第六話 静かな喫茶店
白峰澪と帰り道を一緒に歩くようになって、三日が過ぎた。
九条悠理にとって、それはたった三日だった。けれど、妙に長く感じる三日でもあった。
放課後になると、自然と教室の入口を見るようになる。そこに澪の姿があるかどうかで、その日の空気が少し変わるからだ。最初は偶然のように始まった帰り道も、今ではほとんど決まりごとのようになっていた。
今日は朝から空が重く、午後には本格的に降るらしいと天気予報が告げていた。
昼休み、蓮が弁当を食べながら言う。
「で、今日も白峰さんと帰るんだろ」
「別に決まってるわけじゃない」
「いや、決まってる顔してる」
「どういう顔だ」
「自分では気づいてないやつ」
九条はため息をつき、箸を止めた。
「そんなに分かりやすいか」
「分かりやすい。しかも、最近ちょっと機嫌いいし」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないなあ」
蓮はにやにやしながら、弁当の卵焼きを口に入れる。
「まあ、別にいいけど。お前が落ち着いてるなら、それで」
「落ち着いてるのは元からだ」
「それ自分で言うのは違うだろ」
蓮の軽口を適当に流しながらも、九条の意識はどこか別のところにあった。
今日は、澪が少し疲れているように見えたからだ。
朝のHR前、彼女はいつも通り整っていた。だが、教室に入ってくるときの足取りが、ほんの少しだけ遅かった。誰にも気づかれない程度の変化だろう。けれど、九条には分かる。
彼女は、今も無理をしている。
そして、それを見抜いてしまう自分は、また余計なことを考えている。
放課後。
窓の外では、雲がいっそう低く垂れ込めていた。雨はまだ降っていないが、空気が重い。
九条が荷物を持って立ち上がると、教室の入口に白峰澪が立っていた。
「……今日も来たな」
「ええ」
「待ってたのか」
「少しだけ」
澪はそう言って、ほんの少しだけ視線を逸らした。
九条はその仕草に、思わず小さく笑ってしまいそうになる。
「どうしたの」
「いや、何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「そうか」
「そう」
澪は少しむっとしたように唇を結んだが、その表情もすぐにやわらいだ。こういうやり取りが、最近は少しずつ増えている。
二人は校舎を出て、駅前へ向かう。
道中、澪が小さく息をついた。
「今日は、喫茶店でいい?」
「いつも通りだろ」
「そうだけど」
「嫌になったか」
「そうじゃないわ。ただ……」
そこで澪は、少し考えるように目を伏せた。
「……静かにしたい気分なの」
「いつも静かだろ」
「そういう意味じゃないの」
九条は彼女を見る。
澪は言いにくそうにしながらも、ちゃんと自分の気持ちを言葉にしようとしていた。
「……今日は、少しだけ人に会うのが疲れるの」
「分かった」
「……え」
「別の場所にするか」
九条はそう言っただけだった。
澪は目を丸くして、それから少しだけ驚いたように唇を開いた。
「……いいの?」
「いいも何も、嫌なら変えればいいだろ」
「でも、いつもあの店だったから」
「別に、固定する必要はない」
澪はしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない」
「そうかもしれないけど」
その声は、少しだけ柔らかかった。
九条は駅前へ向かう途中の通りを見渡した。喫茶店の手前には、小さな公園がある。夕方になると子どもたちはほとんどいない。ベンチがいくつかあり、街路樹の下は風が通る。
「公園でいいか」
九条が言うと、澪は少しだけ目を上げた。
「……公園?」
「雨が降る前なら、少しは座れる」
「でも、子どもがいるかもしれない」
「今は少ない時間だろ」
澪は少し迷ったが、最終的にうなずいた。
「……じゃあ、行ってみる」
公園は静かだった。
すべり台の下に小さな砂場があり、ベンチの一つには誰もいない。風が木の葉を揺らし、遠くで車の走る音がする。
二人は並んでベンチに座った。
喫茶店のような整った静けさとは違う。もっと曖昧で、少しだけ空が広く感じる静けさだった。
澪はベンチに浅く腰かけ、両手を膝の上に揃える。
「……こういう場所、久しぶりかも」
「嫌か」
「いいえ。むしろ、落ち着く」
「ならよかった」
九条が言うと、澪は少しだけ視線を落とした。
「……九条くん」
「なんだ」
「最近、私のことを考えすぎてない?」
唐突な言葉だった。
九条は少しだけ目を見開く。
「は?」
「違う?」
「いや、違うとは言えないけど」
「やっぱり」
「……白峰のほうこそ、俺のこと考えすぎじゃないか」
「え?」
「最近、俺に細かいこと聞くし」
「それは……」
澪は少しだけ黙った。珍しく言葉が詰まる。
「……気になるから」
たったそれだけの言葉が、やけに重かった。
九条は何も返せず、しばらく前を向いたままだった。
夕方の空はまだ灰色だ。雨は落ちてこないが、いつ降ってもおかしくない。
「……気になる、って」
「だって」
澪は少しだけ眉を寄せた。
「九条くんは、私が思っていたよりずっとやさしいし、落ち着いてるし、でも少しだけ無茶をするところがあるでしょう」
「無茶なんてしてない」
「してるわ」
「してない」
「してる」
