第三十五話 君のいない世界は
ノクトは目を覚ました。
暗い、暗い部屋。
暗すぎて、どこがどうなっているのか、よくわからない。
ノクトは、その真っ暗な部屋に立たされていた。
自分の肉体が──感じられない。
幻獣ハバキネスの力で、自分はただ意識となって漂っているのか……?
今がいつで、どこなのかすらわからないでいた。
すると、どたどたと、野蛮な足音が近づいてくる。
扉が開き、廊下からの光がさして部屋が僅かに明るくなる。
照らし出された室内は冷たい石畳と、石の壁──そして、水が滴ってくるような地下牢だった。
廊下からの光に室内が照らし出されたことで、地下牢のような室内に一人の女性の姿が浮かび上がった。淡い金色の髪、すみれ色の美しい瞳を持つ、幻獣調査団の《メイジ》の制服を着た女性が後ろ手に鎖で捉えられ、憔悴して俯いていた。
(姉さん!)
ノクトは叫んだ。だが、肉体がないのに声など出せようはずもない。
肉体がないくせに、心臓だけは凄まじく脈打ち、肺が苦しくなるのは最早彼にとって皮肉でしかなかった。
部屋に入ってきたのは三人の男共だ。
「残すはこの女だけです」
「やっぱ女のほうがご馳走だからな……最後にとっておいて良かったよ」
ノクトは気が狂いそうだった。この男共三人の顔を凝視し、記憶に刻み込む。
一人はメルソン村の村長、ジウだった。
(貴様ら……絶対に……許さんぞ……)
他の二人にも見覚えがある。だが、咄嗟のこの状況では詳しく思い出せない。
肉体があったなら、こいつらの首を飛ばしてやるのに!
なぜオレはここに居ない!
憎悪だけが溢れ出て、人の形を失いそうだった。
「こいつら、アーティファクトも持ってたんだろう?人肉ついでにいいものが手に入ったなぁ」
下品な笑いの村長。
「最初はある程度親切にしておくに限るな……我々が入れないような禁域で宝を持ち帰らせてから、帰ってきたときに良くして宿泊させて、毒を盛れば……いくら強くても関係なかろう」
「ここ、《村の東》の空き家なら、どれだけ騒いだところで誰も気づかないしなぁ」
連れの男も、村長と似たように下衆な笑いを見せる。
「村長、この女も早く捌いちゃいましょうよ」
もう一人の男が、無骨で巨大な包丁を持ち出してきた。
(やめろ……やめろ……やめてくれ!お願いだ、やめて!)
ノクトは泣きながら絶叫した。
知るために見たいとは願った。だが──
気が触れてしまいそうだ。
姉さんが、死んでしまう──
それでもノクトは目を離すことができず、食い入るようにアイリーンを見ていた。
すると──
アイリーンは顔を上げ、こちらを見ていた。
何故なのかはわからない。
だが、アイリーンは、暗がりに立つノクトを認識していたのだ。
それは、彼女がマリンと同じように、魔力の流れを視ることができたからかもしれない。
その時ノクトは初めて気付いたのだ。
これは幻やまやかしじゃない。幻獣ハバキネスの強大な魔力によって、本当にアイリーンが死んだときの時空に立たされていたのだと。
(姉さん……!)
すみれ色の美しい目が、ノクトを見て、愛おしそうに細められた。
ひび割れてしまった唇の形が「あなたは」と動いた気がした。そして、今度ははっきりと聞こえた。
「独りじゃないよ……」
男の包丁が、アイリーンに振り下ろされた。
ノクトの意識はそこで途切れた。
「ノクト!大丈夫?ノクト!」
ハルジオが必死で身体を揺すっていて、目を覚ました。
どれぐらいの時間気を失っていたのかわからなかった。
涙が幾筋も頬を伝っていた。喉が痛い──何かうなされていたのかもしれない。
しかし、もうそんなことさえ最早どうでもよかった。
薄く開かれたその目は、もうハルジオを見ることはない。暗く──全てを諦めて、どこか遠くを見るような目。
彼は一言も口をきかなかった。ノクトは、ただハルジオをどけてゆらりと立ち上がる。
ナイトスコーピオンのアイリーンが肩に駆け上がるが、それにも気付かない。苦しそうに肩で息をして、狂おしい程の胸の痛みが去ることを待つ。だが、もうそれが快方に向かうことなどない。
「ノクト……」
あまりの痛々しさに、ハルジオでさえ、ノクトにもう声をかけられなかった。
少なくとも──今までの彼は少し不器用であっても人間らしかった。
だが、ノクトはもう人間らしくあることを辞めた。彼の人間としての心は、全てを諦め、死んだのだ。




