表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/27

第四話 静かな約束


 白峰澪が「悠理」と呼んだ翌日、九条悠理は朝から少し落ち着かなかった。


 名前を呼ばれた。それだけのことだ。


 なのに、妙に頭の片隅に残っている。


 教室の窓から差し込む朝の光は柔らかい。六月の空気は相変わらず湿っていたが、昨日のような重たい雲はない。九条は教科書を机に置きながら、無意識に窓の外を見た。


「おはよ」


 蓮が椅子を引きながらやってくる。


「また変な顔してるぞ」


「してない」


「してる。しかも昨日より落ち着きない」


「気のせいだ」


「そういう時ほど当たってるんだよなあ」


 九条はため息をついた。蓮の観察眼は、こういうときだけ妙に鋭い。


「で、何があった」


「何もない」


「何もない顔じゃない」


「……うるさい」


「図星か」


 蓮は面白そうに笑ったが、それ以上は突っ込んでこなかった。こういうところが、ありがたいと思う。


 朝のHRが始まり、いつものように授業が進む。


 だが、九条の意識は時々、窓際の席へ引っ張られた。


 白峰澪。


 彼女は今日も変わらない様子でノートを開き、姿勢正しく授業を受けている。見た目だけなら、昨日までと何も変わらない。けれど九条には、ほんの少し違って見えた。


 昨日、自分の名前を呼んだ彼女。


 あのときの、小さくて、少しだけ照れた声。


 それだけで、十分だった。


 昼休みになると、蓮が購買へ向かうと言って席を立った。九条は弁当を広げながら、ぼんやりと箸を動かす。


 すると、視線を感じた。


 顔を上げると、白峰澪がこちらを見ていた。


 目が合う。


 数秒。


 澪はすぐに視線を逸らしたが、その頬にほんの少しだけ赤みが差したように見えた。


 九条は、思わず箸を止める。


 今のは、気のせいか。


 いや、気のせいではない気がする。


 その瞬間、蓮が戻ってきた。


「お、なんだ今の」


「何が」


「白峰さん、こっち見てたろ」


「見てない」


「いや見てた」


「見てない」


「珍しいな、お前がそんなに否定するの」


「うるさい」


 蓮は怪訝そうに笑ったが、弁当の中身を見るなり話題を変えた。


「今日、放課後どっか行くのか」


「別に」


「昨日みたいに喫茶店?」


「……そうかも」


「やっぱりな」


「なにが」


「いや、なんでも」


 蓮は意味ありげに笑ったが、九条は無視した。今はそれどころではない。


 放課後。


 教室の空気が少しずつ緩み始めるころ、九条は荷物をまとめた。


 窓の外を見ると、空は明るい。雨の気配はない。


 だが、教室の入口で振り向いたとき、そこに白峰澪が立っていた。


「……待ってたのか」


「ええ」


「珍しいな」


「そう?」


「まあ、白峰が誰かを待つのは、あまり想像できない」


「失礼ね」


「事実だろ」


「そうかもしれないけど」


 澪は少しだけ口を尖らせた。


 その表情が、妙に自然だった。


 二人は並んで教室を出る。


 廊下は放課後の静けさに包まれていた。遠くから部活の掛け声が聞こえるが、近くは驚くほど静かだ。


「今日は、どこへ行くの?」


 澪が尋ねる。


「喫茶店」


「昨日のところ?」


「ああ」


「気に入ったの?」


「落ち着くからな」


「……私も、少し好きかも」


「そうか」


「ええ」


 澪は、ほんの少しだけ視線を逸らした。


 駅前の喫茶店に着くと、昨日と同じ店員がにこやかに迎えてくれた。窓際の席も、壁際の席も空いている。


「今日は、どっちにする?」


 九条が聞くと、澪は一瞬迷ったあと、壁際の席を見た。


「……今日は窓際でもいいわ」


「昨日と違うな」


「気分よ」


「なるほど」


 向かい合って座る。運ばれてきた紅茶の香りが、静かに広がった。


 澪はカップを手に取り、ほんの少しだけ肩の力を抜く。


「ここ、やっぱり落ち着く」


「ならよかった」


「でも、ちょっとだけ不思議」


「何が」


「こんなに静かな場所で、誰かと会うのって、あまりなかったから」


 九条は少しだけ目を上げた。


「友達はいるだろ」


「いるわ。けど、こういうのじゃない」


「こういうの?」


「……うまく言えない」


 澪は小さく首を振った。


「学校で会う友達とは、少し違う。気を張らずにいられるというか」


「それは、良いことだろ」


「ええ」


 九条は、彼女のその言い方が少しだけうれしかった。


 少しして、澪が紅茶を置く。


