第六十二話 同じ物語、違う気持ち
目覚ましが鳴る少し前に、悠理は目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
布団から出るには少し勇気が必要な寒さだったが、いつまでも寝ているわけにもいかない。
ゆっくりと起き上がり、机の上に置いてある本へ目を向ける。
昨日、澪に貸した一冊。
『冬灯りの消えた夜』
自分が何度も読み返した、少し古いミステリー小説だ。
昨夜、澪は読み始めたらしい。
帰宅後に届いたメッセージには、物語の最初の部分が面白かったと書かれていた。
それから、夜更かしをしないように途中で読むのをやめたとも。
「……ちゃんと守ってるんだな」
悠理は小さく笑った。
彼女がどこまで読んだのか。
どの登場人物を気に入ったのか。
そして、どんな感想を抱いたのか。
少し気になっていた。
そんなことを考えながら身支度を整え、玄関を出る。
ほとんど同時に、隣の扉が開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
澪はいつもの黒いマフラーを巻いていた。
ただ、今日はいつもより少しだけ表情が明るい。
「何かいいことでもあった?」
「……分かりますか?」
「ああ」
澪は一度、鞄に手を添えた。
「実は、昨日の本なんですけど」
「うん」
「少しだけ読み進めました」
「どこまで?」
「第二章の終わりまでです」
「結構読んだな」
「面白くて、続きが気になってしまって」
「夜更かしは?」
「していません」
「本当?」
「本当です」
澪は少しだけ頬を膨らませた。
「ちゃんと約束を守りました」
「ならよかった」
「……でも」
「ん?」
「もう少しだけ読んでいたかったです」
その言葉があまりにも残念そうだったので、悠理は思わず笑ってしまった。
「そんなに面白かった?」
「はい」
澪は迷いなく答えた。
「続きが気になります」
その声を聞いて、悠理は少し嬉しくなった。
「それなら、貸してよかった」
「ありがとうございます」
二人は並んで学校へ向かった。
◇
午前中の授業が終わり、昼休みになった。
悠理が弁当を開いていると、澪が隣から声をかけてきた。
「悠理くん」
「ん?」
「昨日の本について、少し聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「主人公が、最初に出会った女性のことなのですが」
澪は鞄からノートを取り出した。
そこには、簡単な人物の名前と、気になった場面が書き留められている。
「この人は、何か隠しているのでしょうか?」
「どうしてそう思った?」
「主人公と話しているとき、何度か質問を避けているように見えたので」
「なるほど」
「それに、最初に登場したときと、二度目に登場したときでは、少し印象が違いました」
「よく見てるな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
澪は少し嬉しそうにノートを見つめた。
「ただ、私の考えすぎかもしれません」
「どうだろうな」
「悠理くんは、どう思いましたか?」
「最初に読んだときは、俺も怪しいと思ったよ」
「やっぱり……!」
澪の目が輝く。
けれど、悠理はそこで少しだけ笑った。
「でも、今は少し違う見方をしてる」
「違う見方?」
「その人が何を隠しているかより、どうして隠さなきゃいけなかったのかを考えるようになった」
澪は黙って聞いていた。
「同じ行動でも、理由が違えば意味も変わるだろ」
「……確かに」
「だから、犯人を予想するだけじゃなくて、登場人物がどうしてその言葉を口にしたのか考えるのも面白いと思う」
澪は少し考えたあと、ノートに何かを書き加えた。
「なるほど……」
「まあ、正解を教えるわけにはいかないけど」
「分かっています」
澪は少しだけ笑う。
「最後まで、自分で考えてみます」
「ああ」
そのとき、向かいの席から蓮が顔を出した。
