第三十六話 もう一度、ただいまを言えたなら
ノクトの目は暗く、光を失っていた。
だが、殺気だけが牙を剥くように立ち上り、一方で人間らしい感情の起伏が一段階下がっているように見えた。
「ノクト……お前、大丈夫かよ……」
さすがにそのままにしてはおけず、トロントが声をかける。
ノクトは初めてトロントの存在に気づいたように、彼をチラと見る。ひどい手傷を負った肉食獣のような余裕のない、それでいて攻撃的で、全てを諦めたような目だ。
「問題ない」
立ちはだかる低い拒絶の言葉が、トロントを挫いた。
問題ないわけ……ねえだろ……
トロントは思わず口走りそうになって、必死にこらえた。
そんな目をして、一体どれだけ傷付いて……
だが、それを言ってどうなる。
何をしても、自分にノクトを救ってやることなど、できはしないのに……
クレアは、ノクトの肩にとまったアイリーンに声をかけた。
「アイリーンて、ノクトのお姉さんだったんだね」
まさか今その話をするのか、と、トロントとマリン、ハルジオは身構えた。
ノクトが反応しないので、事情を知るハルジオにお鉢が回ってきた。
「うん……僕のおじいちゃんが──幻獣調査団の創始者のマルウスが、アイリーンの人格データをナイトスコーピオンに入れてくれたんだ。だから、喋れないけど、アイリーンはアイリーンなんだよ……」
ノクトはその話を遮るように暗い、低い声で言う。
「オレのことはいい──仕事を……ハバキネスの話を聞く」
ナイトスコーピオンのアイリーンは、少ししょんぼりしたように小さくなった。
幻獣ハバキネスは、向き直ったノクトに向けて静かに言った。
『もう、良いのですか?』
「問題ない」
ノクトは憔悴しきった顔で、だが殺意だけを目に湛え、虹色の翼を持つ巨大な竜と対面していた。
ハバキネスはノクトの肩で小さくなっているアイリーンを見ていたが、何も言わなかった。
『あなた方の目的は私、幻獣ハバキネスについての調査……そして、それぞれの願いを叶えることですね』
「そうです……」
幻獣調査隊のリーダーであるハルジオは、ノクトのことを気にかけながらも、責任感でハバキネスと対面し、その目を見ながら答えた。
『ならばあなた方に、試練を受けていただきます』
「試練の内容は……?」
ハルジオが尋ねると、ハバキネスはゆっくりとうなずいた。
『第一の試練は、私の考えを理解すること……あなた方は私の調査でここへ赴いている。ぴったりの試練かとおもいますよ』
ハルジオはほっと胸を撫で下ろす。戦うような試練よりも友好的で、穏健な話のように思えたからだ。
ノクトは、幻獣ハバキネスの話を聞きながらも、心の中では別の計画を組み上げていた。
彼は、単身でメルソン村を滅ぼすことを強く心に誓っていたのだ。
かつてないほど危険で、身勝手な、非人道的な凶行になるだろう。しかも、自分には恩讐だけがあり、正義はない──わかっている。だから、大事な大事な、ナイトスコーピオンのアイリーンは連れていけない。
アイリーンは、ハルジオに託そう。ハルジオにはいつもアイリーンのメンテナンスを頼んでいる。それに、彼は悪意がなくて、思いやりがあって、すごくいいやつだ──ノクトはハルジオのことを心から信頼していた。きっとハルジオなら、アイリーンを幸せにしてくれるだろう。
それにハルジオは、ノクトにとって初めての友達だった。彼と本のことを話すのは、ノクトにとって新しい人生の楽しみで、生き甲斐の一つだった。だから、心から残念に思う──もう、一緒に本を読む温かいあの日々は、二度とやってこないだろう。
自分がそのような凶行に及んだら、所属組織である幻獣調査団にも迷惑がかかる。恩義ある幻獣調査団に迷惑をかけるわけにはいかない。この首元の青い竜のバッジは、アイリーンと一緒にハルジオに返そう──
ノクトの人生を明るく照らしてくれた幻獣調査団との決別。少なくともこの凶行は、幻獣調査団とは無関係な、ノクト個人の犯行としなくてはならない。
調査団に入って三年、団の皆には心から感謝している。病弱を克服してナイトキラーになれたこと、ずっと誇りに思う。
ナイトスコーピオンのアイリーンと出会えたのも、創始者マルウスのおかげだ。それはアイリーンを失った以降のノクトの人生で、最も大きな転換のうちの一つだった。自分の第二の人生は幻獣調査団とともに始まったようなものだった。
それら大切なもの全て、自分の人生そのものを失うとしても、あの村の存在を、許すことはできない。
食人種──村の男共だけではない。女も子供も、一族郎党、末代に至るまで──全ての村人共に、あの村に生まれたことを後悔させてやる。
暗殺者の目で、ノクトは虚空をただ見つめた。
必ず、この命に替えても、跡形もなく、メルソン村を焼き尽くす。自分がされた仕打ちを、それ以上にして、あの村人全員に捧げよう──
だが。
どうしても思い残すことが一つあった。人間らしい心がまだどこかに残ってしまっているのが口惜しくて、とてつもなく苦しい。
そんなもの、もういらないのに。人間らしい心など、姉さんの死を見た時に粉々に砕けてしまえばよかったのに。
胸に思い描くのは、エイトの顔──。
別れを、言えなかった。
こんな離れた地で、何も伝えられず……
心のどこかではわかっていた。
自分の人生の終着点は、この島にあると。
生きて、あの温かくて光さすカフェに戻ることは、二度とないだろうと。
それでも、エイトに今生の別れを言わないできた。
別れを言ってしまったら、自分の運命が定まってしまうと思った。それが怖かったんだ──
一度思い出すと思慕の情が溢れてきて止まらない。
エイト。父さんって呼んでほしいって言っていた──照れ臭くて、結局一度もそうは呼べなかった。
最初は他人だったから……気恥ずかしくて、素直になれなくて。
でもあの日からは、まごう事なき、たった一人の家族だった。一度でも、そう、呼んであげたらよかったのに──
後悔が、さざ波のように胸に押し寄せる。
ノクトは苦しくて、目を閉じた。
一呼吸おいて、静かに再び目を開くと、もう、人格が変貌した彼──感情が薄く、殺意に満ちた小暗い瞳のノクトに戻っていた。
もう、
全て……遅い。
幻獣調査団の仕事は、全うする。
だが、ハバキネスの調査が終わったら──
アイリーンとも、仲間たちとも、エイトとも……お別れだ。
憎しみしかなかったオレの人生に、優しい光をさしてくれた皆──いくら感謝しても足りないよ。
ありがとう。




