雨音の向こう側
六月の空は、どこか気まぐれだった。
朝の段階ではまだ持ちこたえていた雲が、昼休みを過ぎたあたりからじわじわと厚みを増し、放課後のチャイムが鳴るころには、校舎の窓を灰色の光で満たしていた。
九条悠理は、教室の後ろから空を見上げて、小さく息をついた。
「……降るな、これは」
誰に聞かせるでもない呟きだったが、隣の席にいた藤堂蓮がすぐに反応した。
「傘、持ってきてないのか?」
「持ってきてる。お前は?」
「俺も。今日の俺は有能だからな」
「その自信は何なんだ」
蓮は笑って、椅子の背にもたれた。いつもの軽口だ。九条は適当に相槌を打ちつつ、窓の外に視線を戻した。
校庭の向こう、雨雲はもう完全に空を覆っている。数分もすれば、校舎の屋根を叩く音が聞こえるだろう。
九条悠理は目立たない。特別な才があるわけでもないし、派手な性格でもない。けれど、目立たないなりに気づくことは多かった。誰かが無理をしていること。笑っていても疲れていること。何も言わないふりをして、実は困っていること。
そういうものが、なぜか少しだけ分かってしまう。
それが役に立つこともあれば、ただ疲れるだけのこともあった。
「じゃ、俺は部活行くわ」
蓮が立ち上がる。
「今日、体育館使うから遅くなる。お前もさっさと帰れよ。雨、強くなるぞ」
「分かってる」
「傘、忘れるなよ」
「忘れない」
「その言い方、だいたい忘れるやつの言い方なんだよな」
蓮が笑いながら出ていく。教室には、もう数人しか残っていなかった。
九条は机の中を確認し、ノートを鞄へしまう。忘れ物がないことを確かめてから立ち上がった。と、そのときだった。
教室の前方、窓際の席にひとりだけ残っている少女が目に入った。
白峰澪。
学年でも指折りの成績、整った容姿、落ち着いた物腰。誰が見ても「完璧」と言うだろう生徒だった。授業中の彼女は常に姿勢がよく、発言は的確で、どこか近寄りがたいほど整っている。
けれど今、その肩はほんの少しだけ下がっていた。
机に置かれたスマートフォンの画面を見つめたまま、彼女は動かない。
九条は一瞬だけ足を止めた。
声をかけるべきか迷う。だが、教室の空気に残るものが、妙に気になった。
「……白峰?」
呼ぶと、澪はゆっくり顔を上げた。
いつもの綺麗な目だった。だが、その奥に薄く曇ったものがある。
「……九条くん」
「まだ残ってたのか」
「ええ。少し、考え事をしていて」
それはいつもの澪の声だった。落ち着いていて、聞き取りやすくて、誰に対しても同じ温度で話す声。
けれど、今の言い方は少し違った。硬い。静かすぎるほど静かだった。
九条は「そうか」とだけ返し、踵を返しかける。余計なことは言わないほうがいい。そう判断した、そのとき。
ぽつ、という小さな音が窓に触れた。
次の瞬間には、またひとつ。さらにひとつ。
雨だ。
澪は窓の外を見たまま、ほんのわずかに眉を寄せた。
「……間に合わない、かな」
その声は、ひどく小さかった。独り言だと思ったのだろう。九条は聞こえなかったふりをするべきか、少し迷った。
だが、次の瞬間。
「……どうして、あんな言い方しかできないの」
澪が、誰にも向けていない声でそう呟いた。
九条は、完全に足を止めた。
教室に響いたのは雨の音だけだった。エアコンの低い唸りと、遠くの廊下を走る誰かの足音。そこに、彼女の声がかすかに溶ける。
「……私ばっかり、ちゃんとしようとして、何してるの、ほんとに……」
九条は、窓際に立つ彼女を見た。
普段の白峰澪からは想像しづらい、弱い声だった。悔しさでも怒りでもなく、ただ疲れている声。どこか、泣く一歩手前のような。
彼女は今、誰もいないと思っている。
九条は本当に、静かに息を止めた。
見なかったことにして立ち去ることもできた。聞かなかったことにして、いつものように距離を保つこともできた。
けれど、なぜだか足が動かなかった。
澪は机の上のスマートフォンを見つめ、しばらく黙っていた。そして、ほんの少しだけ肩を落とすと、今度はもっと小さな声で呟いた。
「……帰りたい」
その言葉は、驚くほど素朴だった。
学校一の才女。完璧な優等生。冷静で、隙がなくて、何でもできるように見える少女が、ただひとりの部屋を求めるみたいに呟いた。
九条は、その場を動けなくなったまま、しばらく彼女を見ていた。
