そういえば彼は花が嫌いだった。
――当文書は、旧イオニク公国の哲学者であり、物理学者でもあるジェフリー・ブラウワーの著書「構築主義の再考」の最終章より抜粋されたものである。彼は自身を「召喚されし者」と名乗っている。イオニク内戦の際にエウロ二帝国へ亡命したが、世界の理をできるだけ正確に解き明かし、記述することに生涯を捧げていた。
これまで述べてきたように、彼は私にとっての主であり、また後年には無二の友となった。私のこの世界における研究を尊重し、身に余るほど立派な屋敷――繰り返し断ったのだが――を用意し環境まで整えてくれた。
激化する内戦の中、後年あの屋敷は妻の隠れ家としての機能を果たした。私は愛するものを失う恐怖に耐えることができず、妻を連れて国外へ逃げ出した。家財をほとんど置いてきてしまったが、その後の内乱の中、あの屋敷がどうなったのかはわからない。
そういえば彼は花が嫌いだった。
花たちはどれも美しく、それでいて容易に所有できるからだという。強欲な者ほどその魅力に惹きつけられ、この世界のあらゆる「花」を独占しようとする。そして争いが絶えなくなる。それが彼の理屈だった。だから屋敷の庭にはたった一輪のガーベラすら植えられることはなかった。
さて周知のとおり、イオニクは滅んだ。
周辺国の尽力により結界を持って魔族を封じ込め、イオニクは国としての機能を完全に失い、国民であったものは逃亡したか、その中でどうすることもできず、息絶えた。
これが彼のしたいことだったとは到底思えない。彼は、イオニクの指導者を憎みこそすれど、イオニクを、そしてイオニクの国民を愛していたのだから。
私も老いた。この世界の未来を見届けることはとてもできないだろう。
しかし、いずれ人類は――傍若無人な君主、政治家などの特権階級の連中は特に――責任を負うことになるだろう。
この責任は、我々の気づかぬところで既に始まっているのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ここです。メデューサのいた建物。間違いありません」
レナエラが白い壁の大きな屋敷を指し示した。「かなり抑えてはいますが、魔力を感じます。メデューサかどいうかはわかりませんが」
深い森が唐突に途切れ、その屋敷は現れた。テオは一瞬、まるで天国にでも行き着いたような感覚を覚えた。薄暗く湿った森とは打って変わって、そこは暖かな日差しが注ぎ込んでいた。生息している植物や鳥の種類さえ、まったく違うようだった。
「すべて、召喚術だ」レオンが顔をしかめた。「あの屋敷も植え込みも、ほとんどこの空間すべてが、べつの世界のものとすげ替えた結果だろう。美しい景色ではあるが、僕からすれば不気味だね――」
五年前、ゴーゴン三姉妹の封印が解かれた。
解いたのはマリア=ルイス・ファウルダース。当時反乱軍に所属していた転生者によるものだ。
――そう思われていた。
実際メデューサたちもそのように考えている。
「フォルトゥナ・ファウルダースは、イオニク公国の再建を果たそうとしているのだろう。彼は反乱軍の首謀者として人々を統率し、圧政を敷いていた君主たちの打倒を行ったわけだが、文献を見るともともとはとても健全な愛国者だ。イオニクを、イオニクの国民を愛し、それゆえの革命だった。彼がこの国への情熱を失わずに、革命を続けていてもおかしくはないだろう」
レオンの考察に、テオも頷く。
「フォルトゥナ・ファウルダースが老衰によりこの世を去った――そうマリアが言っていたのは五年前だ。だがもし彼が生きているとなれば、マリアは実際には看取っていないか、もしくは彼女すら騙されていたということになる」
テオは魔導銃を構え、慎重に屋敷の庭を進んでいく。レオン、レナエラも後に続く。首都へ伝令に向かってくれたステンノーは、今頃こちらへ引き返しているところだろうか。
庭はよく整えられたシンメトリーで、人工的な雰囲気でありつつ、植物の特性がよく生かされていた。ガゼボには蔦が絡まっているが、手入れ不足というわけではなさそうだ。
誰もが美しい庭だと思うだろうが、草木ばかりで花は一輪も植えられていなかった。
「フォルトゥナ・ファウルダースがやはりまだ生きていたとして、交渉に応じるでしょうか?」とレナエラが言う。
「そもそもここにいるかどうかもわからない。レナエラさんが以前ここへ訪れたときには、それらしき人物はいなかったんだろう?」
テオの問いに、レナエラは首を横に振る。
「少なくとも、メデューサよりは話のわかる人物だろう――そう思いたい。ここまで来れば、会ってみるしかない」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
同じ頃、スズとシャントルイユ姉妹もメデューサの屋敷の裏手側に接近していた。スズは持っているすべての指輪をはめ込み、姉妹はそれぞれ使い慣れた槍を持ち、警戒しながら進んでいた。目の前には窓のない真っ白な壁がそびえている。
「ザイフリート少佐ももう到着しているころでしょうか?」
マルタが周辺を見渡しながら言う。
「おそらくは」
スズは屋敷を眺めながら、リンのことを考えていた。
もし本当にフォルトゥナが生きていたとしたら――オルフ戦争よりも前、彼によって召喚された彼女は、このことを知ったらどう思うだろうか。きっと会いたいだろう。実の父と娘のような関係だ。大戦時初めて会った彼女は、ただただフォルトゥナに謝るばかりだった。ほとんど精神が崩壊し、意思疎通を図るのに時間を要した。
人間をあれほど心酔させるフォルトゥナ・ファウルダースとはどんな人物なのだろうか――スズは純粋な興味と、リンをたぶらかしたことへの怒り、そしてわずかながら畏怖の感情を抱いていた。
「でも妙ですね。屋敷の周りには魔族の気配がまったくありません。手薄すぎませんか?」
マルタの言うとおり、あたりには木々のさざめきがあるだけで、とても静かだった。普通に見れば、侵攻してきた者を屋敷内に誘き寄せようとしているに違いないだろう。どのような術式が屋敷の扉やエントランスに施されているかわからない。
「もちろん、このままてくてくとメデューサの面前まで行けるとは思っていませんが、静かですね」と、スズは壁を仰ぎ見た。
「警戒しながら進みましょう。フォルトゥナ様はそう簡単に侵入を許さない方です――」
マルタは自分の口から出た言葉の違和感に時間差で気がついたのか、はっと息を呑んだ。「えっ……今、私なんて言いました?」
「マルタ! ジル! 敷地内から出て一度ここから離れます!」
スズは即座に指示を叫んだ。
まずい。どんな術式かはわからないが、いわゆる精神汚染を起こす魔法がこの辺り一帯にかけられているようだった。術の法則もなにもわからないこの状態では、物理的に離れるしかない。
「了解! ジル、早く――」
「お姉ちゃん、落ち着いて。中尉も、どうしてそんなに慌てる必要があるの?」
振り返ると、ジルは槍をだらんと下ろし、わけがわからないというような表情でそこに立ち竦んでいた。
「ジル? なにを言って――」
「うーん、わからないなら一応説明するけど、ここはジェフリー・ブラウワー博士のお屋敷。元々はフォルトゥナ様が所有していたけど、お二人はとても親しい中だったから、内戦が始まる少し前にお譲りになられたの。だからここは安全」




