第二話 放課後という居場所
翌日、九条悠理はいつもより少しだけ早く登校した。
理由は単純だった。
昨日の雨のことを、どう処理すればいいのか分からなかったからである。
思い返せば、白峰澪のあんな声を聞いたのは初めてだった。完璧で、隙がなくて、いつも正しい答えを出すように見える彼女が、誰もいない教室でひとり、疲れたように呟いていた。
忘れられるはずがない。
校門をくぐると、まだ朝の空気が残っていた。六月の湿気は少し重いが、雨は上がっている。校舎の窓には淡い光が差し込み、昨日とはまるで違う顔をしていた。
九条は靴を履き替えながら、自分の気持ちを整理しようとした。
気にするな。
余計なことだ。
そう頭では分かっている。
だが、いったん見えてしまったものは、なかったことにはできない。
「おはよー」
背後から軽い声がして、九条は振り向いた。藤堂蓮が欠伸を噛み殺しながら歩いてくる。
「早いな」
「お前が早すぎるだけだろ。どうした、昨日の雨で傘でも無くしたか?」
「無くしてない」
「ならいいけど。なんか顔が微妙だぞ」
「そうか?」
「そうだよ。何かあったなら聞くけど」
九条は一瞬だけ迷い、首を横に振った。
「何でもない」
「その何でもないは大体何かあるやつだな」
「うるさい」
蓮は苦笑しながら肩をすくめた。いつも通りのやり取りだったが、その軽さがありがたかった。余計に踏み込まれないことが、今はちょうどいい。
教室に入ると、既に何人かが席についていた。
九条は自分の席に座り、鞄を下ろす。窓際の白峰澪の席には、まだ彼女の姿はない。
昨日のことを思い出す。
あの声。
あの沈黙。
そして、最後に見せた少しだけ柔らかい笑顔。
九条は机に視線を落とした。
すると、前方の扉が静かに開いた。
白峰澪だった。
教室に入った瞬間、空気が少しだけ整う。そんな印象すらある生徒だった。姿勢はよく、歩き方も乱れがない。髪はきちんとまとめられ、昨日の雨を感じさせるものは何もない。
いつもの白峰澪だ。
だが九条には、昨日の彼女と今の彼女が、同じ人物でありながら少し違って見えた。
澪は教室の入口で一度だけ立ち止まり、まっすぐ前を見た。視線が九条の方へ向く。ほんの一瞬だけ、目が合う。
昨日の雨のことを思い出したのか、澪の表情がほんの少しだけ固まる。
しかし次の瞬間には、何事もなかったように視線を逸らし、自分の席へ向かった。
その自然さに、九条は妙に感心した。
人前での彼女は、やはり完璧だった。
「おい、見てたぞ」
隣から蓮が小声で言った。
「何を」
「白峰さん。今、見たろ」
「別に」
「別に、じゃない顔してたぞ」
「お前は人の顔を見すぎだ」
「そりゃお前、分かりやすいからな」
九条は何も返さなかった。
朝のHRが始まり、授業が進み、昼休みが来る。
普段なら淡々と過ぎる時間だったが、今日ばかりは少し落ち着かなかった。澪がどう思っているのかが気になっていたわけではない。ただ、昨日の件を境に、どこか空気の輪郭が変わった気がしたのだ。
昼休み、蓮がパンをかじりながら言った。
「で、ほんとに何もないのか」
「何もない」
「じゃあ、なんでそんなに教室の入口見てるんだよ」
「見てない」
「見てる」
「……お前、面倒だな」
「褒め言葉として受け取っとく」
九条はため息をつき、弁当を開いた。母が作ったものだ。地味だが、手堅い。こういう日常があるから、特別なことに気づいてしまうのかもしれない。
午後の授業も終わり、放課後になる。
九条はノートを閉じ、窓の外を見た。空は昨日のような不穏さを見せていない。けれど、雲は少し厚い。梅雨はまだ続きそうだった。
「お先ー」
蓮が帰り支度を始める。
「今日は部活ないのか」
「あるけど、先に飯食う。お前は?」
「少し残る」
「珍しいな」
「そうか?」
「お前、放課後はすぐ帰る派だろ」
九条は曖昧に笑った。今日は、少しだけ理由がある。教室を出る前に、昨日のことをもう一度確かめたかったのだ。
何を確かめるのか、自分でも分からないまま。
やがて教室の中が少しずつ空く。
窓際の席には、今日も白峰澪が残っていた。
九条は席を立ったあと、数秒だけ迷った。だが、昨日のように黙って帰ることはできなかった。
「白峰」
呼ぶと、澪は顔を上げる。昨日と同じ、けれど昨日より少し落ち着いた目だった。
「……九条くん」
「まだ残ってるのか」
「ええ。少しだけ」
