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第六十一話 君の好きな物語

翌朝。


 悠理は、鞄の中身を確認していた。


 教科書に筆箱。それから、昨日の夜に本棚から取り出した一冊の小説。


 表紙は少し色褪せていて、背表紙にも細かな傷がある。


 何年も前に買った本だった。


 今まで何度か読み返している。結末を知っていても、時折読みたくなるくらいには気に入っていた。


「……これでいいか」


 鞄を閉じる。


 昨日、澪に貸すと約束した本だ。


 彼女がどんな感想を持つのか。


 自分とは違うところに面白さを見つけるのか。


 そもそも、最後まで読んでくれるのか。


 普段なら、他人が自分の好きな作品をどう思うかなど、そこまで気にしなかったはずだった。


 けれど、今回は少し違う。


 好きなものを知りたいと言ってくれた人がいる。


 その人に、自分の好きなものを渡す。


 考えてみると、少し不思議なことだった。


 悠理は鞄を持ち、玄関を出た。


 ◇


 廊下に出ると、隣の扉もちょうど開いたところだった。


「おはようございます」


「おはよう」


 澪は黒いマフラーを巻き、いつものように灰色の手袋を着けていた。


 悠理の顔を見ると、柔らかく微笑む。


「今日は少し早いですね」


「そうかな」


「はい。いつもより早いです」


「澪もだろ」


「私は、いつも通りです」


「そうか」


 並んで歩き始める。


 少し進んだところで、悠理は鞄から一冊の本を取り出した。


「これ」


「……?」


 澪が足を緩める。


「昨日、話してた本」


「あ……!」


 澪の表情が、ぱっと明るくなった。


「持ってきてくださったんですね」


「貸すって言ったからな」


「ありがとうございます」


 澪は両手で本を受け取った。


 表紙には、古い街並みと、夜の窓辺に立つ一人の人物が描かれている。


 題名は『冬灯りの消えた夜』。


「……ミステリー小説ですね」


「ああ」


「前に読んだことがあるとおっしゃっていましたよね」


「うん。結構前だけど」


「何度も読み返すくらい好きなんですか?」


「まあ、そうだな」


 澪は表紙をじっと眺めた。


「どういうところが好きなんですか?」


 悠理は少し考える。


「最初に読んだときと、犯人が分かってから読み返したときで、登場人物の言葉の意味が変わるところかな」


「……言葉の意味が?」


「一見すると何でもない会話に、後から考えると別の意味があったって分かるんだ。最後まで読むと、最初のほうの場面も違って見える」


 澪は静かに頷いた。


「面白そうです」


「好みに合うかは分からないけど」


「それでも、読んでみたいです」


 彼女は本を胸元に抱えた。


「悠理くんが、どうしてこの本を好きなのか。それを知りたいので」


 悠理は返事に困った。


 けれど、澪はもうこちらを見ていなかった。


 大切そうに本を持ち直し、表紙をもう一度眺めている。


 その姿を見ていると、貸してよかったと思えた。


 ◇


 教室に入ると、蓮がすぐに気づいた。


「おはよう。……ん? 澪さん、その本どうしたの?」


「悠理くんに借りたんです」


「悠理に?」


 蓮が少し意外そうにこちらを見る。


「へえ。お前、本貸すんだな」


「貸すくらいするだろ」


「いや、お前の趣味ってあまり話さないからさ」


「別に、隠してるわけじゃない」


「分かってるって」


 蓮は笑いながら澪の手元に目を向けた。


「どんな本なの?」


「ミステリー小説だそうです」


「澪さん、ミステリー読むんだ?」


「普段はあまり読まないんですけど、今回は読んでみようと思って」


「へえ、いいじゃん。面白かったら感想教えてよ」


「はい」


 澪は素直に頷いた。


 その会話を聞いていた悠理は、ふと思った。


 澪は、何かを始めるときに慎重なところがある。


 自分が得意なことなら迷わず取り組める。


 でも、慣れていないことには、少しだけ不安を抱くこともあるらしい。


 それでも彼女は、知らないものを知ろうとしてくれている。


 自分の好きなものを、少しでも理解しようとしてくれている。


 そう考えると、胸の奥が静かに温かくなった。


 ◇


 午前の授業が終わり、昼休みになった。


 悠理が弁当を開いていると、澪が本を机の端に置いた。


