観測
「なにかあったら、すぐに連絡をするんですよ」
そう不安そうに告げた姉がとんぼ返りして、家は、また二人きりになった。
その日から、ユゥはひどく献身的になった。そうしていなければ、不安なのではないかと思ってしまうほどに。
しきりになにかすることがありますかと聞いてくる姿は、なんだか小動物的で愛らしかったが、それも過ぎればうっとうしいだけだ。
とはいえ、何もないといい続けてしまえば、彼を帰さなかった意味がなくなる。
本当は一人でもできるが、手伝ってもらったほうが楽なことを、答え続けた。
誰かに頼ってもらえる、というのはそれだけで自信になる。だが、頼りすぎれば、危うい自信を与えることになる。
だから、答える内容は慎重に選んだし、のちに、今回は手伝わなくていいといった事もある。
「お前がいるおかげで、だいぶ楽だよ」
それでも、礼の言葉は惜しまなかった。そうすることで、ユゥの心を癒してやりたかった。
「当然のことを、してるだけです」
つん、と澄まして答えながらも、嬉しそうにしていたのを、私は覚えている。
ユゥも気を使われているのはわかっていたはずだ。それでも、嬉しいものは嬉しいのだろう。
さて、家の中のことは自分ひとりでもできることを、あえてユゥに頼んでいたのだが、本格的に頼むべきことが来た。
――買い物である。
***
「本当に、自分がやる、と言ういうんだな?」
「はい」
前日、居間の長机の上にチラシを広げながら、私たちは向き合っていた。
頷くユゥの顔は自信に満ちているが、まだ、早いような気もしている。
とはいえ、この怪我であの中に腕を突っ込みたくはない。包帯とガーゼでコーティングされているとはいえ、ご婦人方の爪がたたないとも限らない。
そもそもセールではないものを買えと言われそうだが、諦める気などない。
「つらい、戦いだぞ」
「構いません。そのために、僕はこの家に残ったんです」
しばらく、見詰め合う。まるで、動物が威嚇しあうかのように眼を逸らさない。
ユゥの瞳の中には、確かな情熱がある。手助けをする、というただそれだけではないのが見て取れた。
「……いいだろう。とはいえ私から言えるのは、良品の見分け方と、心構えくらいだ」
「はい!」
見分け方を紙に書いて説明し、こだわり過ぎない、という心構えを教えた。
それが上手くいくかどうかは、明日次第だった。
***
――翌朝。スーパー前。
照りつける太陽など知らぬ!と言うかのように、相変わらずの行列が出来上がっている。
その行列の中ほどで、私たちは開店を待っていた。
ユゥは戦場に来た自覚があるのだろう。いつものカジュアルな格好ではなかった。日傘も、長手袋もない。
ジーパンに、型崩れを起こしたシャツに、がっちりとした運動靴。
やる気に満ち満ちていた。
「暑いですね」
「スーパーに入れば、寒くなる。もう少しの我慢だ」
「わかってますよ。……なんか、間が持たなくて」
「今更怖気づいたか?」
「まぁ、ちょっとは」
苦笑を含んだ素直な言葉に、笑みを返しながら言う。
「そんなに身構えなくてもいい。良し悪しは、最悪気にしなくてもいいんだ」
「でも、買うなら良いのがいいじゃないですか」
「そうだな。だが、気にしすぎて買えなければ、それこそ本末転倒だ。こだわり過ぎないっていうのは、こういうことなんだよ」
「うぅむぅ」
あまり納得が出来ないようで、うなりこんでしまった。
「まあ、参加すれば嫌でもわかる」
「……が、がんばります」
ユゥが気合を入れなおしてから少しして、自動ドアが開いた。
「――始まるぞ」
セールの、始まりだ。
――といっても、私は今回主戦場にはいないので、あまり関係が無い。
入り口付近での騒ぎに、適当に耳を向けながら、他のコーナーを回る。
この店のいいところは頻繁にセールを、しかもかなり安い値段でやってくれるところだが、開店と同時に行くと商品が並びきっていないことが多々ある。
