第五十二話 涙は温もりに溶ける
白銀の竜、幻獣ハバキネスは、翼を畳んで、塔の屋上で丸くなっていた。もう起き上がることはできない──
胸部は一文字に斬られていて、そのダメージがゆっくりと彼女の命を奪っていくことはもはや明白だった。
ノクトは、今の感情を表す術を持たず、頭を抱えて、気が狂わんばかりに──獣のように叫んだ。あまりにも衝撃的な事が連続しすぎた。心身に負ったダメージが深すぎて、何がなんだかわからない。正気でいられない。胃が全てを拒否して吐きそうだ──ただ、今はハバキネスが失われるであろうことが、とてつもなく、深く、悲しかった。
トロントが無言で、突然ノクトの頭をぐいと抱き寄せた。
やめろ、オレを子供扱いするな、と拒絶したかったが、呻くような声が出るだけで何一つ言葉にならない。引き寄せる腕に、抵抗もできなかった。
「お前さあ……悲しい時は、泣いて、いいんだよ……」
トロントの声も、震えていた。それを聞いて、もうこらえようもなく──ノクトは少年の頃のように、トロントにしがみつきながら、声を必死に押し殺して泣いた。
幻獣調査団の面々は、ハバキネスの過去を体験するうちに、彼女のことを敬愛するようになっていた。
『ありがとう、幻獣調査団のみなさん』
ハバキネスは穏やかな声の念話を送り込んできた。
『素晴らしい戦いでした……私の歩んだ一万年の旅路は、間違いではなかった。間違いでは、なかったのですよ……それを証明してくれて、ありがとう。今この瞬間のために、私は生きてきたのです。とても、幸せです……』
永きを生きた幻獣ハバキネスが、幸せだと──今この瞬間のために生きてきたのだと。ハルジオもマリンも胸を打たれ、滂沱の涙を流していた。クレアだけは、なんだか満足そうな顔をしていた。
『試練をよくぞ突破しましたね。さあ、約束です。あなたがたの願いを叶えましょう』
願い……
ついに、願いが叶う。
しかし、ノクトは気持ちが揺れすぎて、到底考えがまとまらない。溺れる少年のように、震えながらトロントにしがみついたままだった。
その様子を見て、ハバキネスは優しく言った。
『まだ、時間はあります。あなたがたも疲れたでしょう……少し休みなさい。休みながら、ゆっくり考えたらよいのです』
それぞれが──塔の屋上で、傷の手当をしたり、携帯食を食べたり、バナナを食べたり、考えを整理したり──
最後の戦いの直後とは思えない、不思議で穏やかな時間を過ごしていた。しかも、伝説の幻獣ハバキネスと同じ空間で。
それは幻獣調査団である彼らにとって最高の栄誉の時間だったのかもしれない。
ノクトは少しだけ水を飲んだものの、ハバキネスのそばを離れがたく、ずっとその傍らに立ち尽くしていた。すると、ハバキネスが声をかけてきた。
『ノクト、こちらにおいでなさい』
「……え」
ノクトは驚いて顔を上げた。
『寿命の尽きる身なれど──あなたのような羽の如く軽き者を、ただ一人支えるのは訳のないことです』
と、自分にもたれて座るように翼で合図した。
ノクトは目を見開いてびっくりしていたが、はっと正気に帰ると、素直にそれに従った。
虹色のオーラを放つハバキネスの懐に座ると、まるで日向ぼっこをするかのように暖かかった。
「その……すまない。痛かっただろう……」
バツが悪そうに、ハバキネスの白銀の身軀を撫でながら、ノクトは言った。
『私も、あなたがたにかなりの痛いことをしましたからね。お互い様です』
まあ、それは、そうかもだけど……と、ノクトは小さくつぶやいた。
そして、言う。
「……あんたはあの時、友人を二人、亡くしていたな」
過去の世界。一般的な《古の民》とは基本的に反りが合わないハバキネスには、友人が少なかった。彼女がヴァリスとノルツを長年大切にしていたことを、ノクトは察していた。
「大事な友人を失った上で、住む場所さえ追われ……たった独りで一万年にも及ぶ旅に出た。どうしてあんたは、そんなことができる……?」
ノクトは自分のことを省みて、思う。エイトの支えがなければ、自分は生きてここにはいなかっただろう。姉を失った当時は死ぬことだけを考えていた。
結局生き抜いた理由も、復讐のためだ。
「オレは、あんたみたいに……強くは、生きられない……」
オレは結局、誰かの助けが無いと生きられないんだ。独りで生きているような気でいて、誰かに生かされている。
『強いとか、弱いとかではないのですよ』
うつむいたノクトに対して、優しくハバキネスは言った。
『私は世界を、人を、愛していたから──世界を救いたかった。そのために必死で答えを探しました』
「世界を、人を、愛して……」
『そうです。一方で、あなたはどうですか?あなたはアイリーンを愛し、その無念を晴らすために必死で生きた。──何も、変わりませんよ』
「そう、なのかな……」
ノクトは、ハバキネスの竜の顔を見上げた。竜にはそこまでの表情は出ないものだが、不思議と穏やかに笑っているように見えた。
するとノクトの制服から、ナイトスコーピオンのアイリーンがひょこっと顔を出した。《斬鉄剣》の使用を決意したとき、守るために制服の中に入れていたのだった。
それを見たハバキネスの念話はほほえみを含んでいた。
『無事で何よりです、アイリーン。ノクト、彼女を大事になさいね』
「……」
ノクトは、目を伏せて、答えられない。アイリーンは、心細く不安そうにノクトを見ていた。
トロントが、伸びをしながら元気よく言う。
「人心地ついたし、まあ、願いも決まってるし。オレは問題ないぜ」
「私も〜!」
クレアも元気に同意した。
心から満足そうなのは、ハルジオだ。
「僕は、ハバキネスを見て、戦って、理解して──もう願いはかなったようなものですから」
マリンはゆっくりとうなずいた。
「私も、願いは決まっています。ノクトは──?」
見回すが、どこにも見当たらない。
こんな遮蔽物のない塔の屋上で、みつからないわけがない。
胸を突くように、嫌な思いがハルジオの胸中にこみ上げた。まさか、一人でどこかへ行ってしまったのか……?
「ノクト──!」
すると、ハバキネスの念話が飛んできた。
『あ、ごめんなさい。隣に座っていただいたら、眠ってしまったみたいで……』
ノクトはハバキネスにもたれかかって、そのまますやすやと寝ていた。
ハルジオはそれをぽかーんとした顔で眺めると、全ての力が抜けきって、がくりと石畳に手をついた。それを見てトロントとマリン、クレア、そしてハバキネスさえも笑っていた。
【最終章 灰色の夜明け】開幕です!