「悠理くん」


「ん?」


「一つ、聞いてもいいですか?」


「何?」


「この本を読むとき、何か気をつけたほうがいいことはありますか?」


「気をつける?」


「はい。例えば、先に登場人物の名前を覚えたほうがいいとか」


 思いがけない質問に、悠理は少しだけ笑った。


「普通に読めばいいよ」


「……それだけですか?」


「ああ。分からないところがあっても、先を読んでみれば分かることもあるから」


「なるほど……」


 澪は納得したように頷いた。


「では、先入観を持たずに読んでみます」


「そんなに気負わなくてもいいけどな」


「気負っているわけではありません」


「そう?」


「はい。ただ……」


 澪は少しだけ声を落とした。


「悠理くんが好きなものだから、大切に読みたいんです」


 悠理の箸が止まる。


 澪は自分の言葉を思い返したように、ほんの少し頬を赤くした。


「……変な意味ではなくて」


「うん」


「その、悠理くんが好きなものを、適当に扱いたくないというか……」


「分かってるよ」


 悠理は静かに答えた。


「ありがとう」


 その一言に、澪が顔を上げた。


「……どういたしまして」


 しばらく二人で弁当を食べる。


 やがて、澪がふと口を開いた。


「悠理くんは、昔から本が好きだったんですか?」


「昔からというほどでもないかな。小さい頃は、漫画のほうが多かった」


「漫画も読むんですね」


「読むよ」


「知りませんでした」


「話してなかったからな」


 悠理は少し考える。


「昔は、物語の中にいる時間が好きだったんだと思う」


「物語の中……」


「現実では何も起きなくても、本を読めば知らない場所へ行けるし、会ったことのない人の考え方も知れるだろ」


「……はい」


「それに、現実だと分からないことも、物語なら登場人物の気持ちを考えられる。もちろん、全部分かるわけじゃないけど」


 澪は箸を置いて、悠理の話を聞いていた。


「だから、今でも好きなんだと思う」


「……そうだったんですね」


「ああ」


 少しだけ沈黙が落ちた。


 澪は、膝の上で指を重ねる。


「私も、物語を読んでみたくなりました」


「この本が?」


「それもありますけど」


 澪は穏やかに微笑んだ。


「悠理くんが、物語を読んで何を考えるのかを知りたいんです」


「……」


「同じものを読んでも、感じることは人によって違いますよね」


「ああ」


「だから、読み終わったら、私の感想も聞いてください」


「もちろん」


 澪は安心したように笑った。


「……楽しみです」


 それは、本を読むことだけに向けられた言葉ではないような気がした。


 ◇


 放課後。


 帰りのホームルームが終わると、澪はいつもより少し急いで鞄を整理していた。


「今日は早いな」


 悠理が声をかける。


「あ……すみません」


「謝らなくていいけど」


「少し早く帰って、読み始めようと思って」


「そんなに気になる?」


「はい」


 澪は本を鞄にしまい、丁寧にファスナーを閉めた。


「続きが気になって、夜更かししないように気をつけます」


「そこは本当に気をつけてくれ」


「大丈夫です。ちゃんと休みますから」


 文化祭のとき以来、澪は自分の体調に気を配るようになっていた。


 悠理も、必要以上に心配しすぎないようにしながら、彼女の言葉を信じることにしている。


 二人は校舎を出た。


 空は曇っていたが、雪は降っていない。


 冷たい風が吹き、木の枝を揺らしている。


「……悠理くん」


「ん?」


「本を返すときなのですが」


「うん」


「読み終わったら、感想をお話ししてもいいですか?」


「もちろん」


「できれば、少し詳しく」


「詳しく?」


「はい。どの場面が好きだったとか、誰の考え方が気になったとか」


 澪は少し照れたように笑う。


「それから、悠理くんが初めて読んだとき、どう思ったのかも聞きたいです」


「分かった」


「……よかった」


 悠理は隣を歩く澪を見た。


 彼女は楽しそうだった。


 完璧な答えを出さなければならないわけでも、誰かの期待に応えなければならないわけでもない。


 ただ、自分が興味を持ったものを楽しもうとしている。


 そういう表情を見ることが、最近の悠理にとっても楽しみになっていた。


 ◇


