聖女は闘う猟師様
見渡す限り真っ白な雪と針葉樹が続く森の中、シロンはナタを片手に一頭の獣と対峙していた。
相手はふわふわの毛皮と人の倍の背丈を持つホワイトベア。優雅な毛並みとは対照的に凶暴な顔と性格を持つこの獣は一級の狩人にしか仕留められないとされている。
そんな獣を前にしても、シロンは全く怯まなかった。
それもそのはず。彼女は森一番の猟師であるのだ。
油断をする訳ではない。しかし余計な不安を抱くわけでもない。
間合いを見極め、状況を判断する。そのためには不安も邪魔にしかならない。
シロンは静かに精霊が宿ると言われる瞳に力を注ぎ、正確に獣の動きを読み取った。
そして同時に動きを予測し相手から繰り出される攻撃を躱す。狙うのは急所への一撃だ。
ホワイトベアは巨体ゆえに少々リーチが長いものの、行うべき事は普段と大きく変わらない。ただ冷静に対処するのみだ。だからシロンはホワイトベアから振りおろされる爪をナタの背で流しつつもひらりと躱し、ベアの弱点である右肩に向けナタを振り上げようとした。だが違和感に気付き一旦後ろに飛び退いた。
距離を充分に取りつつ、ナタを見たシロンは舌打ちした。
(やっちゃったか)
シロンが現在使用しているナタは実は以前狩ったホワイトベアの後ろ足の爪を砥いで作ったものだ。切れ味抜群で軽くて使いやすいのだが、流石に本家本元のホワイトベアを倒すには硬度が足りなかったらしい。元々今日のシロンのお目当てはホワイトベアでは無くシルクラビットだったので一番得意な武器を持参していたのだが、これが仇となったようだった。
シロンはすぐに仕方が無いと頭を切り替え、ナタを捨てると同時に腰から一本の短刀を抜きだした。
少々値段が張ったこの短刀はまだ試しで持ったことしかない。しかし贔屓にしている武器職人曰く最高クラスの切れ味と耐久性を持つとのことだったので予備として携えていた。これなら何ら問題無くとどめまで持って行けるはずだ――そうシロンが確信して再びホワイトベアとの距離を詰めようとしたその時。
シロンとホワイトベアの間に一つのマントが、いや、一人のマントをはためかせた人間らしき壁が突如現れ立ちふさがった。
勢いを付け獣に突っ込もうとしていたシロンは無理やり雪面に足を引きずる形で加速を止めた。何事かと思いつつそのマントを見、これは男性らしいとシロンは判断した。まず肩幅が女性では無い。白いマントに入っている金の文様は教会のものに見える。つまり彼は教会の騎士といったところなのだろうか?彼が持つ武器は両手剣だ。神官が持つ武器ではない。
(だとすれば王都の騎士が何で?)
そう思ったが、それも一瞬。
次の瞬間騎士は何と大剣を振りかざしホワイトベアにとどめを刺そうとした――
「って、アホオオオオオオ!!」
シロンは叫ぶと同時に左足を軸に体勢を低くし身体を一回転させる。騎士はまさか背後から攻撃を受けるなんて思っていなかったのだろう。まるで芝居のように綺麗に体勢を崩した。だがシロンはこれっぽっちも悪いとは思わなかった。悪いのは勝手に出てきた騎士の方だ。素人にホワイトベアに勝手にとどめを刺されては困る。ホワイトベアは適当な倒し方をすると毛皮の売価も肉のうまみもその他もろもろ含め価値が下がってしまうのだ。そもそも獲物を横取りされたくない。
シロンは勢いをそのままにホワイトベアとの距離を一気に詰めた。
今度は振り下ろされたベアの腕を払いのけることなく勢いよく地を蹴り、その腕の上にふわりと着地する。そしてそのまま右肩へと刀を突き立てた。その刃はそこに存在していた透明の石を砕き、ホワイトベアの動きを止めた。シロンは次に首を一突きし、小さく呟いた。
「うっし、当分の収入ゲット」
そう言いながらくるりと一回転し、地に舞い降りた。同時にホワイトベアはドン……と倒れる。
これで一安心。そしてようやく静寂が訪れた所でシロンは先程倒した騎士を振り返った。
「で、貴方だぁれ?こんな山奥まで何しに来たの?」
一応シロンも相手が王都の騎士であり”お偉いさん”だということは理解している。
ただ山の中では『王都の偉い教会の騎士様』なんて身分は関係が無い。少なくともシロンは気にもかけない。
山奥過ぎて税の取り立ても有事の際の援助もないこの地では『王都の人が何威張ってんの?』という考えが主流である。そもそもこの地には教会すら建っておらず教会の人間は全く関係ない存在なのだ。
ただシロンとて彼の格好が身分の高さを示すという事は理解している。だから用もなくこんな山奥に自らやってくるわけもないだろうということもある程度想像できる。そしてそれがある程度重要だろうことであることも。仮に重要でないことならば下っ端に任せれば良いのだろうから。
しかしどんな理由であれ、彼を放っておいたらきっと山で遭難することは想像に難くなかった。彼がなぜ山に入ったかはわからないが、白の魔境と呼ばれるこの一帯はシロンのような山の民でなければ方向を掴むことができないのだ。見なかったことにしても後味が悪くなることが容易に想像出来た。
一応声をかけるだけかけ、迷い人というのなら麓の村まで送ってやろう。不要だというのなら放っておこう。そうシロンは決めた。しかし勝手にホワイトベアに向かって行くし余計な手間をかけさせるし、迷惑な騎士である――と、そう思ったシロンの思考は騎士の顔を見て一旦止まる。
騎士は見目麗しい顔立ちをした、少年と青年の間くらいの年の男だった。
(うっわ……すっごい美人。しかも金髪とか珍しい)
もっともシロンの水色交じりの銀髪もこの山の民族特有の色合いで他で見る事は殆ど出来ない。しかし主に山で生活するシロンにとっては金髪の方が余程珍しい色なのだ。また騎士の顔のつくりは山の民の顔立ちとは少し違っていた。
(やばいコレは目の毒!!)
山の民にも精悍な顔つきをした男は多い。しかしこの騎士のような中性的な顔立ちの少年はあまりいない。だから見慣れていないと言う事もあり、シロンは息を飲んだ。村の外――たとえば副王都でもここまで綺麗な顔を見たことが無い。
だが、息を飲んだのは騎士も同じだった。
「……あなたは、山の民ですか?」
「え?あ、うんそうだけど……っていうかこの山に居る人なら絶対山の民だと思うけど」
少し用心深げに尋ねてくる騎士の声にシロンは一瞬止まってしまっていた意識が動き出す。
その事に対しまさか気を取られるとはとシロンは少しかぶりを振った。だめだ、世の中顔では無い。何を見惚れそうになったんだと自らを叱責し、そして真っすぐ騎士に向き直った。
そう、何故この騎士の顔が良いのかという謎はどうでもいいのだ。
先程中断してしまった思考の通り、何故こんな所に騎士が居るのかというのが問題なのだ。
この場所は一般人が入り込むには奥すぎる地域である。山の民ならば山脈を越えた先と行き来する手段を持ち合わせているが、よそに住んでいる人間はその手段を知らない。だからまず村に、いや、それ以前に森に来ようとは思わない。ほぼ年中雪に覆われているこの地に何の利が有ると言うのだ。例えここでしか捕れないホワイトベアを手に入れたいと思ったとしても、わざわざ危険を犯して山中に遠征するよりも“何処からか”売りに来る狩人から買い取る方が余程楽だというのが外の世界の常識だ。
そこまで考えたシロンはやはりこの騎士は迷ったに違いないと判断した。そう、やはりお偉いさんが来る理由なんてあるはずが無い。きっとどこかで道を誤ったのだ。ならば仕方が無い、送ってやるとするか―――しかしそんな淡々とした事実の中でも騎士の顔つきはやや不安げな様子から酷く焦ったような、真面目なものに一変していた。
そして彼はシロンに駆け寄り、その両手を捕まえ真剣な瞳を彼女にぶつけた。
「お願いです、奇跡の聖女様に会わせて下さい……!!」
「……え?」
シロンは耳を疑った。そして自分はどうやらこの至近距離でも言葉を聞き違えたらしいと判断した。
今しがた聖女に会わせろと騎士は言った気がするのだが……はて、何と聞き間違えたのだろう。
きっとこの綺麗な顔に気を取られて聞き間違え――いや、流石にそれはないか。じゃあ何と聞き間違えたのだろう?