その辺りは色々な事情もあるのだろうが、なんともいえない微妙な気持ちになるので、改善してくれといつもお客様カードに書いているのだが、一向に変わる気配がない。
最近ではこれがこの店の味なのだと、思うことにしている。
並んでいないものは、言えば持ってきてくれるし、売り切れかどうかも確認ができる。
面倒と言えば面倒だが、この店を私は愛している。
***
合流地点に指定した清涼飲料コーナーで、久しぶりに酒でもどうかと誘惑と戦っていると、セール品コーナーの方からユゥが歩いてきた。
店のロゴが入った黄色いカゴの中には、頼んでおいたものがしっかりと並んでいる。
その顔に満足げなものだった。
「どうだった?」
「なん、とか……」
やり遂げた満足感はあるようだが、それでも疲労のほうが上のようで、少しふらふらとしている。
なんだか過去の自分を見ているようで、思わず笑ってしまう。
「な、なんで笑うんです?」
「いや、なんだか、懐かしいなと思ってな。初めてセール品を買ってこいと言われた時は、私もそうなった」
「そう、なんですか……ていうか、アレ、なんなんです?」
アレ、というのは、争奪相手たちのことだろう。
「アレが親だよ。私みたいに少しでも安いものを買うことが楽しい、という浅ましい輩もいるだろうが、大半は一円でも安く、美味しいものを家族に食べさせたいからだ。だからこそ、アレらは強い」
「すごい、ですよね」
「だろう? 私はああはなれん」
「母さんも、あんなふうに買い物するんでしょうか……」
「先頭で掻っ攫っていくタイプだろうな。アレは手が早い」
「あー……たしかに、そうかも」
ともあれ、目的は果たした。
「……よくやったよ。初めてなのに、お前の目利きは悪くない」
「そう、ですか……なら、よかった」
そう言って誇らしげに微笑むユゥの笑顔を、初めて可愛いではなく、格好いいと思った。
そのあと、かなり上手いことやり遂げた記念ということで、食事処にでも行こうかと提案したのだが、疲れを理由に固辞されてしまった。
まあ、受け入れられるとは思っていなかったので、別に構わないのだが。
けれど、ユゥが帰るまでの間に、どこかへ連れて行きたいと、思うようになっていた。
***
そんな風に、セールをユゥに任せたりしながら、どうにかこうにか毎日を過ごしていると、あっという間に抜糸の日になる。
これで面倒くさい消毒のためだけに病院に通うということがなくなって、気が楽になる。
糸が抜けた跡は、周りの皮膚とは違う色の線が浮かんでいるくらいで、醜い傷跡にはならなかった。他に悪いところもない。完全な治癒だった。
「待たせたか?」
「いいえ」
待合室に待たせていたユゥと合流すると、腕を見せてやる。
「綺麗に、治りましたね」
「ああ。他に異常もない、とのお墨付きだ」
「そう、ですか」
完全に治ったのに、ユゥのまとう雰囲気は少し陰鬱としていた。それは、これで自分が用済みだからだろう。
元の予定から言えばまだ居られるはずだったのだが、あの事件のせいで、これ以上長居することはできないのだ。
明日、私たちは別れることになる。
「今夜は快気祝いに、いいものを食べに行こう」
だから、今日、すべてを行おう。
まだ、彼の心はそれを受け入れられないかもしれない。けれど、もう、時間が無いのだ。
この機会を逃せば、私とユゥの関係は遠ざかる。電話一本で触れ合うことはできるけれど、どちらも積極的に繋ごうとはしないだろう。
――それに、ほんの少しの言葉で、人は致命的にすれ違えるのだから。
言葉だけではダメなのだ。声だけでもダメなのだ。声と言葉と動きと、すべてがそろっていなくては、伝わらない。
電話では、ダメなのだ。
「いい、んですか?」
「一人で食べる飯もうまいが、二人ならもっとうまいはずだよ」