「何の話?」
「本の話です」
澪が答える。
「悠理に借りた小説を読んでいるんです」
「へえ。そんなに面白い?」
「はい。まだ途中ですけど」
「俺も読んでみようかな」
「いいんじゃないか」
悠理が答えると、蓮は少し考えた。
「でも、俺はミステリーって途中で犯人を調べたくなるんだよな」
「それは駄目だろ」
「分かってるって」
澪がくすりと笑う。
「では、最後まで我慢してくださいね」
「澪さんに言われたら仕方ないな」
蓮は大げさに肩をすくめた。
三人の間に、穏やかな笑い声が広がった。
◇
放課後。
授業が終わると、澪は鞄から本を取り出した。
「今日は図書室に寄ってもいいですか?」
「ああ」
「少しだけ読み進めたいんです」
「分かった」
二人は図書室へ向かった。
窓際の席に並んで座る。
澪が本を開き、悠理は持ってきた小説を読み始めた。
それぞれ違う本を読んでいる。
それなのに、不思議と落ち着く。
ページをめくる音だけが、静かな図書室に響いていた。
しばらくして。
「……悠理くん」
「ん?」
「少し、分からなくなりました」
「どこ?」
澪が本をこちらへ向ける。
「この場面です」
そこには、主人公がある人物と別れる場面が書かれていた。
「どうして、この人は何も言わずに帰ってしまったんでしょう」
「そこか」
「はい」
悠理は少し考える。
「俺は、言えなかったんだと思う」
「言えなかった?」
「ああ。言いたいことがなかったんじゃなくて、何を言っても相手を傷つける気がしたんじゃないかな」
澪は文章を読み返す。
「……そういう考え方もありますね」
「ただ、俺の解釈だけど」
「私は、相手に何かを期待していたからだと思いました」
「期待?」
「本当は引き止めてほしかったのかもしれません。でも、自分からは言えなかった」
悠理は少し驚いた。
澪らしい解釈だと思った。
「なるほど」
「違いますか?」
「いや。そういう見方もあると思う」
澪は少し安心したように笑った。
「同じ場面なのに、考え方が違いますね」
「そうだな」
「でも、どちらも間違いではない気がします」
「物語の中では、答えが一つとは限らないからな」
「……素敵ですね」
澪が本へ視線を落とす。
「一つの言葉にも、いろいろな気持ちが隠れているのかもしれませんね」
「ああ」
それから、彼女はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「私も、昔は自分の気持ちを言えないことがありました」
「……」
「何か言ったら、相手を困らせてしまうかもしれないとか、嫌われてしまうかもしれないとか」
悠理は彼女の横顔を見る。
「だから、何も言わないほうがいいと思っていました」
「今は?」
澪は少しだけ考えた。
「今は……」
そして、こちらを見た。
「言ってもいいんだと思えるようになりました」
「そっか」
「悠理くんが、ちゃんと聞いてくれるからです」
その言葉に、悠理はすぐには返事ができなかった。
澪は照れたように視線を本へ戻す。
「……すみません。少し話が逸れてしまいました」
「いや」
悠理は静かに答えた。
「聞けてよかった」
澪の指が、ページの端で止まる。
「……ありがとうございます」
夕方の光が、図書室の窓から二人の机へ差し込んでいた。
◇
図書室を出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「今日は、あまり進みませんでした」
澪が本を鞄へしまいながら言った。
「結構読んでただろ」
「でも、途中で考え込んでしまったので」
「それも読書の一部じゃないか」
「……そうですね」
澪は少し笑った。
「次に読むときは、また違うところが気になりそうです」
「楽しみにしてるよ」
「感想を?」
「ああ」
「では、もっと考えておきます」
二人で昇降口を出る。
冷たい風が吹いていた。
澪はマフラーを整え、悠理の隣へ並ぶ。
「そういえば」
「ん?」
「クリスマスの予定ですが」
