというわけか?」
「ああ、あの蝙蝠? どうでもいいじゃない。本当に役に立たないお姉ちゃんだった――」
突然巨大な蜘蛛が現れ、ぬめりとした黒い顎でメデューサの頭を挟み、一瞬にして食いちぎった。
大量の血が首から吹き出し、そこら中を赤く染めた。椅子の上に乗っていたメデューサの身体は、しばらく痙攣したようにうごめき、むやみやたらに暴れ、血の海に倒れ込んだ。
その巨大な蜘蛛――エウリュアレは、メデューサが動かなくなるまでその光景を見つめていた。