「……でも」
拒否するだろうな、と思っていたから、用意しておいた言葉を続けた。
「お前と食べるから、うまいんだ、と踏み込んでおいたほうが、いいか?」
「そ、そういうのは女の人にいうべきです」
かぁと顔を赤くして、嬉しそうに口角を上げる姿はやはり女性的だが、以前ほど、その姿に姉は重ならなかった。
「それもそうだな」
改めて考えると、告白みたいだなと思う。
特にそういう意図はなかったが、なんだか恥ずかしくなってくる。
――近くを通り過ぎるおばさんたちが無遠慮に残していった、初々しいわねぇという言葉が、恥ずかしさを助長させた。
「か、帰りましょう」
「そうだな」
見た目の上では、そんな風に見えるのかと、漠然とそんなことを考えながら。
***
夜――家からは遠くにあるため、タクシーに乗って私たちはその店に向かった。
隣駅との途中にある山中に突然現れる、レンガ造りの洋風建築物。真四角の建屋は揺れる炎に彩られ、はめ込まれている窓は特徴的なステンドグラス。
――窯芳工房。完全日本名だが、イタリアンの店だ。
ドアを開ければ独特の芳ばしいにおいが全身を包み込み、唾液が溢れてくる。
「二名様ですか?」
「予約の春日井だ」
「春日井様ですね。ご案内させていただきます」
通路を通って、予約しておいた最奥の部屋に案内される。だが、道中見える部屋は、空室が目立った。
離席しているのではない、とわかるのは、この店は客が入ってから各部屋の照明をつけるからだ。
ランタン風のLED照明が、怪しげな光で各部屋を照らす。絶妙に調整された暗さは、外の篝火で透かされたステンドグラスを楽しむことも出来るようになっている。
今日はやけに空いているな、と思ったが、タイミングよく客足が途切れたときに来ただけのようで、私たちが席についてから、徐々に店が明るくなり始める。
「な、なんかすごそうな店なんですけど」
対面に座るユゥは動きがぎこちない。
いいものを食べに行く、と言ったからか、その格好は気合の入ったもので、ひどく女性的なものだった。
彼は今まで一度としてスカートを履いていなかったが、今日は何かを吹っ切ったかのようにワンピースを着ている。
美しい白のワンピースは、意匠そのものが愛らしく、ユゥの持つ少女然とした佇まいを煽るようなカタチをしていた。
しかし、その肩を包む柔らかな緑のボレロが、その少女臭さを、行き過ぎていない落ち着いたものにしている。
――男だというのに、恐ろしいくらいに似合っていた。
蠱惑的、と言ってよかったろう。
あの叫びを聞いた上でなお、カタチに惑わされそうになるくらいに、女としての色香が立ち上っていた。
「完全個室なくらいで、それほどの店というわけでもない。……ファミレス、とかのほうが気安かったか?」
「い、いや、大丈夫、です」
言葉とは裏腹に、ユゥは完全に緊張していた。しかし、この店の値段設定は、家族向けのリーズナブルなものだ。緊張しなくてはならないような、格式高い店ではない。
とはいえ、見た目の作りがかなりしっかりしているので、雰囲気に飲まれているのかもしれない。
大人びた雰囲気をまとってはいるが、ユゥはまだ高校生なのだ。
「まあ、味は保障するよ。演出だけの店じゃない」
でなければ、こんな辺鄙な場所にある店にわざわざくるものか。
「そ、そうですか……」
目をキョロキョロ動かしながら、しきりに水を飲む様は、やはり緊張の色が濃い。
(失敗したかもしれないな……)
言葉で緊張をほぐしてやりたいところだが、私はそれほど口がうまくないのだ。だから、行動で示す。
コップを持っていないほうの、所在無さげに小さく動いている手を握る。
緊張のあまりか、ひどく、冷たかった。
「安心しろ。マナーをどうこう言う輩は、ここにはいない。そのための、個室なんだ」