そう思っている間に騎士は再び言葉を続けた。
「聖女様に、世界を救っていただきたく私は王都からやって来たのです!!」
この言葉にシロンは先程の言葉が聞き間違いで無かったらしい事を確信し沈黙した。
聖女。聖女。聖女様。
「……ぐふっ」
頭の中でその言葉をリフレインさせると、堪え切れなかった笑い声が空気と共にシロンの口から洩れた。
「げほげほ、ごほっ、ちょ、ちょっと待って、聖女って!こんな森の中にそんな大したものいる訳ないじゃん!」
握られた手をぶんぶんと振り回し、その手が外れた拍子にシロンは口元を手で覆いながら笑い始めた。
しかしその様子にこそ騎士は呆気にとられたようで、彼はシロンを呆然と見ていた。だがそこからの復活に時間は要さなかった。彼は笑い続けるシロンに向かって眉間にしわを寄せ目を細めた。
「隠さないで下さい、この森には奇跡の聖女がいらっしゃるのです!!」
「いないいない、誓っていないよ!!こんな山に聖女なんているわけないって、ははっ、オナカイタイ」
何を真剣にふざけた事を言っているのだとシロンは肩を震わせる。
そんなシロンに騎士は更なる怒りを覚えたのだが、これでは埒が明かないとばかりに騎士が大人の対応を取った。
「……ならば、この村の、神や精霊に仕える巫女はいませんか」
「あぁ、それならいるけど……くくっ、」
「きっとその方が聖女です」
ぶはーっ
とうとう此処でシロンが耐えきれなくなり、騎士も声を荒げた。
「貴女はさっきから……!」
「ごめんごめん、ちょっとおかしすぎて笑いが止まらなくて。その巫女は確実に聖女じゃない。絶対ない」
「貴女に何が分かるのですか、私が会って確認します」
「いや私でも分かるし貴方も絶対違うって言うよ?――だって、その巫女って私だし」
私が聖女なんて無理があるでしょ、ついにお腹を抱えてうずくまり笑うシロンを騎士は表情を失いながら見下ろした。
「貴女が……聖女?」
「いや私は一般人だけど」
しかし騎士の言葉は決してシロンにかけたものではない。あまりに衝撃を受けたが故に出た言葉だったらしく、彼は焦点が会わない目のまま、そしてふらっと身体の軸から芯を失ったようにその場に崩れた。そして両手を地についてただただ項垂れた。
「……神は、無慈悲だ」
しかしその様子さえシロンの笑いに拍車をかけた。
「いないいない、そもそも神様なんてこの地にいないよ、いるのは精霊様だけ!なんせ村があることも知らない副王都の民からは『神様に見放された山の奥地』なんて呼ばれ方してるくらいだし。つか奇跡の聖女様……ぶふふ」
しかし王都の騎士は大変だなとシロンは思った。そんなわけのわからない相手を探しに辺境の地までやって来たのかと。
逆にシロンがもしも聖女を探しに王都まで行けと言われたら絶対に断る自信が有った。奇跡の聖女等という名称を恥ずかしげもなく背負える人物なんて簡単に見つかるとは思えないからだ。居たとすれば絶対に詐欺だと思う。
「しっかし笑いをありがとう。一カ月分は笑った。てことでここにはいないので聖女様探し頑張ってね?」
さてさて退散。迷い人でないのなら案内をする必要もないだろう。
もしも彼が聖女が何だとか言われなければシロンとて少し騎士と話してみたいと思わなかったわけでもない。
山の村で年齢の近い人間は少ないし、何より大分価値観が違いそうな人が何を考えているのかは興味がある。しかし彼も急ぐだろうし、自分も肉を運ばなければいけない。
あれだけ笑ったのだからきっと騎士も気を悪くしているだろうから此処で解散が良いだろう――そうシロンは思ったのだが、しかし騎士はそうは思わなかったらしい。
「待って下さい」
「はい?」
「貴女が聖女の自覚がなく随分雑な方であっても聖女である可能性は否定できないので話だけは聞いてください。お願いですから」
「話?……まぁ、聞いてあげてもいいけど此処じゃ休まらないしウチきなよ。――ってことで、君、ホワイトベア運んでね」
シロンはそう言いながら先程投げ捨てたナタを拾い上げた。
騎士は言葉が良く呑み込めなかったようで「はい?」とシロンに聞き返す。だがそんな事でシロンが要求を下げるわけもなかったが。
「簡易なソリ作って持って帰ろうっておもってたけど……騎士様ならコレくらい運べるよね?」
満面のシロンの笑みは、きっと騎士には悪女にしか見えなかっただろう。
+++
青い絶壁に囲まれた白銀の冬の村。
外の世界から閉ざされ、独自の文化を築き上げたその村には奇跡を起こす娘がいる。
彼女は神の御使いで世界の困難を祓う光を降らせる事が出来る。
村人はそんな彼女を聖女と呼ぶ――
「……それ何ていう演劇だっけ?」
「教会の教えです」
「すごい適当な事言ってお布施集めてんのねぇ」
シロンの自宅である、村でも大きい部類に入るログハウスにて騎士は一つの話を語りだした。
(ちなみにホワイトベアを騎士は無言で担いで運んでくれた。予想以上に体力があるらしいが、村に着いたころには息も絶え絶えという状態だった。話をするのでホワイトベアは隣の家の親父さんに腕肉1本と引き換えに捌いてもらうことにした。)
シロンもこの話自体は知らない訳ではないのだが、教会のないこの村で教会所属の人間から聞くのは初めてだった。シロンが以前に見たのは無料公演の市民演劇だ。観客の反応から劇団オリジナルストーリーではないと予想していたのだが、まさか教会のものだとも思っていなかったので少し驚き軽く肩をすくめた。
しかしそのシロンの様子に騎士も気付いた事が有るらしい。
「……貴女は案外街の様子についても詳しいようですね」
「どうして?」
「教会と言う施設がないこの村で“お布施”は使わない単語でしょう」
「ああ、それか。まぁ、王都はいかないけど副王都ならちょくちょく行くし」
そう言うと、
「この雪の中を?」
と非常に驚いた様子を見せた。シロンは『その雪の中を貴方は来ようとしていたんでしょう』と突っ込みたくなったのだが、面倒なのでしなかった。例えば『聖女のためなら』なんて言われたら今度こそ笑いを止められない自信が有る。だから尋ねるわけにはいかなかった。そんな事を考えながらもシロンは落ち着き払って答えた。
「外から来る分にはしんどいだろうけど、村の人間ならそんなに大したことないよ。村の人間で街に行った事無い人間の方が少ないから。だから外と隔絶されているって思っているのは外だけだね」
シロンが演劇を見たのも副王都の収穫祭だ。
それを聞いた騎士はがっくりと項垂れた。対照的にシロンはからかうように笑う。
「残念だねぇ、騎士様。『聖女』が居ない上に『外から隔絶された村』でもなかったんだから」
「……まだ決まった訳では有りません」
「この期に及んで貴方はまだ私を聖女だと思う訳?教会の騎士ってそんなに頑固なの?」
あきれ果てるシロンに騎士は答えず、しかし新たな問いをシロンに投げかけた。
「貴女は自分が巫女であると言いました。巫女というからには……例えば貴女の言う精霊に対し何らかの特別な事をしているはずです」
「何って……巫女っていうのはこの村の一番の猟師がなる役職で、朝に祭壇にお供え物おいて、つまみ食いしたりしなかったりしながら夕方に下げるだけの役だけど」
「……は?」
「当然今は私ってだけで男が巫をやってる時もある。だから女に限定している教会の教えはやっぱり当てはまらない」
ちなみに今貴方の前にあるお団子も今日のお供え物からとってきたよ。
そうシロンが付けくわえると、騎士は頭を抱えた。そしてここまで来るとだんだんシロンも騎士が不憫に思えてきた。きっと彼は愚直な人なのだろう、教会の教えを守ってひたすら騎士道を極めてきたのだろう、だからきっと現実を知り苦悩しているのだろう――そう思うと、少し励ましてやるかと言う気になった。
「まぁ騎士様、ここはホワイトベアのシチュー作ってあげるから気を確かにしなよ。美味しいよ」
「私にはそんな余裕はありません。――ここに聖女様がいらっしゃらないとすれば、私は次に何処に行けばよいのか……早くしないと王都が破壊されてしまいます」
「……王都が破壊?なんで?」
絶品のホワイトベアのシチューをそんなもの扱いされ一瞬ムッとなりかけたシロンだが、それ以上に深刻そうな騎士の話に耳を傾ける。王都が破壊?クーデターでも起きるのならば騎士はここに居てはならないだろう。そもそも教会の騎士では無く国軍所属の騎士だって事前情報が有れば黙ってはいないだろう。
怪訝な顔でシロンが騎士を見ていると、騎士は歯切れが悪いながらもぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「10日程前から朝と夕の鐘が鳴る時、黒い雪が毎日降るようになりました」
「黒い雪?毎日?」
「ええ」
この村は年中雪景色だが、山を下りれば世界は違う。今なら夏に近い春のはずだ。
それなのになぜ雪が、しかも黒いとくればシロンも首を傾ける。
「雪は王都全体に降りますが、積もりません。それどころか水滴の跡形すら残りません」
「……ん?」
「いかし降る雪の量は日に日に増してゆき、これは疫病の前触れではないかと多くの者が見ています。そして、王都は闇に飲まれ消えうせる、と」
騎士の話に、シロンは首を傾けた。水滴の跡方の無い、黒い雪……?
「私は雪が降り始めた5日目の夜に王都を出発しました。そして少し離れた村でも夕刻を告げる鐘と共に同じ雪が降っている事を耳にしました」
「……んん?」
「多くの村で、鐘と共に黒い雪が降ると恐怖の対象になっています。ですから、聖女の光で祓ってもらわなくてはと……単独で」
「ちょっとちょっと、ちょっと待って」
「何ですか」
「いや、それ疫病も何も……自然災害とか全然関係無くてワイバーンが非常に怒ってるってことじゃないの?なに、ワイバーンを怒らせるって、ワイバーンと戦争でもする気なの?」
二足の竜、ワイバーン。
気性は穏やかだが、ある一定の事をすれば怒りからその戦闘能力を最大限に発揮すると言う種族である。そしてその怒りは黒い気体となり空中に発散される。話を聞くに、シロンはそれが原因だとしか思えなかった。それ以外に黒い雪なんて想像が出来ない。
ただシロンとてワイバーンの怒りは殆ど見た経験が無い。
穏やかで大人しく、山の民に対してもワイバーンは友好的な種族である。だから山の民は普段ワイバーンに乗せて貰い山越えをするという事さえ当たり前のように行っている(ワイバーンはホワイトベアの燻製が好物なので駄賃はそれで支払っている)。これが『隔絶された世界』ではない理由であるのだが……そのワイバーンを怒らせるなんて本当に一体何をしたのだろうかとシロン思うが、騎士はそれ以前に「わいばーん……?」と、かなり棒読みで呟いた。
「どうしたのよ?」
「いえ……あの、貴女はワイバーンを信じるのですか?」
「信じるって言うか……え、あなたワイバーン見えないの?教会の人間なのに?」
ワイバーンが見えない人間がいる事はシロンでも知っている。しかしワイバーンが存在する種族である事も、共生する者として当たり前のことである。
ワイバーンはその存在を信じる者にしか目に見えない。だからワイバーンを目にする機会の無い多くの者がその存在を長い年月と共に忘れ去ったと言う事は仕方の無い事だと思う。だがそれが教会の人間となれば話は別だ。確か経典でワイバーンの存在を『賢き導き手』として説くはずだ。だから信心深いのであれば当然ワイバーンが見えるはず。それも聖女を信じる程に教会の教えを盲信している騎士ならば見えない筈が無いとシロンは思い、見えないと言う回答は想定していなかった。
だが、騎士は
「ワイバーンは既にいないとの見解が発表されていますが……」
と、言ってのけた。
「は?いつ?」
「昨年です。60年にわたる教会の研究結果だと、ワイバーンは過去の聖獣であると……」
「……ホント駄目なのかもしれないね教会の教え」
シロンは乾いた笑みを騎士に返した。いったい何の研究をしていたのだ、と。しかしシロンのそんな様子も今度は騎士も咎める様子を見せなかった。むしろ、不思議そうにシロンを見ていた。
「……本当に居ると仰るのですか?」
その言葉にシロンは少し目を細めた。
彼にはワイバーンは見えていない。そして彼は教会の騎士。それなのに教会をまるで信じてない私の言葉を信じようかとしているのか?
