第四話 静かな約束
白峰澪が「悠理」と呼んだ翌日、九条悠理は朝から少し落ち着かなかった。
名前を呼ばれた。それだけのことだ。
なのに、妙に頭の片隅に残っている。
教室の窓から差し込む朝の光は柔らかい。六月の空気は相変わらず湿っていたが、昨日のような重たい雲はない。九条は教科書を机に置きながら、無意識に窓の外を見た。
「おはよ」
蓮が椅子を引きながらやってくる。
「また変な顔してるぞ」
「してない」
「してる。しかも昨日より落ち着きない」
「気のせいだ」
「そういう時ほど当たってるんだよなあ」
九条はため息をついた。蓮の観察眼は、こういうときだけ妙に鋭い。
「で、何があった」
「何もない」
「何もない顔じゃない」
「……うるさい」
「図星か」
蓮は面白そうに笑ったが、それ以上は突っ込んでこなかった。こういうところが、ありがたいと思う。
朝のHRが始まり、いつものように授業が進む。
だが、九条の意識は時々、窓際の席へ引っ張られた。
白峰澪。
彼女は今日も変わらない様子でノートを開き、姿勢正しく授業を受けている。見た目だけなら、昨日までと何も変わらない。けれど九条には、ほんの少し違って見えた。
昨日、自分の名前を呼んだ彼女。
あのときの、小さくて、少しだけ照れた声。
それだけで、十分だった。
昼休みになると、蓮が購買へ向かうと言って席を立った。九条は弁当を広げながら、ぼんやりと箸を動かす。
すると、視線を感じた。
顔を上げると、白峰澪がこちらを見ていた。
目が合う。
数秒。
澪はすぐに視線を逸らしたが、その頬にほんの少しだけ赤みが差したように見えた。
九条は、思わず箸を止める。
今のは、気のせいか。
いや、気のせいではない気がする。
その瞬間、蓮が戻ってきた。
「お、なんだ今の」
「何が」
「白峰さん、こっち見てたろ」
「見てない」
「いや見てた」
「見てない」
「珍しいな、お前がそんなに否定するの」
「うるさい」
蓮は怪訝そうに笑ったが、弁当の中身を見るなり話題を変えた。
「今日、放課後どっか行くのか」
「別に」
「昨日みたいに喫茶店?」
「……そうかも」
「やっぱりな」
「なにが」
「いや、なんでも」
蓮は意味ありげに笑ったが、九条は無視した。今はそれどころではない。
放課後。
教室の空気が少しずつ緩み始めるころ、九条は荷物をまとめた。
窓の外を見ると、空は明るい。雨の気配はない。
だが、教室の入口で振り向いたとき、そこに白峰澪が立っていた。
「……待ってたのか」
「ええ」
「珍しいな」
「そう?」
「まあ、白峰が誰かを待つのは、あまり想像できない」
「失礼ね」
「事実だろ」
「そうかもしれないけど」
澪は少しだけ口を尖らせた。
その表情が、妙に自然だった。
二人は並んで教室を出る。
廊下は放課後の静けさに包まれていた。遠くから部活の掛け声が聞こえるが、近くは驚くほど静かだ。
「今日は、どこへ行くの?」
澪が尋ねる。
「喫茶店」
「昨日のところ?」
「ああ」
「気に入ったの?」
「落ち着くからな」
「……私も、少し好きかも」
「そうか」
「ええ」
澪は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
駅前の喫茶店に着くと、昨日と同じ店員がにこやかに迎えてくれた。窓際の席も、壁際の席も空いている。
「今日は、どっちにする?」
九条が聞くと、澪は一瞬迷ったあと、壁際の席を見た。
「……今日は窓際でもいいわ」
「昨日と違うな」
「気分よ」
「なるほど」
向かい合って座る。運ばれてきた紅茶の香りが、静かに広がった。
澪はカップを手に取り、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「ここ、やっぱり落ち着く」
「ならよかった」
「でも、ちょっとだけ不思議」
「何が」
「こんなに静かな場所で、誰かと会うのって、あまりなかったから」
九条は少しだけ目を上げた。
「友達はいるだろ」
「いるわ。けど、こういうのじゃない」
「こういうの?」
「……うまく言えない」
澪は小さく首を振った。
「学校で会う友達とは、少し違う。気を張らずにいられるというか」
「それは、良いことだろ」
「ええ」
九条は、彼女のその言い方が少しだけうれしかった。
少しして、澪が紅茶を置く。
「ねえ、悠理」
「なんだ」