パスタをすすったところで、眉を顰める他人はいない。いるのは、お互いを知っている二人だけなのだ。
「む…………けど」
ボソボソとつぶやいて、ユゥはうつむいてしまった。暗さのせいで、表情は窺えない。
これでうまいこと緊張がほぐれるだろうと思ったのだが、握った手はむしろ硬くなる一方で、困ってしまう。
「とりあえず、なにか頼もう。なんでも頼むといい」
「そ、その前に、お手洗い……いい、ですか?」
おずおず、といった風に切り出してくる。ここまで緊張していたら、それもしかたないかなと思う。
「入口の近くにあるから、戻ってくるとき迷いそうなら店員を呼ぶといい」
「はい」
いそいそと、ユゥは個室を出ていった。
一人にされてしまうと、帰ってくるとわかっていても、寂しさがこみ上げてくる。周りから楽しそうな家族連れの声が、それを煽り立ててくる。
(失敗、したか)
息を吐きながら、ステンドグラスを見上げた。
神意を告げる天使を象ったそれは、今回の目的にあっていると思ったのだが、今は皮肉に微笑んでいるようにしか見えなかった。
「気取り過ぎた、か」
かといって、家で告げるというのも、逃げ場がないようで嫌だった。
告解というものは二人きりで行われるものだが、誰かの存在を感じていたかったのだ。
たとえそれが、見ず知らずの誰かでも。
そんな風に沈み込んでいると、すたすたとユゥが戻ってきた。
まるで別人のように、その所作からは緊張が抜けている。その華麗な切り替えを、見習いたい気分だった。
「お待たせしました。なにか、先に頼んでしまいました?」
「飲み物すら頼んでいないよ」
「そうですか。なら……」
続けようとした言葉を、遮る。
「話がある」
言葉に込められた意味を、ユゥは的確に読み取ってくれた。瞼を伏せ、かすかに吐息を零した彼は、微笑みを浮かべる。
「飲み物は、頼んでしまいましょう。たぶんきっと、そのほうが、お互いにいいと思います」
込められていた色は慈しみだった。まるで、これから話す全てを、すでに知っているかのように。
「……そうだな」
そして、私たちは飲み物を頼んだ。
――私は苦いコーヒーを、ユゥは甘いオレンジジュースを。
***
飲み物が運ばれてきて、また、個室に二人きりになる。頼まなければ、誰も私たちを遮ることはできない。
一口、二口、本当は苦手なブラックコーヒーを、私は罰のように飲み込んで。
オレンジジュースには手をつけず、ユゥは水を飲み込んだ。
沈黙の中、視線を絡ませあっていると、もうなにも言う必要はないのではないかという錯覚を起こす。
まだなにも、話していないというのに、理解されているような気になってしまう。
けれど、そうではないとわかっているから。
――私は、口を開く。
「謝ることがある」
「予想は、できてますよ。名前の、ことでしょう」
内容を先回りされた。飲んだばかりのコーヒーの苦味が蘇って、渋面になる。
「そうだ」
「気にしなくていいですよ。そもそも、この関係を持ち掛けたのは、僕です」
たしかに、私はそれに乗っただけだ。
だが、だからと言ってなにもかもを押しつけることなど、できるはずがない。
子供にすべてを押しつけるなど、大人のすることではない。
「いいや、これは私の罪だ」
「裁いて欲しいんですか?」
「いらんよ。告げることはただの自己満足でしかない」
「なら、やめてくださいよ」
ユゥの声が震えている。恐ろしいものを前にしたかのように。
できることなら告げないで済ませたかった。けれど、それではダメだと思ったから。
だから、私は――。
「すまないが、言う。ユゥという呼び方は、お前を呼んでいたわけじゃない」
真実を叩きつける。拒絶されるために、否定されるために。
そして、新たに作り上げるために。
「……」
「アレはな、姉を……優衣を、まだ結婚する前に呼んでいた呼び方だ。呼び方を似せたんじゃない。同じ呼び方を、したんだ」