「ああ」
「そろそろ、待ち合わせの時間も決めませんか?」
「そうだな」
悠理は少し考える。
「昼過ぎくらいでいいんじゃないか?」
「何時頃ですか?」
「十二時くらい?」
「お昼ご飯から一緒にするなら、ちょうどいいですね」
「駅前で待ち合わせて、そこから店を探すか」
「はい」
澪は嬉しそうに頷いた。
「では、十二時に駅前で」
「分かった」
「遅刻しないでくださいね」
「しないよ」
「本当ですか?」
「澪こそ」
「私は大丈夫です」
「そういう人ほど、早く着きすぎたりするんだよな」
「……」
澪が少し黙った。
「もしかして、早く着くつもりだった?」
「いえ」
「本当に?」
「……少しだけ」
「やっぱり」
澪は頬を膨らませた。
「だって、楽しみなんですから仕方ないじゃないですか」
「分かった分かった」
「悠理くんだって、少し早く来てください」
「考えておく」
「そこは約束してください」
「……分かった。少し早く行くよ」
「ありがとうございます」
澪は満足そうに笑った。
その後も、二人は当日のことを少しずつ話しながら歩いた。
◇
家の前に着く。
澪は玄関の前で立ち止まり、鞄から本を取り出しかけた。
「どうした?」
「いえ。少しだけ、続きを読みたくなって」
「帰ってから読めばいいだろ」
「そうですね」
澪は本を鞄に戻した。
そして、悠理を見る。
「悠理くん」
「ん?」
「この本、読み終わったら返す前にもう一度話をしたいです」
「いいよ」
「今度は、最後まで読んだ感想を聞いてください」
「ああ」
「それから、悠理くんが好きな場面も、もう一度教えてください」
「分かった」
澪は少しだけ目を細めた。
「同じ物語を読んでも、感じることが違うんですね」
「そうだな」
「でも、それが楽しいです」
澪は鞄を抱き直す。
「一人で読んでいたら気づかなかったことに、気づけるので」
「俺も、澪の考えを聞けてよかったよ」
「……本当ですか?」
「ああ」
澪は、安心したように微笑んだ。
「では、また明日」
「ああ。また明日」
彼女が玄関へ入っていく。
扉が閉まる直前、澪がもう一度だけ振り返った。
「悠理くん」
「ん?」
「私、もっと悠理くんのことを知りたいです」
今度は、迷いのない声だった。
「好きな本も、好きな映画も、苦手なものも。まだ知らないことがたくさんあるので」
悠理は少しだけ笑った。
「俺も、澪のことをもっと知りたいよ」
「……はい」
澪の頬が、ほんのり赤くなる。
「それなら、これから少しずつですね」
「ああ」
「約束です」
「約束」
澪は嬉しそうに笑い、家の中へ入っていった。
◇
その夜。
澪は再び机に向かっていた。
目の前には、悠理から借りた小説が開かれている。
物語は、少しずつ核心へ近づいていた。
登場人物の言葉。
何気ない仕草。
最初は意味が分からなかった場面。
それらが、少しずつ繋がり始めている。
澪はページをめくりながら、ふと思った。
物語の登場人物は、相手の気持ちを知りたくても、すぐには知ることができない。
言葉にしなければ、伝わらないこともある。
相手の言葉を聞かなければ、分からないこともある。
それは、現実でも同じなのかもしれない。
「……」
澪は本から目を離し、机の隅に置かれた藤色のメモ帳を見た。
そして、新しいページを開く。
『同じ物語を読んでも、感じることは違う』
その下に、もう一行。
『だからこそ、もっと話してみたい』
澪はペンを置いた。
そして、再び本へ視線を戻す。
物語の続きを知りたい。
登場人物の本当の気持ちを知りたい。
そして、明日になったら、また悠理と話がしたい。
今まで知らなかった彼のことを。
これから少しずつ知っていきたい。
そう思いながら、澪はゆっくりとページをめくった。
同じ物語を読んで、違う気持ちを抱く。
その違いを伝え合うことで、二人はまた一つ、お互いのことを知っていく。
そして、その積み重ねの先にあるものを。
今の二人は、まだ知らなかった。




