第五話 初めての帰り道
翌日の放課後、九条悠理が教室を出ようとしたとき、白峰澪はすでに入口のところに立っていた。
いつものように整った姿勢で、いつものように静かに待っている。
ただし、今日は少しだけ違った。
彼女は九条を見ると、ほんの少しだけ視線を逸らしたのだ。
「……待った?」
「いや、今来たところだ」
「そう」
澪は短くうなずいたが、その声音にはどこか微妙な緊張が混じっていた。
九条は気づいたが、あえて触れないことにした。昨日、あまりにも自然に名前を呼んでしまったせいで、今日は彼女のほうが少し意識しているのかもしれない。
「行くか」
「ええ」
二人で教室を出る。
廊下には、部活へ向かう生徒たちの足音が響いていた。窓の外は夕方の色に変わりつつある。梅雨の空は依然として重かったが、雨はまだ降っていない。
駅前の喫茶店へ向かう、いつもの道。
だが、今日は店に入る前に、澪が珍しく足を止めた。
「……今日は、やめておく?」
「何を」
「喫茶店」
九条は少しだけ首をかしげた。
「嫌になったか」
「そうじゃないけど……毎日だと、少し変かなって」
「変じゃないだろ」
「でも、昨日も一昨日も行ったし」
「別にいい」
「本当に?」
「ああ」
九条はそう言ったが、澪はまだ迷っているようだった。彼女は、何かを決めるまでに少し時間がかかる。完璧に見えるのに、こういうところは驚くほど慎重だ。
やがて澪は、少しだけ視線を伏せた。
「……じゃあ、今日は帰る道を少し歩いてみたいの」
「帰る道?」
「ええ。喫茶店じゃなくて、普通の道」
「普通の道、ね」
「変かしら」
「いや」
九条は軽く首を振った。
「いいんじゃないか」
澪は少しだけ安心したように息をついた。
「……そう」
そのまま二人は、駅前ではなく住宅街の方へ向かって歩き出した。夕暮れ時の道は、人通りが少しだけ減っていて、商店街の喧騒も遠ざかる。蝉の声がどこかで鳴き始めていた。
澪はしばらく無言だったが、やがてぽつりと言った。
「こういう道、好きなの」
「静かだからか」
「ええ。それに、話しやすい」
「そうか」
「学校だと、周りに誰かいるでしょう。喫茶店も落ち着くけど、今日は少しだけ違う感じで……」
澪はそこで言葉を切った。自分でも何を言っているのか、少し迷っているようだった。
九条は横目で彼女を見る。
校舎の中では整って見える白峰澪が、今はどこか不器用に言葉を探している。その姿は、意外なほど年相応だった。
「……帰り道って、こういうものなのかもな」
「どういうこと?」
「ただ歩くだけで、少し話せる」
「それだけ?」
「それだけだ」
「それでいいの?」
「たぶん」
澪は少しだけ考える素振りを見せ、それから小さく笑った。
「……悠理は、そういうのが自然なのね」
「そうか?」
「ええ。無理に何かしようとしない」
「別に、何かしようとしてるわけじゃない」
「だから自然なのよ」
その言葉に、九条は少しだけ口元を緩めた。
「褒めてるのか」
「たぶん」
「たぶん、って便利だな」
「あなたもよく使うでしょう」
「そうか?」
「ええ」
そんなやり取りをしながら、二人は住宅街の細い道を進む。古い家の塀、鉢植えの並ぶ玄関先、夕飯の匂い。そうした何でもない景色が、澪と一緒だと少しだけ違って見えた。
しばらく歩いたところで、澪がふと足を止める。
「ここ」
「どうした」
「この角を曲がると、私の家なの」
「そうか」
「うん」
澪はそこで言葉を止め、少しだけ視線を逸らした。
九条はなんとなく、その先を急がないほうがいい気がした。
「……今日は、ここまででいい?」
「いいも何も、家まで送るつもりだったのか」
「そこまでは言ってない」
「でも、送るか」
「……いいの?」
「別に」
澪は一瞬だけ驚いた顔をしたあと、小さく笑った。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
角を曲がると、閑静な住宅地が続いていた。高い塀の家が多く、どこも静かだ。澪の家はその中でも少しだけ大きく、庭の手入れが行き届いている。いかにも“白峰家”という印象だった。
門の前に立つと、澪は少しだけ背筋を正す。
「……ここが家」
「見れば分かる」
「そうね」
「大きいな」
「普通よ」
「普通じゃないだろ」
「あなたの家は?」
「普通だ」
「……それは、そうね」