ユゥ、ユゥ……呼びかける度に、私はその向こうにいる、もう手に入るはずのない過去の幻影に話しかけていたのだ。
人を舐めているにも、ほどがあった。
「……知ってましたよ。そんなの」
けれど、返ってきた反応は、予想とは違った。気持ち悪いと、やめてくれと、聞きたくなかったと、そう告げられると思っていた。
なのに、ユゥは……雄介は涙を流しながら微笑んでいた。
受け入れて、いた。
「覚えていますか? 昔、まだコータロが働いていた頃のことです。コータロが帰省してきたとき、つい母をそう呼んことがあったんですよ」
「そ、れは……」
それは雄介がまだ、小学校に入る前の話だ。しかもその時、彼は義兄と遊んでいて、こちらを気にしてなんていなかったはずなのに。
「だから、僕は、あなたが僕をユゥと呼んだ時、コータロと返したんですよ」
――ああ、そうだ。コータロと、最後を伸ばさない呼び方は、その時に姉が冗談めかして使った呼び方で。
――もっと昔、私がユゥと彼女を呼んでいた時に使われていたもの。
推測はしているだろう、とは思っていた。だが、ここまで克明に覚えているとは、少し恐ろしくなる。
大人が思っている以上に、子供はいろいろなことを考えている。
「気づかなかったんですか?」
「ああ……わからなかったよ」
「僕は、こんなにもあなたのことを知っていたのに、ね」
「ああ」
だからこそ、こんな話をしようとしたのだ。
「でも、それでいいんです。今、ここにいる僕は――」
「だが、これからは違う」
致命的な答えを告げようとしたのを、遮る。
「……え?」
「私は、これからお前を……君をなんと呼べばいい?」
話をもっとあとにしたかったのは、これが理由だった。
雄介のユウでは、今と変わらないのだ。その音を吐き出す度に、私は姉を想起する。
けれど、他の呼び方が思いつかない。ただ、名前で呼ぶだけでは、足りないような気がしていた。
「私は、これから君を見るよ。本当の君を、そのカタチに惑わされないで、君を見る。そう決めた。
だが、名前が、どう呼んでいいかだけが、わからなかった。
……情けなくて、しまらないだろう?」
自嘲するように言うと、ほんの少し間を置いて、雄介が笑い出した。
「っ、くく……ぷはは……なんですか、それ。ほんとに、格好悪い」
据えられている紙ナプキンで涙をぬぐいながら、雄介はおかしくてたまらないという顔をしていた。
「すまないな」
「そんなの、気にしなくていいんですよ」
「私が気にするんだ」
これは、私自身に課するルールのようなものだ。意識して名づければ、呼ぶ度にこの誓いが思い出されるはずだから。
「じゃあ、無難にくんづけとか?」
「君がいいなら、私はいいよ」
「……どう見てもプレイなので遠慮します」
「だろう? だから困っているんだ」
二人して深く溜息を吐いた。うーん、とひとしきり唸ったところで……。
「とりあえず、食べてからにしませんか?」
「そうだな。空腹では、思いつくものも思いつかないかもしれない」
それから、私たちは好きなものを頼み、食べ、楽しんだ。食事前の空気が嘘のように、楽しい食事だった。
***
食事前に長々と時間を使ったせいで、家に帰る頃には、十時過ぎになっていた。
雄介は一度泣いてしまったこともあってか、少しウトウトとしている。泣くということは、存外体力を使うのだ。
「ほら、寝る前にせめてシャワーを浴びろ」
「めんど、くさい……」
どうやら相当眠いらしい。まあ、このまま寝かせてしまってもいいのだが、なんとなく気が咎める。かといって、一人でやらせて、寝落ちされても困る。
「なんなら一緒に入るか?」
瞬間、雄介の体が跳ねた。顔を真っ赤にしてこちらを睨んでくる。
そんな反応をされるようなことを言ったつもりは、ないのだが。
「ひ、一人でできます!」
「途中で寝るなよ」
