第七話 優しい沈黙
雨は、まだ降っていた。
公園の木々を打つ音はさっきより強くなっている。けれど、ベンチの上に並んで座る九条悠理と白峰澪の間には、不思議と落ち着いた空気が流れていた。
言葉は多くなかった。
けれど、それで十分だった。
澪は両手で鞄を抱えたまま、雨の向こうを見ている。九条も同じように空を見上げた。低い雲は重く、夕方の光をほとんど隠していた。雨粒が葉を打つ音だけが、近くで細かく響く。
「……静かね」
澪がそう言った。
「そうだな」
「こういう沈黙、嫌いじゃないの」
「俺も」
「本当に?」
「ああ」
澪は少しだけ目を細めた。
彼女は口数が多いほうではない。だが、こうして落ち着いた場所にいると、言葉のひとつひとつに少しだけ温度が宿るのが分かる。学校の中で見せる澪は、どこか整いすぎている。けれど今は違う。ほんの少しだけ肩の力が抜けていて、年相応の少女らしさがあった。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「さっきから、私のこと見すぎ」
「見てない」
「見てるわ」
九条は軽く肩をすくめた。
「気のせいだ」
「その返し、便利ね」
「よく言われる」
澪は小さく笑った。その笑い方は控えめだが、確かに自然だった。
雨が少しだけ弱まる。だが、止む気配はまだない。
九条はベンチの端に置いた自分の鞄に目を落としたあと、ふと口を開いた。
「白峰」
「なに?」
「無理してないか」
澪の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
その問いは、唐突ではなかった。だが、彼女にとっては少しだけ核心に近かったのだろう。澪は視線を落とし、しばらく何も言わなかった。
「……どうして、そう思うの」
「朝から少し顔が疲れてた」
「見てたのね」
「見てた」
「いやらしい」
「失礼だな」
「事実でしょう」
澪はそう言いながらも、完全に否定する気はないらしかった。鞄の持ち手を指先でなぞり、ほんの少しだけ息をつく。
「……少しだけ、ね」
「少しだけか」
「ええ。大したことじゃないわ」
「本当か」
「本当よ」
九条はしばらく彼女を見た。
澪はたしかに強い。頭もよく、立ち居振る舞いも崩れない。けれど、それは“崩れないようにしている”からこそだ。完璧に見える人ほど、見えない場所で頑張っていることがある。
「大したことじゃないなら、話せるだろ」
九条がそう言うと、澪は少しだけ驚いたように目を上げた。
「……急に、優しいのね」
「急にじゃない」
「そう?」
「ああ」
澪は少しだけ視線を逸らした。
「……今日は、少しだけ家のことで気を使ったの。夕飯のこととか、明日の予定とか、そういう些細なこと」
「それで疲れたのか」
「疲れたというより……気を張ってた、のかもしれない」
「そうか」
「ええ」
九条は、それ以上何も聞かなかった。
澪が話したいところまでで十分だった。無理に掘り下げる必要はない。そういうところが、彼女にはきっとちょうどいいのだろう。
しばらく沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は気まずくない。むしろ、隣にいることを確かめるような、やわらかい沈黙だった。
「……悠理は」
「ん」
「今日は、私の話ばかり」
「そうかもな」
「あなた自身のことは?」
九条は少しだけ考えた。
「特に何も」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘ね」
澪は小さく首を振った。
「九条くん、いや、悠理は、自分のことになると急に言葉が減るわ」
「そうか?」
「そう」
九条はわずかに苦笑した。
「……別に、話すことがないわけじゃない」
「じゃあ、話して」
「何を」
「なんでも」
澪は真正面からそう言った。
雨の音が少し遠くなる。公園にはもう、彼ら以外に人の気配はなかった。
九条はしばらく黙り、それから、少しだけ低い声で言った。
「……俺は、誰かが無理してるのを見るのが苦手だ」
澪は目を瞬かせた。
「そうなの」
「ああ」
「意外」
「何が」
「もっと、淡々としてるかと思ってた」
「淡々としてるだろ」
「そこが意外だと言ってるの」
九条は少しだけ視線を落とした。
「……無理してるやつに、何も言えないのも嫌なんだよ」
「どうして」
「見えてるのに、見なかったふりはしたくない」
その言葉に、澪は少しだけ黙った。
