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第三話 名前で呼ぶまで

 翌日の放課後、九条悠理は少しだけ早く教室を出るつもりだった。


 だが、予定はあっさり崩れた。


「九条」


 後ろから呼ばれて振り向くと、蓮がいつもの調子で手を振っていた。


「悪い。今日、ちょっと残る」


「何か用事か」


「まあな」


「……白峰さん絡みだろ」


「違う」


「即答かよ」


 蓮はにやりと笑った。


「まあいい。お前、最近ちょっと変だぞ」


「何が」


「落ち着いてるようで、どっか気にしてる」


「気のせいだ」


「そういうことにしとく」


 蓮はそれ以上追及せず、あっさり教室を出ていった。九条は少しだけ助かった気分になり、机の上のノートを閉じた。


 今日は白峰澪と、駅前の喫茶店に寄る約束があった。


 約束、といっても大げさなものではない。昨日、澪が「また来てもいい」と言い、九条が「別にいい」と返しただけだ。だが、たったそれだけでも、妙に気にかかる。


 自分でも理由は分かっていた。


 彼女が、自分の知らない場所を少しだけ見せてくれたからだ。


 教室を出ると、廊下の向こうから静かな足音が来る。振り向くと、白峰澪がこちらへ歩いてきていた。


 学校では変わらず整っている。髪も服装も乱れがなく、姿勢も美しい。


 ただ、九条にはもう分かる。


 今日の彼女は、少しだけ緊張している。


「待った?」


「いや」


「そう」


 澪は短くうなずいた。


 それだけのやり取りなのに、昨日より少しだけ距離が近い。喫茶店で話しただけで、何かが変わったわけではないはずなのに、空気の輪郭がやわらかくなっていた。


 二人は並んで校舎を出る。


 六月の夕方はまだ明るい。けれど、雲は厚く、空の色は少し鈍い。


「今日は降らないかな」


 澪が空を見上げて言った。


「たぶん大丈夫だろ」


「“たぶん”って、頼りないのね」


「天気予報じゃないからな」


「でも、外れてたら困るでしょう」


「困るのは傘を忘れた人だ」


「……そういうことを言うの?」


「昨日の自分を責めてるみたいで嫌か」


 澪は少しだけ目を細めた。


「少しね」


 その言い方が、昨日よりずっと自然だった。


 駅へ向かう道は相変わらず人通りが多かった。自転車のベル、信号待ちの話し声、コンビニの自動ドアの音。そうした雑音の中で、二人の間だけが静かだった。


 喫茶店に着くと、昨日と同じ店員が軽く会釈をした。


「いらっしゃいませ」


 窓際の席は今日も空いていた。九条がそこへ案内しようとすると、澪が少しだけ立ち止まる。


「……今日は、違う席でもいい?」


「好きにすればいい」


「じゃあ、あっち」


 澪が指さしたのは、壁際の二人掛けの席だった。窓際より少しだけ奥で、外から見えにくい場所だ。


「落ち着くのか」


「ええ。人目が少ないほうがいい」


「白峰らしい」


「またそれ」


「嫌だったか」


「……嫌ではないけど」


 澪はそう言って、小さく視線を逸らした。


 注文を終え、しばらくして運ばれてきた紅茶とケーキ。澪はフォークを手に取り、少しだけ迷ってから一口食べた。


「……おいしい」


「よかったな」


「九条くんも食べる?」


「いや、いい」


「そう」


 それから二人は、昨日よりも少しだけ長く話した。


 授業のこと。昼休みのこと。蓮のうるささ。図書室の静けさ。澪は話し方こそ淡々としているが、聞いていると意外とよく笑う。大きくはない。けれど、口元だけでなく目元がほんの少し和らぐ、その小さな変化が分かる。


 九条は、そのたびに妙な気持ちになった。


 学校で見ていた彼女と、今ここにいる彼女は、同じなのに違う。


 そして、その違いを知っているのは自分だけかもしれない。


 そんな考えが、じわじわと胸に広がる。


「九条くん」


「なんだ」


「昨日、私のことを“普通だ”って言ったでしょう」


「ああ」


「少し考えたの」


「何を」


「普通って、悪い意味じゃないのかなって」


 九条は少しだけ目を瞬いた。


「悪い意味で言うつもりはなかった」


「分かってる」


「じゃあ、なんで気にする」


「……完璧って言われるより、普通って言われるほうが、なんだか落ち着かないの」


「そういうものか」


「そういうものよ」


 澪はカップを両手で包み、静かに続けた。


「学校では、何でもできる人に見られているでしょう。でも実際は、そうでもない。だから、“普通”って言われると、少しだけ安心する反面、どこかで、自分が見透かされたみたいで怖いの」


