第二話『空想言語学講義』
助手としての仕事は先生に血形文字を教え、内容を一文、一文伝えていくこと。
そして、先生がそれを聞いてカタカナ文字に直していく。
その過程で私は、先生からカタカナ文字を教わる。
翻訳する行為は実に難しく、先生と私の二人だけならまだいいが、第三者が読むとなると話は別だ。
先生の前職における、この本の重要性から、第三者が読む可能性というのを考慮し、血形文字をカタカナ文字に翻訳した際の解釈違いを出来るだけなくす必要があった。
私が血形文字を読み、先生と同一の言語で伝える、すると先生はその言語から意味を読み取り、それを表現するカタカナ文字に書き換える。
一見すると、それだけで充分に翻訳出来ると思うが、そうはいかない。
一度、自身が読んだ本の内容や、自身が経験した事を誰かに伝えるとして考えて欲しい。
その時、自身が感じた意味や、伝えたいと思う感情が完全に伝わりそうだろうか?
もしそうなら、吟遊詩人なんていう歌やお話で食べていく者達は存在しないかもしれない。
例えば「私はその劇を観て鳥肌がたった」という文があったとする。
訳者Aはそれを「劇を観て感動して鳥肌がたった」との意味でそれを翻訳する。
もう一方で訳者Bは「役者の演技がわざとらしく、気持ち悪くて鳥肌がたった」との意味で翻訳してしまう。
このように、私が血形文字を読み、先生に翻訳した時点で、何かの間違いが生まれてもおかしくない。もちろん、前後の文からの脈をみて、前者か後者かを判断すればいいものの、その判断は私の浅知恵に任される。
よって、お互いが知らない文字を学習し、最終的に照らし合わせる事により、作者の意図した文の解釈を導き出す事が重要になる。
言語や文字というのは、地域によって表現や「存在」そのものが変わる。
これは、有名な話ではあるが、私と先生が使う言語において「蝶」と「蛾」は区別され、二種の言語と文字が使用される。
だが、ある地域では「パピヨン」と呼ばれ「蝶」と「蛾」の区別はなされない。
先生が持つ本が「私達」の文字で綴られていたとしても、その本にもし「パピヨン」と似たような性質を持つ文字があれば、先生が住む地域では「蝶」と「蛾」のどちらを指すのか理解できないのだ。
私がいくら「血形文字」を直訳出来るからといって、油断出来ない理由がそこにはあるのだ。
今では立派な仕事として成立するそれを終えると、私は森の中で息を潜める。
目の前には野生の綿角鹿が野草を食べていた。
綿角鹿は名前の通り、綿のような角を持つ不思議な鹿で、それを解き加工すると、上質な糸が出来上がる。
もちろん、お肉としての味も良いのだが、そこは普通の鹿と変わらない。
今回に限っては、食べるわけではないのでどちらでもいいけれど。
既に日は落ちていて、この場所は月ですら明るく照らせない。
だが、私はハッキリと綿角鹿を確認し、一瞬のうちに気絶させる。
「ごめんね、殺したりはしないから、少しだけ血を貰うね」
私は少し目を伏せた後、爪で致命傷にならない程度に傷をつける。
ジワジワと滲む血に指を当てて「力」を使う。
指を離すと、円を描くようにフワフワと、血が宙に舞う。
「いただきます」
そろそろ「人」の食事だけで、体のエネルギーを補うのは限界だった。
指を曲げ、浮かぶ血を操り、口に含んでいく。
先生と出会ってから、何故か「こっちの食事」は気が進まない。
出来るだけ、あの人に近い存在でいたいのだろうか?
食事を終えると、鹿の止血を入念に行い、その場を去った。