「寝ません!」
ぴしゃりと言って、洗面所へと消えていく。
はて、何が悪かったのか……。
雄介が出たあと、私もシャワーを浴びて、熱くなりすぎた体を冷ましながらレモン水を飲んでいると、おずおずとした様子で、先に寝てしまったはずの雄介がやってきた。
いつものホットパンツスタイルではなく、Yシャツタイプのパジャマだ。落ち着いた青色は、眼に優しいだけでなく、涼しさをも感じられる。
「どうした。眼が覚めてしまったか?」
「いや、その……」
問いかけに、なぜだかとても恥ずかしそうにしている。
そんなに恥ずかしがられると、こちらも妙な気分になってくるから、やめてほしい。
「明日、帰るわけじゃないですか」
「そう、だな」
「だから、ええっと……一緒に、寝て、くれませんか」
最後はギリギリ聞き取れるか、というくらいの声量だった。顔は完全に真っ赤になって、うつむいてしまっている。
下唇を噛んで羞恥に耐えているさまは、ひどく扇情的だった。
どうしてそこまで、とは思うが、この年にもなって寂しいから一緒に寝てほしいというのは、たしかに恥ずかしいかもしれない。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって!」
だから、努めて恥ずかしさを刺激しないような返答をしたつもりだったのだが、かえって激昂させてしまった。
本人にしてみればかなりの決心だったのだろうから、少し軽率だったかもしれない。
「最初の日に言ったろう。言えば、いい、と」
「じゃあ!」
「一緒に寝るか。まぁ、暑いが、エアコンを少し下げればいいだろう」
一人部屋でエアコンを使うのと、二人部屋でエアコンを使うのではききが違う。
とはいえ、くっついて寝るわけではないだろうから、そこまで変わりはしないかもしれない。
――と思っていたのだが。
「どうして同じ布団なんだ?」
「そのほうが、一緒に寝ている感があるじゃないですか」
「甘えん坊なんだな、君は」
「そりゃ、まだ学生ですし」
「そろそろ大学生だろうに」
果たして自分はどうだったかな、と思いだしてみると、あまり人のことを言えたものではなかった。
くっついて寝ていたわけではないが、大学生になって一人暮らしを始めるまで、家族一緒の部屋で寝ていたのだから。
環境的には、かなりハードな狭さだったが。
「まぁ、いいさ。寝るとしよう。小さいほうはつけておいたほうがいいか?」
「あ、真っ暗で大丈夫ですよ」
「わかったよ」
電気を消すと、濃密に雄介の気配を感じることができる。発されている熱が、彼の存在を伝えている。
けれど、不思議と、あのにおいはしなかった。
それは、慣れたのではなく――きっと。
(同一視をやめた、からだろうな)
違うものなのに、同じものとして見ようとしていたから、気持ちの悪いにおいがしたのだ。
今こうして、隣に感じる雄介からするのは、カラメルになりきる前の砂糖のような、芳しいにおいだった。
このにおいは嫌いじゃない……そんな風に思いながら、眠りに落ちていった。
***
翌朝、眼を覚ますと腕の中に雄介がいた。
私より身長の低い彼は、ちょうどいい具合に腕の中に納まっている。
起こしてしまわないように、ゆっくりと起き上がると、少し離れたところから眠る雄介を見守った。
初めの日のように朝食を作りにいかないのは、眼が覚めたとき、隣に誰もいなかったら、寂しい思いをするだろうと思ったからだ。
改めて観察していると、雄介と姉の差異が目に付いた。
眼元は義兄のほうが似ているし、眉も姉のものより細い。
ただそれ以外はほとんど姉のものだし、なによりパーツの配置が姉に似ている。
何も知らない状態で、二人の写真を見せられたら化粧を変えた同一人物にしか見えないだろう。
それぐらい、雄介の顔は女っぽいものだった。
(だが、男だ)