(……この人、王都に住んでいたらかなりカモられるんじゃないの?)
そう思いながらも、シロンは短く彼に言った。
「……見てみる?」
「え?」
「外にいったらいっぱいいるよ」
いっぱい――?その言葉に戸惑う騎士をそのままにシロンは立ち上がって扉に手をかけた。騎士もつられて立ち上がる。
少し重い扉を開け外を見渡すと、ちょうどシロンの前を子供が通り抜けようとしていた。
「あ、シロン。親父がさばけたって言ってたぞ」
「ありがとう、ユヴィ」
10歳ほどの快活そうな少年はまるで自分が大仕事を終えたかのように胸を張った。が、すぐにシロンの隣に立つ見慣れぬ人物に眉を寄せた。
「その男だれ?なんか弱そう」
「王都の騎士だって」
「ふーん。じゃあ俺副王都までお使い行ってくるから」
「気をつけてね」
「おう!」
遠慮のない物言いに騎士も面食らった様子だったが、既にユヴィの興味は騎士にはなかった。
シロンは走るユヴィの背中を見ながら小さく笑った。
「弱そうに見えるんだって、騎士様」
「私はひ弱では無いですよ」
「そう。じゃあ、とりあえずよくあの子をみていてね」
ユヴィは少し離れたところで立ち止まり、空を見上げ指笛を鳴らした。
「……そういえば、あの子供は副王都へ行くといいましたね」
「そうよ」
そうシロンと騎士がやり取りを交わしたとき、その場からユヴィの姿が消え去った。
「……消えた!?」
「いや、ちゃんとあそこに居るよ。ちょっと手を借りるね」
「はいっ!?」
「で、上見て見て」
突然消えた事と繋がれた手に驚く騎士にシロンは「何をしても驚く人ね」と苦笑した。ここまで来ると少し可愛らしくも思えてくる。しかしシロンのそんなほのぼのとした感想とは対照的に騎士はこれ以上ないほどに目を見開き空を凝視していた。
「何ですかこれは!?」
今、シロンの目と騎士の目には同じ空が映っている。
小さなワイバーンに乗って飛び、遊ぶ子供の姿。大きなワイバーン。そして視線を下げれば寛ぐワイバーンが存在している。騎士の耳には先ほどまで聞こえていなかったはずのワイバーンの声までが届いてきた。
「どう?存在は信じた?」
「どうして貴女の手で……?」
「私の知覚情報が貴方にも流れているのよ」
動揺する騎士をよそにシロンは指笛を鳴らした。
すると少しサイズの大きいワイバーンが一頭シロンの前に降りてきた。
「この子はイーシャ。私の友達よ。乗ってみて」
恐る恐る騎士はそのワイバーンに触れた。シロンはポケットに片手をやり、取り出したベア肉の燻製をイーシャに向かって投げた。イーシャはそれを丸呑みした。それとほぼ同時、シロンの言葉通りにイーシャに上ろうとしていた騎士が、どうやら手をつないでいることで上りにくそうにしていることにシロンは気が付いた。
「……ね、ワイバーンの存在信じれた?」
「それは……一応」
「いや、じゃあいいや」
確認を終えたシロンはぱっと騎士から手を離した。すると騎士の体は急に宙に放り投げだされたように浮かび、そして落下した。見事に尻餅をつく形になる。
「っ!?」
「半分信じるじゃなくて、ちゃんと信じないと落ちるからね。……まぁ、痛みを覚えればもう信じなくはならないだろうけど」
やっぱり信じ切ってはいなかったか。痛そうだなと思いつつシロンは騎士に手を差し伸べた。しかし騎士はその手を取ることなく立ち上がると衣服に付いた雪を払い、イーシャの背に手を置いた。そして再び乗りあがる。
「もう一人でも見えるみたいね」
「ええ、しっかりと見えるようになりました……」
「それは良かった」
騎士がその背に乗ったことを確認できたシロンは自らもイーシャの背に乗った。そして「後払いでちょっと王都まで飛んでくれない?」とイーシャに言った。イーシャは「クァアア」と欠伸のような返事をすると、翼を勢いよく広げ飛び上がった。騎士は息を詰まらさせた。
「……来てくれるのですか?」
「本当に何も知らないみたいだし、まぁ行くだけならね。滞在費と報酬とは空の上で交渉としましょうか」
「はい?」
「猟師をレンタルするならお金かかるよ。わかるよね?そうだねぇ、オプションに王都案内してもらおうかな」
少々ふざけ気味にシロンは語りかけた。すると騎士はまじめに悩んだ様子で「これでどうでしょう?」とシロンに金額を提示した。
「“聖女様”相手にするには少なくない?聖女って国賓じゃないの?」
決して低い金額ではないし、じゅぶんな額である。だが聖女の相場というものは一体どのようなものなのか興味があるシロンはふっかけるように少し意地の悪い尋ね方をしてみた。しかしその問いにも騎士はまじめに答えた。
「経費では落ちませんので私の半年分の給料です。これ以上は分割でお願いします」
「え、経費おちないの?」
「聖女様は聖なるお方故に対価を求めないというのが教会の考えです」
「あはは、そりゃ猟師様相手には無理ってことねぇ」
どこまでも都合の良い組織がこの世には存在しているらしい。森で生まれてよかったとシロンは自らの身らに感謝した。
お人よしの騎士のように自ら不利益を被るなどシロンには考えられない。だから王都に生まれれば随分生きにくかったかもしれない。
(まぁ、そもそもこの騎士様には自己犠牲の認識なんてなさそうだけど)
愚直すぎるのではないかと思うが、同時にシロンは彼のことを村の人と同じように、いや、それ以上に素直なだけなんだろうなと感じていた。ただ知っている世界がシロンより少し狭いのだろうと思いながら。
「そういえばさっき聞きそびれたけどワイバーンを怒らせるような覚えは?」
「ワイバーンと言う存在自体を認識している者が居ないのだから、覚えも当然無いですね」
「だよねぇ。でもワイバーンって滅多なことじゃ怒んないんだよ」
シロンが思いつく範囲でもワイバーンの黒い雪の例は同族殺しや魔物との対峙など、基本的に人と関わらない分野以外での出来事だ。イーシャにも尋ねるが、イーシャも『知らないわぁ』と間延びした声で返事するだけだった。そのイーシャの声に騎士は驚いていたようだがシロンもそこは何もコメントしなかった。ワイバーンはしゃべるというより直接脳に言葉を送り込むことも出来る……それは説明しなくても、すでに体験した彼なら理解しただろうと思ったので割愛したのだ。
「雪が降るのは鐘時なのよね」
「ええ。大聖堂の鐘が鳴る時です」
「副王都のものとは音が違うのよね?王都のは建国時のものって聞くし……王都に着いたらちょっと予行演習って事で聞けない?」
「無理ですよ」
「けち」
「私にそんな権限ありません」
唯一の手掛かりになりそうなのに。そうシロンが言っても騎士は「無理です」としか返さない。
これが階級社会かぁ。王都崩壊と言う割にヒントを目の前にして知ることができないとは何とも不便なものだなとシロンはため息をついた。ならば早く帰ろうと思えば最低でも今日の鐘時までには王都に行かねばならないということだ。
「まぁ、こんなペースで飛んでたら鐘どころか今日中に着かないね。ペース上げるよ」
「え」
「しっかりつかまって奥歯かみしめてお腹に力入れて。息は短くね」
そうシロンが言うや否やイーシャの速度は急激に上がった。重力かかるよ、そのシロンの言葉は騎士の耳に届く前に耳をつく風の音に浚われてしまった。
++++
「……乗馬で鍛えてるだろうに、コレくらいで情けない」
「………」
どうやら騎士様は言い返す余裕もどうやらないらしいとシロンが悟ったのは騎士が王都に着いた途端しゃがみ込んでしまったからだ。動かない。銅像のように動かない。
正直に言えばあの速度でワイバーンから落ちずに耐えただけでも凄いのだが(シロンは言わなかったが、万が一落ちたらイーシャが旋回して回収してくれる。ただ乗ってるシロンが酷い負荷に耐えなければならなくなるだけだ)、流石は騎士というのだろうか。
本来王都に入るためには手続き審査があるのだが、ワイバーンによって人から見えない状況にあったシロンは面倒くさがってそのまま王都内に侵入し、人気のないところでイーシャから降りることにした。幸か不幸か騎士はすでにひどい酔いを味わっているためシロンを咎めはしなかった。
しばらく騎士が回復するまでは待つとするか。そう思いながらシロンは騎士の隣に座った。しかし本当に具合が悪そうである。
「ねぇ、膝枕してあげようか?」
「はぁ?!」
「いや、ましになると思うよ。寝ころんだ方が」
「……あなたという人は……」
項垂れるように騎士はシロンに恨み言を言ったかと思うと、少しよろめきながらも立ち上がった。
「え?もう歩けるのね」
「……少し眩暈がしただけです」
「そう。冷たいものが良いかもよ。買ってこようか?」
「結構です」
そう言いながら騎士は「ひとまず鐘の方へ向かいます」と言った。
騎士曰く現在の位置からだとバザーを通り抜けるのが近道になるらしい。バザーには色とりどりの果実や肉の加工品、魚の干物、野菜などたくさんのものが並んでいた。副王都より数も種類も多い。そう素直にシロンは騎士に告げたが、騎士は「雪が降る前なら店は倍ほどありました」というだけだった。商人の足も日に日に減っているようだとも。
「そうなんだ。あ、ちょっと待って、アレ買う」
「食べ歩きは感心しません」
「良いじゃない。私はおのぼりさんなんだから」
「自覚あるなら目立たないようにしてください」
ただでさえ不法侵入の真っただ中なのですから。
そう耳元で告げられ、思わずシロンは飛び跳ねそうになった。息!息が耳にかかった!!