澪は小さく笑ったが、そのあと少しだけ黙った。
門の前で二人が並ぶ。夕方の風が、木の葉を揺らした。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「今日は、ここまで送ってくれてありがとう」
「別に」
「別に、じゃないでしょう」
「そうかもな」
「……それでね」
澪はほんの少しだけ言い淀んだ。
九条は何も言わず、待つ。
その沈黙の中で、澪の耳が少しだけ赤くなっていくのが分かった。
「また、明日も……一緒に帰ってもいい?」
九条は、その言葉に少しだけ目を見開いた。
喫茶店でもない。教室でもない。放課後の寄り道でもない。普通の帰り道を、一緒に歩く。それを彼女が自分から望んだのだ。
「……別にいい」
「本当に?」
「ああ」
「約束よ」
「分かった」
澪は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「……よかった」
「そんなに不安だったのか」
「少しだけ」
「何が」
「断られたら、気まずいかなって」
「断る理由はないだろ」
「それは、そうだけど」
澪は少しだけ視線を伏せた。
「でも、九条くんが嫌なら、無理に言いたくなかったの」
その言葉を聞いて、九条は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
彼女はたぶん、自分が思っている以上に、こちらを気にしている。
それは重く感じるはずのものではなく、むしろ嬉しかった。
「嫌じゃない」
「……そう」
「だから、明日も一緒に帰る」
「ええ」
「毎日でもいい」
澪は一瞬だけ固まったあと、少しだけ頬を赤くした。
「……それは、言いすぎ」
「そうか?」
「言いすぎよ」
「分かった」
言いながらも、九条は少し笑っていた。
澪はそれを見て、少しだけむっとした顔をする。
「何よ」
「いや、白峰がそんな顔をするんだなと思って」
「……ひどい」
「褒めてる」
「絶対そうは聞こえない」
「そうかもな」
澪は小さく息を吐き、やがて自分でも少し笑ってしまった。
その笑顔は、今日一番やわらかかった。
九条は、その瞬間に気づく。
喫茶店で向かい合っているときよりも、こうして帰り道で並んで歩くほうが、彼女は少し自然だ。
屋内の静けさではなく、夕暮れの空気の中で、ゆっくり話すほうが合っているのかもしれない。
「じゃあ、また明日」
「……ああ、また明日」
澪は門の前から少しだけ離れ、今度は本当に家の方へ歩き出した。けれど、すぐには入らず、数歩先で振り返る。
それが、ここ数日の彼女の癖になりつつある。
「悠理」
「なんだ」
「名前、呼ぶの……まだ少し恥ずかしい」
「そうか」
「でも、嫌じゃないの」
「ならいい」
「うん」
澪はそこで少しだけ息を吸った。
「……また、明日ね」
さっきより少し自然だった。
「おう」
彼女が門の向こうに消えるまで、九条はその場を動かなかった。
帰り道を一緒に歩くだけ。
ただそれだけのことが、こんなにも心地いい。
九条はふと、自分が今まで何をしていたのか分からなくなるほど、穏やかな気持ちになっていた。
学校での白峰澪は、誰からも完璧だと思われている。
だが、放課後や帰り道で見せる彼女は少し違う。
言葉を選び、迷い、照れて、それでもちゃんと自分の気持ちを伝えようとする。
そんな姿を知ってしまった今、もう以前のようには見られない。
そしてそれは、たぶん彼女も同じなのだろう。
九条悠理が、ただの静かな優等生ではないことを、少しずつ知っている。
相手の気持ちを急かさず、無理に踏み込まず、それでも必要なときにはちゃんと手を差し出す。
そういう距離感が、自分にはちょうどいいのだと、澪は気づき始めているのかもしれない。
夕暮れは少しずつ濃くなっていく。
遠くで、夕飯の支度を知らせる音がした。
九条はゆっくりと自分の家へ向かいながら、今日の会話を思い返す。
また明日、一緒に帰る。
たったそれだけの約束。
けれど、その約束があるだけで、明日が少しだけ楽しみになる。
それは、これまでの九条にとって、あまりなかった感覚だった。
静かな帰り道の先で、彼は初めてはっきりと理解する。
この日々は、もうただの放課後ではない。
白峰澪と歩く帰り道は、いつのまにか、自分にとって一番落ち着く場所になっていた。




