序章二話『沈殿と撹拌』
「僕は家に帰るけど、君はどうする? 良ければだけど、山の中に住んでるし、そこまでなら人が少ない通りを案内できると思うよ」
首を傾げながらヘラっと口を開くと、地べたに置いてあった彼自身が買い物したであろう袋をとる。きっと片腕になってからそれなりに経つのか、もしくは生まれつきなのか、どちらかわからないけれど、非常に慣れた手つきで荷物を担いでみせた。
「ここが家では無いんですか?」
ふと感じた疑問を解消しようと彼女は問うた。彼女は『人』に比べてあまりにも長い時間を独りで過ごしてきた故に、人にはかなり懐疑的になっている。
だが、その懐疑的な内心でもこうして疑問を口にするという事は、彼女なりにこの一生にあるかないかであろう縁を大事にしたい、という気持ちの表れでもあった。
「あぁ、ここは前までお世話になったおじいさんが亡くなってね、奥さんが先立たれて独り身だった事もあって僕が遺品整理しによってるんだ」
なるほど、だからか。キャンバスのタックスの部分や絵の具が触れてない部分が黄ばんでいるし、絵の具も少しひび割れている。
現代の知識には乏しいものの、悠久の時を過ごす私と母は広大な自然が広がる土地を散策し、絵画に必要な原料を探し回った記憶がある。
その時、暇つぶしとして趣味のお絵描きに興じていると、母に絵の具が『人』にとって、それはそれは高価であることを学んだ。
だからといって、その価値を知る人々が見たら卒倒する絵の具の使い方をした落書きも、母は宝物のように抱きしめて頭を撫でてくれた。
このキャンバスに着手した主もきっと大層なお金持ちだったに違いない、羊皮紙からなるキャンバスは少ないものの、木の板に描かれた絵画の量を見るとその懐の深さがうかがえる。
(それでも青色を使えるほどじゃない感じか…)
青色の絵の具を何よりも高価であり、原材料の採取も労力がいったなどと趣味の存在を思い出しつつも、彼の言葉でハッと我に返る。
初めて自分に平然と対応してくれる彼への興味と恐怖心、警戒感を胸に耳を傾けた。
「紙も羊皮紙じゃなくなったし、活版印刷が普及してから、本は一般人にも流通しだしたけど、絵の具類はまだまだ高級品だからね」
「かっぱん…いんさつ?」
本に関しては母に見せてもらったことがある。確か羊皮紙を束ねて作られているもので特定の文字を使って様々な宗教や物語が紡がれているものだった筈だ。
だけど、それはとっても高価で聖職者や王様くらいしか見る事が出来ないと言っていた。今は懐かしい、大木の中に隠れるようにある家に何故、本があったのかはわからないけれど。
「特殊な機械で文字を一気に紙に写す事ができる技術の事さ、今までは一文字ずつ手書きで写していたから持てる人も限られていたけど、その技術のおかげで多くの大衆に行き渡るほど大量生産が可能になったんだよ」
「知らない間にそんなものが…」
つくづく『人』の技術力の進歩の早さには驚かされる。
今までは孤独を癒す存在や食事、モノを探す為に一定の間隔を置いて、小さめの集落に足を運んだけれど、そこから得る世界の情報は何よりも乏しかった。
私の体質もあって、真っ先に入る情報は人々の恐怖感や嫌悪感であり、それ以外の情報はといえば軒先にある何かもわからないお店の目印である看板くらいのものだった。
だけど今、その好奇心を満たす知識を持った存在であり、孤独を癒す可能性を大いに秘めた青年が目の前にいる。
もっともっと、聞きたい事があるけれど、屋内とはいえここは街のど真ん中、どれだけ貴重な時間でもここに長居するのは危険すぎる。
私の好奇心とこの場所に居続けることの恐怖心を感じ取ってか、彼は私が同意したとみなして、そろそろ行こうかと声を出し、出発!と片手で持つには重すぎるであろう荷物を運びながら、笑顔でぴょんぴょんと体を跳ねさせた。
街にいる人々も、私への特殊な意識から解放されれば、こんなにも癒したる存在になるのだろうかと考える。
荷物を持った片腕の彼の代わりに扉だけを開けると、待っててねと言い周囲の安全を確認してくれた。
もちろん、危険な事が頻繁に起こる場所だからという意味ではなく、私という存在そのものが人々の目に触れない方がいいということで。
サクラノトス王国の最東端に位置するドクホン都市のさらに最東端であるオビノスエをさらに東に行くと、その先を国境だけにする山々へと入って行った。
オビノスエを抜ける時も彼は何よりも辺りに警戒を向けてくれて、時間はかかるけどゆっくり行こうかと、人影を感じるとすぐさま物陰に隠れ、人影がさると彼が周囲を確認して再出発するを繰り返した。
安全を確認できた事を報告する彼の自慢げな笑顔を見ると、今までよりもはるかに緊張していた体と心が幾分か落ち着いてくれた。
途中までは人々の踏み跡で形成された国境付近の砦へと続く道が私たちを案内していたけれど、砦付近に近づくことなく、東北東へと足を進めていく過程で、その案内を受ける事は無くなった。