「昨日もそう言ってたな」
「そうね」
澪は小さく目を伏せた。気まずさがないわけではない。だが、昨日ほどの張り詰めた空気はない。
九条はそれを感じ取って、少しだけ安心した。
「……昨日は」
澪が先に口を開く。
「聞かなかったことにしてくれて、いいのに」
「無理だって言っただろ」
「そうだったわね」
澪はほんのわずかに口元を動かした。昨日よりも自然な反応だった。
「……あの、ありがとう」
「何に対してだ」
「昨日。傘」
「それは別に」
「それと、変に追及しなかったこと」
「追及してほしかったのか」
「……別に」
澪は一瞬だけ視線を逸らした。
九条はその仕草を見て、昨夜までとは違う距離感を感じた。昨日は、彼女の本音を偶然聞いてしまっただけだった。だが今日は違う。彼女は、少しだけそれを認めた上で会話している。
「帰るのか」
「ええ。今日はもう」
「じゃあ、また一緒に行くか」
何気なく言った言葉だった。
澪は少し驚いた顔をする。
「……いいの?」
「昨日も一緒だった」
「それは、そうだけど」
澪は鞄を持ち直し、ほんの少しだけ考える素振りを見せたあと、静かに立ち上がった。
「……じゃあ、お願いしようかしら」
「随分素直だな」
「昨日の件を蒸し返されたくないから」
「それは脅しのつもりか」
「そうかも」
わずかに空気が緩む。九条は、澪が意外とこういう返しをするのだと知って、少しだけ意外だった。彼女はただ大人しいだけではない。相手が踏み込みすぎない範囲では、ちゃんと会話を返す。
二人は教室を出た。
廊下は放課後特有の静けさに満ちている。部活へ向かう生徒たちの声が遠くで響き、窓の外からは生ぬるい風が流れ込んでいた。
「昨日、風邪ひかなかった?」
澪が歩きながら尋ねる。
「平気だ」
「そう。よかった」
「白峰こそ、大丈夫だったのか」
「ええ。私は平気」
「嘘くさい」
「何が」
「無理してる感じ」
澪の足が、ほんの少しだけ止まる。
九条はしまった、と思ったが、口にしてしまった言葉は戻らない。
澪は前を向いたまま、静かに答えた。
「……そう見える?」
「ああ」
「なら、たぶんそうなのかもね」
それだけ言って、彼女はまた歩き出した。
九条は横顔を見た。表情は穏やかだ。けれど、どこか自分を見せることをためらっているようでもあった。
「無理してるなら、少しは休めばいい」
九条が言うと、澪は少しだけ目を見開いた。
「……簡単に言うのね」
「簡単じゃないから言ってる」
「どういう意味?」
「そのままだ」
澪は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「……変なの」
「よく言われる」
「そう」
校舎を出るころには、空の色が少しだけ暗くなっていた。雲の切れ間から射す光は弱い。夕方の雨が来そうな、そんな気配だった。
昇降口で靴を履き替える。澪は鞄を抱えたまま、少しだけ九条の横に立った。
「ねえ」
「なんだ」
「昨日のこと、忘れてもいいとは言わない」
「そうか」
「でも……」
そこで澪は言葉を切る。珍しく、迷っているようだった。
九条は何も言わず、待った。
「……誰かに知られるのは、嫌だったの」
その声は小さい。
「聞こえたくない自分の言葉って、あるでしょう。私は、そういうのを他人に聞かれるのが苦手なの」
「そうか」
「だから、昨日のことは少し……驚いた」
「悪かった」
「謝らないで。怒ってるわけじゃないから」
澪は首を横に振った。
「ただ……九条くんだから、まだよかったのかもしれない」
その言葉に、九条は少しだけ息を止めた。
澪は自分が何を言ったのかに気づいたのか、すぐに視線を逸らす。
「今のは、忘れて」
「無理だな」
「それ、昨日も聞いた」
「知ってる」
澪は困ったように眉を下げた。それでも、どこか安心したような顔だった。
校門を出ると、空気は少し湿っていた。風の匂いが変わっている。
「降りそうだな」
九条が言うと、澪も空を見上げた。
「ええ」
「傘は?」
「……あるわ。今日はちゃんと持ってきた」
「なら問題ない」
「昨日の自分を責めてるみたいで嫌な言い方ね」
「それは気にしすぎだ」
澪は小さく笑う。昨日よりも、少しだけ自然に。
駅へ向かう道は、相変わらず人通りが多かった。部活帰りの生徒、買い物袋を提げた大人、携帯を見ながら歩く人。そんな雑多な流れの中で、二人は妙に静かだった。