何をするんだこの人はと顔が赤くなるのを隠しながらシロンは目にも鮮やかな赤い果実を5つほど店主に頼んだ。店主は紙袋にそれを入れ始めた。果実の値段も副王都のものより張ったが、めったに来ないところだと思いシロンは小銭を取り出した――が。
「え?なんで貴方が払ってるの?」
「オプションで案内が必要といっていたでしょう」
「や、言ってたけど……」
払ってもらうつもりまではなかった。そう思ったが、会計を済ませた騎士が袋に入った果実をシロンに押し付けてきたのでシロンは「あ、ありがとう」としか言うことができなかった。
別に奢って貰いたかった訳ではない。シロンとて多少値段が張っても果実くらい買う金は持っている。
そもそも買い食いを見咎める騎士に買ってもらえるなんて想像の中になかった。しかし買ってもらってしまうと気恥ずかしいような嬉しいような、それから不思議と小さい頃に親からプレゼントをもらった時のような……そんな感情が入り混じり上手く言葉に表すことはできなかった。だからその感情をぶつけるかの如くシロンは袋から果実を一つ取り出し、遠慮なくかぶりついた。果実は非常に甘く、みずみずしく、食べたことのない味だった。
「おいし」
そう素直に声がこぼれてしまうくらい。
後で村の皆にもお土産で買って帰ろうかな。シロンはそう思いながら「はしたないですよ」と言う騎士の小言を聞き流し、まっすぐ歩いていると不意に足元に衝撃が走った。その感覚で子供がぶつかってきたとシロンは気づいた。シロンは急ぎしゃがみこんだ。
「ごめんね、大丈夫?」
「うう……」
「どこかぶつけた?」
衝撃はそれほど大きいものではなかった。しかし男児の目からは涙が零れ落ちそうで。
「大丈夫?」とシロンが重ねて問うと、男児はぽつりとつぶやいた。
「まま……」
「まま?……迷子?」
シロンが尋ねると男児はこくりと頷いた。そしていまにも泣き叫びそうだと感じた。だからシロンは慌てて紙袋の中に手を突っ込んだ。そしてまだ齧っていない新しい果実を取り出し男児に差し出した。
「よーし、じゃあまずコレ食べよう」
「う?」
「ほら、おいしいよ!」
戸惑う男児に向かいシロンはやや強引に果実を押し付け、自分は食べかけのものにかぶりついて見せた。男児は目を丸くしていたが、つられるように同じ動作をとった。
「よしよし、食べる元気があるなら上等よ。騎士様、とりあえず背中にこの子をどうぞ」
そう言いながらシロンは食べかけの果実を袋に入れて地面に置き、男児の脇に手を差し入れた。そしてそのまま男児を抱き上げ、騎士の肩に乗り上げさせた。
「……そこは背中じゃないですよ」
「迷子の時はおんぶより高い高いでしょう。坊やはそれ食べながらママいないか探してね」
「頭上で食べられるとよだれが落ちて来そうなんですが」
「我慢して下さい」
例えばシロンがそう言ったとしても騎士が嫌だと思えば男児を降ろすことはできたはずだ。だが少々不服な様子ながらも騎士は男児を降ろそうとはしなかった。男児は状況についていけなかったのか、くるくると騎士の頭頂部を見たり前を見たりと忙しかったが、金色の髪をつかんで少し興奮気味に「騎士様に肩車してもらってる!」と叫んだ。同時に少し足がばたつき、無意識とはいえ騎士の頬を殴っていた。肩車というより頭に抱き着いた子供というのが正解のような体制だった。
「……とりあえず詰所へ行き、この子の母親を探してもらいましょう。逆に迎えも来ているかもしれません」
「そ、そうね」
地味に痛そうな攻撃を受ける騎士はほぼ感情がこもっているような……というよりは無理に感情を殺しているようにも見えなくない。まず確かに怒れないだろう。相手は子供だ。しかし髪を握られ頭に赤い果実を置かれ子供を肩車する教会の騎士というのは斬新な構図である気はする。ただその殺した感情というのは怒気というよりは痛みであるように見える。
どちらにしろ男児を預けるのはシロンも賛成だ。詰所の場所を知る騎士にシロンは続いた。
「ねぇねぇ、騎士様、僕重くない?」
「軽くはありません。が、重い訳でもありません」
「騎士様って背、高いね。僕も背が伸びたら騎士になれる?」
「騎士に背は関係ない……とまではいきませんが、武芸を磨けば背丈など補うことはできますよ」
テンションが上がった男児に騎士は律儀に答えていた。
ただはしゃぐ男児の攻撃を受けることのないよう、騎士の両手は男児の足を抑えていたが。
「……やっぱり騎士って人気職なのね」
ぽつりとシロンが感想を述べると騎士は「そうでもありませんよ」とそっけなく答えた。
しかし彼の上にいる男児は違った。「そうだよ!だってかっこいいもん!騎士ごっこで僕いつも隊長やるよ!」と熱弁をふるった。同時に無表情を貫いていた騎士の顔に少し朱が差した。どうやら照れているようだった。
「ねぇ、お姉さんは騎士様凄いって思わないの?王都の人じゃないの?」
「お姉さんは雪の街からきたんだよー」
「雪の街?北のほう?青い氷のお山もあるんだよね?」
「凄いね、知ってるの?」
「うん。北から来た商人さんから聞いたの。市場にいたよ。商人さん、すっごく大きい宝石みたいな卵、もってた!」
「……大きな卵?宝石みたいだったの?」
「うん。すっごい高いって。綺麗な黒で、時々ぴかって光るの」
無邪気に笑う子供とは対照的に、シロンには嫌な予感が駆け巡る。顔は自然と強張った。
「……どうかしましたか?」
シロンの様子に騎士も気づいたらしい。彼は声を落としながらシロンに尋ねる。
シロンとて確信があるわけではない。だが……これは言わずにすます訳にはいかなかった。
「どうしよう騎士様、これ、私の予想が当たっていたら本格的にやばいかもしれない」
「どういうことです?」
「黒くてきれいでぴかっと光る……それ、ワイバーンの卵かも」
「ワイバーンの、たまご……?それは人に見えるものなのですか?」
ワイバーンを信じていなくとも、と言外に含ませた騎士の言葉にシロンは頷いた。
「残念ながら見えるわ。――例えワイバーンが存在するかどうか理解せずとも、人は卵という概念を知っている。その上で綺麗なものを好むからどうやったって見えてしまうわ。だから普通はワイバーンは自らが卵と接触することにより人の目にが映らないようにするはずなんだけど――何らかの原因で人の手に渡ったようね」
「ゆえにワイバーンの親が怒った、と?」
「残念なことにその可能性が非常に高いわ。……言って無かったかもだけど、ワイバーンが見えない人間にも見える怒気が降り注ぐってどういうことだと思う?」
「………相当お怒り、ですね」
シロンも「まさかね」と思わなくはない。むしろ思いたい。
けれど可能性に気づいた以上は無視できない。もう少し楽な話だと思って王都に来ているというのに、だいぶ面倒なことに首を突っ込んでしまったとシロンは内心穏やかではない。だが放っておく訳にもいかない。こうなればこの混乱を収め、なおかつ自らが無傷で帰郷する方向を探さざるを得ない。
「ただワイバーンが巡回のように行ったり来たりしているということは多分まだ卵が何処にあるか特定できてないのよ。でもこんな状況下でもし人間が持ってるのとか見たら無差別に暴れ出しかねないわ。早く見つけて……なんとかしてこっそり返すわよ」
「ああ」
とはいえ卵を発見できたところで”こっそり”返すのは至難の業だとシロンも考える。嘘くさかろうが何だろうが多少演技は必要になるだろう。嘘は気が進まないのだが……と、そう思いながらも先ずは卵を発見する事を優先させなければならないと考えた。卵がなければ何もはじまらないのだから。
けれど少し小声の打ち合わせを終えたシロンは心配がないかのようににこりと男児に微笑んだ。
「ねぇボク、お姉ちゃん君が見たっていうその宝石見たいんだけど……どこにあったか教えてくれる?」
「いいよ!」
元気いっぱいに返事をした男児に「ありがと」と言ったシロンはすぐに騎士に視線を動かした。二人は同時に頷くと男児のナビゲーションを頼りに急ぎ装飾品点へと駆けだした。
が、その店に男児が見たという卵はすでに存在していなかった。
それは決して男児が間違えたからではなかった。
「は?献上した?」
「いやぁ、献上っていってもお代は払って貰ったので売ったってのも正しいんですが」
恰幅の良い商人はニコニコと揉み手をしながら言葉をつづける。
二人の形相など目に入っていないだろう商人は「あの卵はすでにありませんが、この品も良いですよ」などと言っているがシロンにも騎士にももはや言葉は入ってこない。尚も商売を優先させたがる商人にシロンと騎士は同時に鋭い言葉を投げつけた。
「「それはどこに!」」
「い……イルモント様ですよ。ほら、あの金ぴか光る銅像の有るお屋敷の」
流石に気圧されたらしい商人はあっさり卵のありかを吐いた。
金ぴかの像とは――それはえらく悪趣味な人間の所に卵は渡ってしまったらしい。そう思った瞬間シロンは地を這うような低い声を出してしまった。
「商人」
「はい?」
「黒の霧で王都が滅びたら貴方のせいよ」
「はい?!」
突然の言葉に商人は悲鳴のような声を上げたが、シロンの迫力は十分に嘘ではないと言っているようだった。
王都の女性では決して出せないその迫力に商人は今にも白目を剥かん勢いであったが、シロンとしてもこれ以上かまっている暇はない。すぐにそちらに向かわなければいけない。
王都の騎士なら金ぴか像の屋敷の場所が分かるだろうとシロンは彼を見た。そして――騎士の頭上の男児と目があった。
勢いで男児にここまで案内してもらったが、万が一ワイバーンが暴れる現場に連れていくことになってしまうと非常にまずい。危ない。たとえばワイバーンが暴れて建物が倒壊してその巻き添えに……なんて考えると連れていくのは得策ではない。
やっぱり先に詰所に行って男児を預けるべきか、そうシロンが一瞬迷ったとき「ママ!!!」大きく男児が叫んだ。
シロンは男児の視線の先を素早く追った。すると前方に栗毛の女性が目に入る。彼女は「ロビン!!」と叫ぶと騎士に駆け寄った。騎士もそれに気づいて男児を肩からおろした。
「ありがとうございます、騎士様……!なんとお礼を申し上げたらよいか……」
「いえ、良かったです」
確かにこのタイミングでの登場は良い……とシロンは思った。もちろん騎士の言った「見つかってよかった」という意味でも良いとは思うが、助かったとも正直思った。男児も満面の笑みで懸念も一つ減り、すべては順調。
そう思うのだが「宜しければ是非御礼をさせてください」と騎士に言っている男児の母を見ると少し面白くなかった。だから「けっこうですから」と困った様子ながらも丁寧に対応している騎士にしびれを切らしてひざ裏を思い切り蹴とばした。一瞬騎士の背が硬直したのがはっきり見えた。
「ロビンくんのお母様、迷子の保護も騎士の勤めですから不要です、お気になさらず」
痛みをこらえる騎士をよそにニコニコとシロンが言うと、母親は非常に目を丸くしていた。
シロンの存在が今まで目に入っていなかった、更に騎士に蹴りを入れる存在に驚いた……その両方にだろう。だが既にシロンは怒りが収まったので純粋な満面の笑みで母親に告げた。
「本当に結構です。それに、もし王都が滅びなかったらこの子のお陰ですよ」
「え?」
「ぼく、またね?」
戸惑う母親、そして「ばいばーい」と元気よく手を振るロビン。
その二人を見ながらもシロンは騎士の腕を引っ張った。そして駆けだす。屋敷の場所はわからないが、少なくともバザーに屋敷はないだろう。王都上空から見た貴族の邸宅街の方へシロンは走り出す。
そして走りながら少し毒づいた。
「美人なお母さんだったけど鼻の下伸ばしてる暇なんてないんですよ、騎士様っと」
「別に伸ばしてませんよ」
「そう?そうは見えなかったけど……早く行こ。でも貴族の屋敷か。強行突破できるかな」
「しなくていいです。私ならば入れます」
「え?」
少しむすっとした様子の騎士は「あまり乱暴なことは大胆とは別ですよ」と少々口酸っぱくシロンに言った。
シロンが騎士に言ったことに対しての反論もあるのだろう。だがシロンにはその小言は右から左へと流れていった。
入れる?……騎士だから?でもアポなしで、それなりに成金だろう金ぴかの屋敷にあっさりと?