オビノスエを抜けて、山たちが生物を歓迎する森という入り口を通り、時間にして四時間ほどだろうか、ようやく目的地である彼の家へと辿り着いた。
ある程度走り回ったとしても余裕がある、森のひらけた場所に、落ち着いた雰囲気の平屋が一軒だけ建っていた。
外壁は主に木で出来ているけれど、足元や所々にレンガでの装飾が施されている。
直方体の最大面の中央下部には玄関が口の役割をしていて、私達の斜め右に建っているそれは、こちらに左顔を見せる形で顔の正面にある彼の生活の一部を眺めていた。
そこには物干し竿にかけられ揺れている洗濯物や、普段焚き火をする場所として使われているであろう場所があった。
石で城壁を作り、外側との繋がりを隔てた円の中央を見ると役割をまだ残している薪や、役割を終えた灰達が身を寄せている。
焚き火場所のすぐ近くには椅子として使っているのか、年季の入った切り株が寛いでいる。
「すごくいい場所ですね…」
「でしょ、でしょ!? 僕もこの家とこの場所をすっごく気に入ってるんだ!」
私のその発言に心を躍らせた彼は、持っていた荷物を切り株の上に置くと、えっへんと腰に手をやり、胸を張った。
彼の持つ柔らかな笑みと、フワフワな髪の毛を揺らしながら周囲へと感情を表現する様子を見て私は思わず表情を緩める。
まだ彼のことを信じているわけではないけれど、ここには彼以外の人はいないし、彼が善意を餌に何かをしようとしても、すぐに姿を隠せるだろうと、少しだけ緊張を解いた。
彼のことを信用しないのは、私の感情的には申し訳ないけれど、母の教えや、この特殊な状況にすぐさま心を許すというのは、さすがに愚かだという事くらい分かっている。
いざという時のために周囲を見渡していると家の背面の側から細い踏み跡が、尻尾のように伸びていた。どうやらその尻尾の先には少しの木々に隠れて岩肌から湧き水が出ているらしく、普段の生活用水はそこから工面しているだろう事が見てとれた。
母と住んでいた自然の中の家を思い出させる景色に見惚れながら、冷たく心地いい空気を肺に呑み込む。
そんな私を見て彼は微笑むと、そう言えばと上目遣いでこちらに近づく。
人が至近距離にいる状況に慣れず、まだまだドキドキしている私の正面でその続きを空気に投げた。
「自己紹介がまだだったね!」
確かにそうだと、気の遠くなる程、昔にきいた人々の習慣を思い出す。私にとって自己紹介なんて一生に一度あるかないかで、謂わゆる習慣になっているなんて事がない。
どれだけの罪悪感を抱くべきか、はたまたそんな感情は不要なのかすらわからない。
そんな私を助けるかのように彼は続けてくれた。
「僕の名前はオーウェル、本の中で架空の物語を紡ぐ『小説家』だよ」
「しょう…せつか…」
本という単語に好奇心が揺さぶられ、自己紹介が脱線しそうになるが、この一生に一度の一大行事を前に、私の理性は最大の攻勢をみせた。
ドキドキと脈打つ胸に手を当て、心地いい空気の力を借りて顔の火照りを冷ます。
「私はアりゅ…すっ! アリスといいます!」
もはや、自然の空気では対処できない程、顔を真っ赤にして熱を持つ顔を両の手のひらで覆うと、噛んだ事への恥ずかしさに鞭打つように、自分への罵倒を心の中で浴びせる。
「そっか、アリスって言うんだね! よろしく!」
名前を噛んだ事をそもそも何とも思ってない純粋な顔で、そう言って差し出されたのは彼の右手だった。
その右手に私は顔の火照りを一気に解消出来るほど、冷静になった。
なぜならその行為は、私にとって何よりも貴重であり、何よりも恐怖感が募る行為だからだ。
特殊な体質を持つ私は、先にも散々説明したように人と触れるどころか、同じ空間に存在するだけで嫌悪感を招くのだ。
そんな私が人に触れて良い訳がないと、心の卑屈な特性なのか、白い手袋を常にしているようになった。
自分で自分を卑下する事で、ある意味、心の正常を保っていたのだろうか。
彼が異性だとか、そんな事はどうでもいい、これは例え相手が女性であっても、もしくは猫や犬であっても躊躇い、ダメだと自身を叱責する行為だ。
それでも彼は私の躊躇い、不安げな空気で作られた檻をするりと抜けて、胸元で行き場をなくしたその右手に辿り着いた。
布越しにもわかる、母が亡くなって以来の温もり。
その時に初めて自覚した。私は幾千もの間、何よりも疲れていたのだと。
寝る時間は充分にあった、身体の休息にあてるその時間は考えて作らずとも、私には余るほどに存在した。
それでもその余る程の時間の中で、捨て方のわからない不要な物が、不要な感情が、いっけん綺麗に見える川の底の泥のように、沈殿していたらしい。
オーウェルと名乗る彼の手の、柔らかい感触が、私の心にあった全てを撹拌すると、今まで隠しいた感情が一気に溢れ出した。
「……ご飯にしようか?」
オーウェルさんは、今や自然に差し出された私の手を掴む。
私の頬をポロポロと伝うソレを、見ないふりをして。
私は少しの時間だけ、その優しさと温もりに甘えると、こくりと頷いた。
ヴァージン・エピローグ
序章二話 『沈殿と撹拌』