「昨日、名前で呼んだでしょう」
「ああ」
「……あれ、変じゃなかった?」
九条は少しだけ固まった。
「変じゃない」
「そう」
「むしろ」
「むしろ?」
「思ってたより、しっくりきた」
澪の手が、カップの取っ手で止まる。
しばらく黙ったあと、彼女は小さく息を吐いた。
「……そう」
その一言だけなのに、妙に熱がこもっているようだった。
九条は、つい視線を逸らす。
「白峰も、悪くなかった」
「何が」
「呼び方」
「……そう」
「だから、別にそのままでいい」
「……分かった」
澪は小さくうなずいたが、その耳がほんの少し赤い。
九条はそれを見て、なぜか笑いそうになった。
「何よ」
「いや、別に」
「今、少し笑ったでしょう」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないわ」
澪は少しだけむくれたような顔をしたが、その表情もやはり柔らかい。
紅茶を飲み終え、しばらく他愛のない話をしたあと、外が薄く暗くなっていることに気づいた。
「降りそうだな」
九条が言う。
「ええ。傘はあるから大丈夫」
「今日は忘れてないか」
「忘れないわ」
「昨日もそう言ってたな」
「今はちゃんと持ってる」
「なら安心だ」
席を立つと、澪が少しだけ鞄を抱きしめるようにして持った。
「……ねえ」
「なんだ」
「九条くんは、どうしていつもそんなに落ち着いてるの?」
唐突な問いだった。
九条は少しだけ考える。
「落ち着いてるように見えるだけだ」
「そう?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
澪はしばらく見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……そういうことにしておくわ」
店を出ると、夕方の風が少し冷たい。空は灰色に傾き始めていた。
駅へ向かう道で、澪がぽつりと言う。
「今日、少しだけ考えていたの」
「何を」
「昨日から、九条くんのことを名前で呼ぶと、なんだか距離が近くなる気がするって」
九条は少しだけ歩く速度を落とした。
「それは、気のせいじゃないか」
「そうかしら」
「たぶん」
「……たぶん、ね」
澪は小さく息をつく。
「でも、嫌じゃないの」
「何が」
「距離が近くなること」
その言葉に、九条は一瞬だけ返事が遅れた。
「……俺も、嫌じゃない」
澪は目を瞬かせる。
「そう」
「うん」
「じゃあ、続けてもいい?」
「何を」
「名前で呼ぶこと」
九条は少しだけ笑った。
「好きにしろ」
「投げやり」
「そうか?」
「ええ」
澪はそう言ってから、少し間を置き、小さく息を吸った。
「……悠理」
その呼び方は、昨日より少しだけ自然だった。
九条はそれに応えるように、彼女の方を見た。
「なんだ」
「……ううん。呼んでみただけ」
「変なやつだな」
「今さら?」
「今さらだ」
澪は少しだけ目を細め、ほんのわずかに笑った。
その笑顔を見た九条は、思った。
この人は、学校では完璧で、誰の前でも崩れない。
けれど、自分の前では少しずつ崩れている。
それは弱さなのか、信頼なのか、まだよく分からない。
ただ、悪くない。
むしろ、少しうれしい。
駅の手前で、澪が立ち止まった。
「私はこっち」
「ああ」
「また明日」
「また明日」
澪は少し迷ったように、右手をほんの少しだけ上げた。
手を振る、というほど大げさではない。
けれど、それだけで十分だった。
「……悠理」
「今度はなんだ」
「明日も、ここでいい?」
九条は少しだけ目を丸くした。
「別にいい」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、明日も」
「……わかった」
澪は満足したようにうなずくと、静かに歩き出す。
角を曲がって見えなくなる直前、彼女はもう一度だけこちらを振り返った。
その顔は、昨日より少しだけ明るかった。
九条はその背中を見送ったあと、しばらくその場から動けなかった。
静かな約束。
それは大げさなものではない。
ただ、明日も会う。
ただ、それだけ。
けれど、そういう小さな約束ほど、時々いちばん長く残る。
空にはまだ雲があったが、雨は降っていない。
そして九条悠理は、放課後という居場所が、少しずつ確かに形を持ちはじめていることを、はっきりと感じていた。