そんなことを思っている間に騎士は「こっちです」とシロンを誘導し、あっという間に二人はイルモント邸へと到着した。
あっという間というのは別に近かったという訳ではない。騎士の走りが遠慮のない速いものだったのだ。普通の人間だと置いてけぼりになるだろう速度であった。
騎士とともに到着したイルモント邸は聞いていた通り金ぴかの像がある家で、ゴテゴテと過重な装飾がいたるところに見えるセンスのない屋敷だった。うわ……と思わずシロンがひきつっているのをしり目に騎士はずいずいと門をくぐり進んでいく。門番は居たが、騎士の姿を見るなり走って裏口があるらしき方へ駆けてゆくばかりで騎士を止める世数はなかった。だからシロンも騎士に続いた。
屋敷の入り口に着いたとき、中から一人の使用人の男が姿を現した。
身なりから上級使用人であることは間違いがない。彼はこの屋敷には似合わぬ洗礼された動作で「ようこそおいでくださいました」と騎士に敬意を払う。しかし騎士は挨拶もそこそこに手短に要件を切り出した。
「イルモンド殿にお会いしたい」
「かしこまりました。では応接室へお越しくださいませ」
「ここでいい。すぐに会いたい」
使用人の申し出を軽くあしらう騎士は丁寧さのかけらもない。
かしこまりました、すぐに。そう言い使用人が一旦姿を消したところでシロンは騎士に尋ねた。
「……ねえ、騎士様」
「どうかしましたか」
「あなた私が思ってるより偉い人なの?」
王都の騎士様は偉い人だが、この騎士は少なくともこの屋敷の主をエントランスまで呼び出せるほどには身分が高いらしい。無許可乱入も視野に入れたシロンが言うのは変な話であるが、あまりに遠慮がないのではないか?遠慮をしなくていい関係なのか?そう考えてしまうのだ。
シロンの問いに騎士は「……それなりに」と答えるのみではっきりとは言わない。もう少し何か言えないのか、そうシロンが抗議しようとしたとき中からドタドタと厚かましい音が響いてきた。音の原因は先ほどであった商人よりさらに恰幅の良い脂ののった男性だった。
「アベル様!!突然ですな、どうぞどうぞ、こちらへ」
「いや、ここでいい」
先ほど騎士が使用人に断った事と同じことを言うイルモントを前でも騎士の態度は先ほどと同じだった。
そして彼は挨拶もせずに本題を切り出した。
「珍しい卵を買ったと聞いた。それを見たいのだが」
正確に言うと寄越してほしいのだが――そうシロンは思ったが、次の瞬間にはとんでもないことが発覚した。
「ああ、あれですか。おしいですな、もう神殿にお持ちしました」
「は?」
「いやあ先ほど法王様の所へ参ったのですが、その際にお見せさせていただいた所いたく気に入られましてなぁ。どうしても手元に置きたいとのことでしたから献上致しましたよ。代わりに、この指輪を頂きましてなぁ」
美しいでしょう、そううっとりとしているイルモントを見、シロンは今度は怒るどころか脱力しそうになった。
法王のもとにある?ワイバーンの卵が?ワイバーンがいないといった本人のところにあるの?
そう思えばもう乾いた笑みしか出てこない。騎士の顔からも表情はなくなっていた。
「失礼する」
「アベル様!?」
話しの際中にも関わらず背を向け歩き出した騎士にイルモントは叫び声をあげた。
もちろん騎士は叫び声にも止まらなかった。むしろシロンの手を引き、先ほどと同じように遠慮のない速度で走り出した。
「神殿はこっちだ」
「ねぇ、騎士様。念のために確認するけど……法王様ってワイバーン見えないのよね?」
「今まで一度も見えたなんて話は聞いたことがない」
苦々しい表情で言う騎士に、シロンはぽつりと「貴方ってホントに偉い人なんだ」とこぼした。別に態度を変えるつもりはないが、先ほどの騎士の態度がもしも通常運行だとするとシロンに頭を下げる騎士は何なのだと思うのだ。外面か。聖女頼みの外面なのか、と。騎士はシロンの目をちらりと見、少し間をおいてから口を開いた。
「……何故そう思ったのです」
「法王に会ってるんでしょ、しかも結構な頻度で」
「否定はしません」
やはり彼は騎士の中でもかなり高位の人間らしい。
そうこうしているうちに今度は神殿に到着した。神殿は副王都のものとは比べ物にならないほど立派であり、王城だといわれても違和感のない様子だった。門から入口までも遠くもどかしい。いくら山育ちとはいえここまで長時間走り続けることを行わないシロンの足もそろそろ限界だ。狩りなら短期集中の瞬発力勝負だし、走るとしても雪道ならともかく王都の固い石畳には足も全く慣れていない。絶対明日筋肉痛になるんだろうなと余計なことも頭をよぎった。
だが騎士が止まる様子は未だなく、シロンは仕方なしに騎士の後ろを遅れず走る。……この男、なかなかの体力だ。流石ワイバーンの初乗りで王都まで一度も落ちなかっただけのことはある、と。もしも村に生まれていたらきっと一流の猟師になっていたに違いないとも思った。……そうなれば自分の地位はかなり危なかっただろう、とも。
「……何を考えているんのです」
「いいえ、何も。それよりどこまで走るのよ」
神官やほかの騎士が驚いた様子を見せる中ずいずいと走り続けているのだが、そろそろ目的地に到着はしないのだろうか。
走ってはいけないだろう神殿内部を走っても誰にも走っている事を咎められはしないが、あまりに突き刺さる驚愕の視線はそろそろおなかいっぱいだ。勿論騎士にはそんなこと全く気にするそぶりはなかったが――彼がようやく周囲の人間を気にしたのは廊下が行き止まりになった時だった。そこには神官が二人、かなり大きな扉の両側に立っていた。
彼らは青ざめた様子で「アベル様、お待ちください」と騎士に静止を求めた。
「待てない。通るぞ」
「ですがアベル様、その娘は」
「聖女だ。入る」
「アベル様!?いけません、手続きを」
「時間が無い!」
言うや否や騎士は扉をけ破らんばかりの勢いで開け放った。それはそれは荒々しく、まるで昼間に買い食いを注意した人間と同一人物には見えなかった。
騎士がけ破った先はとても広く立派で厳かなつくりの部屋だった。王都を一望できるだろう窓、重厚な調度品、そして……厳格な部屋には似合わぬ贅沢を尽くされた椅子。そしてそのそばには驚愕する白髭の男。
「アベル!?」
「法王様、申し訳ございません、一刻を争う事態にございます」
言葉とは裏腹に冷たく表面上だけの謝罪を述べていることがよくわかる発音で騎士はずかずかと進み、そして部屋の中を見回した。そして……法王の椅子のすぐそばに黒く、時折金色の光を散らす卵型の石――いや、ワイバーンの卵がシロンと騎士の目に入った。今度こそ、あった。
「あったあああああああ、卵!!」
そこからシロンの動きは素早かった。ホワイトベアと距離を詰めるときと同じように一切の迷いを見せないまま突き進み、何事かとシロンを止めに入ろうとした法王を幻影でも使うかのようにかわし、そして卵を手の中に収めた。続けざまには床を蹴り元の場所にくるっと戻る。法王は目を白黒させていた。
「アベル!!なんだその田舎娘は!!!」
「聖女にございます」
「バカなことを言うな!!」
真っ赤な顔をして叫ぶ法王に、シロンも「バカはそっちでしょう!!」と言い返す。田舎娘?真実だからしょうがない。けれどその見下すような言い方は何なのだ、王都の馬鹿は趣味で都を一つ壊す気なのか、と。
「オッサン、アンタ王都潰す気なの?」
「何をっ、誰に向かって物を言ってると……!」
「ワイバーンに喧嘩売りそうになってる阿呆に向かっていってんのよ!!」
こみあげてくる怒りをシロンは全て相手にぶつけた。
だが相手も相手で「はい、そうですか」など言う相手ではない。
「山猿娘が、無礼者を捉えろ!」
なまじ……いや、絶大な権力があるだけに、その一言が出てくるのだ。
少なくとも巨大な神殿の中のボスである。先ほどから中の様子を覗いていたらしい神官や神殿内ですれ違った騎士たちが部屋の中へと入ってきた。シロンは舌打ちした。
「うわぁマジで馬鹿ばっかり。……ねぇ、騎士様。正当防衛ってことで神殿内だけどナタ振り回しても良い?」
「やめてください。卵、割れますよ」
「じゃあ私はこれ持って逃げるわ。この場お願いね」
「……お願いって、どこに行く気なんですか」
「高い所よ。もうすぐワイバーン来るらしい時間だし、卵を親御さんに返すわ」
そう、もうすぐ鐘が鳴る時間。ワイバーンが王都にやってくる時間である。売られた喧嘩を二倍にして売り返したいところだが、こんな所で長時間拘束されるわけにはいかない。
シロンは騎士を見、そして窓の外に視線を移した。相当頑丈なガラスで蹴破ることやナタでぶち破ることは難しいかもしれない。だがホワイトベアの核を砕く短刀なら……大丈夫だと信じたい。
いざ、参らん。
シロンは決意した――が、それより先に騎士が動いた。
騎士はシロンの腕を引き、そして自分に引き寄せた――かと思えば勢いよく抱え上げた。
「……はい?」
なんでこうなるの!そうシロンが叫ぶ前に騎士は堂々と周囲の人々を見渡しはっきりと言った。
「道を開けろ、聖女が霧を晴らすと言っている」
そう、堂々と。