それを、誰もが忘れそうになる。
「これから、苦労しそうだな」
手を伸ばして、その頭を撫でる。
今でも、そして、これからも。彼を女性視するものは出てくるだろう。
そんな時、強く言い返せるような子に成長してほしいと、そう思った。
それから、少しして雄介は眼を覚ました。
寝顔を見られていたということを恥ずかしそうにしていたので、すまないとだけ謝っておいた。
そのあと、朝食を作る間、雄介はずっと私を見つめていた。
「見ていても何もでないぞ」
「見てるだけで楽しいんです」
なんだかクサい会話だな、とは思ったものの、邪魔されるというわけではないので、そのままにしておいた。
出来上がった朝食は、スープ付きという普段よりほんの少し豪華なものだったが、特別会話が弾んだということもなかった。
別れの日とは思えないくらい、普通の朝食だった。
――そして、最後の朝食が終わって。
パジャマから着替えた雄介がボストンバッグを持った。
その格好は奇しくもやってきた日と同じもので、まるで、仕切りなおしだとでも言うかのようだった。
駅まで送っていこうかと提案したものの、固辞されたので、妥協案としてバス停までの見送りになった。
相変わらずの寂れたバス停に、利用者の影はない。
バスがくるまでの、ほんの少しの間、私たちは最後の会話を楽しむことにした。
「なんだか、あっという間だったな」
「そうですね。でも、いい夏休みだったと思います」
「まだ夏休みは終わりじゃないぞ」
結局、一ヶ月にも満たなかった。夏休みの残りは、まだ半分近く残っている。
「まぁ、そうですけど。……帰ったら、いろんな人と仲直りしようと思ってます」
「ああ、姉も、そのために色々と準備をしているはずだ」
「……母さんには、むしろ怒られるかも」
「それは――」
問いかけようとした言葉は、雄介の予想外の行動で遮られてしまった。
その、男のものとは思えないやわらかな唇が、私の唇を奪っていた。
「なにをっ」
「好きです。ほんとの僕を見てくれる、あなたが」
艶やかな声音で告げて微笑む雄介の顔は、薄い桜色で、完全に恋をしたそれだった。
「それは、きっと勘違いだぞ」
「さあ、どうでしょう? でもほら、僕みたいな美人にキスされたんだから、いいじゃないですか」
「君は男だろう……」
「それに、愛した女の影を重ねていたのは誰でしたっけ?」
――どちらともなく、笑い出した。
「言いっこなし、というやつか」
「重ね続けてくれたほうが、僕にとってはいいですけど」
そこで、まるでタイミングを見計らっていたかのように、バスが来た。
「……それじゃあ」
音を立てて開いたドアに、雄介が乗り込んでいく。
その背に向けて、私は告げる。
「また、いつでもおいで。――雄介」
閉まるドア越しに、驚いた顔をした雄介が振り向いた。
けれど、その時にはもう、私たちは切り離されている。
つくづく、空気を読む運転手だった。
バスが動き出すまでの、ほんの少しの時間で、驚きから微笑みへと雄介の顔は変わって。
――はい、とその唇が動いていた。
排ガスを撒き散らしながらバスが去っていく。
映画やドラマでよく見る、最後尾に走ってくるなんてことはなくて。
私が最後に見た顔は、あの笑顔だった。
一人、残された私は、忌々しいくらいに晴れ渡っている青空を仰いでつぶやく。
まだ鼻先には、あの芳ばしいにおいが残っている。
「すまん、優衣。私は、君の息子を過たせたかもしれん」
そのつぶやきが真実となるかどうか、私にはまだわからない。
ならないでほしい、とは思う。
だが、なってしまったなら、その時は――。
<了>
ここまでお読みくださって、ありがとうございました
この物語を気に入っていただけたなら幸いです
もしよろしければ、下部の評価フォームからポイント評価や、感想フォームから感想などいただけるととても励みになります