途中、商店街の手前にある小さな喫茶店の前を通る。
古びた看板に、手書きで「本日のおすすめ」とある。
澪が足を止めた。
「……ここ」
「知ってるのか」
「ええ。気になっていたの」
「入るか?」
「……いいの?」
「雨、来る前に少し休める」
澪は数秒考えてから、うなずいた。
「じゃあ、少しだけ」
店の扉を開けると、柔らかい空気が流れ出した。古い木の匂いと、淹れたてのコーヒーの香り。客は少なく、窓際の席がいくつか空いている。
九条は適当な席に案内され、澪と向かい合って座った。
澪は周囲を見回し、少しだけ目を細めた。
「落ち着くわね」
「こういう店、好きなのか」
「嫌いではないわ。人が多すぎないから」
「白峰らしいな」
「どういう意味?」
「騒がしい場所は苦手そうだ」
「……当たり前でしょう」
澪は小さく息をついた。
運ばれてきた紅茶を一口飲み、彼女はほっとしたように目を閉じる。その一瞬の表情が、妙に年相応で、九条は視線を逸らした。
「おいしい?」
「ええ。思ったより」
「ならよかった」
「九条くんは、こういうところよく来るの?」
「たまに」
「ひとりで?」
「まあ」
「寂しくないの?」
九条は少し考えた。
「慣れてる」
澪はその答えを聞き、しばらく黙ってから、静かに言った。
「……そういうところ、少しだけ似てるかもね」
「何が」
「一人でいることに、慣れすぎてるところ」
九条は何も返せなかった。
澪はカップを両手で包み込むように持ったまま、窓の外を見た。雨はまだ降らない。ただ、空はますます暗くなっていく。
「昨日、少しだけ考えたの」
「何を」
「九条くんが、私のことをどう思ったのか」
「……別に」
「別に、じゃないでしょう」
「そういうのは、本人に聞くものじゃない」
「でも、聞きたい」
澪がそう言ったとき、九条は少しだけ驚いた。
彼女は正面から見返している。学校では見せない、まっすぐな目だった。
「……変なことを言うな」
「変なのはあなたのほう」
「よく言われる」
「そうやって逃げる」
九条はため息をつき、視線をテーブルに落とした。
「……白峰は、思っていたより普通だと思った」
「普通?」
「うん。完璧な人っていうより、ちゃんと疲れる人なんだなって」
澪の表情が、少しだけ止まる。
「……それ、褒めてるの?」
「さあな」
「最悪ね」
「でも、悪くないだろ」
澪はしばらく黙っていた。そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……そうね。悪くはないかも」
そのとき、店の外で雨が降り始めた。
最初は細い音だったのが、すぐに屋根を打つ強さになる。窓の向こうが白く霞み、商店街の色がぼやけていく。
「降ったな」
「ええ」
「もう少し待つか」
「そうね」
紅茶を飲み終えた澪は、カップを静かに置いた。
店内には小さな音楽が流れている。静かなピアノ曲だ。雨音と混ざって、不思議なくらい居心地がよかった。
九条はその空気の中で、ふと思った。
昨日、ただ見てしまっただけのはずなのに。
今日、こうして一緒にいることが、もう不自然ではない。
それは、たぶん良いことだ。
たぶん。
「ねえ、九条くん」
「なんだ」
「また、ここに来てもいい?」
九条は少しだけ目を上げた。
澪は視線を逸らしたまま、紅茶のカップを指先でなぞっている。
「……別にいい」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、今度は私が選ぶ」
「何を」
「席」
「それはどうでもいいだろ」
「よくないわ」
澪はようやくこちらを見た。昨日よりも少しだけ柔らかい、でもまだ完全にはほどけていない表情だった。
「……九条くんといると、静かでいいの」
その言葉は、何気ないようでいて、妙に胸に残った。
九条は返事をすぐに思いつけず、少しだけ黙る。
「……そうか」
「ええ」
「なら、また来ればいい」
「そうする」
雨はしばらく止みそうにない。
だが、急いで帰る理由も、今はなかった。
放課後の喫茶店で、二人は並んでいないのに、並んでいるような距離で座っていた。
その距離が、少しだけ心地よかった。
外は雨。
けれど、二人の間には、もう昨日のような沈黙だけではないものが流れ始めていた。
放課後は、ただの時間ではない。
少なくとも、九条悠理にとっては、そうなりつつあった。