え、ちょ、騎士様。無理有りませんか。思いっきりここまで走ってきただけの村娘そのものですよ。そうシロンでさえ思うのだから、法王が「でたらめを言うな!」というのも当然であるし他の面々が戸惑うのも言うまでもない。
そんな中で騎士は歩き出した。不思議なことに誰も止めることは無かった。
霧が?本当に?そう、わずかにささやかれている声も聞こえた。アベル様が言うなら嘘ではないはずだ、とも。
人々の間を通り抜ける際、騎士はあくまで堂々と歩いていた。
だが人垣を抜けると一気に走り出した。
「え、ちょ、なんでこうなってるの!?」
「例え私が防衛しようとも、貴女が高い塔を見つけれる保証はない。一番高い塔は鐘の有る南塔だ」
「いや……とりあえず降ろして!私走るから!!」
だが騎士の足のスピードは落ちず、降ろす気がないように思えた。だからシロンは飛び跳ねるように騎士の腕の中から飛び出した。そして前を走る騎士を卵を抱えたまま追いかける。
南棟への道は中庭を突っ切り、そして人工池を突き抜けた先だった。
巨大な塔の内部はらせん階段で上までつながっているらしい。だがここでシロンは眩暈を覚えた。山で走りなれているシロンにとってこの内部構造のらせん階段は目が回る以外の何物でもない。走りにくい、圧迫される、走り続けた足がおぼつかない……自然と息も上がってくる。
「……失礼」
「ちょっと何するの!降ろして、走れる!」
「この方が早い!卵だけは離さないでくれ!」
騎士が再びシロンを横抱きにした。確かにこの方が格段に早い。
しかしシロンとしてはかなり悔しい。格好がつけられないじゃない――そう思わずにはいられないからだ。
程なくして二人は塔の頂上にたどり着いた。
そしてそれと同時、塔の鐘がゆっくりと動き出した。
リィイイイイン、リィイイイインと、透き通った音が王都に響き渡った。シロンはどおろいた。副王都のリゴーンと言う低い音ではない。祝福されているかのような音だ。
(でもこの音ってまるで……)
シロンがそう思考を巡らそうとしたとき、世界の色が変化し始めた。
空が黒々と霧に覆われ、黒い雪が降り、漆黒のワイバーンが遠方から王都に向かって高速で近づいてきているのを。
「……ねえ、騎士様。今なら見えるんじゃない?」
「……ああ、これが王都の民に見えていなくて良かったと思いる。混乱どころの騒ぎじゃ済まない」
流石に森のワイバーンからこんな威圧は受けたことがない。そう思うとシロンにも冷や汗が流れた。
ここまできてしまっても出来ることは実はそんなに多くない。後は卵をいかにうまくごまかして返却し、納得してもらうかだ。失敗はできない。シロンはそれを自分に言い聞かせ、騎士に向かって小さくつぶやいた。
「耳ふさいで」
「え?」
「私がワイバーンをここに呼ぶから」
そう言いながらシロンはすっと息を吸った。
そして騎士が耳をふさいだのを確認したと同時にまるで人の声とは思えないかのような、いや、本当に聞き取れているのか定かでない雄たけびを上げた。
「……なっ?!」
耳を抑えていても異様な音、そしてそれがシロンから発せられたことは騎士も気が付いた。そしてその事に驚いている間にも同じ音が今度は正面から飛んでくる。そしてそれからほぼ同時、目の前に黒々と染まったワイバーンが姿を現した。
クァアアアアアと口を広げ二人に威嚇するワイバーンに、シロンは「貴方を呼んだのは私よ」と堂々と語りかけた。
『貴様が私の子を連れ去ったのか』
「違うわ。私がそうなら、あなたを呼ぶ必要がない」
ワイバーンの声が騎士の頭には直接響いてきた。大地を震わせるような重い、重い声だった。
気を抜けば一気に吹き飛ばされる。シロンはそう思いワイバーンから一切目を反らさなかった。
ワイバーンの卵を商売用のものとして持ち去ったなど、絶対に言えない。そうシロンは改めて思った。
この怒りに火を注ぎ真実を語れば多くの人間が必ず死ぬ。シロンはもともと嘘をつくことは好きではない。山の人間は正直だ。だが……少なくとも無関係の人間が巻き込まれ死ぬのも見たくはない。
(ああ、もう!背に腹は代えられない……ってことでうそっぱちの聖女様やりますか!)
どうやら王都ではそれなりにお偉いさんでプライドだってあってもよさそうな騎士様が求めた救い。
森で「王都のため」とだけ言われていればシロンも「知らない」と言えただろう。けれど今ここで騎士を見捨てることは考えられない。その結果が嘘で塗り固めた聖女だというのなら滑稽だが、躊躇うことはもうやめた。
猟師が聖女の仮面をどこまで被れるかはわからない。けれど悲観はしていない。冷静に自分と相手の状況を見極める――それは聖女として実践したことなどない事柄だが、猟師としてのシロンが何度も場数を踏んできた作法である。
大丈夫。できる。
シロンはそう思いながらやんわりと微笑んだ。
「連れ去ったんじゃない、保護したのよ」
嘘をつく事が恥とされる山の村の民が、わざわざワイバーンを怒らせた者たちの尻拭いの為に嘘をつく。
これが同胞に知られれば「サイテー」だと言われかねないことは承知している。例え人の命を掬う事になっても、厳しい自然の中で生きる民の中にはいつも自己責任という意識が付き纏う。
その信念を曲げざるを得なかったのは騎士の存在であり、ここに来るまでに街の人々――例えば騎士が肩車をした少年を見たからだろう。結局私も大概甘いということか。
シロンはそんな自分に苦笑してしまった。故に聖女の微笑みの仮面は外れてしまっていたが、元々それはシロンにとって慣れない事である。よってシロンさえも気付いて居なかった。
けれど幸か不幸か、その笑みは次にシロンが放った言葉には良く合う表情だった。
「あなたが卵から離れている間に卵を見つけた人が居て、このままではいけない、温めようと持って帰って来たようなのよ。無知故の失敗、といった所かしら」
『……なに?』
「あなたには申し訳ないけれど、王都の民はワイバーンを知らない。だから貴方の卵も温める必要がないって思わなかった……まぁ、そもそもワイバーンの卵だって思えなかったのだけれども」
『何故そなたは知っておる』
「私は王都の人間ではない。山の民の人間だからよ。山巫女っていったら通じるかしら」
するとワイバーンは一瞬驚いたように短い唸り声を上げた。
山の民にとってワイバーンが特別な共存相手であるとともに、ワイバーンにとっても山の民は深い関わりを持つと認識する相手である。それは山に住んでいないワイバーンにとっても知る所で有るくらい、古い関わりを持つ間柄で。
故にその巫女がワイバーンを重んじていることなど言うまでも無く明らかで。
(……随分運よくここまで来たなぁ)
もしもこの世界に神様がいるとしたら、それはきっとどうしようもない程に悪戯好きなのだろうと昔から思っていた。そしてそれは今ほぼ確信に変わっている。
(無知な馬鹿が卵持ち去って、純粋過ぎる騎士が聖女求めて山に来て、それでよりによって私がその騎士拾っちゃって)
例えば山で出会ったのが他の純粋な民であったなら、騎士の事を面白がりはしたとしても助けに等は向かわなかっただろう。王都同行したシロンだって村や王都での騎士の姿を見ていなかったら、やはりワイバーンの肩を持っていた。
世の中には随分出来た話もあるものだ。
同時にシロンはやはり自分も彼らと変わらぬ人間なのだと思った。
それはたった一人の人間のとの出会いでいつもの自分とは違う行動を変えてしまったのだから。
「あら、孵化しそうよ」
恐らく信じて良いか迷っていたのだろうワイバーンの思考を絶ち切るように、シロンは腕の中で動く卵の様子を直に伝えた。何気なく言っているが、実際はかなりギリギリだったと肝を冷やしている。シロンは近づくワイバーンの前、塔の端ぎりぎりに卵を置いた。
ワイバーンはその卵を覗き込むように……いや、食べるのかと思わせるような近さだ。それを見た騎士は顔を引き攣らせている。
だが、その表情もすぐに別種のものに姿を変えた。
その原因は辺りに響き渡る音だ。
「また……鐘が……なってる……?」
「違うわ、この子の鳴き声」
確かに王都の鐘の音とそっくりな音だ。しかし先程鳴ったばかりの鐘は今は鳴っていない。
代わりに卵がピシピシとひび割れて行き、その中からとてつもない音が響いているのだ。
「だからワイバーンはこの時間に来てたのよ。子供の鳴き声だと思ってね」
殆ど鳴き声にかき消されながらもシロンはゆるく笑んで騎士を見た。
『ヒトの娘。感謝する。――我にも失態が有った事は認めよう。子を失ったと取り乱していた』
「仕方ないよ、一大事だったし、実害は……まぁ、無かった事にしたらいいと思うし。でもとりあえず……そうね、この曇った空晴らせてくれないかな。できたら、ここに光が落ちて、それから空がぶわっと晴れるくらい盛大に」
『心得た』
そう言うと子の首筋をくわえたワイバーンは一つ大きく翼を羽ばたかせた。
するととてつもない風が空に向かって巻き上がった。そして黒い雲の中心を貫き、そこから円が広がるように光があふれた。王都を覆っていた影は跡形もなく消え去り、光が強く降り注いだ。そしてワイバーンは飛び立つ。その姿はあっという間に見えなくなった。