「ねえ、悠理」


「なんだ」


「昨日、名前で呼んだでしょう」


「ああ」


「……あれ、変じゃなかった?」


 九条は少しだけ固まった。


「変じゃない」


「そう」


「むしろ」


「むしろ?」


「思ってたより、しっくりきた」


 澪の手が、カップの取っ手で止まる。


 しばらく黙ったあと、彼女は小さく息を吐いた。


「……そう」


 その一言だけなのに、妙に熱がこもっているようだった。


 九条は、つい視線を逸らす。


「白峰も、悪くなかった」


「何が」


「呼び方」


「……そう」


「だから、別にそのままでいい」


「……分かった」


 澪は小さくうなずいたが、その耳がほんの少し赤い。


 九条はそれを見て、なぜか笑いそうになった。


「何よ」


「いや、別に」


「今、少し笑ったでしょう」


「気のせいだ」


「気のせいじゃないわ」


 澪は少しだけむくれたような顔をしたが、その表情もやはり柔らかい。


 紅茶を飲み終え、しばらく他愛のない話をしたあと、外が薄く暗くなっていることに気づいた。


「降りそうだな」


 九条が言う。


「ええ。傘はあるから大丈夫」


「今日は忘れてないか」


「忘れないわ」


「昨日もそう言ってたな」


「今はちゃんと持ってる」


「なら安心だ」


 席を立つと、澪が少しだけ鞄を抱きしめるようにして持った。


「……ねえ」


「なんだ」


「九条くんは、どうしていつもそんなに落ち着いてるの?」


 唐突な問いだった。


 九条は少しだけ考える。


「落ち着いてるように見えるだけだ」


「そう?」


「ああ」


「本当に?」


「本当だ」


 澪はしばらく見つめていたが、やがて小さく笑った。


「……そういうことにしておくわ」


 店を出ると、夕方の風が少し冷たい。空は灰色に傾き始めていた。


 駅へ向かう道で、澪がぽつりと言う。


「今日、少しだけ考えていたの」


「何を」


「昨日から、九条くんのことを名前で呼ぶと、なんだか距離が近くなる気がするって」


 九条は少しだけ歩く速度を落とした。


「それは、気のせいじゃないか」


「そうかしら」


「たぶん」


「……たぶん、ね」


 澪は小さく息をつく。


「でも、嫌じゃないの」


「何が」


「距離が近くなること」


 その言葉に、九条は一瞬だけ返事が遅れた。


「……俺も、嫌じゃない」


 澪は目を瞬かせる。


「そう」


「うん」


「じゃあ、続けてもいい?」


「何を」


「名前で呼ぶこと」


 九条は少しだけ笑った。


「好きにしろ」


「投げやり」


「そうか?」


「ええ」


 澪はそう言ってから、少し間を置き、小さく息を吸った。


「……悠理」


 その呼び方は、昨日より少しだけ自然だった。


 九条はそれに応えるように、彼女の方を見た。


「なんだ」


「……ううん。呼んでみただけ」


「変なやつだな」


「今さら?」


「今さらだ」


 澪は少しだけ目を細め、ほんのわずかに笑った。


 その笑顔を見た九条は、思った。


 この人は、学校では完璧で、誰の前でも崩れない。


 けれど、自分の前では少しずつ崩れている。


 それは弱さなのか、信頼なのか、まだよく分からない。


 ただ、悪くない。


 むしろ、少しうれしい。


 駅の手前で、澪が立ち止まった。


「私はこっち」


「ああ」


「また明日」


「また明日」


 澪は少し迷ったように、右手をほんの少しだけ上げた。


 手を振る、というほど大げさではない。


 けれど、それだけで十分だった。


「……悠理」


「今度はなんだ」


「明日も、ここでいい?」


 九条は少しだけ目を丸くした。


「別にいい」


「本当に?」


「ああ」


「じゃあ、明日も」


「……わかった」


 澪は満足したようにうなずくと、静かに歩き出す。


 角を曲がって見えなくなる直前、彼女はもう一度だけこちらを振り返った。


 その顔は、昨日より少しだけ明るかった。


 九条はその背中を見送ったあと、しばらくその場から動けなかった。


 静かな約束。


 それは大げさなものではない。


 ただ、明日も会う。


 ただ、それだけ。


 けれど、そういう小さな約束ほど、時々いちばん長く残る。


 空にはまだ雲があったが、雨は降っていない。


 そして九条悠理は、放課後という居場所が、少しずつ確かに形を持ちはじめていることを、はっきりと感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