第八話 休日の誘い
金曜日の放課後。
一週間の授業を終えた教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
部活動へ向かう生徒、友人と遊びに行く約束をする生徒、急いで帰宅する生徒。それぞれが思い思いに教室を出ていく。
九条悠理は鞄を肩に掛けると、いつものように教室の入口へ視線を向けた。
そこには、白峰澪が立っていた。
最近では、それが当たり前になりつつある。
「待たせたか」
「ううん。私も今来たところ」
「そうか」
二人は並んで歩き始める。
最初の頃はどこかぎこちなかった距離も、今では自然だった。
歩幅も、歩く速さも、いつの間にか揃っている。
「今日は金曜日ね」
澪が静かに言う。
「ああ」
「一週間、早かった」
「そうでもない」
「私は早く感じたわ」
「充実してたんだろ」
「……そうかもしれない」
澪は少しだけ笑った。
駅前へ向かう途中、夕焼けが雲の隙間から差し込んでいた。
雨続きだった空とは違い、今日は澄んだ青が広がっている。
「今日は喫茶店?」
「白峰はどうしたい」
「今日は歩きたい気分」
「じゃあ歩くか」
「うん」
二人は住宅街へ続く遊歩道へ向かった。
川沿いの道には夕日が反射し、風が心地よく吹いている。
しばらく無言で歩いていると、澪が小さく口を開いた。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「明日って予定ある?」
九条は少し考える。
「特にはない」
「本当に?」
「ああ」
「家で本を読んだり?」
「たぶん読む」
「そうよね」
澪は納得したように頷いた。
だが、それきり黙ってしまう。
何か言いたそうなのは分かる。
けれど言い出せずにいる。
「何かあるのか」
九条が尋ねると、澪は少しだけ肩を震わせた。
「……分かるの?」
「何となく」
「またそうやって」
「違うなら違うでいい」
「違わないわ」
澪は小さく息を吐いた。
「実はね……」
そこで言葉を止める。
数秒の沈黙。
そして意を決したように口を開いた。
「もし予定がないなら、一緒に出かけない?」
九条は少しだけ目を見開いた。
「出かける?」
「うん」
「どこへ」
「駅前の大きな本屋さん」
「本屋か」
「嫌?」
「いや」
九条は少し考えてから答えた。
「いいと思う」
その返事を聞いた瞬間、澪の表情がふっと明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「よかった……」
「そんなに心配だったのか」
「少しだけ」
「断る理由はないだろ」
「でも、休日だから」
「休日だから?」
「迷惑かなって」
「迷惑じゃない」
九条がそう答えると、澪は安心したように笑った。
「ありがとう」
二人はそのまま歩き続ける。
川の流れる音だけが静かに聞こえる。
「本屋に行ったら何を見るんだ」
「小説」
「白峰らしい」
「あなたは?」
「同じだ」
「やっぱり」
「あと参考書」
「そこも九条くんらしい」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
最初の頃なら考えられないほど自然な笑顔だった。
少し歩いたところで、小さな公園が見えた。
ベンチには誰もいない。
「少し座る?」
澪が聞く。
「いいぞ」
二人は並んで腰掛ける。
夕日が木々の隙間から差し込み、公園全体を橙色に染めていた。
「ねえ」
「なんだ」
「休日に友達と遊ぶのって久しぶりなの」
「そうなのか」
「うん」
「意外だな」
「学校ではみんなと話すけど、休日まで一緒に遊ぶことは少なくて」
「忙しいからか」
「それもあるし……」
澪は少し恥ずかしそうに笑った。
「誘う勇気がなかったの」
「白峰が?」
「そんな顔しないで」
「いや、驚いただけだ」
「完璧だと思われることが多いから、私から誘うと迷惑かなって考えちゃうの」
九条は静かに頷いた。
「考えすぎだ」
「分かってる」
「でも考える」
「そうなの」
澪は苦笑した。
「悠理は?」
「俺は誘われるほうが多い」
「自分からは?」
「ほとんどない」
「どうして?」
「一人でも平気だったから」
「……今は?」
九条は少しだけ空を見上げる。
夕焼けがゆっくりと色を変えていく。
「今は」
一拍置いて答える。
「白峰と話す時間は、悪くない」
澪は目を丸くした。
「……それって」
「本当のことだ」
「そう」
彼女は少しだけ頬を赤くしながら笑った。
「私も」
「ん?」
「悠理と話す時間、好き」
その一言は、とても小さかった。
けれど、九条にははっきり届いた。
二人は少し照れくさくなり、お互いに視線を逸らす。
夕方の風だけが静かに吹いていた。
「じゃあ」
澪が話題を変えるように言う。
「明日は十一時に駅前でいい?」
「ああ」
「遅れない?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「じゃあ遅れない」
「約束ね」
「約束だ」
澪は嬉しそうに頷いた。
その笑顔は、学校で見せる優等生の笑顔ではなく、一人の普通の高校生の笑顔だった。
やがて日が沈み始める。
二人はベンチから立ち上がった。
「今日はここで」
「ああ」
「また明日」
「また明日」
澪は数歩歩いてから振り返る。
「悠理」
「なんだ」
「明日、楽しみにしてる」
そう言って照れくさそうに笑うと、小さく手を振った。
九条も少しだけ手を上げて応える。
「俺もだ」
その返事を聞いた澪は、少し驚いたような顔をしてから、嬉しそうに笑った。
彼女の姿が夕暮れの街へ溶け込んでいく。
九条はその背中を見送りながら思う。
放課後だけだった時間が、少しずつ学校の外へ広がっていく。
明日は初めての休日。
ただ本屋へ行くだけ。
けれど、その「ただ」が、今は少しだけ特別に思えた。
夕焼けの空はゆっくりと夜へ変わっていく。
九条悠理は、明日を待ち遠しいと思っている自分に、小さく苦笑した。
それは今まで感じたことのない、新しい感情だった。