一瞬の間を置いて、王都中から割れんばかりの歓声が響いた。
「ほれ。終わり」
「……この卵のカラは」
「保存したかったら保存しなよ。でもすぐ消えるよ。主が居なくなった卵の殻は空気に溶けるから」
未だ呆然としている騎士は、それでも現実の事と処理しようと頭をフル回転させている様子だった。
シロンは彼に苦笑した。
しかし長く彼と話している余裕もないだろうことは、既にシロンも予想がついていた。
バタバタと慌ただしい音が下から響いてきている。
品の無い足音だ等と先程の自分たちの走りっぷりを棚に上げたシロンは塔の端ギリギリまで下がり、そして来るであろう人物を待った。
現れたのは先程顔を合わせたばかりの法王だった。
「お前が……いや、貴女様が雪を晴らせたのか?」
分かりやすく呼び方を変えている辺り、彼も現状を把握しようとしているらしい。
「そうよ。何が起こったか分かった?」
口の端をニッと上げ、シロンは少しふざけ気味に答えた。
しかし、どういうことだろう。この様な状況の中、法王には既にシロンは先ほどとは別人のように映っていた。
「貴女様……聖女様があの卵を神にお返しなさったのですね……!」
「は?」
「聖女様、大変ご無礼を申し上げました。私、法王の座に居りま…」
「あー……そういうの良いから。……ごめん騎士様、私帰るわ」
聖女だと思わせる事は、ある程度シロンも狙っていたとおりである。
面倒事になる前に実力を発揮したように見せかけて、穏便に神殿から出、街を観光してから山に帰ろうとふと思ったからこそワイバーンに派手な演出を頼んだのだ。
しかし法王の反応は想像以上だ。
法王ともあろう人物がシロンに礼をとっている辺り、これは長い話が始まるぞと思わずにはいられない。それどころか話を聞いてやれば最後奉られかねないと言う事も想像に難くない。
「な」
驚く騎士、そして法王をよそに、シロンは軽く飛びあがり、先程卵を置いた場所にふわっと立った。
「報酬欲しいけど、長話はごめんなのよね……ってことで、私はこれで。お疲れ、騎士様」
ピュイっと口笛で待機していたイーシャを呼びつけた。
「まっ」
手を伸ばす騎士にふっと視線を流し、けれどシロンはその手が届く前にイーシャに飛び乗った。
騎士が身を乗り出さんという勢いで積み上げられた石にぶつかったが、シロンがその手をとる事は無かった。どうせ此処に居ても彼と自由に話が出来る時間なんて来ないだろう。そうなれば他の事を鑑みても撤退と言う言葉しか浮かばなかった。
「消えた、消えなさった!!やはり聖女様だったのだ!!」
叫ぶ教会関係者の声を聞き流しながらシロンを乗せたワイバーンはあっという間に王都を駆け抜けた。
「うはー……ただ働きしちゃったよ……」
暫く飛んだ所でシロンは大きくため息をついた。
「これで騎士様も大出世だよ。まぁ、元々偉い人だったっぽいけど」
聖女の使者、救国の騎士。どういう名前で呼ばれるのかは分からないが、彼の功績を教会が使わないわけがないとシロンは断定していた。聖女がいた――その事実は教会にとって都合のよいものだろうし、と。
だがそれはあくまで教会にとって都合が良い脚色がなされるだけで、実際に騎士が望むものなのだろうか?それはシロンには分からなかった。
『ねぇ、シロン。此処まで結構な距離だから、燻製大盛りにしてほしいな』
「いいわよ。でもどうせならあなたも友達つれてきなさいよ。お祝いにして盛大に食いあかしましょう」
『いいの?やったぁ』
ただただ高速で飛び続けていたイーシャの首筋にシロンは顔をうずめた。
そして小さく呟いた。
「ひとまず、今日はシチューでも作るかな」
騎士様が運んでくれたホワイトベアを少し入れて。そう考えながら、深いため息をついた。
もうちょっと一緒に居てみたい男の人だったなぁ。一途に信じてきたものがカラッポだったとしても、どう動くべきか迷わなかった人。やっぱりちょっと一目ぼれだったし、彼ともう少し話がしたいと思ったから頑張ったのに。
「頑張ったからお腹いっぱい食べるんだから」
そう思ってしまえば、もうやけ食いしか選択肢は残っていなかった。
++++
それから暫くが経って。
少しばかり食べ過ぎを3、4日ほど続けたせいで、そこから何時もより運動量をシロンが増やしていた頃。
「で、何でここに居るんですか騎士様」
「助けて下さい」
「今度は何が起こったんです」
とりあえずどうぞ。
そう言いながらシロンは自宅に騎士を招き入れていた。
深刻な表情の騎士は困った様子には違いないが、しかし以前とは違い切羽詰まった焦った様子ではなかった。
とりあえずとシロンが茶を出した所で騎士は重い口を開いた。
「……法王にされそうです」
「あら、おめでとう」
「目出たくありません」
反射的に出た祝福に被せ気味に騎士は答えた。
「聖女の奇跡を見た市民は多い。そして教会でもどうにもできなかった奇跡をおこなった聖女が都に来る事を望んでいます」
「まあ予想範囲内ね」
だから早々に退却したんだし、と、お茶を飲みながらシロンは言う。騎士は肩を落としていた。
「法王が聖女を山猿扱いしたことも何処からか漏れてしまったようですし、教会は大荒れです」
「それで聖女を連れてきた貴方に「もっかい連れてこい」って話が行ったという訳ね。そしてその功績を名目に法王に就任……っていうのはかなり強引だけど、現法王が引退するにはいい口実だと。実際はその上に役職作って安泰ってとこか」
「その通りです」
非常に顔をしかめている騎士にシロンは「ご愁傷様」と声をかける。
「例え私が法王になったからといって、貴女を王都に呼ぶ事は出来ない。そうでしょう?」
「まぁ、王都の市やお店は面白そうだけど、滞在するのは正直ごめんね」
「貴女がそう言うことがわかっていても、王都に居れば昼夜問わず使者が来る」
「で、逃亡かねて逃走したということなんだね」
やっぱりご愁傷様だとシロンは同情する。
「とりあえず、遠路はるばるお疲れ様。シチュー食べる?ホワイトベアは入って無いけどね」
「……いただきます」
「今日はそんな事とは言わないのね」
「……すみません、あの時は慌ててたんです」
「知ってる。意地悪言ってごめんね?」
実際はいじめるつもりは無く、軽口で彼の表情は依然疲れたものだった。寝不足の中遠いこの地までやってきたのだ。無理もない。いくらワイバーンが見えるようになった彼とはいえ、ワイバーンを呼び寄せる手段はない。馬車や、そのあとの長距離の徒歩でやってきたのだろう。
「あの声は何だったんですか」
シチューを皿に盛りるシロンに騎士は声をかけた。
あの声。それを聞いてシロンが思い浮かべるのはワイバーンを呼び寄せたそれだ。
「人にもよるけど、元々山の一族は声帯を含め人体が少し特殊だからね。私くらい色濃く血を受け継いだ者ならワイバーンと良く似てるように動かせるわ」
「肺活量普通じゃなかったですよ」
「だから特殊なんだって。――ここの一族はワイバーンと共に王都を追われた一族よ。建国の時に多大な貢献をし、けれどその後には脅威と捉えられた存在。もう1000年も前の事になるそうだから、伝承でしかないけれどね」
はい、シチュー入ったよ。
そう言いながら皿を出すシロンに、けれど騎士は言葉に聞き入って動けていなかった。
「王都に神がいるのならこの山には神がいない。ならば我らも心安らかに住まう事が出来る土地。それが初代の長老がいってた言葉だそうよ。だからこの村の人間は神を信じていない。さあ、冷めないうちに食べましょう」
自分の分もシチューを入れたシロンは「いただきます」と両手を合わせる。
「……ありがとうございました。まだ礼を言って無かった」
「どういたしまして。……多分あのワイバーン、はぐれだったのよ。ワイバーンって単体生殖するんだけど、一人旅じゃなければ普通は仲間が卵を手放さないから。だから今回みたいな事は早々起こらないわ」
「そうですか。よかった」
「でも、絶対とは言わない。貴方が法王になって、事の顛末を説明する……するのは無理、か」
「多分殺されますね」
騎士の冷静な言葉にシロンも同意する。
正しい歴史を伝えられれば一番良いが、歴史は都合よく作られるものだ。例え意図的なものでなかったとしても、立場によって見え方が違うこともある。この村の伝承だって太古の遺産である映像記録をもとにしているが、その記録もすべてがあるわけではない。不都合な点が意図的に隠されていても不思議ではない。むろんシロンに言わせれば「今回の教会のは意図的すぎると思うんだけど」ということだが。
ならば揺れる教会が、それこそ崩壊に向かう可能性があるだろう発言をされたものなら騎士を消そうとする可能性は……残念なことに高いだろう。何より混乱時になら暗殺もしやすいというものだ。
「……落ち着くまで、此処に住んでもいいわよ」
「え」
「え、ってそのつもりで来たんでしょう。助けてほしいって言ったじゃない」
一旦王都を離れる理由としても確かにあるだろうが、彼の本当の目的はこれではないのか。
短く問い返されたとき、シロンは逆に首を傾けた。
「……そのつもりが無かったとは言いませんが……そこまであっさりと言われると、不思議と残念なものですね」
