序章四話『走れアリス』
料理を作る為に炊いた火も、随分と心地良くなり、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
小さな森の住人達は、徐々に鈴の音の重なりを分厚くしていく。
一日の終わりの音。
ほっと安らぎ、どこか寂しいような。
「……君はこれからどうするの? その……なんて言うか……」
「……?」
オーウェルさんは少し、言いずらそうに眉間に皺を寄せる。
確かに、この後どうしよう。
どうしよう、というのも帰る方法や、この後の予定の話ではなく。
この奇跡のような縁の行方に関してだ。
私個人としては、できれば仲良くなりたい。
もちろん、懐疑的な私にとって、それは慎重に事を進める必要がある。
ただ、あまりにも人間関係というものに疎い私は、これからどう話を進めれば良いのか分からない。
「その、女の子がここから森を歩くのは危険だと思うけど、僕の家に泊まっていくように言うのも何だか不安にさせるような気がして」
「!!」
そうか。
確かに、深い森の中であるこの場所は、彼から見た私には十二分に危険と言えるだろう。道に迷う可能性も、猛獣に出会う可能性もかなり多い。
ただ、良識ある大人にとって、女性を男一人の家に招待するのもまた、危険を彷彿させる事だ。
正直、そんな考えを持つ時点でオーウェルさんは良い人だろう。
だが、その戸惑いや優しさが嘘だということもあり得る。
むしろ「人々」の間では嘘の方が多いかもしれない。
善意を餌にする。母からの忠告はこういう時には慎重になれという意味なはずだ。
もちろん、泊まっていくなんて事はできないし、泊まる勇気はない。私の感覚としてはオーウェルさんに悪い予感はしないけれど、母の言葉と、私の理性が冷静に判断した結果だ。
でも、それをどう伝えようかと思う。
私的には、泊まる事は避けたいものの、この縁まで手放すかと言われると、勿論、そうではない。
だが、泊まらないと言えば、優しさを無下にして、縁を遠ざけるように思われるかもしれない。
「その……何というか……ええと……」
そろそろ沈黙の限界だと、声を出したものの、やっぱりどうして良いか分からない。ただこのまま行くと、断りたいけど、断ると言えない感じに見えてしまう。
「もちろん、無理強いするつもりは無いんだ!ただ心配だったからで!!」
違います! と言いたい所だけど、泊まりたくは無いので、そうとも言えない。
お母さんには、人と関わらずとも、生き抜く術を中心に教わったし、関わるにしても、注意深く、疑い深くというのが主だった。
私はどうして良いか分からずに、オーウェルさんの目を無言でじっと見つめる事になった。
「えっと……いくつか質問していいかな?」
「!? ど、どうぞ!」
オーウェルさんは、私から何かを感じ取ったのか、的確な質問を投げかける。先の知的さもそうだが、彼はそういった心情を汲むという能力が明らかに長けていた。
「泊まるのは嫌だね? それは僕個人が嫌いというよりは、今はまだ、その危険性に踏み込みたくは無いという意味で」
「! はい!」
「そっか……ならこれは僕から言うべきだね」
「??」
「僕はこの縁を大事にしたいと思ってるんだけど、君はどう思う? 君がこの夜をどう越すかは別として、また君に会えたらと思うんだ!」
何とも的確な言葉だ。
まるで、私の心の内側が見透かされているように。
それと同時に感じるのは、この人が、その優しさのせいで、どれほど苦労したかと言う事だ。
もしくは、苦労した末に優しくなったのか。
この人は孤独を知っている、ならばその辛さも同様に。
人の感情をここまで読み取れてしまうというのは、きっと残酷な真実もすぐ感じ取れてきたのだろう。
孤独は辛いと分かっていてもなお、人には近寄りすぎないような雰囲気が、どことなくそう感じさせる。
「私も……私もまた会いたいと思います!」
これだけ真摯に語りかけてくれるのなら、私もまた素直にそれに応えるべきだ。
疑うのをやめるのではない、この人は疑ってくれて良いと間接的に伝えたのだ。
「そっか! なら次に来た時は明るいうちに僕の仕事場を案内するよ」
にかっと笑うと、彼は仕事場があるであろう家の部屋を指差した。
「ありがとうございます! 夜はどこかで野宿でもしようと思います、知っての通り、私の体質上そうすることが多かったので」
「……そっか、なら明日でも明後日でも、君の好きなタイミングで来ると良い!」
本当に大丈夫? と心配するような眼差しが、私の心を丁寧に撫で付ける。
それでも彼は、私の気持ちを優先してくれた。
最後に彼はまた、天使のような笑みを浮かべる。
「はい! 必ずまた会いに来ます!」
私はそう言うと、広場から木々達が身を寄せ合う場所へと入っていった。
心臓の鼓動がいつもより早い、出来るだけ早く、彼の目から離れて、落ち着きを取り戻したかった。
ここまで来れば、流石に見えないよね……
私は足に力を入れると、三メートル程、頭上にある枝に飛び乗る。
耳を澄まして、おおよそ川がある場所に目星をつけると、木々の枝から枝へと素早く移っていく。
あぁ、頭がのぼせそうだ、素敵な人だと思った、次はどんな事を話せるだろう、どんな事を聞こうか、喋るってこんなに楽しかったっけ?