雨音の中で、彼の声は静かだった。けれど、その静けさの奥には、はっきりとした誠実さがあった。
「……優しいのね」
「別に」
「褒めてるの」
「そうか」
「ええ」
澪は微かに笑った。
九条はその笑顔を見て、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じる。こうして笑ってくれるだけで、少し報われる気がした。
やがて雨脚が弱まり、木の葉から雫が落ちる音だけが残った。
「……そろそろ、帰れそうね」
「そうだな」
「もう少し、話していたかったけど」
「また話せるだろ」
「そうね」
澪はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「……ねえ、悠理」
「なんだ」
「私、学校ではちゃんとしなきゃいけないと思ってたの」
九条は何も言わずに聞く。
「完璧でいれば、誰にも迷惑をかけないと思っていたし、そうしていれば安心できると思ってた。けど、たぶん違うのね」
「……違うのか」
「ええ。少なくとも、今はそう思う」
澪は雨上がりの匂いを吸い込むように、ゆっくり息をした。
「少し疲れたときに、少し話せる相手がいるだけで、ずいぶん違うの」
「そうか」
「ええ」
「なら、無理に一人で抱えなくていい」
九条がそう言うと、澪はじっと彼を見た。
「……それ、私に言ってるの?」
「ああ」
「あなた自身にも言ってる?」
九条は一瞬だけ黙る。
「……半分は」
「半分って何よ」
「俺も似たようなものだから」
澪は少し驚いた顔をした。
「九条くんが?」
「そう見えないか」
「見えないわけじゃないけど……」
澪は言葉を探すように視線を揺らした。
「……あなたは、誰かを支えるのが上手そうだから」
「上手いわけじゃない」
「そう?」
「たまたまだ」
「たまたまで、あんなふうに人を気遣えるの?」
「……さあな」
澪はしばらく九条を見ていたが、やがて小さくため息をついた。
「本当に不思議」
「何が」
「あなた、優しいのに、自分ではそう思ってないでしょう」
「別に」
「ほら、そういうところ」
九条は返す言葉がなく、少しだけ視線を逸らした。
澪はそれを見て、今度は少しだけ楽しそうに笑った。
「……でも、そういうところ、嫌いじゃない」
「それはどうも」
「素直じゃないのね」
「お前もな」
「私はちゃんと素直よ」
「どの口が言う」
「今の口」
澪はそう言って、ほんの少し胸を張るような仕草をした。完璧な才女らしからぬ、妙に子どもっぽい動きだった。
九条は思わず吹き出しそうになって、こらえる。
「……何よ、その顔」
「いや、白峰もそんな顔するんだなと思って」
「失礼ね」
「事実だ」
「もう」
澪は少しむっとした顔をしたが、すぐに小さく笑ってしまった。
その笑い声は、雨の余韻の中でとても静かだった。
やがて空がわずかに明るくなる。雲の切れ間が、ほんの少しだけ見えた。
「……帰ろうか」
澪が立ち上がる。
「ああ」
二人はベンチから離れ、公園の出口へ向かった。地面はまだ濡れているが、雨はもう大丈夫そうだ。遠くの空に、細い薄明かりが差していた。
公園を出る前に、澪がふいに立ち止まる。
「悠理」
「なんだ」
「今日は、ありがとう」
「何に対してだ」
「話を聞いてくれたこと」
「大したことじゃない」
「そういうところよ」
「何が」
「すぐに軽く言うところ」
澪は少しだけ目を細めた。
「でも、そういう軽さに、救われる人もいるの」
九条は、その言葉に少しだけ黙った。
そして、静かに答える。
「……なら、そういうふうにしてるだけだ」
澪は少しだけ笑った。
「やっぱり優しい」
「だから、違うって」
「違わないわ」
澪はそれ以上は言わず、ただ一歩前に出た。公園の出口の向こうには、夕方の街並みが広がっている。
「また、明日」
「……ああ。また明日」
澪は少しだけ振り返る。
雨上がりの空気の中で、その横顔はいつもより少しだけ柔らかかった。
九条はその後ろ姿を見送りながら、ふと思う。
優しい沈黙は、気まずさではない。
それは、相手を急かさず、無理に言葉を求めず、それでも確かに一緒にいると分かる時間だ。
白峰澪と過ごす放課後には、そういう沈黙が少しずつ増えてきている。
そして九条悠理は、その沈黙を嫌いではないどころか、むしろ大切だと思い始めていた。
雨上がりの空は、まだ完全には晴れていない。
だが、二人の間に流れる空気は、確かに少しだけやわらかくなっていた。