「そう?」
「ええ。どうお願いしようかと迷ってましたから」
「でもこの村、今空き家なんて無いから住むとすればこの家よ。一人暮らしだから部屋は余ってるし」
シロンがそういうと騎士は微妙に難しい表情を見せた。一人暮らしがしたかったのだろう、そうシロンは結論付けたがわざわざ村の居候のために家を建てる余裕はない。金銭的な意味ではなく、労働力的な意味で。
「ですが……本当に良いのですか」
「何がよ。家建ててなんて言わないよね?」
「そうではなく……ああ、もう。今更ながら私の追手も来るかもしれませんよ。聖女の村の場所は知られていますからね」
「ああ、そっちか。平気よ」
「どうして」
「普通は外部の人間が無許可で村になんて入れないわ」
「……何故ですか?」
今更そんな心配をしてどうするの。
そういう気持ちを含めてシロンは人差し指をたててくるくる回した。
「ワイバーン達の声よ。村の外の人には聞こえていなくても、方向感覚を狂わせるだけの力があるの。だからまっすぐ歩いているつもりでもぐるぐる回るのよね。ここは磁気も乱れているし、陽の方角もわからない。もっともワイバーンが見えていたらワイバーンの声がしっかり聞こえる上、どこで鳴いているか分かるから平気なんだけど」
だから騎士様は今度は迷わずこれたのよ。そう続けたシロンに騎士は目を見開いた。
「貴方も私とあそこで会っていなければ、此処に居なかった。実は遭難の危機を乗り越えてたんだよ、騎士様は」
「……本当に今更になるのですが、貴女は何故私を招き入れたのですか。貴女は非常に頭が回る。よそ者が聖女を探すということは面倒事を持ち込むのだとわかっていたでしょう」
真っ直ぐに向けられた表情は探る様子でもなく但し論の言葉を待っている。
だからシロンもシロンで大真面目に答えることにした。
「一目ぼれかな」
「冗談いわないでください」
「冗談じゃないわよ。……まぁ、ベアが重かったからっていうのもあったけど」
「もういいです、言う気が無いのは分かりましたから」
はーっと長いため息をついた騎士はようやくシチューに手を付けた。
食べ方が上品なのは環境のせいなのだろう。この村の酒場でこんな食べ方をしていればほかの客におかずをとられかねないなと思ったが、シロンは今は言わなかった。体験した方が早いだろうということと、多少真面目に答えたのにという思いからだった。
「此処に居るなら条件は三つよ。家事は猟を含めて折半。靴は玄関で履き替える。お風呂とトイレはノックする。……って、どうしたの?」
「ひとまず前回の報酬の件からお話したいのですが……。そしてそれの後にこれからの家賃についてお話させてください」
少し気まずそうな表情の騎士に、ああ、この人はやはり真面目だなとシロンは呆れ半分に感心した。
「私文無しからお金搾り取るほど困ってないわよ。――辞めるつもりなんでしょ、教会の騎士」
ここに来たということは、単に法王になる事から逃げたというだけではない。
むしろ仕えてきた教会の意向に背くのだ。戻れるわけがないことは考えるまでもなく明らかだろう。
「巫女はこんなんだし、神様にお祈りもしないとこだけど、ここもたぶん住めば都よ?」
「……よろしくお願いします」
「同居人になるんだったら敬語もナシね。てか共闘した時も半ば崩れてたのに、今更過ぎるよ」
そのシロンの指摘に騎士はばつの悪そうな顔を見せる。
「騎士様……いえ、元騎士様かしら?まだ名乗って無かったわね。私はシロン」
「私……いや、俺はアベル。アベル・エルジェベード・クロスライン」
「ああ、そういえばアベルって呼ばれてたよね………って、あれ」
この国の名前、確かクロスラインだったような……
国名を口にすることが少ないこの村で、けれど確実に聞き覚えのあるその名前。ひょっとして聞き間違えたのだろうか。そう思いながら首を傾けるとアベルも気まずそうに眼を反らした。
「……別に王太子とかじゃない。前国王の側室の子ってだけで、現王の年下の叔父。籍も王族から外してもらった」
「………ああ、だからそんなにご飯食べるの上品なんだ」
ようやく腑に落ちたとばかりにシロンが頷くのを見たアベルは「それだけか?」と尋ねた。シロンは逆にそれ以上に何があるのかと思ったが、しばらく唸って考えれば少しは聞きたいことが浮かんできた。
「でも何でそんな人が神殿の騎士に?」
「どうせ王宮にいても邪魔扱いか利用されるだけだ。ならば伝説の聖女の守護者になることが出来ればと思い教会の騎士になった。法王に王家を迎え入れるのは面倒だと断られる可能性もあったが、幸い快く受け入れられたよ。王族を支配下に置けるという欲が法王には強かったようだ」
淡々と話すアベルにシロンは「ふうん」と相槌を打った。
「……重ね重ね御愁傷様ね。その上せっかく守護者になろうと思った聖女がこんなんだったなんて」
「まったくだな。……でも、最初に思ったより悪くない」
ふっと表情を崩したアベルを、シロンはシチューを口に入れながら眺めた。
「名前すら認識されず、本当にただの人と見られたのは初めてで新鮮だった。今もそうやって変わらない対応をしてくれるのは助かる」
「取り繕っても今更だしね」
ああ、私がこの人を珍しいタイプだと思ったように、この人にとっても私は珍しかったんだ。
もちろんシロンは自分の行動が一般的な国民と違うことは理解できている。けれど単なる驚きではなく好意的な意味での珍しさを含んでいたというのは初めて知ったことだ。シロンは目を瞬かせた。
「ただ、その奔放さを少し治めて欲しくもある」
「奔放さ?何?」
「頼んだ方が言うのもおかしな話だが、あまり他人を信用し過ぎるな。ただの一度会っただけの男を泊めるのは不用心すぎるだろ」
それは非難しているのかいないのか。しかしアベルの言葉をシロンは鼻で笑った。
「それなら心配してないわ。ホワイトベアを単独で狩れる私が、枕元に武器を置いてる状態で負けると思う?」
「そういう問題では」
「それにさっきも言ったけど私は森の民の中でも血の色が濃い。ワイバーンの本気の声、貴方に向けてはなったらたぶん気絶しちゃうわよ?」
冗談交じりに言うが、筋力だって普通の男どころか森の民の平均より高いのだ。
だがシロンにはそれ以上に『問題なし』と言える理由があった。
「それに騎士の精神はその職を辞そうが早々抜けるものじゃないでしょう。大体アベルは私に魅力を感じてるの?」
「………」
「ちょっと、ここはお世辞でも肯定しなさいよ」
「ああ」
「遅いっての」
この礼儀正しい元騎士が女性……だと認識してくれているのかは怪しいが……を襲うなんてことはまずないだろう。シロンにはそうはっきりと断言できる。むしろ今の妙な間で余計にそれが正しいと確信してしまった。疑わずに済むのは良いことだが、癪に障ることでもある。
何もないように言っているシロンこそ、先ほども述べたとおり一目ぼれからアベルのことを意識していたという自覚を既に持っているのだから
(まぁ、私も猟師だし。狙った獲物が飛び込んできたなら早々返してあげるつもりなんてないんだけどね)
そんなことを考えていたものだから「思ってるからこそ忠告してるんだ、言えるわけがないだろう」等というアベルの小さな早口はモワモワとしたくぐもった音としかとらえられず、言葉の意味を全く理解できなかったのだが。
「……ねえ、何言ったの?」
「独り言だ」
「一人でいるんじゃないんだから、別に一人で喋らなくてもいいのに」
「……」
「なによ」
「いや、確かにそうだと思ってな」
そう言いながら茶を飲むアベルを見、シロンははてと首をかしげた。
なんだか様子がおかしいと思うのは気のせいだろうか、と。
「まぁ、とりあえずシチューのおかわりいる?」
「ありがとう」
肯定されたシロンは自分の皿を持った後、正面から手を伸ばして彼の皿も手に取る。
だが引き寄せようとしたら突然手首を引っ張られ、思わずつんのめりそうになった。いや、つんのめった。手前にテーブルがあったことによりかろうじて転ばなかったというだけで、バランスは崩れるしテーブルに乗り上げる形になる。
「……手をとられてるとおかわり入れに行けないのだけど」
「このままだと言いそびれるかもしれないから、先に一言断っておこうかと思ってな。……基本的に俺は勝ち逃げはあまりされたくない」
「はい?」
何の話だろう。そう、上体をテーブルに乗せたままシロンは騎士の瞳を覗き見た。
やけに真っ直ぐな目は会ってから変わらないけれど、そこに強い目的が見て取れるのは……狩りの時の仲間の目のような色が含んでいて。
「良い所を見せられただけでは終わる気はないってことだ」
手首をつかんでいた手が持ち上げられたと思えば手の甲に落とされるのはアベルの唇で。
「~?!!」
「誓いを捧げてきた聖女様ではなかったけれど、シロン、貴女は確かに気高く尊い女性だ」
予想していなかった行動に言葉、そしてその表情。
頭の中がパンクしたシロンが言えるのは「ば、ばかっ!!」という極めて短い言葉だけであり、真っ赤にした顔を隠すため勢いよく引いた手で皿を掻っ攫い、そして台所に消えていった。