やがて澪が、ふと気配に気づいたように顔を上げる。
視線が合った。
数秒。
沈黙。
そして澪の表情が、みるみるうちに固まっていく。
「……九条、くん?」
「ああ」
「今の……」
「聞こえた」
澪の頬に、わずかに赤みが差した。恥ずかしさと動揺が同時に来たのだろう。彼女は立ち上がろうとして、でもうまく動けず、結局その場で小さく息を呑んだ。
「……忘れて」
「無理だ」
「無理、って」
「聞こえたから」
九条は淡々と答えた。責める気はない。ただ、取り繕うこともできない。
澪は数秒だけ黙り、それから俯いた。
「……そう。そう、よね」
雨音が少し強くなる。
九条は鞄を持ち直しながら、どう言葉を選ぶべきか考えた。慰めるべきか。何も言わずに立ち去るべきか。だが、どちらも違う気がした。
「……誰でも、そういう日くらいあるだろ」
ようやく出たのは、気の利かない一言だった。
澪は驚いたように顔を上げる。少しだけ目を見開いて、それから、信じられないものを見るような表情をした。
「……慰めてるつもり?」
「そのつもりはない」
「ひどい」
「事実を言っただけだ」
それだけのやり取りなのに、澪の表情から少しずつ緊張が抜けていくのが分かった。ほんのわずか、だが確かに。
九条はそれを見て、内心で少しだけ安堵する。
しばらく沈黙が続いたあと、澪が小さく言った。
「……聞かなかったことにしてくれないの?」
「できない」
「融通が利かない人」
「よく言われる」
「褒めてない」
「知ってる」
澪は、ほんの少しだけ口元を動かした。笑った、というほどではない。ただ、張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
九条はその顔を見て、なぜか胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
「……傘、あるのか」
「あるわ。けど、下駄箱に置いてきた」
「じゃあ、一緒に行くか」
自然に出た言葉だった。
澪は一瞬、ぽかんとした顔になる。
「……え?」
「雨、強いし。校門までなら、まあ」
「……気を使ってるの?」
「少しは」
「少ししか?」
「十分だろ」
「全然足りないわ」
そう言いながらも、澪は机の上の荷物をゆっくり片づけ始めた。
九条は窓の外に目を向ける。雨は、もう本降りだった。校庭が白く霞むほどの勢いで、空から細い糸のように降り注いでいる。
数分後、二人は校舎を出た。
九条の傘の下、澪は少しだけ肩を寄せて歩く。学校では完璧に見える彼女が、こうして静かに傘に収まっている姿は、どこか不思議だった。
校門へ向かう道すがら、澪がぽつりと言う。
「……さっきのこと、誰にも言わないで」
「言わない」
「絶対に?」
「絶対に」
「本当に?」
「しつこいな」
「大事なことよ」
「分かってる」
それから少しの間、雨音だけが続いた。
やがて校門が見えてくる。澪は立ち止まり、傘の端を見上げた。
「……ありがとう、九条くん」
さっきまでの硬さは、もうない。
九条は「どういたしまして」と返そうとして、少しだけ迷ったあと、別の言葉を選んだ。
「白峰」
「なに?」
「今のは、忘れなくていい」
澪は目を瞬かせた。
雨の中で、ほんの少しだけ、彼女の頬が赤くなる。
「……変な人」
「よく言われる」
「そう」
澪は小さく笑った。その笑い方は、学校で見せる整ったものではなく、もっと弱くて、もっと人間らしかった。
九条はその顔を見て、思った。
この人は、たぶん自分が思っているよりずっと、無理をしている。
そして、自分はきっと、その無理に気づいてしまう側なのだろう。
雨の音の向こうで、二人の距離はまだ遠かった。
けれど、確かに何かが始まっていた。
そのことだけは、九条にも分かった。
澪は最後にもう一度だけ振り返り、小さく手を上げた。
「また、明日」
「ああ。また明日」
傘の向こうで、彼女は少しだけ笑った。
その瞬間を、九条はたぶん一生忘れない。
雨はまだ降っていた。
だが、教室で聞いたあの声は、もう雨音の中に溶けなかった。
彼女は完璧な才女ではなく、ただひとりの少女だった。
そして、そのことを知ってしまったのは、たぶん自分だけだった。
──雨の日、二人だけの秘密が始まった。