澪はいつもの静かな声のまま、少しだけ強く言った。
「私、気づくの。無理をしないように見えて、ちゃんと無理してる人だって」
九条はその言葉に、思わず黙った。
澪は視線を外し、少しだけ言いにくそうに続ける。
「……だから、気になるのよ」
九条はしばらく何も言えなかった。
彼女は自分を観察していた。
それが、妙にこそばゆくて、少しだけ嬉しい。
「……白峰もだろ」
「え?」
「俺から見たら、お前のほうが無理してる」
澪の肩が、ほんのわずかに揺れた。
「何それ」
「事実だ」
「どこが」
「全部」
「全部って何よ」
「朝からずっとだ」
九条は澪の顔を見た。
「人前では完璧なふりをして、気を使って、疲れてても疲れてない顔をする。そういうの、分かる」
澪は何も言わない。
「昨日だって、少し顔色悪かった」
「……見てたの」
「見てた」
澪は一瞬だけ顔を赤くした。
「……いやらしい」
「何がだ」
「そんなふうに、人のことを見てるなんて」
「お互い様だろ」
「うっ」
澪は言葉に詰まると、少しだけ視線を逸らした。
その反応に、九条は思わず口元を緩める。
「笑わないで」
「笑ってない」
「絶対笑ってた」
「気のせいだ」
「その返し、最近覚えたでしょう」
「たぶんな」
澪は少しだけため息をついたが、口元はほんのわずかに笑っていた。
そのとき、空からぽつり、と音が落ちた。
次に、もう一つ。
雨だ。
九条と澪は同時に空を見上げる。
「……降った」
「ほんとね」
「どうする」
「どうする、って」
「ここで待つか」
九条が言うと、澪は少し考えてからうなずいた。
「……少しだけなら」
雨はすぐに強くなりそうだった。だが、公園の木々が少しだけ雨を遮ってくれる。ベンチの上にぽつぽつと雫が落ち始める頃、澪がそっと鞄を抱えた。
「九条くん」
「なんだ」
「……今日、あの喫茶店じゃなくても、別にいいのね」
「ああ」
「私、少し安心した」
「それはよかった」
「本当に思ってる?」
「思ってる」
澪は、しばらく黙ったあと、小さく言った。
「……なんだか、不思議」
「何が」
「九条くんといると、急かされないの」
「急かしたことあるか」
「ないけど」
「ならそれでいいだろ」
「そうだけど」
彼女は少しだけ目を伏せる。
「私、急かされるのが苦手なの」
「見れば分かる」
「そういうところよ」
「何が」
「分かるって、すぐ言うところ」
「悪いか」
「……悪くはない」
雨音が少しずつ強まっていく。
ベンチの上に落ちた雨粒が、暗い地面を濡らし始める。公園にはもう二人しかいない。
澪はひとつ息を吸い、静かに言った。
「……九条くん」
「なんだ」
「もし、私が少しだけわがままを言ったら、聞いてくれる?」
九条は少しだけ驚いた。
「内容による」
「ひどい」
「正直なだけだ」
「でも、聞いてくれる?」
「まあ、聞く」
澪は少しだけ表情を和らげた。
「……じゃあ、今日は少しだけ、このまま話していたい」
九条は、その言葉に少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
公園のベンチで、雨の音を聞きながら話したい。
それだけの願いを、彼女はわざわざ“わがまま”と呼んだ。
「……それなら、いい」
「本当に?」
「ああ」
「ありがとう」
澪は鞄を膝の上に置き、少しだけこちらに体を向ける。
雨音は強くなっていたが、不思議と嫌ではなかった。
「九条くんは、こういう時間、嫌い?」
「嫌いじゃない」
「なら、よかった」
「白峰は」
「え?」
「こういうの、苦手かと思ってた」
「苦手よ」
「そうなのか」
「でも、九条くんとなら、少しだけ平気」
その返事に、九条は言葉を失った。
澪は何でもないような顔をしていたが、耳は少し赤い。たぶん、自分が何を言ったのか分かっているのだろう。
九条は、少しだけ視線を外した。
「……俺も、同じだ」
「同じ?」
「お前となら、静かな場所でも気にならない」
澪は、その言葉を聞いてから、しばらくじっとこちらを見つめた。
「……そう」
「うん」
「なら、今日はこのまま少しだけ、ここにいましょう」
「そうだな」
雨は降り続いていた。
だが、公園のベンチの上で並んで座る二人には、それほど悪くない時間だった。
喫茶店よりも近く、教室よりも静かで、帰り道よりも少しだけ本音が出る。
九条は思う。
白峰澪は、たぶん誰かに甘えるのが下手だ。
けれど、少しずつ、自分にだけその下手さを見せてくれている。
それは、きっと信頼だ。
そして、自分のほうも同じだった。
誰かに頼るのが下手で、誰かに見せる顔を決めていて、でも彼女の前では少しだけそれが崩れる。
雨の音の中で、二人はしばらく黙って座っていた。
静かだが、気まずくはない。
やがて澪が、ぽつりと言う。
「……ねえ、悠理」
「なんだ」
「このままだと、私たち、喫茶店より公園のほうが好きになりそう」
九条は少しだけ笑った。
「それでもいいだろ」
「ええ、そうね」
澪も、少しだけ笑った。
その笑顔は、雨空の下でもよく見えた。
静かな喫茶店も悪くない。
けれど、雨の日の公園で、こうして少しだけ本音を交換するのも、きっと悪くない。
九条悠理はそう思いながら、雨音に耳を澄ませた。
白峰澪といる時間は、少しずつ、確実に、自分の居場所になっていた。