「見透かされた、か」


「ええ」


 九条はしばらく黙ったあと、紅茶を一口飲んだ。


「じゃあ、普通っていうのは、白峰がちゃんと人間だってことだろ」


 澪の動きが止まる。


「……人間?」


「完璧な飾りじゃなくて、ちゃんと疲れるし、考えるし、間違える。そういう意味で」


 澪は少しだけ目を伏せた。


「……変な言い方」


「悪かったな」


「でも」


 そこで、澪は言葉を切る。


 ほんの少しだけ沈黙が落ちた。


「でも、嫌ではないわ」


 その声は静かだったが、妙に柔らかかった。


 九条は、なぜか少しだけ照れくさくなった。


 そのときだった。


 澪のスマートフォンがテーブルの上で震えた。


 彼女は画面を見るなり、わずかに表情を変える。


「……まずい」


「どうした」


「家から」


「何かあったのか」


「たぶん、母さんが今日の夕飯のことを聞きたいのよ」


「じゃあ出ればいい」


「……出たくない」


「は?」


「別に、怒ってるわけじゃないの。けど、今は少し、話したくない気分で」


 澪は困ったように眉を下げた。学校での彼女からは想像しにくい、素直すぎる言い方だった。


 着信は切れ、すぐに再び震える。


 九条は少し考えたあと、思わず言った。


「出なくていいのか」


「でも……」


「今は俺といるんだろ」


 澪は目を丸くした。


「……え」


「だから、少しだけ後で返せばいい」


 何気ない口調だった。だが澪は、しばらく九条を見つめたまま動かなかった。


「九条くん」


「なんだ」


「そういうこと、さらっと言うのね」


「何が」


「……なんでもない」


 澪はスマートフォンを裏返し、テーブルの端に置いた。


「今日は、少しだけ楽かもしれない」


「そうか」


「ええ」


 その言葉に、九条は胸の奥が静かに温まるのを感じた。


 誰かに必要とされることは、悪くない。


 まして、それがほんの少しでも彼女の気持ちを軽くするなら、なおさらだ。


 やがて店を出るころには、空はかなり暗くなっていた。


 雨はまだ降っていない。だが、風が湿っている。


「降るかもな」


「そうね」


「傘は」


「持ってる」


「なら大丈夫だ」


「……九条くんは、そうやって人を安心させるのが上手なの?」


「別に」


「自覚ないの?」


「ない」


「厄介ね」


 澪は小さく笑った。


 駅前の広場を抜けると、少し人気の少ない道に出る。住宅街へ向かう細い道だ。


 街灯がまだ点く前の薄い明るさの中で、二人の足音が規則的に重なる。


「ねえ」


「なんだ」


「名前」


「……名前?」


「九条くん、じゃなくて」


 澪は少しだけ視線を逸らした。


「悠理って、呼んでもいいのかな」


 九条は足を止めそうになった。


 今まで、誰からも名前で呼ばれることは多かった。けれど、彼女の口からその二文字が出ることは、どういうわけか重かった。


 澪はそれに気づいたのか、すぐに言い足す。


「嫌ならいいの。ただ、昨日から少し考えていて……」


「嫌じゃない」


 九条は自分でも驚くほど早く返していた。


 澪はまばたきする。


「そう」


「……でも、急だな」


「急よ。分かってる」


「じゃあ、試してみろよ」


「……試す、って」


「呼んでみればいい」


 澪は一瞬だけ黙った。


 周囲には誰もいない。車の音も遠い。湿った風だけが木の葉を揺らしている。


 やがて彼女は、ほんの少しだけ息を吸って、小さな声で言った。


「……悠理」


 たったそれだけで、九条は妙に胸が詰まった。


 名前を呼ばれただけだ。


 それなのに、何かが確かに変わった気がした。


「……どうしたの」


「いや」


「変な顔」


「そっちこそ」


「私?」


「少しだけな」


 澪は自分の頬に触れ、すぐにそらした。


「……恥ずかしい」


「呼んだのは白峰だろ」


「そうだけど」


「なら慣れろ」


「無茶を言わないで」


 そう言いながらも、澪の声はどこか軽かった。


 九条は、その軽さがうれしかった。


 住宅街の角まで来ると、澪は立ち止まった。


「私はこっち」


「ああ」


「じゃあ、また明日」


「また明日」


 澪は少しだけ迷ったあと、傘を持つ手を握り直し、ほんのわずかに頭を下げた。


「……悠理」


 今度は、さっきよりほんの少しだけ自然だった。


「また明日」


「おう」


 澪は背を向け、静かに歩いていく。


 九条はその背中を見送った。


 遠ざかる小さな後ろ姿が、角を曲がって見えなくなるまで、しばらく動けなかった。


 名前で呼ばれただけ。


 それだけのことなのに、どうしてこんなに胸が騒ぐのか分からない。


 だが、ひとつだけ分かったことがある。


 白峰澪は、もうただのクラスメイトではない。


 放課後に会う相手で、秘密を共有した相手で、そして今、名前で呼ばれた相手だ。


 その事実は、思っていたよりずっと大きかった。


 空にはまだ雨雲が残っている。


 けれど、九条の足取りは来たときより少しだけ軽かった。


 放課後という居場所は、もう少しずつ、二人のものになり始めていた。

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