第三十九話 己が手を失いし民
ウオオオ──
ウオオオ──
異様なまでの、騒音。
怒号も入り混じっている。
「なんで、こんなとこに来ちゃったんだろうねえ……」
心底後悔するように、クレアがつぶやいた。
「あの人たちが暴徒と化したら、僕たち……多分、一瞬で死ぬんだろうね……」
ハルジオも最早達観したかのように、どうにでもなれと、その状況を眺めているしかなかった。
ここは、ハバキネスに招かれて共にやってきた巨大な神殿。建造物の中はすり鉢状になっていて、その中心に幻獣調査団の面々とハバキネスがいる。そして、彼らを取り囲むように、ゆうに十万人を超える《古の民》たちが押し寄せていたのだ。
「あの一人ひとりが……全員、当たり前のように、願いを叶える魔法を持っているのですよね……?」
マリンの声は震えていた。
神殿の中央には裁判官のような神官が立っていて、この巨大神殿の隅から隅まで届くように魔力で拡張された大声で言う。
「静粛に。静粛に──」
どうやらここは、議論の場であるようだった。
《夢幻界》の調和は崩れきり、もはや膿みきっていた。
人は人を思いやらない。
社会も不要、街も不要、家族も不要。
自分だけがよければいいだけの世界。
世界に蔓延した倦怠感は、種の滅亡を引き連れて、もうそこまで迫っていた。
だが、《古の民》たちは強大な力を持つ自分たちのことを、幸せだと思い込んでいる。どんな願いも叶え、全てを思うままにする。これ以上の幸せがあろうか──
破滅の足音を感じていたのは、ハバキネスただ一人だった。
苦しみのない幸せだけの世界に、白い長い髪のハバキネスは一人反旗を翻したのだ。
「ハバキネス……意見を述べなさい」
神官が、彼女に合図する。
ハバキネスは、十万人の前に臆せず立った。そして凛とした声で叫ぶ。
「願いの力を捨てましょう!」
すぐに、ザワザワという声と、怒号が入り交じる。
十万人の不満の声はすさまじく、巨大な神殿内に響きわたった。
トロントとマリン、クレアとハルジオは、一触即発の気配に居心地が悪すぎて、身を固くしていた。
ハバキネスは一歩も引かない。
「私たちは、生活の事々から食事、住む場所、医療、生殖に至るまで……何から何まで願いの魔法で叶えています。それは、他の命たちを見てわかるように、自然の摂理に反している……その結果、歴史が一歩、また一歩と進むごとに、大切な感情を失っていきました。願いが叶うことが当たり前の世界は、過ぎた砂糖のごとく、私達の脳を蝕んでいるのです」
外野のザワザワとした騒音は止まらない。ハバキネスは、一呼吸おいて、大きく息を吸った。
そして、凛とした声を更に張る。
「苦しみの抹消を願うのではなく──苦しみに意味を見出し、乗り越えた瞬間こそが人にとっての幸せだと、私は思うのです!願いの力を捨てましょう。そして、一つ一つ文化を積み上げ、地に足をつけて、種をまき、生を歩むべきです」
しかし人々は猛反発した。
魔法で全てを叶えられるのに、なぜそれを捨てなければならないのか!
一方、ノクトの心にも亀裂のような痛みが走る。
「……苦しみに……?意味を、見出し……?」
ノクトは震える声で、一句一句噛み締めるように、絶望的な表情でハバキネスの言葉を復唱する。
「乗り越えた……瞬間こそが……幸せ、だと……?」
封じ込められたはずの、烈火のような感情が突然火を噴いて溢れた──あまりの怒りで、これ以上声が出せない。
(姉さんの死に、何かの意味があるとでも……?オレのこの、吐き気を伴うような苦痛に、なんの意味があるっていうんだ……)
血が出るまで身体を傷付けて、叫び出したくなる。
(この苦しみに、意味なんか……意味なんか……《無い》!)
鈍くなったはずの心に、凄まじい痛みが響いてくる。呼吸器に精神的な負荷がかかり、過呼吸が出かけていた。
隣にいるトロントが、心配して声をかけてくる。
「ノクト……大丈夫か?」
ノクトは鋭くその手を振り払った。
「触るな!」
「……っ」
とっさの出来事で──爪で引っ搔いて、少しトロントの手を傷つけてしまった。
その事実が、ノクトにすさまじいショックを与えた。自分のほうが殴られたように、顔を伏せて上げられない。
「すまない、トロント……お前を傷つけるつもりは……」
とっさに、謝る。
トロントは、その様子を見てひどく悲しげに言った。
「なあ、具合が悪いなら、一旦休もう。ひどい顔色だぞ、お前……」
「……問題ない。お前らにこれ以上、迷惑はかけない」
暗い、低い声で、トロントの顔を見ずにそう言う。今の顔を、見られたくない。
病弱だなんて、知られたくない。
こいつらと対等でいたい。
仲間のままで、いたい。
役立たずだと、思われたくない。
オレは、幻獣調査団、ナイトキラーのノクト。
一人で生きることもできない、病弱なノクトはもういない。
触るな。助けるな。一人で生きていける。
だから──仲間としてここにいさせてくれ……
何故か、その姿は孤独に泣き叫ぶ子供のように見えた。
トロントは、どうしても、その寂しい背中にこれ以上声をかけることができなかった。
一方で、世界を救うための会議は続いていく。
無気力な《古の民》はひたすらにハバキネスに反論し続けた。
「我々はどんな願いも瞬時に叶える……」
「木を使って火をつけろと?種をまいて育てろと?バカバカしい……」
「私たちは……最早世界の神となった……」
「この力を行使することこそが、我々の幸せであり世界の神たる証左だ」
「この世界に、飢えも、悲しみも、いらないのだ……」
「出ていけ……お前らなど、この《夢幻界》から追放だ……」
ウオオオ──
ウオオオ──
恐ろしい不満の怒号が神殿に響き渡る。
何を言っても無駄だと──
人間は、一度手にした便利な力を、権利を、手放そうとはしない。手放そうとしても、簡単にはできはしない。
その時だ。
外ですさまじい騒ぎの音──
ただ事でない気配だ。
さざめきのように騒動が広がっていく。
「どうしました……?」
神官が討論の中止のサインを送る。
しかし、《古の民》は、何が起きようと無関心だ。自分たちの願いの魔法さえ維持されるのであればそれでいい、とばかりに、なにか外で大事件がおきたとしてももう興味を失っていった。
「…………」
神官も、何事もなかったかのように論議を再開しようとする。
しかし、ハバキネスはそうではなかった。
「外でなにか大変なことがおきているようです。行きましょう!皆さんも、来てください!」
ハバキネスは二言なく駆け出した。
幻獣調査団の面々も、それに従って神殿から脱出する。
追いすがられるかと思ったが、彼らはもう討論にすら興味はなく、無為な、だらけた顔で己の内面的思考に耽りはじめたのだった。
「あいつらさあ……まじで、頭おかしくなってんね。ハバキネスが危機感持つのもわかるわ……」
というのが、走りながらのクレアの言い分だった。
とにかく、外で何が起きたのかを確認しなくては。
神殿の外に出ると、そこには──すさまじい、戦闘の跡。
死闘の末、あの赤い目のノルツが、友人のヴァリスを自らの腕で刺し貫いていた。