 家の前に着くと、澪は玄関の前で立ち止まった。


「今日はありがとうございました」


「本を貸しただけだよ」


「それでも、ありがとうございます」


「どういたしまして」


 澪は鞄に手を添えた。


「大切に読みますね」


「ああ。でも、気を遣いすぎなくていいから。何度も読んだ本だし」


「……分かっています」


 澪は頷いた。


「でも、借りたものを大切にするのは、普通のことです」


「それなら、安心だな」


「はい」


 澪は玄関の扉に手をかけた。


 けれど、すぐには中へ入らなかった。


「……悠理くん」


「ん?」


「私、少しずつですけど」


 澪は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。


「悠理くんのことを、前より知っていけるのが嬉しいです」


「……」


「好きな食べ物とか、好きな本とか。どんなことを考えているのかとか」


 澪は少しだけ視線を落とした。


「もちろん、まだ知らないことばかりですけど」


「それは俺も同じだよ」


 悠理が答えると、澪は顔を上げた。


「……本当ですか?」


「ああ。俺だって、澪のことを全部知ってるわけじゃない」


「……そうですね」


「だから、これから知っていけばいいんじゃないか」


 澪はしばらく黙っていた。


 そして、ふわりと笑った。


「……はい」


 その笑顔を見て、悠理も自然と口元を緩めた。


「じゃあ、また明日」


「はい。また明日」


 今度こそ、澪は家の中へ入っていった。


 ◇


 その夜。


 澪は自分の部屋で、借りた本を机の上に置いていた。


 部屋の照明は暖かく、窓の向こうには静かな冬の夜が広がっている。


 マフラーを外し、手袋を片付ける。


 それから、椅子に座って本を開いた。


 最初のページには、短い文章と、物語の舞台となる街の説明が書かれていた。


 澪はゆっくりと読み進める。


 登場人物が出てくる。


 小さな事件が起きる。


 何気ない会話が続く。


 最初は、どこに謎があるのかよく分からなかった。


 けれど。


 読み進めるうちに、少しずつ気になることが増えていった。


 どうして、この人物はあの言葉を口にしたのだろう。


 なぜ、主人公は質問に答えなかったのだろう。


 その場面で、別の登場人物が黙っていたのはなぜだろう。


 気づけば、澪は物語の中に入り込んでいた。


 時計を見る。


 思っていたより時間が経っていた。


「……いけない」


 本を閉じる。


 夜更かしをしないと、悠理に約束したばかりだ。


 続きは、明日にしよう。


 そう思って本を机に置いたとき、澪は表紙をもう一度見つめた。


 この本を読めば、悠理が好きなものを少し知ることができる。


 でも。


 それだけではない気がした。


 同じ物語を読んで、同じ場面について話す。


 自分が感じたことを伝え、悠理の考えを聞く。


 これまで知らなかった彼の一面を知ることができるかもしれない。


 そして、自分の知らない考え方にも触れられるかもしれない。


「……早く、続きが読みたいな」


 澪は小さく呟いた。


 机の隅には、藤色のメモ帳が置かれている。


 彼女はそれを開き、新しいページに短く書き留めた。


『悠理くんの好きな物語を読み始めた』


 少し考えてから、もう一行。


『読み終わったら、一緒に話したい』


 澪は文字を見つめ、そっとメモ帳を閉じた。


 まだ読み終わっていない。


 まだ、感想もまとまっていない。


 それでも。


 この本の先には、悠理と話す時間が待っている。


 そう思うだけで、次のページを開くのが楽しみだった。


 窓の外では、冷たい風が静かに吹いている。


 初雪が降った日の記憶も、クリスマスの約束も、少しずつ未来へと繋がっていく。


 そして今。


 二人の間には、新しい物語が一つ増えようとしていた。


 同じ本を読んだからといって、同じ感想になるとは限らない。


 同じ景色を見ても、感じることは違うかもしれない。


 それでも。


 違うからこそ、知りたいと思える。


 澪は机の上の本に、そっと手を置いた。


 明日、悠理に会ったら、最初にどんな話をしよう。


 そんなことを考えながら。


 冬の夜は、静かに更けていった。

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