おそらく、人々が難なくこなし、そこまで特別では無い会話も、私にとっては一大行事だった。何千年と続いた渇きも、無くなったわけではないだろうが、今は感じない。
人間では二時間程かかる距離を、アリスは約三十分で駆け抜けた。
目の前には開拓がまだまだ進んでいない、小さい滝が存在している。
彼女は駆けつけた勢いのまま、ぴょんと跳ね上がると、ローブだけを岩肌に投げ捨てる。
小さくはあるが、それなりに深さのある滝壺に身を投げると、彼女は目を閉じて今日あった幸福を噛み締めた。
寒い季節では無い、だが自然の水源はまだまだ冷たく感じるはずだ。そんな水温であっても今のアリスには丁度よかった。
ぶくぶくと気泡を生み出しながら、滝壺の底へと辿り着く。
大の字で寝そべるようにしながら、今日の事へと思いを馳せた。
明日会いにいっても良いのだろうか、それとも明後日か、時間の頃はどのくらいだろう、朝か、昼か、夕方か……
『日が照っていない時間』が良いけれど、『人』は日中に活動するし。
充分に頭が冷えると、水面へと浮上し、滝壺の淵にある岩肌に向かう。
ローブを脇に抱えるながら辺りを散策すると、適当な大木が横たわっていた。
大木の上には苔が天然のマットレスのような役割をしており、寝るには丁度良い。
アリスはその寝具に横たわると、すぐさま眠りにおちた。
彼女自身はもう少し、今日の思い出に浸かる予定だったが、思っている以上に脳は疲弊していたらしい。
その深い眠りから覚めたのは、翌々日の昼だった。
爆睡から目が覚めると、アリスは日課のように水場へと近づく。
辺りの気配を少しの間探ると、心配する必要は無かったのか衣服を脱ぎ、足先からゆっくり入っていく。
腰辺りの深さまで来ると足を止め、首筋や脇腹へと水をかける。
冷たくて気持ちがいい……
川のせせらぎや、鳥達の鳴き声、冷たい川がゆっくりと深い眠りから、アリスの脳を引き上げていく。
今日はどこに足を運ぼうか、そう考えている内に一昨日の事が脳裏によぎった。
「あっ!!」
バタバタと、近くの木々でうたた寝をする鳥達が、飛び去る程の大声を上げる。
アリスを含む『彼女彼等』の時間感覚は実に穏やかだ。その中でも彼女は、まだ人に近い感覚で生きていると言える。
彼女達の同族の中には、また会おうと言って百年後に再会する者もいれば、昼寝をしようと十年使う者もいる。
だがそんな理由を連ねた所で、アリスが関わろうとしているのは「人」である、『彼女彼等』の尺度では許されても、人にとってはどうなるか分からない。
人に関わる事がないアリスは、その時間感覚をすっぽりと失念していた。
大慌てで水浴びを終え、衣服を着直し、ローブを羽織ると全速力でオーウェルの元へと向かうのであった。




